川本三郎のレビュー一覧

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    ベトナム戦争反対運動・学生(全共闘)運動・安保条約反対運動・連合赤軍事件・・・・・デモ/バリケード/シュプレヒコール/ローリング・ストーンズ/CCRなどなど。

    ここに描かれる1969年から1972年にかけた日本社会の出来事は、あまり一般的なことではなく、一部の人たちしかかかわっていない特殊なことだという意見がもしあるとしたら愚かなことです。

    たとえ実際に行動を起こした人が数万人だったとしても、確実に時代の突きつけてきた問題に真正面から誠実に応えようと、中には命を賭して命を落とした人もいるわけですが、もし地域制・まわりの制約などさまざまな理由で実際の行動ができなかったとしても、心情的には同意して後ろの方から応援していたということこそが、同時代に生きていた人として、あるいは後年見知った遅れてきた者としてのそれぞれの真摯に生きる人間としての証であると思います。

    あるいは、もし何か怠っていたことがあるとしたら、その部分が今になってツケとして大きく自分の身の回りに重くのしかかって来ているような気になるのは私だけでしょうか。

    本書は元々1988年に河出書房新社から上梓されたものが今回の映画化を期に復刊されたというわけですが、当時、彼は映画と文学の評論を書いてちょうど25冊ほどになった時点で、不惑も過ぎたことでもあるし、ここらでひとつ、そもそも自分が物書きになった契機というか出発点になった、例のあのことを書き残しておかねばなるまい、などという感慨を込めて着手したに違いありません。

    彼の書いたものは、映画論・文学論・作家論・旅行記などから、トルーマン・カポーティの『叶えられた祈り』や『夜の樹』などの翻訳まですべて読んでいますが、いつも自分を語るということがあまりありません。

    そういう意味で、この本の中の出来事は、本人にとってのみならず私たち読者にとっても無視できない、文学と映画の新しい視点を持つ表現者として彼が登場するための、通過儀礼のような神聖な儀式だった気もします。

    もし川本三郎が、ここに描かれているいわゆる朝霞自衛官殺害事件(1971年の秋、東京から埼玉にまたがる陸上自衛隊内で、自衛官が新左翼過激派=赤衛隊を名乗るグループによって殺害されるという事件が起こり、彼は指名手配中の犯人と接触して取材を行い記事にしたが、その際あずかった証拠品を焼却してしまって、犯人逮捕後に彼も犯人蔵匿と証拠隠滅の罪で逮捕され朝日を懲戒免職される)に関与していなかったら、朝日新聞社を首になってもいなければ、ましてやそののち映画評論や文芸評論に手を染めることもなく、ただ優秀な新聞記者としてまっとうしていくだけだったはずですが、人の人生とはどこにまったく異質な世界への扉が突然現れるかわからないもので、彼はその禁断の扉を開けてしまったのです。

    当時の70年代は、新左翼過激派にとって武力革命が最優先の課題として浮上した時期であり、そのための武器の調達は必須のことで、この事件もそもそもの目的はそのことだったはずです。

    でも、悲しいかな真の武闘派を目ざして切磋琢磨したわけでもないので、たとえ最終的には武器を使用するとしても、普段はむやみと人を殺さず、一撃のもとに気絶させて戦力喪失させるという、穏健な(?)方法を会得もしない素人ゆえに、殺害してしまったのです。

    そののち、武器なら選り取り見取りの銃火器が沖縄の米軍基地に五万とあるぞと喝破したのは、平岡正明だったか誰だったか忘れてしまいましたが、何にしても無計画な半ば衝動的な中途半端なアマチュアリズムに満ち満ちていて、この3年後の三菱重工爆破事件などむやみやたらと人を殺害するだけのテロが横行していき、せっかくの革命が理想と希望への途ではなくなり、ただの野蛮な行為と化していくことになるのです。

    全体を通して、読後もし何かロマンティックなものを感じるとしたら、あなたはきっと本質的には現実主義者でもリアリストでもなく、過去もしくは青春時代に悔恨の情を抱いているまったく誠実な人だというあかしなのだと思います。

    というのも、どんなに一見ノスタルジックにみえようとも、彼はこれをそういうふうには書いていなくて、ただ過去の自分と死者への鎮魂として書いたのだと断言できます。

    それから、高校生の時に初めて、卓越した都市論・文学論の『都市の感受性』と、楽しい映画エッセイ『ダスティン・ホフマンは「タンタン」を読んでいた』を手にしたときから密かに思っていたことですが、川本三郎の容貌って村上春樹にそっくり、似ていると思いませんか?

