中上健次のレビュー一覧
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「岬」には、James Joyceの短編集「ダブリナーズ(ダブリンの人々)」のなかの1作「死せる人々(The Dead)」との関係性を強く感じる。
例えば、一族の物故者の影や息使いが、普段は姿を見せないものの、今を生きる者の言葉や立ち居振る舞いその他の様々な所作において、それが姿を現し、なおかつそれが明確な映像や音声となって立ち現れる場面しかり。
そしてアイルランド人としてのアイデンティティからの逃避欲求があり、しかしそれに絡めとられ纏わりつかれも逃れられない宿命のようなものを改めて意識する場面しかり…
他の3作品の通俗的な完成度から比して、中上健次がある日ジョイスの作品に出会い、そしてダブリンから紀州へとの劇的な翻案と、中上のなかに眠る自己の地縁血縁に関する物語性の抽出と進化(深化)か突然変異的に起こったものと推測している。 -
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本作品には鬼が宿る。大江健三郎や三島由紀夫など読んだ瞬間に圧倒的才能を感じさせる天才が稀に居るが中上健次もその一人であろう。彼が「路地」と呼ぶ所謂部落出身者の湧き出る熱情を血で綴るように中本の一統の5つの物語を紡ぐ。説明的な読者への配慮は一切なく濃密で息苦しい程の言葉の茨が読者を捉える。
極めて優れた表現だと思うが筆者がいう「高貴で澱んだ血」を受け継ぐ者たちをオリュウノオバを軸に暴力や女性蔑視の表現を以て語られる。時空間や常識の概念に捉われず「高貴で澱んだ血」に縛られる。
芥川賞受賞作「岬」も凄い作品であったが本作はそれをも超えている。この作品がなんであったかは説明が難しい。ぜひ読書体験いただきたい。 -
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表題作、十九歳の地図について。
素晴らしい読書体験だった。
ここには、青春のただ中にいる一人の青年の、本当のことしか書かれていない。
そう感じさせるのは、中上健次が、借り物の言葉ではなく自分の言葉で語っているからだろう。
僕は、今日が19歳最後の夜。
自分の、やりきれない十代の形にならない想いは、ちゃんと中上健次が分かってくれていた。
文学とは作品を読んで全体を俯瞰しながら分析するものではない。
言葉では表せない「何か」を言葉で読み、それによって読者は否応なしに心を動かされる。
悲しい物語でも、感動する物語でもないのに、心が形にならない涙を流す。
文学とは本来、そういうものだ。
作者は自らが感じた本当を書き、そして読者はそれを読んで理屈なしに感動する。
この本を読んだだけで、今日は最高の日だ。 -
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全集で難しいのは数多ある代表作の中から何を選ぶかということだろう。中上といえばよく引き合いに出されるのがアメリカ南部にある架空の地ヨクナパトーファ郡に起きた多くの人々と出来事を描いたウィリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サーガだが、中上がそのサーガの舞台としたのは、架空の場所ではなく彼の郷里である紀州、新宮のとりわけ路地と呼ばれる集落であった。その路地生まれの秋幸を主人公とした『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の三部作を池澤はあえて避け、秋幸の母フサを主人公に据えた『鳳仙花』を選んでいる。これが好い。
