あらすじ
戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在、その役割を担っているのが国語である。小・中学校の教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギーを暴き出す。
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Posted by ブクログ
近年はPISAの「読解力」に踊らされたり、最近の作家の作品を入れた結果、方向性を見失っているなんていう話であった。
教室における国語教科書というのは完全無欠で純粋な日本語・日本思想のバイブルである…ような気がしていた。『理想の国語教科書』という齋藤孝が編集した書籍があったが、結局は時代に迎合することなく古典の名作中の名作を掲載していればよいのだと思う。言いすぎかな。
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日本語の国語は、言語教育というよりは、道徳教育に傾いているということが筆者の主張であり、主張を裏付けるいろいろな分析(言説分析・構造分析)がなされている。
国語の文学とは1つの読み方があるわけではなく、いろいろな読み方があるというのが前提だとは思うが、本音と建前の関係のように、日本の国語教育は建前の部分で展開されることが多い。これを明らかにした点はよいと思う。そのうえで、PISA型の読解力は日本で言われている読解力とは異なるものであるので、この能力をどのように伸ばすべきかを検討していくべきだと思った。
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正しいことばかりをかいてる「モノ」
正しいことばかり言いつのる「輩」
には
「鵜呑みにするな」
という
最大限の知性を
常に
自分の中に
温存しておきたい
自己啓発の本が
大量に出回る「現在」だからこそ
しっかり
自分の中に
生きていく処方箋として
持っておきたい
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国語の解法は「道徳」であるという指摘はみんなが何とは無しに感じ続けていたが言葉に出来なかったことなんじゃなかろうか。
内容もさることながら、文章に適度に毒が利いていて読みやすい。
国語が分かる人=「道徳的視点・枠組みから文章が読める人」という視点は、国語力と読書力・読解力を安易に結び付けようとする最近の流れに対して、良い牽制球だと思われる。
突っ込み所があるとしたら、「根拠」の部分かなぁ。言っている事は正しい「気がする」が、それを裏付けるような確固たる証拠や用心深さが見られない。徹底的にやる気なら、もっとやれるはずである。
とは言え、攻撃的な姿勢に全体的に好感が持てる本です。
批評って大事だなぁ。
Posted by ブクログ
とりあえずレポート用に。
国語教科書の問題点を、具体的にその教材の内容に言及して、述べているところ、道徳教育化している国語教育の問題点やら、いろいろと。とりあえず、5時間も普通の読書でいってしまったわけなのですが、内容も頭に入ってなかったり、色々と終わっています。うーん困った。とりあえず、批判的にレポートを書かねば…。
Posted by ブクログ
小・中の教科書の作品・構成の検討を通して
国語教科書に秘められた「思想」を解き明かす書。
この書で述べられていることは、
・現在の国語教育で道徳教育が行われている。
ということ。
本文を読んでいくと、
作品がある特定の道徳観で選ばれていることがよく分かる。
レビュアー個人としては
国語の大半が文学作品の解説で占めているところに
危機意識を感じていたのだが、
この本の著者の主張は概ね合致するものであった。
もっともこの本は教科書分析から
論を展開しているので
本当にこの国語教科書の思想を
児童生徒が植え付けられているのか疑問の余地がある。
けれども、教科書の採択状況の偏りについても述べられているため、
この思想が国語の授業を通して
植えつけられている可能性は高いと思われる。
この書の直接のテーマは国語教育ではあるが、
個人的には、道徳教育を考える上でも有益な一冊だと考える。
Posted by ブクログ
ちょうど塾で中学国語を教えていて、「反論する方法」みたいな単元で、文章に潜んでいる前提を書け、みたいなのをやった。石原が本書でやっていることと全く同じで、あれは教科書準拠の教材だったが、カリキュラムも変わっているのかな。しかし、石原の提案にしても塾での授業にしても、今の子どもは高度な勉強してるな、と思った。
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国語教科書には隠された意図があるというのが筆者の考えである。それは道徳的な色合いが濃く、しかもその道徳とは政府の意図する回顧的保守的性格が強いというのだ。
全面的に認めることはできない。そもそも文章の多くは保守的な内容を持つものであり、子供向けのものとなれば自然体制の維持を前提としたものになるのは当たり前だからだ。
ただ、筆者の言う国語の目的を道徳ではなく、リテラシーに置くべきだという意見には大いに賛成したい。中途半端な意見の押し付けより、自身の読みを形成し、それを他と比較して時に批評する力はいまの子どもたちにもっとも伝えるべきスキルである。
そうすると、国語が目指すものに対する見直しにともなった入試問題が出題されるべきであるし、さらには社会全体がもとめる国語能力のあり方が変わるべきであると思う。そのような国語をめぐるさまざまな問題が、小学校や中学校の教科書のあり方と関わっていることに気づいた。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。
現在、その役割を担っているのが国語である。
「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では何が行われているのか?
