津島佑子のレビュー一覧

  • 光の領分

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    ネタバレ

    今年読んだなかで1番よかったかも。川上未映子さんのリボン通信の中で津島裕子の名前が出てきて、興味が湧いたので買ってみた。大正解だった。
    文体が自然でなんだか懐かしいような気がした。現代では見なくなった失われたような綺麗な文章に惚れ惚れする。本の裏のあらすじを見たら結構ドロドロした物語なのかなと思ったけど、生々しさというか胃もたれするような重さはなく、もうちょっとしっかりしろよと言いたくなるような、まあでも人間こんなもんかもなという人間らしさを主人公に感じた。光の領分というタイトルのとおり、光や夢が多用されていて幻想的というか味わい深い小説だった。うまく感想言えないけどよかった、他の作品も読みたいなと思った。

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    2026年09月29日
  • 光の領分

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    ネタバレ

    解説を読んでやっと本書の構成を少しばかり理解できた気がする。伴走者のような存在だったさまざまな”光”とともに月日を重ねた「私」と娘が、光のない生活に踏み出すということ?光は必ずしも美しく善いものとして描かれてはいなかったと思う。生と死、どちらにせよ暴力的なまでのエネルギーを孕むものと読み取った。娘の世話と労働をこなすだけで精一杯の日々を送る「私」に、ある種の活力を与えるものだったのか。
    どこか現実感のない父親の描かれ方も、解説を読むまで気づけなかった。筆者の父親の名前が良くも悪くも知れ渡りすぎていて、どうしても彼女の作品も色眼鏡で見てしまいそうになる。でも作中の「私」と娘のやりとりの描写はそれこそ光を放っていて、父親の不在はいったん脇に置いて作品に集中したいなあと思った。

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    2026年04月08日
  • 光の領分

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    とにもかくにもひとつひとつの生活。死を捨て、子を必死に育てる四捨五入の生活。必死になってやりくりするシングルマザーの私で、死が脳裏にやってくることは滅多にないけれど。たとえば人身事故。たとえば子の夜泣き。ためいきのような出来事がふっと死をよぎらせるけれど、ぶんぶん。私ゃこの子を育てねばならぬのだずんずんと進むそれしかないのだ。

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    2025年11月23日
  • 本のなかの少女たち

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    『源氏物語』の紫の上、ローマ神話のディアナ女神、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、ゲーテ『ファウスト』のグレートヘンといった文学・物語の中の「少女」たちに焦点を当てた読書エッセイ。取り上げられている作品だけでなく、同著者の別作品、類似テーマの別の作品、歴史的背景などを含めた多角的な読み方をしている。

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    2025年06月18日
  • 火の山 山猿記(下)

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    6代の物語である。下巻は山梨で空襲にあい、その先祖代々の家がなくなり、東京の江古田やそれ以外の所に移るという家の問題である。記録を書いている勇太郎が妻と一緒に米国に行っているが、そこのところの記録は書かず、米国に旅立つところで記録は終わっている。生まれては死にまた生まれては死にの繰り返しである。

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    2024年05月16日
  • 火の山 山猿記(下)

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    凄まじい大作だった。
    上巻では、津島佑子らしくない創造力で意外性を見たが、後半は正に女性讃歌の一冊だった。
    有森家の女衆の1人、桜子の魅力が物語を牽引している。彼女の顛末に関しては本作はおろかここ最近数作の中のハイライトだと思った。

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    2023年02月25日
  • 寵児

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    なんで高子は想像妊娠をしたのか?というなぜを紐解く話。
    妊娠を女性の本能の帰結、と位置付けることから実は自分を縛り付けていて、それに気がつき自力で歩いていくために殻を破れた高子の姿が静かにカタルシスだった。後半一気に話が動くのに無理なく読める。
    津島祐子さん、お父さんよりもずっと文才があるのでは‥。

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    2021年07月04日
  • 黄金の夢の歌

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    黄金の夢の歌 (100周年書き下ろし)
    (和書)2011年03月01日 21:22
    津島 佑子 講談社 2010年12月7日


