読むのに苦労した上巻とは打って変わって、随分と読みやすく感じた。
富士の裾野に住む有森家の年代記とはいえ、物語のほとんどは語り手である勇太郎の父である源一郎と、彼の子どもたちについてである。
上巻は父・源一郎を中心に、何の不安もなく過ごした故郷での子ども時代の幸福な日々に大きくページを費やしている
...続きを読むため、その後の家族の闘病や死別が続く下巻が、敗戦の混乱も含めて理不尽に感じられる。
だが、大きく時代が変わるときに、精神的支柱の父を喪い、今まで通りの生活が送れるわけはない。
最終的に有森家の人間はだれ一人として甲府に住み続けることはなかったのだ。
そして、勇太郎自身アメリカで生涯を過ごし、その娘はパリで子どもを産み育てる。
有森の血は世界を舞台に流れているとも言えるし、甲府に足を据えて生きてきた一族の血は薄まったともいえる。
命をつなぐというのは、そういうことなのだ。
甲府を離れながら甲府を思い、時に、亡くなったはずの父や兄姉たちが青空の中を馬で駆っていく姿を見たり、過去を思い出していると亡くなった姉たちの会話が聞こえてきたりと、軽くマジックリアリズムを思い起こさせる部分がある。
そう言えば土地に住み続ける一族の話だし、似たような名前が繰り返し出てくるし、おさすりさんのような科学では解明できない力を持つ者がいたり、自然災害の脅威にさらされたりと「百年の孤独」を彷彿させる箇所が多々ある。
かと思えば、姉の一人で、一番勇太郎には厳しかった笛子の夫・杉冬吾は、明らかに作者の父である太宰治がモデルであるとわかる。
津軽の大地主の息子でありながら、生活能力が全くなく、ただ酒と煙草と芸術と女に依存して生きる男。
現実の太宰がどこまでそうだったのかは知らないが、心身があまりにも脆弱で、自分のなしたことに責任を取ることなどできない無責任な臆病者でも、芸術の才能さえあればすべてが赦されるものなのだろうか。
文章や構成に色々と工夫が凝らされているのだけど、それがどれほど作品によい影響を与えているのかは疑問。
もっとシンプルな方が断然読みやすいのに。
例えば
”桜子はまだ二、三時間、麻酔からさめないと言われたので、私たちはインキュベイタアに入った赤ん坊を見届けに新生児室に行った。人間の赤ん坊とは思えないほど小さな赤ん坊がいろいろなテュウブを取りつけられ、巨大なオムツをつけただけの姿で、ガラスの箱のなかでゆるやかにうごめいていた。”
書いていることが理解できないわけではないが、カタカナがいちいち障害となって立ちはだかり、読書に急ブレーキがかかるんだよね。
つるつる読める文章がいいのかと言えば、そういうわけでもないけれど、これはあまりにも甚だしくて、もう少し日本語に寄せた標記にして欲しかったわ。