わざわざ日本文学全集で中上健次を読んでみようと考える人は、中上健次について不案内なはず。のっけから路地だの秋幸だの龍造だのといわれても、その輪郭がつかめないだろう。そういう意味で『鳳仙花』は、その世界を概観するためにはいちばんふさわしい。これを読んで面白いと思ったら三部作を読んでどっぷりと紀州サーガにのめりこめばいいし、そうでなくとも『鳳仙花』一篇はそれだけで充分読み応えのある傑作である。
主人公のフサは兄三人姉三人の下にできた父親のちがう妹で六つちがいの兄吉広を慕っていた。昭和六年三月。十五歳になったばかりのフサは吉広の口利きで親許の古座を離れ新宮にある佐倉という材木商の家へ女中奉公に出る。佐倉の家は大逆事件で幸徳秋水らに連座した「毒とる」と呼ばれた医師の弟筋にあたる。貧しい肉体労働者や門徒に頼りにされていたが、事件以来、天子様に弓引いたと周囲から掌を返したような扱いを受けた過去を持つその佐倉が何を考えてか人足らを大量に抱えこんでいる。この家を包む不穏な空気がフサの目や耳を通して伝わってくる。フサの成長を描く小説ではあるが、地霊が潜む新宮の地は奥が深いのだ。
紀州は木の国である。平地というものがなく山が直接海に落ち込んでいる。海沿いの町を結ぶ道はなく船便に頼るしかない。山から切り出した木は木道に油を引いた上を材木を束ねた木馬(きんま)を曳き、筏に組んで川に流す。危険な仕事だから男たちは勇み、あらぶる。山から降りれば女が欲しくなる。廓に通うだけでなく、手近な女に声をかけ浜で事に及ぶ。男も女も性に関しては奔放だ。フサにもすぐに男が言い寄る。吉広に似た勝一郎は路地の男だった。所帯を持ち、次々と子どもが生まれ、フサは行商をして子どもを育てるが、時局は厳しさを増すばかり。
貧しい暮らしの中で若くして多くの子を生んだ女が背負わなくてはならない人並みでない苦労が描かれるのだが、ひとつも湿っぽくならない。解説で池澤が古事記に喩えているが、自分の男を美しいと思い、生(性)を謳歌し、次々と子を産むフサは子を孕むごとに美しくなり、まるで神話の神のようだ。日本の神話だけではない。陽光溢れる紀州の海はエーゲ海や地中海を思わせ、フサの生む子もまた美形で知力や胆力に恵まれている。背中に彫り物を入れたイバラの龍こと浜村龍造さえいかつい大男であることやその正体が闇に包まれていること、次々と女に手を出しては子ども孕ませることなど、どこかの神を思わせる。
戦前から戦中戦後、朝鮮戦争の不穏な時代を背景に、古くから熊野信仰で知られる新宮に残る御燈祭や御舟漕ぎといった季節の神事を絡ませ、様々に入り組んだ差別的な環境の中で、差別を受ける側に視点を据えながら、卑屈にならず、逃げず、投げやりにならない主人公の半生を描く。その生き方は猛々しいまでに圧倒的に強く美しい。時にくず折れてしまいそうになるとき、小さいながらも子どもたちのなかに芽生えつつあるフサのものでもある向日性や小さな生をいとおしむ優しさが溢れ出て母親を支えるのが美しくも愛しい。
ほとんどロマンスといっていい物語性の強さにもかかわらず、これが日本文学の中でも指折りの傑作小説といえるのは、ほぼ家族史といってもいい「私小説」的な枠組みを用いながら、私小説に見られる自堕落なまでの主観的な事実へのもたれかかりに甘えることなく、周囲の人々への聞き取り、神話、民俗学、歴史から学んだことを溶かし込んで、果敢に小説的な試みに挑んでいることにある。作者の勉強ぶりもさることながら、その恵まれた感性や資質、特に海鳴りや山の音についての度重なる言及から、作者の音に対する感覚の鋭さは注目に値する。それが功を奏しているのか、語り口の好さはまさに音楽といってもいい。いつまでもその独特のリズムに乗っていたいと思わせるものがある。