    柄谷行人さんの書評で興味を覚えました。

    とても良い作品だと思います。

    回帰としてあるという評者の意見にも興味があります。

    中国の北京・洛陽・西安・内モンゴルなどへ旅行へいったことをもリアルに思い出しもしました。

    いろんな見方で読めるこの作品に感心しました。著者の作品をもっと読んでみたい。

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    2020年09月27日
  • 変愛小説集 日本作家編

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    さまざまな形の「愛」が収められたアンソロジー。どれも一般の恋愛観からは少し外れた愛で、しかしそんな奇妙な愛こそが恋愛であるような気がする。どこか変でなきゃ恋愛なんてできないな、と感じた。

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    2019年09月14日
  • 火の山 山猿記(上)

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    上下巻にに分かれておりかなり長いですが、
    その長さを感じないほど深く入り込んで読める作品でした。

    とある一家の物語をこれほど見事に描ききっている作品は
    そんなに多くはないのではないでしょうか。

    貴重な一作だと思います。

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    2010年07月25日
  • 火の山 山猿記(下)

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    『純情きらり』ファンにとっては上より下のほうが面白いかも。あー、この場面あったなー、とドラマを思い起こしつつ楽しめること請け合い。

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    2009年10月04日
  • 火の山 山猿記(下)

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    ドラマとは違う魅力。登場人物が多いにもかかわらず、ひとりひとりの人物像を丁寧に描いていると思う。「家族」とは何か?を考えさせられる。

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    2009年10月04日
  • 火の山 山猿記(下)

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    『純情きらり』はこれからどうなっていくのか原案と比べながらすごく楽しみ。達彦さんは死なずに戻ってくるかな〜?

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    2009年10月04日
  • 変愛小説集 日本作家編

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    変と恋愛を混ぜると不気味という感覚が残るんだなあと思いました。どこか歪んでるのにその愛というものがあったことをみんな信じている。こんなにも不確かなものはないのにこれだけは言える、みたいな感じで。
    変。変わる。
    人と交わるとどうしても変わっていってしまう。想像のつく未来なんてひとつもない。

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    2026年09月27日
  • 山を走る女

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    ネタバレ

    ゼミで読むので読んだ本。長かった。
    大筋は、私生児を孕ってしまった21歳の女性、小高多喜子が息子の晶を生んでからの1年間を描く子育て小説。1980年という時代柄もあり、婚外子に対する家族と世間の視線は厳しく、晶が生まれるまでの間、母は多喜子に中絶を勧め続け、父は家の恥として罵声と暴力を浴びせ続け、会社は辞める意思を訊き、同僚の女子社員は多喜子を相手にしなくなった。誰からも祝福されることなく、晶は多喜子のお腹の中で育つことになる。
    それにしても、多喜子の暮らす家は、迷路のような路地の先にあり、日のささない暗闇の中にある。それは、多喜子の置かれた状況をそのまま象徴するようにも見える。

    家は曲がりくねった、細い路地に面している。古い木造のアパートがより集まった区域で、路地もあちこちで袋小路になっているため、住人ではない人がそこを通り抜けることはむずかしかった。多喜子の家はアパートではなかったが、多喜子にはアパートの住人の方がうらやましかった。日当たりの悪い一帯ではあっても、二階の窓の多くは、朝から夕方までのいずれかの時間に、日の光を浴びていた。多喜子が会社に勤めだしてから、石油ストーヴや、カラー・テレビを買い替えたり、風呂場にシャワーをつけたりしたが、暗い平屋建ての家に日の光を招き寄せることだけはできなかった。(p9)

    多喜子は、日の光が差し込む他者の家をうらやましく思う。それは、明るいということが一般的な感覚からして、何か良いものに見えるからだろう。しかし、普通の人にとって希望に見える明るい光は、多喜子にとっては、孤独を表す光である。実際、多喜子の孤独と光は、物語の序盤において、分かちがたく結びついているように見える。

    タクシーは産院に多喜子を運んでくれ、産院は多喜子を決まり通りに扱ってくれる。一人きりのあの眩しい時間は終わったのだ。過ぎてみれば、呆気ないほどの短い時間だった。(p15)

