石原千秋のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
小・中の教科書の作品・構成の検討を通して
国語教科書に秘められた「思想」を解き明かす書。
この書で述べられていることは、
・現在の国語教育で道徳教育が行われている。
ということ。
本文を読んでいくと、
作品がある特定の道徳観で選ばれていることがよく分かる。
レビュアー個人としては
国語の大半が文学作品の解説で占めているところに
危機意識を感じていたのだが、
この本の著者の主張は概ね合致するものであった。
もっともこの本は教科書分析から
論を展開しているので
本当にこの国語教科書の思想を
児童生徒が植え付けられているのか疑問の余地がある。
けれども、教科書の採択状況の偏りについても述べられているため、
この思想が国語の授業を通して
植えつけられている可能性は高いと思われる。
この書の直接のテーマは国語教育ではあるが、
個人的には、道徳教育を考える上でも有益な一冊だと考える。 -
Posted by ブクログ
本著の「はじめに」で述べている「内面の共同体」がどういったものなのか、よくわからなかった。しかし、この本を読んで、断片的に得られたものは多かったように思う。
本文引用
p33「テクスト論は作者にだけは分析のベクトルを閉じておくが、それ以外のいかなる要因にも開かれている。つまり、テクスト論は立場であって、固有の方法は持たないのである。テクスト論の立場に立つ研究者はたとえてみればテストパイロットのようなもので、たとえばそのテクストについては一般の読者が採用しないような枠組から読んで、テクストの可能性を限界まで引き出すのが仕事なのだ。」
p40「ワインのボトルにワインが半分入っている状態があるとしよう。これが『事実』(=物語内容)だ。この『事実』をどう語るのか(=物語言説)を研究の対象にするのがナラトロジーなのである。」
p56「私たち大衆が読者になったのはそんなに昔のことではない。」
「第一は、印刷技術による書物の大量生産が可能になること。第二は、多くの人々が読み書きの能力。持つこと。第三は、学校教育によって知的な能力が平準化されること。第四は、特に国語教育と、隠れたカリキュラムと呼ばれる児童や生徒や学生の自主的な学習によって、感性が平準化されること。第五は、黙読ができる能力と空間(個室)を持つこと。第六は、これらの条件を備えた階層が大衆として成立すること。第七は、マスメディアの影響も受けて、特にその階層内では共同体意識が持てること。第八は、それでいて自分が独立した個人であるという意識を持てることである。少なくともこれら八つの条件があってはじめて私たちは近代的な読者となったのだ。」
p58「先の八つの条件は中産階級。成立させる条件そのものだと言える。」
p87「私たちは本を読むとき、さまざまなことを期待している。なぜ期待するのかと言えば、事前に多くの知識があるからだ。作者名、タイトル、本の装幀、本の判型、帯の惹句、広告の惹句、書評などなど、本をめぐるさまざまな知識を、文学理論では『パラテクスト』と呼ぶ。」
p90
「内」、「境界領域」、「外」という三つの位置。そして、それらの領域間の移動によって、物語は四つに分類できる。
①浦島太郎型〈内→外→内〉
②かぐや姫型〈外→内→外〉
③成長型〈外→内〉
④退行型〈内→外〉
p124「『異化』とは、物事を生き生きと表現し、生き生きと読まれるために、物事がふだんそう呼ばれている呼び方を用いず、過度の描写をするように書くことを言う。」
「たとえば、『目の下の隈』と書けばすむところを、『大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄暗い半円形の暈が、怠そうな皮で物憂げに染めていた』と書くのだ。(夏目漱石『道草』)」
p139「感情はその具体的な対象がなくなれば、解消する。」
「しかし、気分はそうではない。具体的な対象を名指すことができないから、解消することはない。いつまでも人を捉えてはなさない。」
p140「芥川龍之介に関する情報、憂鬱の伝染という文学的な気分の系列、横須賀という固有名詞がもつコノテーション(暗示的な意味)。これらのいずれによっても『蜜柑』を支配する気分を説明することができるのである。そのどれを選ぶかは、読者がどういう枠組で『蜜柑』を説明しようとするかによって決めればいい。私は二番目を、ベースとしながら、小品の言葉から引き出せる三番目の説明の仕方を最も重視したい。」
p164小森陽一による「主人公」の定義
→「意味論的場の境界線」を超える者
p168「フェミニズム批評が主人公という制度と関わるとすれば、多くの場合、現実の性別を離れて女性として読むことで『意味論的場の境界線を超える主人公』を新たに『発見』することによってだろう。」