川本三郎のレビュー一覧
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[ 内容 ]
敗戦から昭和三十年代にかけて、急速な経済成長の中で失われた様ざまな習慣、やさしく奥深い言葉の数々、変わりゆく家族のかたち、東京の町並…それらをいとおしみ、表現し、そして体現し続けた向田邦子。
様変わりした現代において、今なお高い人気を誇る作品群をひもとき、早世の天才作家が大切に守り続けたものとは何かをつづる。
[ 目次 ]
序章 昭和の女学生
第1章 父母のいませし頃の懐かしい言葉
第2章 家族の記憶と食
第3章 「向田家の父」と「昭和の父」
第4章 お嬢さん、実社会へ
第5章 家族のなかの秘密と嘘
最終章 向田邦子と東京の町
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
向田邦子が日航機の墜落事故でなくなったのが昭和56年(1981年)の夏のことなので、今年で27年目をむかえることになる。あれっ、そんな前のことだったっけ?と感じるのは、自分が歳をとった証拠なのだろう。この本の書き出しは、何年か前にはやった「Always 三丁目の夕日」という昭和30年代の東京を扱った映画の紹介であり、締めくくりは「昭和三十三年頃から変わり始めて、バブルですべてなくなってしまった何か大事なものを、向田さんはとても丹念に見続けていましたね」という久世光彦の本からの引用である。その時代の日本に生きた家族を主たる題材として、向田邦子は脚本を書き続けてきたわけで、そういうわけで「向田邦子と昭和の東京」という題名になっている。本の帯に、「現代は何を失ったのか」とある。筆者の川本三郎は、昭和の時代の東京が良くて、現在の東京は困ったものだ、みたいな価値判断を特にしていない。向田邦子自体も同じである。従って、これから書くことは、本書とは、ほとんど何も関係がない。「現代は何を失ったのか」という言葉は既に価値判断を含んでいると思う。失われたものは、大事なものであり、それが失われる前の昔は良い時代であり、それが失われた後の現在は不幸な時代だ、みたいなことだろうか。こういう言説は、新聞等でもよく見かける。東京、あるいは、日本の昭和時代(少なくとも僕が生きていた昭和時代)が悪い時代だったとは全く思わないし、その時代と現在ではやはり何かが違うことは確かなのだけれども、でも、昔は良くて今は駄目、みたいなお題目には反発を感じてしまう。そのお題目は、その間の人間の努力を(その努力が良い結果を生んだかどうかは全く別として)、否定して涼しい顔をしているような、高みから人間の努力を根拠もなく批判しているような、そのような感じを僕自身が受けるからだろうと思う。途中でも書いたけれども、でも、僕自身のこの感想は、本書とは全く関係のないことである。向田邦子は魅力的な作家だと思うし、川本三郎はさすがだし、この本はかなり面白い。
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Posted by ブクログ
永井荷風の日記『断腸亭日乗』をベースにたどる昭和史。後篇では日米開戦から昭和34年に死去するまでが書かれている。
麻布の偏奇館が空襲で焼け、中野に移るがここも空襲で焼け出され、兵庫県明石、さらに岡山に疎開。岡山で終戦を迎え、熱海、市川と移り住む。
ここらへんは空襲に次ぐ空襲なので読んでいても辛い。ただここまで当時の生活を小説ではなくノンフィクションとして書かれたものは読んだことがなく、焼け出された人たちがどうしていたか、疎開といっても簡単に家が見つからない、列車の切符が手に入らず移動手段にも困る、お金をもっていても食糧がないなど、なかなか興味深かった。
荷風が中心ではあるものの、『日乗』に出てくる事件や人の名前など、ほかの資料から詳しく調べているので、芋づる式に昭和の文芸史であったり、文化史になっているのがおもしろい。
たとえば、まったく知らなかった住友令嬢誘拐事件とか。『四畳半襖の下張』裁判で有吉佐和子が弁護側に立ち、作品を読んで「男の人ってこんなに努力なさるものかと思って可哀想」と発言しているのもさすがという感じ。
戦時下に音楽会を開催したり、荷風と一緒に逃げていたピアニスト宅孝二が、『白鍵と黒鍵の間』の南博の恩師であるという繋がりにびっくりしたり。(映画で佐野史郎が演じた宅見先生のモデルでしょうか)
かつての愛人だった関根歌が77歳になった荷風を市川に訪ねているのも微笑ましい。
1992年公開の『濹東綺譚』の主演が津川雅彦だったこともあり、予告編の印象で、永井荷風というのはエロいおじさんの小説というイメージがずっと強かったんですが、実際のところ原作の『濹東綺譚』には色っぽい描写はまったくないんですよね。娼宅にお茶飲みに来ているような感じ。
