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関東大震災から急激に復興したモダン都市東京、カフェーの女給や私娼などの新しい女たち、テロとクーデターに奔走する軍人……。激変する時代に何を見て、この「最後の文人」は反時代的傑作『濹東綺譚』を書き始めたのか? 『断腸亭日乗』など永井荷風の全作品を徹底的に読み込み、昭和をまるごと描き出した文芸評論の到達点!
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Posted by ブクログ
カフェの日本史から女給が気になり、女給を主人公にした永井荷風の『つゆのあとさき』を読んでみたところ、そこに書かれた昭和初期の銀座をはじめ、市ヶ谷、神楽坂など東京の描写が良かったので、ガイド本的にこちらを読んでみました。 荷風の日記『断腸亭日乗』と彼の作品をベースにたどる昭和史。 今年の小林秀雄賞...続きを読むを受賞。 前篇だけで500ページを超えてるので読み終えるのに時間がかかりましたが、めちゃくちゃおもしろいです。 たとえば、私も気になった『つゆのあとさき』で主人公・君江が数寄屋橋の朝日新聞社にあがるアドバルーンを見上げる場面。 アドバルーンが広告に使われるようになったのが大正時代で、朝日新聞社の建物が建てられたのが震災後の昭和二年。震災後に復興したモダン都市東京の風景だったことがよくわかります。 君江が住んでいる市ヶ谷本村町、銀座のカフェ、ここらへんも現在の地名や変遷が解説されていて、『つゆのあとさき』に書かれていた「市ヶ谷停車場」は外濠線という市電の駅だったことを知ったり。 荷風は実家が裕福だったこともあり、慶應の教授をちょっとしていた以外は定職を持たず、生活のために作家をしているわけでもないんですね。 9時頃に起きて、床のなかでショコラを飲み、クロワッサンを食べ、昨夜の読み残しの詩集を読む。隅田川あたりを散策し、銀座や神楽坂でビフテキを食べる。なんという高等遊民生活。 『日乗』に書かれた荒川放水路の散策が詳しく載っており、Googleマップで荷風の足取りを確認しながら読むと、当時の風景が再現されて、これもすごくおもしろい。隅田川あたりは一度歩いてみたいです。 荷風の中学の同級生だった外交官・佐分利氏が富士屋ホテルでピストル自殺した事件など、富士屋ホテルの洋館に泊まったことがあるんですけど、どの部屋だったんだろう。 左利きなのに右手にピストルを持ってるとか、遺書がなかったことから松本清張がこの自殺説に疑問をもってるのもおもしろい。 荷風は女性とまともに恋愛をする気がなく、芸者、私娼、女給と、その時々でビジネスライクに付き合ってきたのかと思っていたんですが、川本さんの解説によると、むしろ女性らしさ、そのものを愛し続けた人であったようにも思えます。 といっても、『日乗』の有名らしい「つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし」という女性リストには笑ってしまうんですが。16名の名前が書かれていて「此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず」。 昭和100年といいますが、100年で東京の風景はまったく変わったようでもあり、じつはあまり変わっていないようでもあり。 私も荷風のように東京を歩いて、消えていった昭和の面影を探してみたいです。 以下、引用。 3 ニ〇一四年にノーベル文学賞を受賞したフランスの作家パトリック・モディアノは受賞講演で「偉大な作家たちの何人かはひとつの都市と結びついています」としてバルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルグ、そして荷風と東京を挙げた。 19 関東大震災によって、自分を育んでくれた「江戸文化の名残」も「明治の文化」も消滅してしまった、その深い悲しみを謳っている。荷風の昭和は、震災による喪失感から始まっている。 21 巨大なビル(泉ガーデンタワー)の片隅に「偏奇館跡」(ニ〇〇ニ年、港区教育委員会)の小さな碑が建てられているのが、かろうじての救い。 34 荷風は数寄屋橋から鍛冶橋へ出る。数寄屋橋も鍛冶橋も、戦後、埋立てられてしまう外濠に架かっていた。現在、橋はとうにないが、交差点にその名が残っている。 37 神楽坂は明治になって繁華を見せるようになったが、とくに震災で大きな被害を受けなかったために震災後、隆盛した。 46 その伸びゆく銀座を牽引していったのがデパート。 松坂屋がまず大正十三年に銀座に進出したのを皮切りに、大正十四年に松屋、昭和五年に三越、と大手デパートが次々に銀座に開店、近代的なデパートの出現は東京の人間の生活意識を大きく変えてゆくことになる。 55 荷風文学の特色のひとつは、たおやかさ、女性らしさにある。女性文化への憧憬にある。荷風が芸者やカフェの女給、私娼を好んで描いたのは、好色だからというよりも、彼女たちが持つたおやかさ、優しさ、肉体の美しさ、かぐわしさを愛したからに他ならない。その女性らしさは、猛々しく、武張った男性文化の対極にあるものだった。 64 随筆「葛飾土産」(昭和二十ニ年)では、コスモスが東京の人間に称美されるようになったのは大正の改元のころ、ダリヤはそれより前と書いている。 明治二十五年(一八九ニ)創業の東京六本木にあるゴトウフローリストで、バラやカーネーションなどの洋花を取り扱うようになったのは大正八年頃のこと。 65 大正八年一月一日、「九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残の疑雨集を読む」。『疑雨集』は明末の詩人、王次回の詩集。それを床のなかで「シヨコラ」を飲み、「クロワサン」を食べながら読む。フランス時代に知った彼らの朝の習慣に倣っている。ハイカラである。 115 神楽坂の田原屋は、震災で焼けなかった神楽坂のなかでも有名な高級洋食店。 