    もうひとつ。朝日新聞論説委員の外岡秀俊との対比。9歳違いで1976年に同じ東大法学部在学中に書いた小説『北帰行』で文藝賞を得たあと筆を断ち、朝日の記者になり紐育・倫敦の特派員を経て欧州総局長だった人と絡めて、報道と文学をめぐる断章(仮題)みたいなものを夢想しているのは私だけだと思いますが。

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    2011年08月14日
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    最初はつらつらと60年代当時の著者の記者としての日常が綴られていくだけだったのだが、いつのまにか「ジャーナリズムとは」と考えさせられる展開になっていく。自分が3年間学んできたもの、それは実際自分がその場にいたらどうするか?という類のものではなかった。単なる学術である。いざこの本を読んでみて、自分が著者の立場だったらどうしたか?答えがでない。

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    2011年06月04日
  • 荷風の昭和 前篇―関東大震災から日米開戦まで―(新潮選書)

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    カフェの日本史から女給が気になり、女給を主人公にした永井荷風の『つゆのあとさき』を読んでみたところ、そこに書かれた昭和初期の銀座をはじめ、市ヶ谷、神楽坂など東京の描写が良かったので、ガイド本的にこちらを読んでみました。
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    荷風の日記『断腸亭日乗』と彼の作品をベースにたどる昭和史。
    今年の小林秀雄賞を受賞。
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    前篇だけで500ページを超えてるので読み終えるのに時間がかかりましたが、めちゃくちゃおもしろいです。
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    たとえば、私も気になった『つゆのあとさき』で主人公・君江が数寄屋橋の朝日新聞社にあがるアドバルーンを見上げる場面。
    アドバルーンが広告に使われるようになったのが大正時代で、朝日新聞社の建物が建てられたのが震災後の昭和二年。震災後に復興したモダン都市東京の風景だったことがよくわかります。
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    君江が住んでいる市ヶ谷本村町、銀座のカフェ、ここらへんも現在の地名や変遷が解説されていて、『つゆのあとさき』に書かれていた「市ヶ谷停車場」は外濠線という市電の駅だったことを知ったり。
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    荷風は実家が裕福だったこともあり、慶應の教授をちょっとしていた以外は定職を持たず、生活のために作家をしているわけでもないんですね。
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    9時頃に起きて、床のなかでショコラを飲み、クロワッサンを食べ、昨夜の読み残しの詩集を読む。隅田川あたりを散策し、銀座や神楽坂でビフテキを食べる。なんという高等遊民生活。
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    『日乗』に書かれた荒川放水路の散策が詳しく載っており、Googleマップで荷風の足取りを確認しながら読むと、当時の風景が再現されて、これもすごくおもしろい。隅田川あたりは一度歩いてみたいです。
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    荷風の中学の同級生だった外交官・佐分利氏が富士屋ホテルでピストル自殺した事件など、富士屋ホテルの洋館に泊まったことがあるんですけど、どの部屋だったんだろう。
    左利きなのに右手にピストルを持ってるとか、遺書がなかったことから松本清張がこの自殺説に疑問をもってるのもおもしろい。
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    荷風は女性とまともに恋愛をする気がなく、芸者、私娼、女給と、その時々でビジネスライクに付き合ってきたのかと思っていたんですが、川本さんの解説によると、むしろ女性らしさ、そのものを愛し続けた人であったようにも思えます。
    といっても、『日乗』の有名らしい「つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし」という女性リストには笑ってしまうんですが。16名の名前が書かれていて「此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず」。
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    昭和100年といいますが、100年で東京の風景はまったく変わったようでもあり、じつはあまり変わっていないようでもあり。
    私も荷風のように東京を歩いて、消えていった昭和の面影を探してみたいです。
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    以下、引用。

    3
    ニ〇一四年にノーベル文学賞を受賞したフランスの作家パトリック・モディアノは受賞講演で「偉大な作家たちの何人かはひとつの都市と結びついています」としてバルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルグ、そして荷風と東京を挙げた。

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    関東大震災によって、自分を育んでくれた「江戸文化の名残」も「明治の文化」も消滅してしまった、その深い悲しみを謳っている。荷風の昭和は、震災による喪失感から始まっている。

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    巨大なビル(泉ガーデンタワー)の片隅に「偏奇館跡」(ニ〇〇ニ年、港区教育委員会)の小さな碑が建てられているのが、かろうじての救い。

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    荷風は数寄屋橋から鍛冶橋へ出る。数寄屋橋も鍛冶橋も、戦後、埋立てられてしまう外濠に架かっていた。現在、橋はとうにないが、交差点にその名が残っている。

