谷川直子のレビュー一覧
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今年気になっていた一冊、最後に読めてよかった。
いつか再読したい
在宅介護で最期を迎える父への奮闘する娘と母の話
小林一茶を敬愛する父、俳句が描写に通じて出てくる、独特な世界観
かなりリアルな介護を少しだけ描写しつつも明るく読みやすくしている
人が1人死ぬ、ということに丁寧に向き合った一作かと
プラズマローゲン 認知症効果ありホタテ由来ではなく、鶏由来がオススメ
「景色を書くのは至難の業やねん。なんでかわかるか?北の海、すごかった~、深そうで果てしなくて。けど、それだけや。ここに書いてあることは行ってみれば分かる、いや、行った方がようわかる。言葉で読んでもほんまの景色はわからん。
そやけどな、それを前にした人の気持ちは共感を呼ぶ。呼びかけてくる。しょせん風景画は変わるんや。自然はどんどん失われるしな。けど人間、思うことはたいして変わらうに見えて、実際はたいして変わらんもんや。生きてて思うことはみんなおんなじなんや。それを言い当てられるとハッとする。ハッとさせるのが詩や。絵でも音でも写真るのは、言い当てるためや。僕が芭蕉やのうて一茶が好きなんは、それが理由や。旅できれいな景色を見たときやのうて、あくせく生きてるときに思てることを言い当てらられてホッとする。同じことを思てた人がおった、わかってもらえると思う。
一茶が消えんと残ってるのは、それが理由や。まだわからん句もあるけどな、一生のつき合いができる俳人や」
日本で最初に戒名を授かったのは、聖武天皇である。戒名は「戒名が庶民にまで広がったのは江戸時代で、寺請制度のもと、檀家である証として戒名をもらうことが義務化されたという。浄土真宗は、阿弥陀仏を信じると死んだ後すぐに極楽浄土に行けるので、戒名がなく「法名」が授けられる。日蓮宗では「法号」
徳川家康の戒名は「東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」十九文字、日本一
「あいたた観音」は恭輔の故郷の近く加古川にある鶴林寺という寺の仏像で、西の法隆寺とも言われ。昔、金目当てで、この金銅仏を盗み出した盗賊が、溶かしてみたが溶けず、腹立ちまぎれに腰にノミを当てたところ、観音様が「あいたた」と声を出した。驚いた盗賊は恐れをなして仏様をお寺に返したという、ノミを当てられた腰が少し曲がっているのだ。
たいていの人間は、その人を知っている人の記憶が消えたとき、完全に世界から消えてしまう。
足の形が似ている。耳の形が似は恭輔から受け継いでいた。存在というのは不思議なものだ。誠など見た目は恭輔のコピーと言ってもいい。コピーなのだ。コピーなのだからしかたない。そのコピーの元が消えていく。そして残されたコピーがオリジナルのように生き続ける。存在というのは不思議なものだ。
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タイトルから想像していた内容ではあったけど、不思議な世界観でした。
教育者だった父、良い主婦の母、二人の娘と一人の弟。
父を介護する母と娘たちの日々の描写はリアルで過酷なのに、さらっと淡々と描かれていて。介護される者の本当はわからないけれど、そうだったら良いな、と思えるような父親のこの世とあの世のうつつの境。
自分はもう準備はできている、お前たちは準備ができているか?と、もし、父が問うてくれていたとしたら…
自宅で看取ることができたら…
家族の時間を奪っても?それでも…
いろいろと考えることはあるのに、読んでいるうちに逝く者と送る者の双方のこころにすっと入り込むだけになってしまった。
良い本だなあと思ったし、この作者の他の本も読んでみようと思わされた1冊。 -
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在宅介護を選び、自宅で96歳の父を看取った家族の話
実際はとんでもなく壮絶な日々であろうに、妻と娘2人が協力し合う毎日が時にユーモラスにしたためられている
各章は寝たきりの父の頭の中の妄想から始まる
寝たきりの人の頭の中はこんな風なのかな
ほんとにそんな感じがする
過去と今と、あの世とこの世が混ぜ合わさった死を受け入れる準備のような不思議な妄想
好きだった小林一茶の俳句が時折妄想の中で彼の心を保たせてくれる
一方家族は排泄のお世話に振り回される日々
世話焼きの妻、志麻
同居している独身の姉、洋子
義父の介護経験者の妹、素子
文句を言いながらも、時折こちらも父が好きだった一茶の俳句を思い出しては笑い合う
弟の誠はたまに送金してくるが、介護にはやって来ない
「パパ、年賀状つくったから年越すまではだめよ!」
「三が日もみんなの迷惑になるからあかん」
「松の内も避けて」
「七日も鬼払いでお寺さん忙しいしやめといて」
という妻の願いをきちんと受けて、父は自宅で息を引き取る
自宅で看取ること
どこまでが延命治療なのか
家族の死
もとい、死について
かなりリアルな描写でつづられており考えさせられた
自分にしても両親の看取りはきっとそれほど遠くはなく、家族の死が近づいたらまた再読したいかも…と思った本
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ネタバレついに寝たきりになった認知症の沢田恭輔(96歳)の頭の中で、死への旅がゆっくりと進んでいる。
その人の中で何が起こっているのか、周りで介護に汲々とする女たちには知る由もない。
かつての教え子たちを引率したり、他人の葬式に出ていたと思ったら、周りはみな骸骨に変わっていたり。死んだはずの妹を自転車の後ろに乗せて走るのは子供の頃の記憶。村で死んだじいさんの墓穴を掘っていたらいつの間にか自分が穴の底に横たわっていた。
時間の流れが行ったり来たりして、人生の中で出会った人々も別れた人も、自由自在に泡沫のように浮かんでは消える。
記憶の引き出しが全部ひっくり返ったようである。
俳句好きの恭輔は小林一茶を愛している。
『死支度致せ致せと桜哉』一茶。死に支度とは何をすれば良いのだろう?