    産院に辿りついた多喜子が、病室の窓からまるで光っているかのようなポプラの木を見る。その光は次第に周囲に広がっていき、やがて、高校生の時代に男友達と見た映画のワンシーンを多喜子の記憶に呼び起こす。

    女は太陽の熱ですべてがゆらめいて見える白い平原を、遅い足取りで歩き続ける。村のテントの影が見えなくなっても、歩き続ける。子えが届かないところまで、女は進み続けなければならない。平原では、おとがよく伝わる。女は歩き続け、ひとつのいわの前でようやく立ち止まる。岩陰に腰を下ろし、自分の赤ん坊が生まれる時を待つ。(p29)

    この小説のタイトルが「山を走る女」であることを考えれば、この映画のワンシーンの記憶は、多喜子が歩むことになるその後を分かりやすい形で象徴してくれている。インディアンの女は、何もない平原を歩いている。そして、見知らぬ男に見守られて、一人で子どもを生むことになる。
    この物語の中で、「平原を歩く」ことは、見知らぬ男の目に晒されながら、孤独な出産を迎えることを意味しており、その孤独な平原は、太陽の光にさらされた「白い平原」なのである。と考えれば、「山を走る」ことは、もちろんその逆を表しているように思われる。
    物語の後半、”三沢ガーデン”で働くことになった多喜子は、職場が管理する「山」へ行くことになる。その「山」で職場の同僚の家に泊めてもらうことになった夜、心を惹かれるようになっていた神林という男と一夜をともにすることになる。しかし、神林は、それまで多喜子が関わってきた男たちのように、欲望のままに多喜子を抱くということをしなかった。

    あの夜、多喜子は雨の中を何度も転びながら、泣き声と共に、走り続けた。(p331)

    男性がその欲望を抑制する姿を、多喜子は神林によってはじめて知ったのだった。抑制の苦痛のなかで、欲望のあからさまな力を、多喜子ははじめて実感もした。はじめて味わった深い性の快感として、その実感があった。(p332)

    それは、多喜子にとってはじめての経験だった。ここで、多喜子は新しい人間関係の存在を知ることになる。それまでの多喜子には、多喜子を孤独にする人間しかいなかった。それは、まず第一に家族であり、職場の同僚であり、産院で同じ病室にいた、あるいは、息子の晶を預けることになった保育所にいた他の母親たちだった。
    唯一、多喜子と赤ん坊を受け入れてくれたのは、馴染みのジャズ喫茶であり、そこで働く年下の川野という青年だった。しかし、そのジャズ喫茶と川野が、多喜子の孤独を本質的に癒すことはない。ジャズ喫茶もまた男友達と過ごすことで父親から淫売と罵られた記憶と結びつく場所であり、川野も、多喜子の体を求める男であり、多喜子を妊娠させた前田宏にいくらでもなりかわりかねない男だった。しかし、そうした男たちとは違う存在として神林と出会うことで、多喜子は、最初は拒んでいた母親の存在をも受け入れられるようになり、あの暗い自分の家に帰ってくることになるのである。
    それにしても、自分の息子を中絶させようとしていたことに対して、怒りを持っていた多喜子が母をすんなりと受け入れられるようになったのはなぜなのだろうか。そこには、多喜子と母親が、晶を媒介に交換可能なものであることを受け入れることが重なりあう。

    母親の郷里を思う時、いつもそうなるように、多喜子には母親と自分との区別がつかなくなっていった。
    少女は下界を熱心に、毎日、見つめ続ける。少女には下界に行くことができない。遠い、別の世界なのだ。水色の山よりも、そこは遠い。けれども、はっきりと見える。見えなければよいのに、小さいなりに、なにもかも見えてしまうのだ。それで、少女は葡萄と水晶の空に囲まれながら、悲しい感情になる。家がある。道がある。畑がある。大人がいる。子どもたちがいる。どれもあまりにも小さく見えるので、おもちゃの世界のようだ。それで、少女はもっと悲しくなる。(p108)