他にオリュウノオバが語る中本の一統の男たちの物語、「半蔵の鳥」「ラプラタ稀譚」。今昔物語その他日本の古典に想を得た幻想譚「不死」「勝浦」「鬼の話」。ルポルタージュ風のエッセイ「古座」「紀伊大島」を所収。いずれもこの不世出の作家の才能をあますことなく伝える佳品ばかり。幻想文学好きには「不死」を含む三篇だけでも読まれることをお勧めする。中上健次は如何にそれが有名であったとしても、紀州サーガにとどまる作家ではなかったことが思い知らされる。 -
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夏芙蓉の甘い薫りが漂うと金色の鳥が甘い蜜を吸いに来る。熊野の山は烏天狗が舞い、天女が羽を休めにくる。龍は天へと昇っていく。鶯の声、梟の声が聞こえ銀色の川が流れる。蓮の池の上につくられた浄土は路地という。四民平等に憤り竹槍で刺されるは落人狩りをした土民たちの再現か。千年もの長きに渡って受け継がれてきた澱んだ血の所為か先祖が歌舞音曲に狂った報いの為の仏罰か。歌舞伎役者のような男振りに淫蕩、盗人は澱んだ血の為せる業。百年も千年も生きていたオバ。産婆と毛坊主の生と死を司る夫婦。非業の死を遂げる男衆たち。
紀州熊野の山村を舞台にした連作短篇集。ゾラのルーゴンマッカール家の遺伝を彷彿とさせる中本の血、マルケスのマコンドのような生者と死者、怪異が一体となった混沌とした世界観、有島武郎の『カインの末裔』のような土臭さ。面白い。中上健次は初読みだったが気に入ったので「紀州サーガ」をもっと読みたい。
〈どうせこの世がうたかたの夢で自分一人どこまでも自由だと思っても御釈迦様の手のひらに乗っているものなら何をやって暮らしてもよいと言いたかった。〉〈生きながらえ増え続けボウフラの如く生命がわきつづける事が慈悲なら空蝉のように生れて声をかぎりに鳴いて消える生命も慈悲のたまものだった。〉 -
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★★★
山にへばり付くような土地作られた”路地”は、昔は町への出入りも制限され、男たちは革をなめしたり土木仕事をするしかない集落だ。
オリュウノオバはその路地のただ一人の産婆で住民の親世代は全員取り上げた。夫だった礼如さんは寺の和尚がいなくなってから在宅の坊主になった。坊主と産婆の夫婦である二人は、路地の住人の人生の出口と入口を見てきた。
礼如さんは中本家の血統。浄く澱んだ血を持つ中本の男たちは女を腰から落とすようないい男揃いで享楽に生き動物のように女と交り、決して長生きできない。
今は年を取り寝たきりとなったオリュウノオバはその床で中本の男たちの人生を想う。
中本の中でも格段の男振りを誇る半蔵、
体中から炎を吹き毛燃えるように生きていけないなら首をくくって死んだほうがましとヒロポンを打ち逢引相手の夫を殺す三好、
まるで異形との間に生まれたかのような文彦、
南米に移住して新天地を夢見るオリエントの康、
盗人生活から南米に渡り銀の幻影を見る新一郎、
北海道で路地と同じような境遇のアイヌ集落で発起しようとする達男。
寝たきりのオリュウノオバの意識の漂う時間は、過去も未来もない交ぜで、路地の過去千年を見てきて、そしてこの先の千年も見るだろう。
オリュウノオバの道徳観も、人が殺されればその分産んで増やせばいい、生まれたらみんな仏だ、というもの。中本の男たちが死んでも、自分が取り上げた子が死んだと嘆くのではなく、その死により中本の罪が清められたと拝む。
濃厚かつ圧倒的で吸引力のある作品です。
★★★
巻末の吉本隆明氏、江藤淳氏の解説が、論文のようで世界背景を解説してくれています。
作中の現実的出来事はかなり過酷だが、オリュウノオバの漂う意識という語り口で、同じ文章内でも複数の語り手からの目線で語られるために、幻想的でもあります。
