河合敦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
昨年の大河ドラマで、渋沢栄一に対する勢力として出てきて興味を持っていたので手に取った1冊。
岩崎弥太郎の人生、それを引き継いだ弟の
弥之助、さらにその後を継いだ弥太郎の子・久弥、
最後の4代目、弥之助の子・小弥太の人生を
あますことなく書いててわかりわすい。
(さすが河合先生)
それぞれキャラクターが違ってて面白いのだが
(女で身を滅ぼしたり、時には詐欺まがいのことして経営をどうにかしたりと、やっぱり一番破天荒なのは弥太郎なのだが…)
全員共通なのは志を持ってること、それを貫いてることかな。だからこそ三菱がここまで大きくなったのだと。
あとはやっぱり合本主義だった渋沢栄一とはそりゃ敵対するんだろうなと思いました(笑)
※社訓とか見ても、社長独裁が掲げられてるしね…
※余談。
以前行ったことのある、岡山・高梁の吹屋坑道の吉岡銅山も、まさかの三菱が最初に手掛けてたとは!
さすが三菱、手広い… -
Posted by ブクログ
半年以上前に読み終わったようですが、平成末に部屋の掃除をしていて発掘した本です。タイトルに「ウラがある」という言葉を見つけると、ついつい手が伸びてしまいます。
歴史の授業を受けた時から、昔の武将はカッコいいな、自分には真似できないな、と思い続けてきましたが、このような「事実」を知ると、少し安心した気分になりました。
以下は気になったポイントです。
・上杉憲政治は越後の謙信のもとに逃げ込んだが、すぐに謙信の人柄に惚れ、上杉氏の名跡と関東管領の職を委譲した。以後、謙信が三国峠を越えてたびたび関東平野へ侵攻するのは、後北条氏を倒し、昔の秩序を回復するという関東管領としての筋目のためである(p38)
・詰問使は、三大老と五奉行の同意を得て家康のもとへ弾劾した、このとき池田輝政、黒田長政、藤堂高虎が家康に、利家側には、小西行長、長曾我部守親、細川忠興、加藤清正、浅野幸長が終結した、このときは家康が折れた(p51)
・三方ヶ原合戦において、敗戦が確実になると徳川四天王と呼ばれた榊原康政ほか多くの譜代家臣は浜松城へもどらず、そのまま他所へ遁走している、戦わずして尻尾をまいて城中にいたら、家康は譜代にさえ見限られていただろう(p78)
・小田原攻めにおいて、豊臣秀吉は徳川家康を通じて、武蔵・相模・伊豆を安堵するから開城せよ、後北条氏に寛大な講和条件を出した、そして裏切ったのが事実、こうしないと秀吉は勝てなかった(p97)
・別所氏は、播磨国守護、赤松氏の流れを汲み、このころは三木城を起点として、東播磨八郡に一族が勢力を広げていた、別所氏が反旗を翻したのは、秀吉の失言と言われている(p137)
・秀吉が信長から解任されなかったのは、つねに安土との連絡を保ち、必要であればみずから出向いて信長と会見し、自分の考えを説明し、指示を受けていた(p145)
・秀吉は、山名氏が反旗をひるがえした後、すぐに降伏しなかったことをせめ、因幡城から追放して毛利氏に通じた(p150)
・忍城は、江戸城の北を守る要塞として重視され、累代、徳川家の譜代大名が入封する城となった(p177)
2019年5月5日