    母親の郷里の記憶とは、「葡萄と水晶の空に囲まれ」る「山」である。そこにいるのは、幼い頃の母親の姿だけで、他に誰の姿も浮かばないのであるが、多喜子には、自分と母親との区別がつかない。
    これは、現実の世界でも同じである。母親は、世間体を心配して、晶を自分たちの養子にすることを提案する。それに対して多喜子は反発するのであるのだが、その根底には、母親である自分が別の誰かに代替可能なのではないかという不安がある。

    自分が母親だから、この赤ん坊とは離れられない、と思うことはできなかった。確かに、自分の体を使って、この世に産みだした赤ん坊ではあるが、だからと言って、その赤ん坊にとって自分が特別な意味を持つ者だとは感じられない。乳児院で毎日、世話を受けるようになれば、晶は必ず、今の自分に甘えるのと同じよう仕種、表情で、そこの保母たちに甘えるはずだった。それはいけない、とは言えない。けれども、多喜子には晶から離れることは考えられなかった。そのことが晶をはじめとして自分の家族を侵し続けることになるにしても、晶のやわらかな肉体を感じ続けていたい。晶の体以外には、自分の時間を見つけることができなくなっていた。(p243)

    晶の存在によって自分の孤独を埋めようとしていた多喜子だったが、晶からしてみれば、自分を育てる「母」としての存在は、多喜子の母親や保母にとって代わられるものなのかもしれない。そうした不安により、多喜子は、晶を自分だけのものにしようとした。そして、その不安は、郷里の記憶に重ね合わされるようにして、多喜子の中にはじめからあった不安なのであった。

    この物語は、孤独ゆえに私生児を生むことになり、私生児を生んだことで再び孤独になった女が、自分自身の代替可能性を受け入れることによって、はじめから身の回りにいた人間を受け入れられるようになる物語である。受け入れることによって、多喜子は自らが出たいと望んでいたあの暗い家に、再び帰ってくることになる。
    しかし、その可能性は、初めから母親の郷里の風景の中に、多喜子の中にあった可能性でもあった。その可能性に、現実に「山を走る」という経験を経て、多喜子は気づくことになるのだと思う。
    孤独から抜け出すための一つ形が示されているという意味で、明るい物語である。しかし、その形とは、自分自身が、必ずしも必要ではないかもしれないということを受け入れるという暗さを持っているものでもあったのだと、読んだ。

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    2025年10月06日
  • 光の領分

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    文体が懐かしい。
    はっきりした描写も、終わりがすっきりするわけでもない、それでもどこか読まずにいられない不思議な本です。母親として、女としての苦悩が丁寧に描写されています。随所に出てくる光の表現と心情の対比がとても美しく、ゆっくりと小説の中に引き込まれます。

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    2025年09月25日
  • 光の領分

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    ゼミで扱われる関係で読んだ小説。先生が、「心が元気なときに、そこそこ気合いを入れて読んだ方がいい」と言っていたので、かなり身構えて読んだのが、思ったよりすんなり読めた。
    こういう言い方をしていいのか分からないが、不穏な空気の流れる母子家庭の物語、というのが第一印象。読めば読むほどに、語り手である母を、どこまで信用していいのかが分からなくなっていく感じを受けた。本当は、母と子の関係と生活が壊れかけているのだが、その壊れていることを最後のところで隠そうとしている語りが、ものすごいリアリティをもって迫ってくる感じ。

    正式に離婚をして、娘は自分のもとで育てたい、と思っている。と私は答えた。父親の方も、たぶん、それは受け入れてくれているのだ、と思う。が、娘を父親にどのように会わせればよいのか、まだわからなくて、父親の方は、自分の好きな時にいつでも会えるようにしておきたがっているのだが、私にはそれは納得できず、そんなことなら、なぜ一緒に暮らし続けてくれなかったのか、と思わずにいられなくなるのだ。(p126)

    (前略)分からないけど……あなたは子どものことし見ていない。わたしのことなんか、見ていない。それがいやなんだわ、きっと。子どもと合わせたくない。……合わせるのが、こわいのよ。(中略)……あなたにだって、なにか頼んだこと一度もないでしょう。いらないんだもの、なんにも。……うそじゃない。でも……わたしを見ても、あなたは子どものことしか考えないんじゃない。……それだけは、いやなんです。分かって頂けませんか。(p182)