    37
    神楽坂は明治になって繁華を見せるようになったが、とくに震災で大きな被害を受けなかったために震災後、隆盛した。

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    その伸びゆく銀座を牽引していったのがデパート。
    松坂屋がまず大正十三年に銀座に進出したのを皮切りに、大正十四年に松屋、昭和五年に三越、と大手デパートが次々に銀座に開店、近代的なデパートの出現は東京の人間の生活意識を大きく変えてゆくことになる。

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    荷風文学の特色のひとつは、たおやかさ、女性らしさにある。女性文化への憧憬にある。荷風が芸者やカフェの女給、私娼を好んで描いたのは、好色だからというよりも、彼女たちが持つたおやかさ、優しさ、肉体の美しさ、かぐわしさを愛したからに他ならない。その女性らしさは、猛々しく、武張った男性文化の対極にあるものだった。

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    随筆「葛飾土産」(昭和二十ニ年)では、コスモスが東京の人間に称美されるようになったのは大正の改元のころ、ダリヤはそれより前と書いている。

    明治二十五年(一八九ニ)創業の東京六本木にあるゴトウフローリストで、バラやカーネーションなどの洋花を取り扱うようになったのは大正八年頃のこと。

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    大正八年一月一日、「九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残の疑雨集を読む」。『疑雨集』は明末の詩人、王次回の詩集。それを床のなかで「シヨコラ」を飲み、「クロワサン」を食べながら読む。フランス時代に知った彼らの朝の習慣に倣っている。ハイカラである。

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    神楽坂の田原屋は、震災で焼けなかった神楽坂のなかでも有名な高級洋食店。
    荷風は一人で「白ブドウ酒」を傾けながら「分厚いビフテキ」を食べていた。食べ終ると、テーブルに五十銭銀貨をボーイのチップとして残し、立去った。ダンディだ。

    122
    『日乗』昭和十一年一月三十日。
    つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。
    此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず

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    本田和子『女学生の系譜 彩色される明治』(青土社、一九九〇年)によれば、この女性言葉は「よくってよ」「だわ」から取って「テヨダワことば」と呼ばれ、明治の女学生が流行らせて、やがてそれが広く使われるようになったという。

    131
    女優について注を付けると、日本では、江戸時代に女性が舞台に立つことが禁じられていたので、女優は存在しなかった。
    明治になって、ようやく女が舞台に立てるようになった。

    144
    昭和二年に、荷風が銀座のカフェ、タイガーの女給お久(古田ひさ)と関係し、ために多額の金を要求されたトラブルを思い出させる。

    146
    広津和郎『女給』
    銀座のカフェの女給を主人公にした小説

    185
    野口孝一『銀座カフェー興亡史』

    文学作品のなかに登場した、カフェで働く女性の早い例に、谷崎潤一郎『痴人の愛』(大正十三年ー十四年)ナオミこと、河合奈緒美がいる。

    189
    昭和四年に中央公論社から出版された今和次郎編『新版大東京案内』によれば、当時、東京にはカフェは六千百八十七軒、女給は一万三千八百四十九人いたという。東京市の人口が二百三十万人ほどの時代である。

    192
    単身者は、荷風がそうだったように家庭の外で食事をする機会が増える。現代の日本で外食産業が隆盛なのは、全世帯の三分の一が単身者になっていることと無縁ではない。

    単身者は家の外で遊ぶ機会が多いから、劇場や映画館など遊興の場が増える。都市とは、家庭の機能が次々に外化されてゆく場である。都市と家庭は反比例する。日本の都市に喫茶店が多いのも、喫茶店が家における居間や書斎、あるいは応接間の役割を果しているからだろう。

    都市は単身者が作る。

    198
    気球は明治時代に軍隊によって偵察用に使われるようになった。それが次第に広告、宣伝に転用されるようになった。
    当初は「広告気球」と言っていたが、昭和になって「アドバルーン」と呼ばれるようになった。advertisement (広告)のadとballoon (気球)を付けた和製英語である。

    199
    朝日新聞社の建物は、震災後の昭和二年に建てられた。窓から見える泰明小学校は昭和四年に建てられた、いわゆる震災復興小学校。数寄屋橋も同年に新しく架け替えられた。

    201
    荷風は随筆『日和下駄』のなかで、「私は四谷見附を出てから迂曲した外濠の堤の、丁度その曲角になっている本村町の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中でのもっとも美しい景色のなかなか数えている」と、本村町の坂上から神楽坂、小石川方面を眺める風景を絶讃している。

