月沢李歌子の作品一覧
「月沢李歌子」の「ストア哲学 強く、しなやかに生きる知恵」「イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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Posted by ブクログ
特にスタートアップを念頭に、顧客の理解〜収益の算定〜製品設計〜事業の拡大までを、24のステップに細分化して説明した書籍。
足がかり市場でやるべきことを、ステップ毎に説明してくれているので流れのイメージがつきやすい。
説明されているのは、実用最小限のビジネス製品(MVBP)の検証までの流れなので、新規ビジネスの最初のステップについて重点的に説明してくれている。
自分が所属しているのはJTCなので、スタートアップのやり方や流れとは異なる(その通りに実践しにくい)部分も現実的にはありそうだが、所属母体と関係なく全てに共通する考え方なので、できるだけその通りに実践していきたい。
巻末で書かれている通り、行動あるのみ、だと思う。
Posted by ブクログ
哲学者がやっていることは難しい質問をし、理由や根拠について考え、実在の本質について、また、いかに生きるべきかについて自分自身に問いかけ、そうした重要な問いに答えを出そうとすること
プラトンのイデア(概念)論
例 完璧な円を考える時、人々は目で見た綺麗な円を考えるが、その現象は実体ではなく不完全であり、哲学者ならば円のイデアを理解しなければならない
ソクラテスは偉大な語り手、プラトンは並外れた書き手、アリストテレスは好奇心の塊
アリストテレスはプラトンのイデア論を拒んだ
猫を理解するにはイデアについて抽象的に考えるのではなく、本物の猫を見る必要があると
人間には最もふさわしい生き方があり、それは理性の力を使って生きることだと結論づけた
アリストテレスは賢すぎるあまり、多くの人がそれを真実としてしまい疑うこともなかった、それは権威による真実であり哲学の精神にも反する
懐疑論者ピュロン
人は何も知らず、知らないことさえわかっていないから真実と思い込んでいることに頼るべきではない
現象が人々を欺くと考えるピュロンはどんな危険に直面しても落ち着いて無関心でいられた
真実がわからないのなら、心配する必要はない
世界がどのようなまであるのか、実存の本質を知ることはできない。そして、どんな見解にも固執すべきでない。幸福になるには欲望を忘れ、結果を気にかけるのをやめるべき。重要なものなど何もない。
本能さえも無視すべきだと言うピュロンは人が生きていく上で難しいが定説(ドグマ)を疑うと言う点では偉大な哲学者の共通点である
エピクロスは苦しみを取り除き、幸福感を高めれば人生はもっと良くなると考えた。よってライフスタイルを簡素にし、周囲の人々に親切にして、友人に囲まれて暮らすのが最良の生き方だ。
死とは単に物質からなる肉体の個体が存在しなくなるということで生まれる前と一緒である、罰を受けることがないと信じれば死を恐れる必要はないと納得できる。
ストア派の理論
何が起こるかはコントロールできないが、それにどう対応するかはコントロールできる、責任が生じる。感情の抑制。
セネカは人生が短いと腹を立てるのではなく、短い人生を最大限に活用すべきだと考える。コントロールを失い、意味と価値のある経験をする時間を見つけることなく、日々の出来事をやり過ごしていくのは、真に生きることとは違う
ストア哲学は心理療法として不満を軽減してくれる一方、薄情で冷淡で大事なものを失われたように思えてしまう。
アウグスティヌスは日々哲学を考えるうちに、なぜ神は悪の存在を許しているのかと考えた
神は悪を防ぐ力があるが、神は人間に理性、自由意志、選択の余地を与えたため私達は自由であり、倫理を欠いた悪は私たちの選択の結果である。
哲学の慰め
ボエティウスは死を待つ身でも哲学をここに記した。真の幸福は富や権力といった運によって巡るようなものを拠り所としてはいけない。もっと堅固で、奪われることのないものから生まれなければならない。ボエティウスは神が全知全能で私たちが何をするのかを自由に選べているようでそれは神が予定していて知っていることだと考える。これは複雑な問題でパラドックスと呼ぶ。独房にいる女性[哲学]は言う、人間の自由意志は存在していて神は何が行われるかを知っているが、神は過去、未来、現在を時間超越して一つのものとして捉えているから私たちがどう行動するか、何を選択するかによって、私たちを見極めていることを忘れてはいけない。