    彼女の本当に望んでいたことは、ある意味、明確で分かりやすい。夫である藤野に一緒に暮らし続けてほしい。子どもよりも、あくまで「わたし」を愛してほしいということである。
    ごく簡単に言えば、彼女が欲しているものは、自分に対する愛情である。だから、藤野から自分に向けられた愛情を、娘に奪われることが怖い。そして、そうやって失ってしまったものを、何かしらの形で取り戻そうとするが、すべて上手くいかない。
    娘と同じ保育園に子どもが通う河内と寝て冷たくあしらわれ、学生の杉山を誘うが断れる。隣で菓子屋を営む老夫婦を一方的に、自分たちことを悪くは考えていないだろうと信頼していたが、母としての自分を責められる。心を許しはじめていた上司の小林は病気で職場からいなくなってしまう。娘の誕生日に呼ぼうとした人たちは、みんな来てくれない。そして、その愛情に対する欲望は、娘に向けられることになるが、その娘も、母であるというだけでは、自分を愛してはくれないのである。
    そういった自分を理解してもらえていないという感覚は、しばしば現れる周囲の人たちや、何よりも娘に対する、自分でも止められないヒステリックな暴言となる。しかし、無償の愛とでも言えるであろう彼女が求めるものは、その暴言が向けられた、ただの赤の他人である人々にしてみれば、重すぎる要求である。結果的に、彼女の願いが成就することは、この先もありえないように思う。
    そして、それによって自分が母たり得ていないこと、娘の様子が少しずつ悪い方に変わっていることに、彼女は勘づいているが、そこに向き合うことはせず、解決を図ろうとするわけでもない。
    この物語で、光は、そういったうまくいっていない自分を覆い隠すためのものとしてあるように思われる。娘といっしょにはじめてビルの四階の部屋に入ったときのこと。塗り替えられた屋上を娘と見たときの感動。娘と線香花火をした思い出。光にまつわる様々なエピソードが、娘との楽しい思い出と結びついている。光は、娘と母の関係が、うまくいった瞬間を照らし出している。

    読んでいて、難しいなと思った。藤野を筆頭にそうであったように、周囲の人々は、語り手の母が、親としての責任を果たしきれていないことを指摘する。それは、知り合いの看護婦(p198)のように、娘を預かってくれるという具体的な形で助けの手を差し伸べてくれる形のこともある。
    彼女は、離婚が成立したことで、物語の最後に新しいアパートに引っ越すことに決める。それによって、新しい生活が始まることが期待される一方で、そのアパートの隣人たちは、すでに何か人間関係に悩まざるを得なさそうな雰囲気を醸し出している。にも関わらず、彼女は、そこに引越しを決めてしまうのである。
    救いを求めているのにも関わらず、救われることを望んでいないという矛盾した心境。周囲の目から見たとき、その救い難さに対して何ができるのかを考えさせられた。

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    2025年06月23日
  • 山を走る女

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    シングル・マザーとなって、家族との葛藤や仕事をするうえでの苦悩をかかえながら生きる小高多喜子という女性の物語です。

    役所に勤める前田宏という男と数回関係を結び、彼の子どもを身ごもることになった多喜子は、中絶という道を積極的にえらぶことのないまま、子どもとともに生きていく道をあゆんでいきます。ただし彼女は、自分の人生の選択として積極的にシングル・マザーとして生きることを決断したのではありません。自分と子どもとの具体的なつながりをしっかりとつかんでおくことで、彼女の進んでいく道はおのずと定まっていったのです。しかし、家族をはじめとする周囲の人びとは、そうした彼女と子どもの具体的なつながりについて考えおよぶことはなく、あくまで「シングル・マザー」というレッテルだけで彼女にかかわろうとし、そのことに彼女は苦悩させられます。

    やがて多喜子は「三沢ガーデン」で働く道を発見し、ダウン症の子どもをもつ神林という年上の男に魅力を感じるようになります。彼女たちは、「山」と呼ばれている郊外の農園で宿泊することになり、多喜子は夜に神林のもとへ向かいます。

