関ヶ原の戦いの合戦中に、徳川家康が、西軍石田三成の配下の忍者に殺されたため、その影武者がその後15年に渡って徳川家康に成り代わって生きていくという、設定で書かれた歴史物語です。
関ヶ原の戦いを前後して、徳川家康の趣向が変わっている等、この本の中には、影武者に変わっていただろうと思われる証拠が多く散りばめられています。
上中下の3巻、合計二千頁にも及ぶ大作を、あしかけ数か月、主に出張中の飛行機の中で楽しみながら読みました。楽しかった数か月でした!
以下は気になったポイントです。
・慶長14年には、第九子義直と紀伊37万石浅野幸長の娘、第10子頼宜と肥後52万石加藤清正の娘と婚約させている(p9)
・二郎三郎の目からみると、キリシタンは驚くほど一向一揆の門徒衆に似ていた(p177)
・吉原が元和3年(1617)にできる前の遊里は、麹町、鎌倉河岸、元誓願寺前の3か所(p182)
・フランシスコ会は、神への奉仕だけに身を捧げる教団、伝道のためには戦争も辞さない戦闘的な布教集団イエズス会とは対照的(p329)
・関ヶ原でとりつぶされた大名は90家、438万石、
厳封4家、221万石、他の理由で除封されたものが35家、317万石で、合計一千万石が除封となり、牢人が乗じた。その上にキリシタン武士がいた(p343)
・軍役表によれば、一万石で235人、騎馬は10騎(p379)
・本来、豊臣方がやるはずであった工事(三の丸と二の丸の掘と柵を破却)だけでなく、堀まで埋めてしまった(p402)
・大阪夏の陣において、大野道犬率いる一隊は、堺の町を残らず焼き払って、堺滅亡の原因を作った(p451)
・小判200万両の重量は約一万貫、運ぶには370頭の馬が必要になる(p561)
・家康は駿府を東西に対して難攻不落の地にした。年貢は江戸経由でなく、直接駿府に来るようにした。清水港を南蛮船の来る港にした。朱印状は駿府でのみ発行し、自由独立都市にしようとした(p605)
2015年10月31日作成