『つゆのあとさき』にしてもヒロインの女給よりも、銀座のカフェや女給の自宅である市ヶ谷、宿のある神楽坂、愛人の父親が住む世田谷代田あたりの風景がていねいに描かれていて、風景を描くことで時代の雰囲気や失われていくものをとらえようとしている気がしました。
『荷風の昭和』を読むと、小説を書く前にまず舞台となる場所を何度も何度も歩いているので、荷風が描きたかったのはやはり風景なのではないかと思います。
以下、引用。
73
日記を書くに当っては荷風はまず手帳に鉛筆でメモを書き、次に万年筆でノートにメモから起した文章を書く。それに推敲を重ねて、最後に筆で和紙に記す。
76
その堀口訳のサン・テクジュペリの本がなぜ再販されることになったのか。ある日、野田は、出版用紙の割当機関である日本出版会を通して「富永陸軍次官」という人物から、命を賭して戦っている青年パイロットのために何かよい航空文学を出版してもらえないかという依頼を受けた。
野田によれば富永陸軍次官の子息は、のちに特攻隊員になるが、その子息から自分達が読むに足る航空文学が欲しいといわれたのだという。
「特攻隊がいよいよ出陣したのは「戦ふ操縦士」もめでたく出版されてからまもなくの、十月二十五日のことであった」
93
「東京の都市生活の中心であったこの一帯を、敵機は特に狙って空爆したものと思われ、被害は相当なものである。銀座四丁目、尾張町の角の交叉点に大型爆弾が落ちて直径六七米の大穴をあけ、品川上野間の都電と地下鉄とを破壊してしまった」。
さらに「(注、尾張町交差点の)向角の服部時計店の大建築の後方から、松屋の向の教文館の間の一帯も烏有に帰している」
「有楽町の駅ではガード下のトンネルに駅長の指導で多数の乗客が避難したが、そこを襲った爆風のため、多数の死傷者を出したと言い、また朝日新聞の向側の泰明小学校では、三人の女教員が死んだと言う」。
102
「長垂坂」は、偏奇館の西、現在の六本木三丁目(当時の市兵衛町二丁目)にある坂。現在もある。最近まであった映画会社20世紀フォックスの試写室のすぐ近くで、フォックスに試写を見に行く時はよくここを歩いた。かなりの急坂。
109
横須賀線の鎌倉駅の西口駅前には、現在、ラングドン・ウォーナー博士というアメリカの学者に対する感謝の碑が建てられている。彼が古都を空襲しないように軍に強く訴え、その結果、鎌倉は空襲を免れたからだという。
128
ちなみに菊田一夫の戦後の国民的ドラマ「君の名は」で、ヒロインの氏家真知子が炎を逃れ逃れて数寄屋橋で後宮春樹に会うのは、この(五月)二十四日の空襲のあった日。二人は半年後の十一月二十四日の夜、また数寄屋橋で会うことを約束する。
168
この人(宅孝二)は、堺の何代も続く造り酒屋の子。戦後、東京藝術大学で教えていたが、五十歳の時に突然、クラシックからジャズ・ピアニストに転向したという変り種である。その教え子のジャズ・ピアニスト、南博は青春回想記『白鍵と黒鍵の間に』で師について書いている。
211
前田愛の『幻景の明治』によれば、「僕」は、明治の書生言葉という。幕末の志士たちが「君」と共に愛用したのが始まり。明治になって書生のあいだで広まった。
246
戦後現れた「塵ッぽい焼跡の巷に立って拡声器で議員候補者の氏名を連呼する女でもなければ、雨の日に傘もささず映画館の戸口に列をつくって立つ女でもありません」。
「秋の女」
334
青年が「今夜駅でランデブーするつもりだったんです」というところにも男女交際が自由になった戦後の明るさが反映されている。
「ランデブー」という言葉が懐しい。
戦後、昭和二十年代までの流行語だったようだ。
349
『四畳半襖の下張』裁判
この時、特別弁護人の丸谷才一をはじめ、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、中村光夫、金井美恵子、石川淳、田村隆一、有吉佐和子が弁護側の証人として法廷に立った。
352
裁判の過程で弁護側の証人として法廷に立った有吉佐和子は、この作品を読んで「男の人って可哀想だという気持です」「こんなに努力なさるものかと思って」と卓見を述べている。
511
「猟奇」という言葉は、大正時代に佐藤春夫が探偵小説の魅力として「キューリオスティ・ハンティング」を「猟奇耽異」と訳してから使われだした言葉で、昭和になると、異常な性の快楽といった意味で使われるようになった。
549
主人公のにんじんを演じたロベール・リナンは戦時中、レジスタンスに参加、ドイツ軍の捕虜となり射殺された。また父親ルピック氏を演じたアリ・ボールもレジスタンスに関わり、逮捕されたときの拷問がもとで死去している。