アンセルムスは神の概念抱く時点で存在を証明しているという存在論的証明を主張した。想像の神のが実在する神よりも偉いわけがなく、だから神が存在するに違いない。しかし、これに説得力はない。
アクィナスは神学大全の中で第一原因論を唱えた。全ての原因を作り出し出す原因があり、それを遡っていくと全て神に辿り着くという考え。
マキャベリの君主論
権力の座にとどまるためにはどんなことも許され、いかに善をなさないかを学ぶべきである。
ボルジアは敵の殺害や指揮官の殺害をもって望んだ結果を引き出し、それ以上の流血を阻止した。残酷とはいえ、すばやい行動によって権力の座にとどまった。マキャベリにとっては手段よりもこうした結果が大事だった。
ホッブズは穏やかな性格の持ち主だったが、マキャベリ同様に人間は自己中心的であると低く評価した。無法の自然状態であれば誰もが盗み、殺すと。
リヴァイアサン
聖書に出てくる巨大な怪物に対して、主権者を頭部とした小さな人々が集まった巨人が戦うという内容。
主権者がいなくなれば崩壊し、人々はばらばらで生き残るために傷つけ合うようになってしまう。だから自然状態の安全を守るために個人には、他者と一緒に働き、平和を求める理由ができる。
しかし、ホッブズの理想は独裁主義国家であり、個人に多くの権限を与えるのもまた危険である。
デカルトの方法的懐疑
もし真実でない可能性がわずかでもあるなら、受け入れないということ。デカルトはピュロンのような確かなものはないとないという懐疑主義ではなく、懐疑論でさえ揺るがすことのできない信念があることを示したかった。
感覚を通して得られる証拠は感覚に欺かれた経験があり、確信が持てない。
今目覚めた状態でこれを読んでいるということも方法的懐疑に当てはめると、完全に確かなものではないので受け入れられない。
どんなに馬鹿馬鹿しくても悪魔が欺いている可能性を証明するのは不可能なものばかり。そして辿り着く、私が思考しているのだから、存在しているはずだと。
神が私たちの心に神という概念を植えつけたのだと神を確信した。
パスカルはキリスト教擁護者であり、自分を神学者と捉えていた。自由意志もなく、運命によって天国に行けると信じた。
パスカルの賭け
神の存在に賭けるべきである。もし神がいれば死後、永遠の至福を得られる可能性があり、もしいなかったとしても、いないと思っていていた場合に地獄に落ちて永遠に拷問を受けるよりは損失が少ないという考え。
スピノザは神が無限であるならば神でないものは存在しえず、神がいるならば石も人間もアリも神の一部である。
伝統的に信者は神を擬人化し、人間的特質を当てはめている。しかし、スピノザは神は人間に無関心で神からの愛を期待してはならないと考えた。神が人間を愛さないのは無視論しかありえないが、スピノザは理性によって神を愛した。
私達は何をするのか自由に選択し、コントロールしていると思っているが、それは選択や行動がどのように起こるかを理解していないからだ。つまり、自由意志など幻想であり、自由などない。
スピノザは決定論者であったものの、人間の自由は限られた範囲では可能かつ望ましいと信じた。最悪なのは感情に支配されること。感情が外的出来事ではなく、自分自身の選択によって生まれるのがもっとも良いとした。これは完全に自由でないものの受動的であるより能動的である方がいい。
神は自然である。
ロックは何を持って赤ん坊の頃と同じ人物と言えるのか悩ませた。動物として人間であり続けるのは事実。
しかし、人格は以前とは同じではない。
人格同一性についてのロックの姿勢は同じ記憶があれば同じ人格であるということ。
老兵士は勇敢だった若い士官だった頃を覚えていて、若い士官だった頃は果樹園からりんごを盗み殴られた少年の頃を覚えていて、老兵士は少年の頃を覚えていない。
これをロックの理論で言うと老兵士=若い士官、若い士官=少年、しかし老兵士≠少年というように破綻してしまう。
人格の同一性はロックが考えたような完全な記憶ではなく、部分的に重なる記憶を拠り所としているだろう
ロックは人間知性論で世界は私たちの観念の表れであるが、世界が自分に見える通りであるのは一部分に過ぎないと唱えた
バークリーによれば誰にも見られなくなったものは存在しなくなる。外の世界に関するあらゆる概念は不合理である。
