倉橋由美子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ面白かった。変な小説なので、変な小説がすきな人にはおすすめです。
まず頭でっかちの少年みたいな文体が印象的。たとえば主人公Qが自慰をする場面はこんな感じ。
>> ただ、密室内の一動物としてのQの行動をまったく外面的に観察すれば、それは単調にくりかえされるこっけいな動作からなっていて、生理学的には、興奮とそれにともなう脈拍増加、血圧上昇、発汗、局部の膨張と充血、脳波の奇妙な変化、などが観察されたはずである。(p.99)
これが小説内の出来事に薄皮を一枚かぶせたような効果を与え、読んでいるとぼくは大事なところに直接は触れられていないかのような不安を抱く。そんななかときおりあらわれる「部屋には新鮮な酸味を持った果汁のような光があふれていた (p.52)」のようなフレッシュな比喩。ぼくはこれがすきだ。
こんな文体で物語はどっかの島に主人公Qがたどり着くところからはじまり、島の住民の不思議な生態が語られる。キャラクターの心理よりも妖怪めいた外見的特徴や行動が記憶に残る。
会話も不自然でテーマを直接語りあっているかのよう。この小説のテーマと思われるものは(作者本人は否定しているが)主人公Qの持つスミヤキズムというマルクス主義のパロディーじみた思想に基づいた階級闘争である。
しかし、テーマを直接語りあっているかのよう会話のなかで、打倒すべき権力側にいる人達の言葉のほうが真実を捉えているかのように読めてしまう。Qの敗北がひしひしと予感されてぼくはさらに不安になる。
不安になる真実というのは、人類の歴史を階級闘争の歴史と捉えるQの思想の単なる敗北ではない。
そもそも歴史に意味なんてないんじゃないか。ただ生きているだけで、生きていることに意味なんかなくて、人を殺して煮て食おうが焼いて食おうが、本当はすべて許されるんじゃないかという不安である。
川村湊氏は解説の中で、ドン・キホーテは騎士道物語のパロディーだったが現代ではパロディーだけが生き残っているというようなことを述べている。
ぼくはドン・キホーテを読んだことないけど、今となっては勇敢で美しい騎士よりもドン・キホーテのほうが感情移入しやすいキャラクターなんじゃないだろうか。
60〜70年代の若者はこれを読んで「マルクス主義を愚弄している!」と憤慨したかもしれない。
その後の内ゲバやカウンター・カルチャーの敗北を知っている世代の若者はテロリズムの敗北を笑ったかもしれない。
いまの若者はおそらくそうした文脈から離れてこの小説を楽しめるだろう。
ぼくはQの革命の惨憺たる成功を見て、意味のない世界に意味を塗りつけようとするQの希望を、皮肉ぬきでこれがまさしく希望そのものだと思った。 -
Posted by ブクログ
よかった。なんだかなめるように読んでしまった。(ちょっと下品かしら)
それほど私の趣味にあっていたのである。というよりこの私の年齢にしてわかる本なのかもしれない。
しかし、文学が好きな方には是非お薦めしたいと思う一冊に間違いない。私が太鼓判を押す。
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倉橋由美子といえば昔1975年、横浜に住んでいた頃に取っていた朝日新聞の連載記事のひとつが忘れられない。
「神奈川50年 文学の風景」として神奈川を舞台にした文学作品、住み付いた作家が与えてくれたもの、感じたものの意味を探る、というコラムだった。沢山の作品、作家の中で倉橋由美子の記事に私は瞠目した。
伊勢原市大山のふもとに移り住んだ倉橋さんは、筆を絶っていたのだ。
1960年「パルタイ」でデビュー、61年「女流文学賞」62年「第四回田村俊子賞」などの文学賞を取り、絶頂だったろう、なのに「夢の浮橋」を書いた後「私にとっては育児も小説をかくことも片手間には出来ない」と休筆。
「パルタイ」の読者が「議論をしたい」と訪ねてきて、子育てに夢中な倉橋さんに「堕落だ」と言ったそうな。
違う違う、今にして思えばそれも倉橋由美子流の信念なのだ。
そのコラムが印象的だったのは、文学作品が読めなかった私の育児期間とだぶっていたく共鳴したからだ。(私は単に読者たり得なかっただけだから、次元が違うが)
「交歓」はその後の作品である。もう少し前に読みたかった。亡くなってしまったではないか!
桂子さんというのは「夢の浮橋」「城の中の城」「シュンボシオン」「ポポイ」というシリーズの主人公である。 -
Posted by ブクログ
革命をめざす前衛党に所属するQは、H感化院の練士に就職し、そこで「スミヤキ党」の教義にもとづく活動をおこなうことをもくろみます。ところが、彼には仕事らしい仕事はあたえられず、ほかの練士にならって院児たちの「巡回」をおこなうものの、その方法も目的もまったくあいまいでした。Qは、彼の奉じる唯物論の立場において、活動の足場となるべき「労働」の実態すらも明確につかむことのできません。そればかりか、感化院では院長の体剃りをはじめ、常識はずれの奇妙な慣習と規律が行きわたっており、Qはそれらの事態に対して教義にもとづく解釈をくだし、活動の方針を定めようと、むなしい努力をつづけます。
やがて感化院では、院児たちの反乱が起こり、Qも騒動に巻き込まれることになります。彼は、抑圧された院児の解放に同調し、彼らの抵抗運動を革命へ向けて組織することを試みますが、彼のことばは院児たちにとどくことはなく、なすすべのないまま感化院を去っていきます。
唯物論に立脚する左翼理論が観念的なことばの肥大化をもたらすことを素材にして、パロディとアイロニーを駆使する作家である著者がその資質をぞんぶんに発揮して見せた作品といえるように思います。Qが実践するスミヤキ党の理論闘争は、カフカ的な官僚機構をその巨大な肉体によって象徴される院長の観念体系のうちに埋没し、そればかりか同僚の練士である神学者や文学者、あるいは確率論的世界観と決定論的世界観の対立を回転円盤ゲームと競犬の考案者たちの観念世界のなかに紛れ込んで引っ張りまわされます。他方で、現実の世界における院児たちの反乱が、彼らの観念遊戯とはまったく無関係に起こることで、Qの滑稽さが浮き彫りにされています。