    本作は、性と出産をテーマにしているという点で、想像妊娠を主題的にとりあげた『寵児』と表裏をなす作品だと解釈することができます。男の視点を前提として性と出産を切り離したうえで、両者の接続を文学における普遍的な主題であるかのようにあつかった小説を、斎藤美奈子は「妊娠小説」と呼びましたが、『寵児』では両者のつながりが女性の主人公の視点からたどられました。ただしその試みは、刊行当時にあっては「女流作家」ならではの視点から性と出産というテーマをあつかった作品という、本質主義的に解釈されることもあったかもしれません。本作は、性から出産へと進んだ『寵児』の道を逆にたどっており、本質主義的な解釈が成り立たないことをはっきりと示しているように感じられます。

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    2024年12月07日
  • 我が父たち

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    表題作のほか、短編二作品を収録しています。

    「壜のなかの子ども」は、駄菓子屋の店主を務める父親と、おとなになっても身長が1メートル10センチにしかならないと医者に告げられている小学生の息子の物語。父親は、大学病院で小学生の少女と出会い、のどにこぶのある生体実験のためのヤギを連れて町をあるき、息子は自分を取り巻く人びとのまなざしについて醒めた眼で考えています。生まれつき障がいをもつ動物に向けられる父親の視線は彼の息子に対する態度とかさねられ、ヤギに芸を仕込もうと考える少女に反発を感じながらも彼女に引きずられるようについてあるくことしかできないところに、彼が自分のそうした態度に無自覚であることが示されているように思えます。

    「火屋」は、夫のことを犬だと思っている妻と、二人の娘の物語。妻の夫に対する冷ややかなまなざしと、そうした妻に対する夫のまなざしを、両者の語る寓話によって象徴することで、心の安らぐことのない家庭のリアルな状況へ向かって読者が想像力を働かせることをねらった作品でしょうか。

    「我が父たち」は、父親の違う三姉妹とその母親の物語を、姉妹のそれぞれの視点からえがいた作品です。姉妹たちの祖母から見て四姉妹のように見える女たちだけで暮らしている家に、母親が親しくなった新興宗教の教祖らしい男が入り込んできたことで、彼女たちの生活に一瞬波乱がもたらされます。しかし、どこまでも部外者である男は家庭の父にはとうていなりえず、ひとり空まわりをして早々に家から退出させられます。こうして、性格の齟齬によるすれちがいを包みながら、父親のいない女たちだけの生活がつづいていきます。

    いずれの作品も、文学的な手法における実験的な試みをふくんでおり、どれほど成功しているかという点で評価が分かれるかもしれませんが、個人的には興味深く読みました。

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    2024年12月07日
  • 寵児

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    36歳の高子は、離婚した畑中とのあいだに生まれた夏野子という娘とともに暮らしています。彼女はときどき土居という男と関係を結んでいますが、土居は高子や夏野子の気持ちを慮るような男ではなく、妻にも子どもを産ませてもいっこうに平気な顔でいます。

    その後高子は、畑中の友人の長田という男とも関係をもつようになります。やがて彼女は、長田の子どもを身ごもったと信じ込み、しだいに彼女の身体にも変化が生じます。夏野子は、母親としては奔放にすぎる高子との生活に疲れ、高子の姉のもとに身を寄せ、姉も高子の振る舞いに眉をひそめて苦言を呈します。

    ところが、病院をおとずれた高子は、お腹に子どもがいないという驚くべき事実を告げられます。妊娠した子どもを産みたいという高子の宣告を受け、その後じつは想像妊娠だったと教えられた長田は、彼自身が誠実だと信じるしかたで高子の思いを受け止めようとしますが、それは高子自身の思いとはまったくかけ離れたものであり、彼女を傷つけるだけに終わります。

    身勝手な男で、夏野子に対しても辛くあたる土居と、自分では誠実なつもりでありながら、じっさいは高子の気持ちに対して鈍感で彼女を深く傷つける長田が、対比的なしかたで登場します。一方で、彼らが性と出産をめぐる高子の思いをいっこうに理解できず、想像上のお腹の子どもとともに生きようと考える高子の孤独な心のうちがえがかれています。

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    2024年12月03日