ジョンソンはそれに対してこう言う。石を蹴ると、石は動くし、石は存在している。つま先に痛みも感じた
それに対してバークリーは足の硬さを足に感じたからといって物体が存在する証拠にはならない。ただ硬い石という観念が存在する証拠でしかない。つまり、そこに実体はなく、私たちの観念の背後に実体は何もない。
ロックは第一性質(形や大きさなど)と第二性質(色や知覚器官によるもの)と分けて第一性質は実態の世界にあると考えた。
バークリーは世界とその中にある全てはわたしたちの心の中だけに存在すると考えた。存在するとは知覚されること。だが物体が存在したり無くなったりするのが変だとはわかっていた。そこで神が常に世界にある物体を知覚しているのでそれらが存在し続けると考えた。
ポープやライプニッツは神は最善の世界を作った。最小限の悪を用いて、善が最大になるようにしたのだと楽観主義を唱えた。
ヴォルテールは小説カンディードによって楽観主義を嘲笑った。ライプニッツの主張が真実というには世の中の苦しみはいくらなんでも多すぎると。
物語の結論として抽象的で哲学的な問題についてただ話し合うのではなく、人類にとって有意義なことをするというメッセージが「ぼくらの畑を耕さなくちゃなりません」と表現された。ヴォルテールが情熱を燃やしたのは不正の根絶であり、冤罪の人を助けることがぼくらの畑を耕すことであった。
ヴォルテールは無神論者というわけでもなく、既成の宗教を嫌っていたものの、神の存在と計画の目に見える証拠が自然界にあることを信じる理神論者だった。
ヒュームはデザイン論(複雑な自然や動物の器官などをデザインする力を有するのは神しかいない)を批判した。全知全能で善なるものが存在するという結論にいたる十分な証拠を示していないと。
ルソーは人間は本来、善なる存在であり、自分のしたいように森で暮らせれば大した問題は起きないと考えた。都市に身をおいた途端、嫉妬と強欲が生まれ、文明が人間を堕落させたと感じた。
社会契約論で設定した課題は国の法律に従いながらも、誰もが社会の外にいた時と同じように自由でいられるような共生の道を見つけることだった。一般意志という概念。
一般意志とはコミュニティ全体にとって最善のもの。税金を例に挙げると低ければ低いほどありがたか感じるのは全体意思であり、私利を忘れ、社会全体の利益に注目して、良いサービスを提供するのに十分な高さであるべきだということになる。
一般意志に同調できないならそれは真の自由ではない。…拘束しているようにも見えてしまう…
カントは現実とはどんなものなのか、物事のありようの全貌を見ることは決してできないと考えた。物自体の世界は直接認識できず、現象の世界が見えてるだけ。カント以前の現実の本質を研究した哲学者たちは、現実とは経験がもたらすわたしたちの存在を超えたものだと考えていた。しかし、カントは理性の力によってあらゆる経験を着色する心の特徴を知ることができると考えた。
カントは道徳的行為と感情は無関係であると考えた。困っている人を助ける時も気の毒だから助けるのは道徳的行為ではない。殺人鬼に追われた親友を家に隠しておってきた殺人鬼に公園に逃げたと嘘をつくのも道徳的ではない。真実を述べて道徳的義務を果たすべきだと考えた。
カントはアリストテレスのように理性の力で生きるのは問題を曖昧にするものであると考え、感情ではなく、冷静な論理に基づき正しいか正しくないかを考える。
ベンサムは功利主義であり、快楽だけが本質的に良いものであると考えた。快楽から苦痛を引いて残った幸福値を功利と呼ぶ。功利を比較して最大の幸福をもたらす行為を選ぶようにすれば良い。カントのように嘘をつくなと義務付けるのではなく、嘘をついてでもより大きな幸福を得られるならそれは道徳的に正しい行為である。
幸福な擬似体験のできるバーチャルの世界に繋がれ続けるのが正しい行為?という批判
ヘーゲルはカントの考え方を否定し、心が形作る現実がまさに現実であり、その向こうには何もないと考えた。
ヘーゲルは真理とは常に自己理解という目標に向かって進み続ける、歴史は決して偶然のものではないと考えた。例えば主人と奴隷の関係だと主人は自意識を持つ個人として承認されたいと思い、そのために奴隷を必要としている。だが、奴隷も同じように承認されるに値することに気づかない。こうした不平等な関係は片方が死ぬといった争いにつながり、それは自己破壊である。結局主人と奴隷は互いを必要とし、互いの自由を尊重しなければならないとわかるようになる。
