世阿弥のレビュー一覧
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「道」を極めるということはどういうことであるのか、それは全てこの本に書いてある。と高校時代に習ったわけです、あたしは。音楽の先生に。2年間教わったのに名前を忘れてしまったなぁ。名前に「藤」がついた気がする。とても風変わりな先生で(現役のピアニストかなんかだったと思う。CDも出してたりするって聞いたことがある)、その授業は音楽ではなく、むしろ芸術論とかそういうものに近かった。人間としての生き方とか振る舞いとか、心の持ち様とか、「美しい」とは何なのかとか、人間の多様性とか、そういう話ばかりしていた。楽器の練習とかって一度もなかったなぁ。。「風姿花伝」に関しても1年か2年か忘れたけれど、半年くらいかけてその音楽の授業で習った(その年の期末試験の問題は「『誠の花』とはなにか?」とかそういうものだった気がする)。今思うと、よい授業だったなぁ、あの音楽の授業は。(06/4/10)
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世阿弥作、能楽論の古典。実際のところは、父・観阿弥の思想を後代に伝承するために書かれたものらしいです。「花」という言葉が多用されているため、一見、詩的・幻想的なことが書かれているのかと思いきや、内容はかなり現実的。たとえば、身分の高い人が観能にくるときは待たせぬよう開演時間を早めるのがよい、とか。室町時代、義満や公家の保護を受けていた能は、一歩間違えれば、いつ路頭に迷うかという不安もあったのかもしれません。実際、ドナルド・キーン氏の「能・文楽・歌舞伎」(講談社学術文庫)によれば、江戸時代、祝いの席での能を少しでも間違うと、切腹を命じられたという記述もあります。この本は、父(観阿弥)の子(世阿弥)に対する厳しさのなかの優しさを秘めた書だともいえます。
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購入済み
原著の雰囲気を感じられた
原著にチャレンジするのがハードル高く感じられたので、現代語訳を選びました。それでも原著の雰囲気を感じられたように思います。解説本とあわせて読むと新たな気づきがありそうな気がします。解説本、このあと読み返してみたいと思っています。
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1.この本を一言で表すと?
・芸の奥義を伝える本
2.よかった点を3〜5つ
・上手は下手の手本、下手は上手の手本(p121)
→何事からも学ぶ姿勢が必要。慢心自惚れを戒める言葉として素晴らしい。
・たとえ指差されて人に笑われても、そんなことは意に介さず声が無理なく出せるような調子で夜間・夜明けの稽古(p25)
→覚悟と努力が必要。この年齢の時にそれができるかどうかが人生の分かれ目。
・上がるは三十四−五までのころ、下がるは四十以来なり(p38)
→若いころに頭角を現さないといけないということ。今の自分はどうか考える。
2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・三道の部分は能の作り方が具体的すぎてあまり頭に入らなかった
3.実践してみようとおもうこと
・なし
4.みんなで議論したいこと
・「花」とは何か?
5.全体の感想
・自分を知ること、芸を磨くこと、謙虚に学ぶこと、真摯な姿勢、どれも基本的には成功するための王道だと思いました。
・芸を磨くということは人生そのもののような印象を受けました。 -
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どんな人に同じく感動をもたらすこと、それが芸能
ずーっと、存在はわかっていて読みたいなーと思っていて手を付けていなかった本を、読みました。
パンセの時と同様、これは多くの人に読まれるための文章ではないので、こうやって公になってしまって観阿弥さんもかわいそうと感じてしまいます。秘すればこそ花なのに。
ご存知、能についての教えの本でありますが、現代芸能と照らし合わせてあれこれ考えさせられることとなりました。
「十七八より
このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ声変りぬれば、第一の花失せたり。」
で声変わりの時期には一切の歌手活動を控えていた三浦大知さんが浮かんだり
「三十四五
このころの能、盛りの極めなり。」
で森高千里さんが「女ざかりは19だ」と言っていたけど能の盛りは34,5なのか、と安心したり。
「私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。」
どんな人に同じく感動をもたらすこと、それが芸能なのですと。東日本大震災から、芸能とは?とその意義を考える人が多かったですが、その一つの答えなのではないでしょうか。
観阿弥さんいわく、とにかく稽古。よそ見しないで稽古。これが大事というところや、どんなに下手な人からも良いところを見つけたらうまい人も見習うべし、とか能以外にも通じる教えは参考になりますね。
私も稽古で種を育て、花を咲かせるため一意専心しなければ!と勇気づけられる本でありました。
冒頭、川瀬先生の注釈のポリシーに信念を感じました。
注釈を見ながら原文を読み、そのあと現代語訳で理解を深めることが出来、非常に読みやすく最後まで楽しむことができますよ。 -
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世阿弥によるこの有名な、室町時代の能楽書については、かつて現代語訳を欠く岩波文庫で読んだことがある。
現代語訳を欠くとは言え、岩波文庫版のものは詳しい校注があって、私でもなんとか大意をつかむことができたが、誤読してないかどうか自信は持てないので、やはり現代語訳のついた角川ソフィア文庫を購入した。
能というと、CDを持っているほか、テレビで2,3編を見たことはある。もちろん、まったく詳しいとは言えないのだが、どうも現代に演じられている能と、世阿弥の時代の能とではかなり違いがあるらしい。
この書で世阿弥が説いているのは、まずは、能の最大の基本としての「物まね」であり、つまり老人や女性を役者が演じ分けるその「写実性」であると思われる。
その上で、各役者が観衆に「めずらし」さをもたらし、感動させていく、そこに「花」がある。
あまりにも当然のことながら、近代ヨーロッパに端を発し明治以降の日本に輸入された「芸術」概念はここにはない。個人による「自己表現」などという視点はありえない。世阿弥の時代、能(猿楽)はかなり地位の高い者たちに見せるものであって、農民に見せることはなかったろうから、「知識人(通)」と「大衆」との対立は存在していなかった。
世阿弥はただ、とりわけ観客の内でも主賓というべき高位の人に気に入られるよう、能を演ぜよ、と言っているだけだ。
もともと近代(あるいは近世か?)以前の日本の「芸」には、大衆と対立する個人の葛藤と、そこから生まれる「自己表現」などというものの余地はなかった。「芸」はそこにいる(知識人レベルの層の)人びとと共に分かち合うものであり、そこで喜ばれることに意味があった。
そのための具体的な修練の手立てが、この本にはたくさん載っている。こんにちの西洋化した日本人の考え方では、なんとなく違和感を感じる部分も多い。こんにち能に関してよく言われるところの「間」といった概念もここには存在しない。
しかしそれゆえにこそ、「芸とは、芸術とは何か?」という根源的な問いに立ち返るきっかけにもなるだろう。
けれども、やはり「能」についてもうちょっとよく知らないと、世阿弥がいわんとしたことをはっきり掴むことは難しいかもしれない。