小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギーを暴き出す。
[ 目次 ]
第1章 「読解力低下問題」とは何か(国語教育をめぐる「誤解」 「読解力低下」の一人歩き PISAの「読解力」試験とはどういうものか 新しい科目の立ち上げ)
第2章 自己はどのように作られるのか―小学国語(自然に帰ろう 父の不在の意味 自己と他者に出会う 他者のいない情報 二つの定番教材)
第3章 伝える「私」はどこにあるのか―中学国語(強いられるコミュニケーション 「道徳」の方へ 「わたしたち」というレトリック なんのための豊かさか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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カバーに書いてあるように「現在の国語という科目の目的は、広い意味での道徳教育」であり、読解力を養うための教育ではないと指摘。教科書を批判する事を通して、文章の読み方も指南している本。
Posted by ブクログ
国語教育が実は見えない「道徳教育」であり、「自然に帰ろう」「他者と出会おう」といった価値観のもとに編集されていることを指摘し、世界に通用する国語教育とはどのようなものかを説いた本。鋭くシュールな指摘に思わず笑ってしまうところもあり、そうそう、そんな感じの教科書だったなーと思いながら読めるので興味深い。「豊かさ」、「わたしたち」、「客観的」といった何気ない表現に、見えないイデオロギーや曖昧な価値観が含まれていることを、それと気付くことなく納得して読んでしまっていたことに気付かされた。国語教育の難しさを感じた。「テストは教育のはじまり」(p.36)、間違うところから成長する、という言葉には同感だ。(2008/01/13)
Posted by ブクログ
敬愛する石原先生の著書。教育は恐ろしいです。思想統制なんて簡単にできてしまうのですから。
本著は思想統制とまではいかなくても知らず知らずに刷り込まれている思想について、おなじみの国語教科書の教材を分析。なかなか興味深い。
Posted by ブクログ
戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在、その役割を担っているのが国語である。「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では何が行われているのか?小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギーを暴き出す。
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戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在その役割を担って
いるのが国語である。「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では
何が行われているのか? 小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの
教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような
表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギー
を暴き出す。
Posted by ブクログ
小学校や中学校で使われる国語の教科書にテクスト分析の手法を適用することで、そこに働いている権力のありようを解明する試みです。
ただし本書は、「学校」という空間の権力分析をおこなう理論的著作ではなく、もっと論争的な意図を持って書かれた本というべきでしょう。イデオロギー装置としての現代の国語教育に対して、著者ははっきりと反対の態度を表明し、あるべき国語教育について積極的に「提言」をおこないます。「あとがき」によれば、「道徳教育で押さえ込むのをやめて、「批評」活動を通して「個性」を育てる方向へシフト・チェンジしなければ、日本はもう世界で生き残れないのではないだろうか」という思いが本書を書かせたということですが、やや性急に「国語教育への提言」へと踏み込んでいるような印象も受けます。
Posted by ブクログ
かつて学生だった頃を思い出すと、確かに国語は道徳教育だったと感じる。
高校時代の夏休みの課題作文で教師から、私が書いた作文は表現などは良いが内容が道徳的でないとの事で、惜しいけど作文展への出品は別の生徒の作文を、と言われた事をふと思い出した。
個人的にかもしれないが、社会に出てから必要な国語能力は正確な読み書き能力であると感じる。書店ではビジネス文書の書き方についてのコーナーもあり、社会人には文書の書き方で不足を感じている人も多いのではないだろうか。