沢田家では、リビングの真ん中に介護ベッドがでんと置かれた日から、全てが恭輔を中心に回るようになった。
妻の志麻は老々介護。独身で実家住まい、大学で教鞭を取る長女の洋子は何かあるたびに車を出してのアッシー要員。
二人の手に負えなくなると、千葉に住んでいる次女の素子が神戸の沢田家に呼ばれる。
今回も、三度目の危篤で呼ばれたが、恭輔は点滴だけで細々と生きている。
素子は父の枕元にある『一茶句集』に気づいた。奥付を見ると、恭輔が認知症を発症してから発行されている。
ところどころ恭輔がマルをつけている句があって、そこには小林一茶の死生観が現れており、恭輔がどういう心境で印をつけたのか気になった。
恭輔は、大正15年あるいは昭和元年生まれ。お決まりの関白亭主で、自分中心の父親だった。
外では、校長先生を務め、教育委員長を経て、町内会の相談役。人々から頼られる存在だった。
大勢の人の葬式をうまく仕切ったのが自慢だったが、恭輔の葬式を仕切るはずの知人たちは皆死んでしまってもういない。
さぞかし、昔ながらの立派な葬式を出して貰いたいのだろう。
「家族葬」なんて言ったら化けて出るかも。
最後に、長男だが末っ子の誠が登場。
男は何もしない、と作品の中で繰り返し書かれているが、東京在住の誠も送金のみ。
「厄介な介護対象としての恭輔」が目の前に突きつけられている女たちの視点とは違った観点で父親を見る。
戦前の師範学校のみで大学も出ていない、それでここまでひとかどの人物と認められるようになったのは、相当の才と努力と気概があったのだろう。社会に出てみて父親の偉大さが分かった。
初めて弁護人登場の感あり。
しかし、10年間、介護に人生を奪われてきた志麻と洋子、対しては、離れて暮らしていた素子と誠、そこに恭輔に対して抱く思いの差が生じてしまうのは仕方のないことかもしれない。
介護する人たちだけでなく、される側の、認知症の人の頭の中ではどんなことが起きていて、現実の世界とはどんなふうにリンクしているのか、視点が切り替わるのが面白かった。
どう死ぬか、どこで死ぬか。
小林一茶の句に見る死生観と合わせて。 -
Posted by ブクログ
九十六歳・老衰でこの世とのお別れを迎えた元学校教師・恭輔。認知症によるドタバタ介護に日々振り回される家族。ある日、娘の素子が恭輔の部屋にあった「一茶句集」と句集に記入された父の書き込みを発見。これらをヒントに句を読み解くにつれ、彼の考えたであろう生死観への理解を深めていく。
各章冒頭プロローグの夢のような不思議世界に引き寄せられた。現世との繋がりが残り少ない事を予感させる表現がリアル過ぎて少し怖かった。
*個人的には「雨の音のようにそっと世のために働いていよう。雨があがるように静かに死んでゆこう。:八木重吉」が理想だがうまくいきますかどうか。もう一回「死に稽古」シミュレーション必要か? いやいや。 -
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ネタバレ数年前に知人に紹介された気になっていた本。文庫化されていないので、単行本で。
話は詩人・藤堂孝雄を編集者の立場として向きあう女性・今泉桜子から見たものと、藤堂の詩の教室に通う50代の主婦・清水まひろの2つの視点から語られていく。
編集者の今泉に見せる藤堂は、昔は名の知れた詩人だったが、もう13年も詩を書いていない、いや、もう書けないのか?というダメなおじさん。そこでは競馬をしたり、キャバクラに行ったり、いったいこの人は何を考えてるんだろう? そして、しばらく年齢不詳な今泉桜子も、何やら抱えている様子。そんな二人がいつか心を通わせる(男女の恋愛という意味ではなく)ときが来るのかなぁ~と予想しながら読んでいた。
一方で、藤堂の詩の教室に通う50代の清水まひろ。青春時代をバブル期に過ごし、ブランドものを身につけ、専業主婦として暮らしている。一見、のほほん主婦かと思いきや、まひろの高校生の娘が、学校で起こったある出来事をきっかけに家の中でしゃべらなくなった。そんな娘の部屋にあったのが、藤堂孝雄の詩集だった。藤堂の
