中上健次のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
・面白かった〜。
・すごい昔(子供の頃、と言っても良いかも)に読んで、今イチピンと来ていなかったのだけど、読み返して、こんなに面白いとは…となった。
・とにかく「怒り」の総量が現代の作品ではちょっとお目にかかれないくらい、と思った。「怒り」が作品にベースにある作品は今でももちろんあるけれど、量や質が桁違い。イメージとしてはでかい岩がゴロンとしてあるのではなくて、濃厚な霧の様にあたりに立ち込めている。そんな「怒り」。
・この「怒り」は歴史とも接続している。それこそ室町、江戸時代ぐらいからの連続性も感じる様な土着としての「怒り」。そういう歴史との連続性を感じる様な「怒り」って(何故か)今の作品から感じる事はほとんど無い(良いか悪いかは、分からない)。
・何か、圧巻、って感じだったな。 -
Posted by ブクログ
ネタバレめっちゃ良かった!!
ずっと積読していて、今回が中上健次の作品読むの初めてだが、魅力に気づけた。
舞台は和歌山県南部、田舎の貧困が蔓延っている狭い集落が主な舞台。どうやら、いわゆる被差別部落を描いているそうなのだが、あまり部落の歴史に対して知識がなかったのでわからなかった。戦後の混乱期のことも結構出てくるので、そういう時代だったのかなあとか思ってしまった。まあ中上自身も、部落というものを解放しよう!みたいな社会的意義を小説内で表現したいのではないく、その部落で起きる物語や人間ドラマを描きたいのだと感じるが。
そんな集落では、戦後の混乱や貧困のせいで人間関係がドロドロだ。腹違いの兄弟がいるのは当たり前、父親が愛人を作ってほっぽり出したり、人が傷つくのをなんとも思ってなさそうな性格だったり、主人公も荒っぽく、現代の観点から見ると妻とかをボコボコにしてるシーンとかあって引いてしまう。
主人公は、そんな場所に生まれ、生まれてしまったがゆえにこの家族内の因縁や、ちゃんと愛してもらえなかったことを抱えて生きている。しかも、父親が全く尊敬できない人間なのに、自分も自分の母親のことも捨てたのに、そんな尊敬できない父親の血を引いておりカッとなると暴力的になってしまったりして自己嫌悪に陥ることなどが、この短編集の中で繰り返し描かれる。
この作品の登場人物、特に主人公は強く愛を求めている。誰かから本当に必要にされたかったということ、けどそれを過去の時点では、充分に満たしてくれる人がいなかったということ。それをそれぞれ抱えて生きており、だから衝突したり、暴力沙汰が起きたり、他人と完全に関係を回復できなかったりする。なんかそんな人間関係の生々しさと苦しさが、特に『岬』はすごい濃度で描かれており、圧倒された。
-
Posted by ブクログ
南紀の小都市(1970年頃か?)を舞台にした長編小説。南紀旅行に行く前に是非読んでおこうと手に取った。
複雑な出自を持つがゆえ、地縁と血縁について悩みながら、ところどころ情熱と暴力を爆発させてしまう主人公の物語。登場人物が非常に多く、また現在進行の場面と回想場面が頻繁に入れ替わるため、序盤では混乱してしまう。最終ページに関係図が載っているので、そちらを数ページごとに何度も見返しながら読み進めていく。また、地図帳で和歌山県新宮市や熊野川付近を見返したり、現地の写真を検索しながら、壮大なドラマの舞台を頭で描きながら読んだ。
中盤に入って、ある程度、現地のイメージと人物関係が頭に入ってしまうと、一気に読めてしまう。「路地」におけるドロドロの関係の中で、愛憎絡む思いや、少しずつ豊かになる暮らしぶりが描かれている。南紀の大自然(山・川・海)や、辛い土方作業に精を出す描写も美しい。 -
Posted by ブクログ
歌手・友川かずきの著書「一人盆踊り」に中上健次にまつわるエッセイが収録していたので興味を持った。
そういえば、以前なぜ友川かずきが映画「十九歳の地図」に出演しているのか疑問に思ったことがあったが、当時親交があったからかと合点がいった。
この「十九歳の地図」は4本の短編が収録されているが、解説等々を読むに全て同じ主人公とのこと。しかも著者本人の体験が強く反映されているようだ。
上述の友川かずきも弟が列車で自殺しており、肉親の悲惨な死を経験しているもの同士何か理解うるところがあったのだろうか。
肝心の小説の方は、少年期の原体験、青年期の鬱屈した精神、成人後の堕落が描かれていて、読んでいてどんどん気が滅入ってきた。
しかし、朝鮮人の住む家に石を投げるのも、東京駅に脅迫電話をかけるのも、もしかしたら自分も似たようなことをしていたかもしれないと思わせる、そんな気持ちになる。
もともと自分の中にもある暴力性に訴えかけてくるような感じもする。
それでいて、山や川や海や空やらの描写は人に対するそれと異なり清々しいほどに爽やか。
残念ながら補陀羅はうまく読むことができなかった。 -
Posted by ブクログ
私たちの人格はどうやって作られたのか。先天的に与えられた部分と、後天的に獲得した部分がある、と言われるが、おそらくはそのいずれにも当てはまるのが、時代、そして地縁・血縁だろう。私という存在は、この時代に、この場所に、この親のもとに生まれるほかなかった。どんなに新しい未来を手にしようとも、出自から完全に逃れることは不可能だ。一般的に言われるように、文学というものが、何らかの意味で書き手にとって「やむを得ず」書かれるものだとすれば、自分という存在の根源に潜行し、そこから言葉を立ち上げてくる小説が、文学でないはずがない。そういう小説、そういう文学に、青年期にこそ出会いたい。
中上健次は、一九四六年、和歌山県新宮市生まれ。一九九二年に四六歳で没するまで、故郷紀州の土地を舞台に、複雑な家族関係だった自らの出自を見つめる作品を書き続けた。それらの作品群は「紀州サーガ」と呼ばれている(「サーガ」とは、「一家一門の物語を壮大に描く長編の叙事小説」Wikipediaによる)。
『岬』は、一九七六年の芥川賞受賞作。翌年に出版された『枯木灘』はその続編。さらに後年出版される『地上の果て 至福の時』はさらにその続編。主人公ほか、登場人物も時間も連続している。螺旋的に繰り返し紹介されるその複雑な人間関係と、人間の根源が剥き出しの出来事を追いながら、これら三作読み進めていく作業は、文学と向き合うという行為が、生ぬるい娯楽ではないことを教えてくれる。中上文学にいつ入門するか。考えておいてほしい。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2016年5月号掲載 -
Posted by ブクログ
(引用)
彼は、一人残っていた。腹立たしかった。外へ出た。いったい、どこからネジが逆にまわってしまったのだろう、と思った。夜、眠り、日と共に起きて、働きに行く。そのリズムが、いつのまにか、乱れてしまっていた。自分が乱したのではなく、人が乱したのだった。ことごとく、狂っていると思った。死んだ者は、死んだ者だった。生きている者は、生きている者だった。一体、死んだ父さんがなんだと言うのだ、死んだ兄がなんだと言うのだ。
*
とことん下へ下へと潜っていくような気分。いろんなことが乱れたように事あるごとに思ってしまうのは、自分のせいであることを認める勇気がどこかのタイミングで必要だと思う。