塾講師をした経験からすれば、現在の中高生はカリキュラム上、特に「書く」事が不十分だと感じる。小論文に苦手意識を持つ生徒も多い様に思われる。他人に自分の考えをなるべく正確に伝えるという事は、教育上必要な事だと思われるのだが…
ただ、国語においてリテラシーのみが必要というわけではなく、文化を理解するために文学もある方がいいと感じる。だから私は筆者のいうような、国語をリテラシーと文学に分ける事には賛成である。
なお、私は時々古典を読むので、中高生のときに習った古典は今も役立っていて、古典も有用だと感じる(より現在の日本語を理解できるという面も)。
ただし、これら(ライティングも含めるとして)を1人の教師が行うには労力が大き過ぎる事は確かで、生徒が受ける授業時間も大きくなり過ぎる。
筆者の案を導入するとしたら削るカリキュラムをよく選ぶ必要があり、大幅な教育改革になるだろう。
しかし、もしこのような教育改革を行い、しかもそれがうまくいけば、日本の発展にとって有効なのものになるのではないだろうか。
以上、読後の独りよがりな感想でした。
Posted by ブクログ
国語の教科書の意味合いについての本。今まで小学校で習ってきた国語の教科書のタイトル、取り扱っている内容にはさまざまな方面で吟味をされており、その中から選りすぐりのものを選定していることがしっかり書いてある。
そこには、ひとつひとつ製作者の思いというものもつまっており、今までなんとなく受けてきた自分を省みるよい機会となった。
国語の先生になりたい人にはおすすめの一冊。
Posted by ブクログ
ここんとこ読んだ本を考えてみると…義務教育において、正解は決まっている事に対して答えを考えるという事が刷り込まれている。それが日本の問題になっている。
Posted by ブクログ
あぁ、来年は教育実習に行くんだ、と思いながら読み進めました。
そのなかで気になる箇所があったので、ここに残しておこうと思います。
…では、日本の国語教育はどうすればいいのか。ここで、一つの提案をしておこう。それは、現在の日本の国語教育はあまりにも「教訓」を読み取る方向に傾きすぎているので、それを是正するために、現在の国語を二つの科目に再編することである。
一つは、まず文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる力をも育てる「リテラシー」という科目を立ち上げることである。この科目においては、「正解」と「まちがい」の違いがある程度はっきり出る。したがって、採点可能な科目である。もちろん、採点の基準は「道徳的な正しさ」では決してない。「正確さ」だけが唯一の採点基準である。(p58-59)
もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることである。なぜ「文学」かといえば、「文学は作者の意図通りに読むべきである」というよほど保守的で頭の固い一部の近代文学研究者でない限り、現代社会においては「文学」は個人の好みでさまざまに読んでよいという共通認識が成り立っているからである。その意味で、書かれたものの中では、文学は誰も傷つけることなく自由に自分の意見を言うことのできる、数少ないジャンルなのである。(中略)
この場合の「批評」とは、テクストから根拠を引き出すことのできる「読み」や、自分の用いた枠組について言及できるような「読み」のことであって、根拠のない意見や感想のことではない。根拠のない意見や感想は、言いっぱなしになるだけであって、知的なコミュニケーションを生まない。
しかし、実は根気よくコミュニケーションを行っていけば、一見すると根拠のないように思える意見や感想でも、ある一定の枠組から読んだものだということがわかってくるはずなのだ。その結果、児童や生徒は自分の立っている場所が見えてくる。つまり、自分がそうと意識せずに寄りかかっていた枠組が見えてくる。「文学」という教科は、そのことを炙り出しにするまで、いかに根気よく児童や生徒と対話ができるかにかかっている。(中略)
したがってこの場合には、教室において複数の「正解」を認めなければならない。つまり、「文学」は採点が不可能な科目である。学校空間のなかに採点をしない科目を作るのである。これはドラスティックな提案かもしれないが、こうでもしないと日本の風土では「自由」な意見は出にくいのでないだろうか。なにしろ、「大人」の世界でも「自由」に意見を言えば、表だって、あるいはやんわりとたしなめるのが、日本のお国柄なのだから(p60-62)。
「リテラシー」の必要性は、普段SSGで議論している通りだと思う。
しかし、本当に問われているのは「批評」することではないだろうか、なんてちょっと思ってしまった。
改めて「国語」の持つ可能性を感じた一冊でした。