    202
    野口富士男は回想記『私のなかの東京』で、戦前、飯田橋から外濠に沿って市ヶ谷、四谷を走り、四谷から芝のほうへ出る外濠線という市電があったことを記している。
    「つゆのあとさき」でも荷風は、この市電に触れている。「本村町の電車停車場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える」。

    207
    カフェの女給が女優になる。他方では、映画女優がカフェを開く。
    野口孝一『銀座カフェー興亡史』

    219
    これは渋谷でのことだが、大正十四年、東京生まれの評論家、森本哲郎は回想記『ぼくの東京夢華録』(新潮社、一九九五年)のなかで、小学生の頃、母親に連れられて、東横百貨店に行った時の楽しい思い出を書いている。まず屋上に行く。「その屋上から、色とりどりのアドバルーンが空に揺れているのを見たときの気分は、まさしく夢見心地だった」。屋上にはブランコやジャングルジムがあり、ちょっとした遊園地になっている。

    222
    あんみつは昭和のはじめに生まれたのだから。銀座の甘味処「若松」(創業明治二十七年、ニ〇ニ三年十二月三十日をもって閉店)の二代目主人、森半次郎が考え出した。

    257
    「朝日新聞」によれば、佐分利氏は中国から帰国中で、箱根の富士山ホテルに前夜投宿、翌朝(二十九日朝)、ベッドの上にてピストルで頭部を撃ち、こと切れていたのをホテルの従業員が発見した。

    334
    「マネキン」は現在でいうファッション・モデル。フランス語のモデルを意味する「マヌカン」に由来するが、「マヌカン」では、「客を招かない」になってしまうので、「招き猫」にかけて「マネキン」と造語された。

    341
    一九二六年に発表されたアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』には、イギリスの小さな村で、医者の仲間が集まって麻雀を楽しむ場面がある。

    429
    「彼氏」は昭和初期に徳川夢声が「彼女」に対して使ったのが最初という。

    481
    地下鉄の浅草駅には、とんがり帽子のような塔が名物となった地下鉄ビルが昭和四年に完成。
    設計は南海鉄道のビルなどを作り「ターミナル建築の権威」といわれた久野節。鉄道の駅とデパートが一体化するターミナルビルは大阪の阪急ビルが最初だが、東武はこれを参考にした。発着駅を二階にしたのが特色で、ビルを出た電車は大きくカーヴをしながらそのままの高さで隅田川を渡る。この鉄橋は川の景観を眺められるようにトラスを車両の窓より低くしてある。

    508
    当日のプログラムで永井路子さんは明かしている。この歴史小説家は、実は、美貌のオペラ歌手、永井智子の実の娘だったのである(父親は、永井智子の最初の夫、来島清徳)。

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    2025年11月06日
  • 成瀬巳喜男 映画の面影

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    偶然とある映画館で成瀬巳喜男監督特集を開催していたので試しに観てみたらハマってしまい、時間の許す限り何本も観たのがきっかけ。なんの予備知識もなかったのだけれど、撮影内容や演出に類似性があることに気づき、もっと知りたくなって取り急ぎ手にしたのがこの本。難しい評論よりも、こちらから読むほうが頭に入りやすいかも。

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    2025年07月28日
  • 「男はつらいよ」を旅する(新潮選書)

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    ネタバレ

    場所を横串にした視点が良い。
    柴又は下町ではなく本来は田舎だという認識が改めて明記されているのも良かった。

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    2024年07月30日
  • ひとり遊びぞ 我はまされる

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    雑誌「東京人」連載のエッセイ「東京つれづれ日誌」。2018年から2021年まで。コロナ禍で外出もままならぬ日々を思い出す。

    本書でも何度も言及されているが、池内紀氏が亡くなったいま、これだけのクオリティの高い紀行文を書ける作家は唯一だろう。

    関東近郊や都内など、永井荷風ほか作家の足跡を辿る小旅行。

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    2023年11月26日
  • いまも、君を想う(新潮文庫)

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    単行本刊行時以来、13年ぶりに再読。
    映画「赤ひげ」の二木てるみの井戸の底に向かって叫ぶシーンの引用で、泣けてしまった。

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    2023年11月05日
  • ひとり遊びぞ 我はまされる

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    映画を見ること、本を読むこと、音楽を聴くこと、町を歩くこと、ローカル線の旅に出ること―。ひとり迎えた老年の日々は、今日も続いてゆく。2018‐21年の日記。

    東京人の連載は終わっていたのか。知らなかった。

    と思ったら、継続中。

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    2022年10月01日
  • すごいトシヨリ散歩