ヘーゲルはプラトンのように哲学者が特別であり、国家を統治すべきであると考えた。
ショーペンハウアーはわたしたちは表象としての世界にしか存在することができないと考えた。人を傷つければそれはすべての人々を結びつける生命の力の一部を壊すことになる。つまり、他社は自分の外部にあるのではなく、他社は意志としての世界の一部であると。願望の循環に折り合いをつけるには禁欲主義者になること。東洋の多くの宗教的考え。
実際にショーペンハウアーがそうすることはなかった。
ミルはベンサムの功利主義に賛成したが、幸福を快楽とするのは単純すぎると考え、低次と高次の快楽を区別した。しかし、この区別に基準がない。
最大限の幸福を実現するには他人を干渉せずにおくことだと考えた。天才は風変わりと思われることが多いが、その成長を阻害すれば社会に大きな損失となる。
もちろんそれは人を傷つける可能性がない場合にのみであり、不快と傷つけることは違うとはっきり区別した。
しかし多くの人がミルに反対で個人主義的すぎる、偏っていると。人はどう生きるかの選択肢が多すぎると自滅的な決断をする人が多いと。
ダーウィンは人間が神の創造ではなく、猿の子孫であることを提唱した。人間は特別でなく、自然の一部であると。今では当然だが、当時は驚くべきことだった。
これにより、神は存在しないと考えるのがこれまでにないほど容易になった。
しかし、ダーウィンは神が存在するかどうかについて柔軟に考えた。人間の知恵で解くには深すぎる、結論を出す時ではないと。
キルケゴールはキリスト教信者だったが、信仰のために倫理を捨てるべきではない場合もあると信じていた。
マルクスは資本家階級と労働者階級の大きな格差に憤りを感じ、共産主義を到来することを望んだ。宗教を抑圧されているという真実に気づかせないための麻薬と考えた。
マルクスはこれまでの哲学者が世界について説明しただけだと考え、自分は暴力革命により世界を変えたいと考えた。
しかし、人間は競争を望み、欲深くなるから、共産主義国家で十分に助け合う可能性はなかった。
ジェームズは実質的に違いがなければ、真理などないと考えた。真理とは役立つもの、生活に有益な影響力をもたらすものだった。
従来は真理とは事実と一致すると考えられていた。
神が存在するというのは真理だろうか。
パスカルと似ているがジェームズは神が存在することで人間に良いことが多いから存在することが真理になる。
しかし、この論理だと真理とは主観的なものであり、実際に世界がどうであるかではなく、わたしたちがどう感じるかの問題になってしまう。
ニーチェは神は死んだとして神の死後の世界を考えた。いかに生きるべきか、基準を失い、何をしても良くなる。一方利点は、独自の生き方を追求し、人生を芸術作品に仕立て上げることができる。
弱者を憐れむキリスト教の道徳より、強く好戦的な英雄を称えることを好んだ。
ナチスの手助けに。
フロイトは無意識の発見をした。神を信じる人は日々神の存在を感じ、神が存在するから神を信じると思っているかもしれないが、それはあなたが幼い子どの頃に感じたような保護を必要としているために神を信じている。大事にしてもらいたいという無意識の欲望がもとにある。
これに対してポパーは反証可能性がないと批判した。
どんな観察をしてもすべてが理論を裏付ける証拠とされ、その理論が間違っているという証拠が存在する可能性がないなら、その理論は科学的ではないと。
ラッセルは神は存在せず、宗教は人に不幸をもたらすと考えた。
ラッセルは集合論と呼ばれる数学と倫理学の一分野に魅了された。集合論でパラドックスを発見した。
例 この文は間違っている
上の文が間違っているなら上の文が言っていることは正しい。つまり、真であり偽であるのだ。
第一原論の神の存在の原因のように。
エイヤーは意味の有無を区別する方法、検証原理を見つけた。その方法は
1それは定義によって正しいか
2それは経験的に検証できるか
どちらでもないならそれは意味がない
兄弟はみんな男だ 1にあたる
哲学者の何人かは口髭がある 2にあたる
この部屋には痕跡を残さない見えない天使がいる
1にも2にもあたらないから意味がない
エイヤーは道徳的な判断は全く馬鹿げていると結論づける
例えば 拷問は間違っている 1ににも2にもあたらない 意味がない
神は存在する というのも同様に意味がない
