本書は、1160ページもある大作だ。読むだけでも重労働だ。
ユダヤ人が600万人も虐殺されたことと三重密室殺人が、戦争の時と現在にも起こるという事件に、現象学を学ぶナディアが謎解きをして、矢吹駆が真相を現象学的に解明する。
矢吹駆は、著者の分身でもあり、自分の体験をも重ねる。連合赤軍のリンチ殺人事件の個人的な体験が深く根ざす。それをハイデガーの哲学で解明しようとする。
ハイデガーの『死の哲学』を突き詰めていく。ハイデガーの入門書を読む限りは、『死の哲学』とは言えないと思えた。
ハイデガーは、ナチス党員となり、大学の総長となり、ヒットラーを讃美しナチスになることを鼓舞した。そこに、ハ...続きを読む イデガー哲学の限界をみる。そして、ハイデガーは、ユダヤ人の虐殺の収容所は知らなかったという説を、ユダヤ収容所の前で、一緒に所長と写真をとっていた。その写真が、ゆすりの原因となり、80歳を超えても、その写真を隠そうとして墜落死する。因果応報の世界でもある。
そして、ハイデガーの教えを学んだ二人の男ハインリッヒ•ヴェルナーは親衛隊であり、ヘルマン•フーデンベルグはユダヤ人収容所の所長。そして、二人が愛した美しいユダヤ人のハンナ•グーデンベルグ。
最初に死んだのはハンナ•グーデンベルグだった。そして、収容所からユダヤの囚人を脱走させたのがヴェルナーだった。知られていない影のユダヤ人の命を救った英雄でもあった。そして、大量虐殺と個人的な理由での殺人。その重さを問う。まさに、意欲的な作品だ。そして、矢吹駆の関わった事件に絡んでいく。
矢吹駆は、『薔薇の女』でのアントワーヌの死に対して、
「死という鏡さえ与えられるなら、自分にも英雄のように真実の人生を、選ばれた人生を、特権的な人生を生きることができるだろう。青年の思考は、ほとんど必然的に観念的倒錯の罠に落ちてしまう。戦場のない社会で死の可能性に直面することができないなら、意図的に戦場のようなものを、死の危険に満ちた暴力的な環境を、なんとか捏造してしまえ。」
「現代的なタイプの政治青年は、平和な日常生活に人工的な戦場をしつらえようとして、テロリズムの沼地に誘惑されてしまう」
と述懐する。
「ハルバッハによれば、現存在の本来的自己は、死の可能性への先駆において実存する。死の可能性は無数にある生の可能性から、その人間にとって本当に大切な可能性、特別の可能性、人生の中心的な可能性を、はっきりと映し出す特別の鏡なんだ。死という鏡がなければ、人間は無数にある可能性のなかで道を失うだろう。他人の眼を気にしたり、常識に流されたり、日常の些事に追われたりして、本当の自分を生きることなどできはしない」
「僕は、ハルバッハ哲学でアントワーヌを批判していた。死は追い越しえない可能性なのに、それを欺瞞的に追い越そうと望むことが観念的な倒錯を必然化し、自他にわたる抑圧と悪を生んでしまう。マチルドやアントワーヌを見て、たぶん僕は、そう感じたんだろう」
ハイデガーの死の哲学を繰り返す。ハルバッハ(ハイデガー)の哲学は、なにも自殺を推奨しているわけではない。死の可能性に目覚めよと主張しているのだ。
頽落した日常性が、どんなに死の可能性を覆いかくしていても、必然的なものとしての死は、滲みでるようにして日常的な人間の存在を染めはじめる。それが不安の由来なのだ。不安なわたしは、結果として死の可能性を凝視するようにしいられる。しかし、死は切迫しているにせよ将来のものであり、可能性としてしか人間にはあたえられていない。日本では有名らしい小説家(三島由紀夫)が伝統的な作法で、儀礼的な自殺を演じた。
リトアニア出身で、ユダヤ人で囚人だったエマニュエル・ガドナスは、エマニュエル・レヴィナスがモデル。ガドナス哲学の出発点におかれている、〈ある:イリヤ〉の概念を産み出す。レヴィナスは、ハイデガーのナチス賛美を批判する。
なぜ、イスラエルの諜報機関が、アイヒマンを追いかけ、裁判をして、死刑にしたかの背景も理解できた。
宙吊りの死者。ジークフリートの密室。龍の密室。矢吹駆の推理は次から次へと発展していく。そこで見つめた大量死と殺人事件の謎とき。実に刺激的なノイズが見つかる。それにしても、人間はかくも残酷な行為ができるのかと唖然とするばかり。戦争の非人間性を強く感じる。