作品内で圧倒的な文章力を見せつけられた二つの場面。長すぎて「引用」に入らないので書き出してみる。
(二つ目はネタバレのため、嫌な人は避けてください)
P127
≪オリュウノオバは眼を閉じ、風の音に耳を傾けてさながら自分の耳が舞い上がった葉のように風にのって遠くどこまでも果てしなく浮いたまま飛んでいくのだと思った。見るもの聴くもの、すべてがうれしかった。雑木の繁みの脇についた道をたどり木もれ陽の射す繁みを抜け切ると路地の山の端に出て、さらにそこをふわふわと霊魂のようになって木の幹がつややかに光ればなんだろうと触れ、草の葉がしなりかさかさと音が立てば廻り込んでみる。それはバッタがぴょんととび乗ったせいだと分かって、霊魂になっても悪戯者のオリュウノオバはひょいと手をのばしてバッタの触角をつかんでやる。風が吹いたわけでもないし他の危害を加える昆虫が来たわけでもないのに触覚に触れるものがあるとバッタは思い、危なかしい事は起こりそうにはないがとりあえずひとまず逃げておこうとぴょんとひと飛びするのを追い、さらに先に行くのだった。そこから朝には茜、昼には翡翠、夕方には葡萄の汁をたらした晴衣の帯のような海まではひと飛びで、田伝いに行って小高い丘から防風に植えた松林までえもいわれぬ美しい木々の緑の中をオリュウノオバは山奥から海に塩をなめに来た一匹の小さな白い獣のように駆け抜けて浜に立ってみて潮風を受け、ひととき霊魂になって老いさらばえ身動きのつかない体から抜け出る事がどんなに楽しいかと思い、霊魂のオリュウノオバは路地の山の中腹で床に臥ったままのオリュウノオバに、
「オリュウよ、よう齢取ったねえ」とつぶやきわらうのだった。「寝てばっかしで、体痛い事ないんこ?」
「痛い事ないよ」
オリュウノオバは霊魂のオリュウノオバにむかって、いつも床に臥ったままになってから身辺の世話や食事の世話をしてくれる路地の何人もの女らに訊かれて答えるように言って、霊魂のオリュウノオバが風にふわりと舞い、浜伝いに船が一隻引き上げられた方に行くのを見ていまさらながら何もかもが愉快だと思うのだった。オリュウノオバは自由だった。見ようと思えば何もかも見えたし耳にしようと思えば天からの自分を迎えにくる御人らの奏でる楽の音さえもそれがはるか彼方、輪廻の波の向うのものだったとしても聴く事は出来た。≫
≪以下ネタバレ!!≫
P76(中本の血統の一人、三好が首をくくった時のオリュウノオバの幻想)
≪オリュウノオバはため息をついて、三好の背に彫ってあった龍がいま手足を動かしてゆっくりと這い上がって三好の背から頭をつき出して抜け出るのを思い描いた。これが背の中に収まっていた龍かというほど大きくふくれ上り梢にぶらさがった三好の体を二重に胴で巻きつけて、人が近寄ってくる気配がないかとうかがうような眼をむけてからそろりそろりと時間をかけいぶした銀の固まりのようなうろこが付いた太い蛇腹を見せて抜け出しつづけ、すっかり現れた時は三好の体は頭から足の先まで十重にも巻きついた龍の蛇腹におおわれてかくれていた。龍が抜け出た背中の痛みを舐めてなだめるように舌を出して腹のとぐろの中に頭を入れる度に宙に浮いた形のまま龍の腹はズルズルと廻り、風で物音が立つと飛び立とうとして顔を上げた。龍が急に顔を空に上げ、空にむかって次々と巻いた縄をほどくようにとぐろを解きながら上り一瞬に夫空に舞い上がって地と天を裂くように一直線に飛ぶと、稲妻が起り、雲の上に来て一回ぐるりと周囲を廻ってみて吠えると、音は雲にはね返って雷になる。
三好が死んだその日から雨が降りつづけた。
オリュウノオバはその雨が、中本の血に生まれたこの世の者でない者が早死にして夫にもどって一つこの世の罪を償い浄めてくれたしるしの甘露だと思い、有難い事だと何度も三好にむかって手をあわせた。≫