詩を学べば、娘の抱えている気持ちが分かるのではないか? 娘に寄り添おうとする母親の姿、これが全然うっとうしくないというか、熱いというか、娘の汚名を晴らすために思い切った行動に出たり、抱きしめたいのに娘を見守ったり、最後はちゃんと娘の力で立ち上がれるように、そこに藤堂から教わった「言葉」のチカラを使うのだ。
言葉の哲学ともいうのだろうか、あまりに当たり前に使いすぎて、その言葉の核心?まで考えたことがなかったけど、「藤堂の詩の教室」で語らえた「言葉」。時代とともに言葉の重みは変わるし、日本人の調和を重視するが故のワンパターンに発するために生まれた言葉など、面白いな~と感じる視点がたくさんあった。
1度読んだだけでは、すべてを咀嚼できていないので、もう一度夜みたい。いや、時々読み返したい。(ストーリーというより、言葉の解釈?や考え方について)
この本、原田マハさんの「本日は、お日柄もよく」を読んだ人にもおすすめかも。全然違うけど、「言葉」を取り扱うという視点で考えるのが好きな人にはお勧めかな。話全体としては難しい話ではないので、読みやすいと思う。
それにしても、ガツーンときたのは、藤堂の『朝の祈り』という詩に出てくるこのフレーズ。
「謝罪は権力を生む
だからあやまってほしくないんだ」
謝ってしまったらすべてが終わり、解決した、という訳ではない。
謝られた方は、もやもやを抱えたまま、それ以上何も口にできなくなる。
とりあえず謝ってしまおうと考えがちな私は、思いっきりバッコーンとぶっ飛ばされた気分だった。
谷川直子さん。出版している本は少ないけど、高橋直子名義でエッセイも発行しているとのこと。他の本を読んでみたい。
そして、2023年最初の本。今年も「言葉」を大切にしよう。そうだ、今年は「詩」を読んでみよう。短い言葉にこそ、本当に大切なことだけが詰まってると思うから。
追記:もしかしたら、作家が描きたかったのは、母として生きるまひろの話をメインに書きたかったのかな。それを引きだたせるため、いや、もちろん「死」も扱いたかったのかもしれないけど(藤堂と今泉の話)、母親の偉大さというか、覚悟というのか、ただのおばさんじゃないで!という、肝っ玉の据わった「母親」の姿を描きたかったのかも、と思ってしまった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ普段色々考えさせられてしまうことの多いことが、これでもか!と全部盛り。
地球上にある、わたしがまだ見たことのない美しいもの 景色、自然、人間が作ったもの、人間の営み、そこにいる人々を見たい、交流したいという好奇心が生きてる意味かも。
仕事でも旅でも、本や美術館でも満たされる。
ごくたまに、アウトプットして自分も美しいものを表現したくなる。
大切な家族を守るためだと、家事も頑張れる。頑張りたくないなーと思ったということは、実は結婚したくないのかもしれない 笑。欲しけりゃ結婚も子供も機会あった時にやってるのよ、たぶん。もう一度、生きづらい子供時代の伴走、気が遠くなりそうだなぁと足がすくむんだよな。
万一の時は妹のこと養いつつ、美味しいもの美しいもの我慢しないで済む生活したい。なんと、親の分も気になるように^^; -
Posted by ブクログ
37年ぶりに出会った大学同級生で元恋人同士の瞳子と亮。全く別々の人生を歩んできた二人だったが、今でも互いを好きである気持ちに気づく。しかし再び友人となるにはそれぞれの家庭が抱える傷が大きすぎた。作家の亮が書く現実のような小説、病院長婦人の瞳子が悩む小説のような現実。現実と小説の違いは何か。「小説が何のためにあるのか。それは人が自分以外の誰かになるためなのよ。」「手に負えない現実におじけづいている瞳子に、それを物語として解釈することで、現実に立ち向かえと教えてくれる。」 瞳子と亮、生まれ変わって再び巡り合ったら迷いなく一緒になって幸せになりますよう。