荷風は一人で「白ブドウ酒」を傾けながら「分厚いビフテキ」を食べていた。食べ終ると、テーブルに五十銭銀貨をボーイのチップとして残し、立去った。ダンディだ。 122 『日乗』昭和十一年一月三十日。 つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。 此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず 128 本田和子『女学生の系譜 彩色される明治』(青土社、一九九〇年)によれば、この女性言葉は「よくってよ」「だわ」から取って「テヨダワことば」と呼ばれ、明治の女学生が流行らせて、やがてそれが広く使われるようになったという。 131 女優について注を付けると、日本では、江戸時代に女性が舞台に立つことが禁じられていたので、女優は存在しなかった。 明治になって、ようやく女が舞台に立てるようになった。 144 昭和二年に、荷風が銀座のカフェ、タイガーの女給お久(古田ひさ)と関係し、ために多額の金を要求されたトラブルを思い出させる。 146 広津和郎『女給』 銀座のカフェの女給を主人公にした小説 185 野口孝一『銀座カフェー興亡史』 文学作品のなかに登場した、カフェで働く女性の早い例に、谷崎潤一郎『痴人の愛』(大正十三年ー十四年)ナオミこと、河合奈緒美がいる。 189 昭和四年に中央公論社から出版された今和次郎編『新版大東京案内』によれば、当時、東京にはカフェは六千百八十七軒、女給は一万三千八百四十九人いたという。東京市の人口が二百三十万人ほどの時代である。 192 単身者は、荷風がそうだったように家庭の外で食事をする機会が増える。現代の日本で外食産業が隆盛なのは、全世帯の三分の一が単身者になっていることと無縁ではない。 単身者は家の外で遊ぶ機会が多いから、劇場や映画館など遊興の場が増える。都市とは、家庭の機能が次々に外化されてゆく場である。都市と家庭は反比例する。日本の都市に喫茶店が多いのも、喫茶店が家における居間や書斎、あるいは応接間の役割を果しているからだろう。 都市は単身者が作る。 198 気球は明治時代に軍隊によって偵察用に使われるようになった。それが次第に広告、宣伝に転用されるようになった。 当初は「広告気球」と言っていたが、昭和になって「アドバルーン」と呼ばれるようになった。advertisement (広告)のadとballoon (気球)を付けた和製英語である。 199 朝日新聞社の建物は、震災後の昭和二年に建てられた。窓から見える泰明小学校は昭和四年に建てられた、いわゆる震災復興小学校。数寄屋橋も同年に新しく架け替えられた。 201 荷風は随筆『日和下駄』のなかで、「私は四谷見附を出てから迂曲した外濠の堤の、丁度その曲角になっている本村町の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中でのもっとも美しい景色のなかなか数えている」と、本村町の坂上から神楽坂、小石川方面を眺める風景を絶讃している。 202 野口富士男は回想記『私のなかの東京』で、戦前、飯田橋から外濠に沿って市ヶ谷、四谷を走り、四谷から芝のほうへ出る外濠線という市電があったことを記している。 「つゆのあとさき」でも荷風は、この市電に触れている。「本村町の電車停車場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える」。 207 カフェの女給が女優になる。他方では、映画女優がカフェを開く。 野口孝一『銀座カフェー興亡史』 219 これは渋谷でのことだが、大正十四年、東京生まれの評論家、森本哲郎は回想記『ぼくの東京夢華録』(新潮社、一九九五年)のなかで、小学生の頃、母親に連れられて、東横百貨店に行った時の楽しい思い出を書いている。まず屋上に行く。「その屋上から、色とりどりのアドバルーンが空に揺れているのを見たときの気分は、まさしく夢見心地だった」。屋上にはブランコやジャングルジムがあり、ちょっとした遊園地になっている。 222 あんみつは昭和のはじめに生まれたのだから。銀座の甘味処「若松」(創業明治二十七年、ニ〇ニ三年十二月三十日をもって閉店)の二代目主人、森半次郎が考え出した。 257 「朝日新聞」によれば、佐分利氏は中国から帰国中で、箱根の富士山ホテルに前夜投宿、翌朝(二十九日朝)、ベッドの上にてピストルで頭部を撃ち、こと切れていたのをホテルの従業員が発見した。 334 「マネキン」は現在でいうファッション・モデル。フランス語のモデルを意味する「マヌカン」に由来するが、「マヌカン」では、「客を招かない」になってしまうので、「招き猫」にかけて「マネキン」と造語された。 341 一九二六年に発表されたアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』には、イギリスの小さな村で、医者の仲間が集まって麻雀を楽しむ場面がある。 429 「彼氏」は昭和初期に徳川夢声が「彼女」に対して使ったのが最初という。 481 地下鉄の浅草駅には、とんがり帽子のような塔が名物となった地下鉄ビルが昭和四年に完成。 設計は南海鉄道のビルなどを作り「ターミナル建築の権威」といわれた久野節。鉄道の駅とデパートが一体化するターミナルビルは大阪の阪急ビルが最初だが、東武はこれを参考にした。発着駅を二階にしたのが特色で、ビルを出た電車は大きくカーヴをしながらそのままの高さで隅田川を渡る。この鉄橋は川の景観を眺められるようにトラスを車両の窓より低くしてある。 508 当日のプログラムで永井路子さんは明かしている。この歴史小説家は、実は、美貌のオペラ歌手、永井智子の実の娘だったのである(父親は、永井智子の最初の夫、来島清徳)。
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