サルトルは人間は自由であると考えた。人間に本質はなく、あるべき特定のあり方はない。どうなってもその人のせいである。人間であることに伴う責任の重さから逃れる術はない。
人間の実存は無意味なものであり、わたしたちそれぞれが自分の選択によって意味を作り出すしかない。
ヴィトゲンシュタインは言葉が様々な意味で使われること、哲学者は全ての言葉が同じような働きをすると考えるせいで混乱していることに対して注意を促した。
アーレントはナチスの党員のアイヒマンに悪の陳腐さをみた。アイヒマンはただ命令に従い、法律を守っただけではあるが非倫理的な命令に従った。ここで恐ろしいのは、アイヒマンがあまりにも平凡に見えたことであろう。
帰納法は観測結果の選定から包括的な結論に到達するという立証法
4週連続火曜日に雨だったら火曜日は雨が降るという結論に至る。しかし、次の週雨が降らなかったら覆される。帰納の問題。
ポパーは科学は帰納法に依存しないと考えた。仮説の重要な特徴は反証可能性あるということ。反証可能性がないならそれは科学ではなく、知識をもたらさない。
通常科学とパラダイム
地球は平面が通常科学であったなら丸いと考えることはパラダイムシフトとなる
フットのトロッコ問題では多くの人がレバー引くべきと考える。しかし、一人を線路に突き落として五人を使う場合は多くの人は突き落とさないと答える。
なぜか。二重結果の原則がひとつの説明になる。
一つ目の例は容認されうる意図があって、実行の結果相手が死ぬだけ。
二つ目の例は相手を殺す意図があり、容認されない。
ロールズは共存社会を目指し、自分本位なバイアスの力を弱める思考実験を思いつき、それを原初状態と名付けた。自分がどのような立場や人物であるのか知らない状態ならばより公正な方針を選ぶだろうと。自由と平等の原則。人々の能力は運だからそれが報酬の格差を生む理由にならない。
サールは中国語の部屋の例からチューリングテストからコンピュータが理解していることを否定した。コンピュータは考えて、意味を理解しているのではなく記号処理をしているだけで記号に意味を与えていないと。
シンガーは池の子供は助けるのに貧しい子供のために寄付をしないのかを問う。動物は苦痛を感じる能力あり、人は植物を食べるだけで生きれるのだから肉を食べる必要がないと考える。ラットを実験に使うなら脳を損傷した人間も実験に使えるのか。
シンガーはソクラテスのようにリスクを負って、議論をしてきた。これこそが哲学発展に必要なことであるる。
Posted by ブクログ
私はもうすぐで節目となる年を迎える。それもあってか最近、「もう人生の●分の1くらいは終わってしまったのだな」と感じ、死ぬのが怖いという気持ちになりがちだった。
時間潰しに立ち寄った本屋でこの本が目に止まった。哲学については素人で、有名な哲学者の名前なら知っている程度だったが、パラパラとめくったページにあった
「わたしがストア哲学を信奉するようになった最後の理由は、死が必然であり、それにいかに備えるかについて、ストア哲学がもっとも直接的に、説得力をもって論じているからだ。」
の一文が気になり、買ってみることにした。
結論から言えば、読み終わった今、死ぬことへの恐怖は薄まったと感じる。ただそれは、死ぬことへの解像度が上がったとか、死後の世界に何か見通しが持てたとかではなく、「いつか自分は死ぬ、周りの人も死ぬ。それはどう頑張っても変えられない。逆に、誰かの存在がなくなり、居場所を譲ってきてくれたからこそ、いまここに自分は存在していられる。」という当たり前の事実を、この本がまっすぐに、ただし悲観的でないように教えてくれたからだと感じる。
読み終わって新幹線の窓から風景を見た時、夕日が見えて、毎日のように見ている太陽にも寿命がある、と教わったことを思い出した。頑丈に見えるビルも、文明の結晶みたいに輝く都市も、例えば地球の薄皮1枚めくれてしまえば、簡単になくなってしまうようなものなんだなぁ、とも思った。だから悲観的になろう、という訳でなく、だからこそ、家族や友人、自分自身に対して「今が最後かもしれない、今が大切」と、ある種の緊張感を持って接するように、というのが、この本が教えてくれたことだと感じる。
当たり前だが、現代社会によってうまく包み隠されているような感覚を思い出させてくれる良書と感じる。また死ぬのが怖くなった時、自分の人生に対しての緊張感が緩んでしまったとき、この本に戻ってきたいと思うし、同じような思いを持つ人におすすめできる本だと感じた。