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     タイトルは、もう少しどうにかならなかったのかと思う。内容の良さとは全く乖離している。
     味わいを感じられることは、まだまだいくらもある。そう感じさせる。

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    2022年07月22日
  • 映画のメリーゴーラウンド

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    「映画」って いいですねぇ
    その言葉を
    何度もつぶやいてしまう
    映画好きには至福の一冊です

    それにしても
    その「数珠つながり」への博覧強記には
    全く脱帽です

    やっぱり
    「映画」っていいですねぇ

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    2022年04月28日
  • きのふの東京、けふの東京

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    ネタバレ

     川本三郎「きのふの東京、けふの東京」、2009.11発行。けふの町を歩く、きのふの盛り場、作家たちの東京の3部構成です。①著者は昭和44年に朝日新聞社に入社。昭和40年代まで、有楽町には朝日、毎日、読売の3大新聞社があった。はい、確かに。私は新聞少年として広島県代表になり東京旅行をさせていただき、有楽町の朝日新聞社を訪問しました。②菊は栄える。葵は枯れる。勝者には「維新」、敗者には「幕府の瓦解」。上野は敗者に優しい町。高校時代の友人が日本には革命がないと憂いていたのを思い出します。明治維新は国民が不参加と

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    2021年07月22日
  • いまも、君を想う(新潮文庫)

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    長年連れ添った糟糠の妻が先立つ。妻と過ごした月日を綴った本です。葬儀は、静かに送りたいと書中にありました。その気持ちに似た想いで読み終えた気がします。

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    2021年02月03日
  • 東京は遠かった 改めて読む松本清張

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    時々無闇と松本清張が読みたくなるのはなぜなんだろうか。多作なので、中には結構トホホな物もあったり、小道具が古くなっているのはどうしようもないのだけれど、それらを差し引いても余りある、何か人の変わらない部分を差し貫いているのだろう。

    いろいろ読み返したくなり、もう家にはないかなあと思いながらも探したらあったあった。宮部みゆきが「名作中の名作。これを読まずしてミステリを語るまじ」とまで言う『一年半待て』も再読してみた。唸った。

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    2021年01月02日
  • 「男はつらいよ」を旅する(新潮選書)

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    旅が好きで、寅さんが好きな人なら、誰でも「男はつらいよを旅」してみたいと思うのではないか?
    それを、川本三郎は実際に行い、本まで書いている。羨ましい限り。
    映画の場面を思い出したりして、面白くは読んだが、でも、自分で旅するのが正解だろう。

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    2020年05月10日
  • 「男はつらいよ」を旅する(新潮選書)

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    これを読むと寅さんを観たくなるし、旅がしたくなる。あの『新潮45』がこんな連載もしていたのか。こういうのだけでは雑誌は売れないんですかね。

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    2019年03月23日
  • 「男はつらいよ」を旅する(新潮選書)

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    寅さんを旅する、という企画。寅さんの映画には、なんとも懐かしい日本の様々な風景が、そのまま、残されているという、作者の指摘には、納得。また、寅さんが旅をする先々を楽しみに、ビデオを見直し始めました。

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    2017年09月12日
  • 「男はつらいよ」を旅する(新潮選書)

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    少なくとも劇場では一本も観ていない。テレビで観たのも数えられるほど。こんなに鉄道ネタが豊富だったとは。改めて観てみようと思う。

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    2017年06月05日
  • 成瀬巳喜男 映画の面影

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    良い本。成瀬巳喜男という映画監督は知らなかったが、是非とも作品を観賞してみたくなった。

    “成瀬は真正面から戦争を描く映画は作らなかったが、「お母さん」といい「浮雲」といい「乱れる」といい、どこかに戦争の影が落ちている。自分たちは戦争に生き残った。国は敗れた。自分の暮しの背後には、無数の死者がいる。その思いがあるから、成瀬映画に慎ましさがあるのではないか。”

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    2015年03月26日
  • 君のいない食卓

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    愛妻を亡くされた筆者の食べ歩き? 一人で呑む燗酒は、寂しく美味しくないと
    そうだろうなと納得。行間から素敵な奥様だった事が偲ばれた。

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    2015年02月01日
  • いまも、君を想う(新潮文庫)

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    映画評論家・文藝評論家の川本三郎の愛妻喪失の記。

    さりげない過去の妻との日常を書き綴っているが、淡々としたその文面から、亡き妻への愛情が、ヒシヒシと伝わってくる。
    特に著者は、全共闘関連の取材で逮捕留置され、朝日新聞を懲戒免職されており、その直後の結婚から、影で支えてくれた妻への想いが行間から滲み出ている。

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    2013年07月21日