あらすじ
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わが国の古典中、もっとも異色である作品で、申楽者・観阿弥が、その実力を養い発揮する方法を、人間の本性を会得した立場で考究した、稀有の体系的芸術論である。その洞察は、また人間論としても、現代に生きている。校注は、世阿弥研究の第一人者・川瀬一馬博士。平易な現代語訳の決定版。
感情タグBEST3
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花伝書は一子相伝の芸術書と思われているが、それ以上に観世座をどう経営していくのか、いかに世に残していくのかが書かれた経営論である。そういう目線で読むとまた多くの発見がある。
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能楽とは生きた芸能で、それゆえ花と表されて常に同じではない。
一つの芸術論をこんなに深く読み込んだのは初めてで、本当に目の覚めるような思いでした。
ひかえめにただ美しく、心に絶えず働きを秘める。
そんな生き方をしたいものです。
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やりすぎは良くない。出来すぎも良くない。周りを立てろ
よく行っていた、魚料理屋さんの大将に紹介された本です。
大将にアドバイスされていることが書いてある本でした。
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訳者が「花伝書について講義をする度に新しい発見がある」を言っているが自身もそう感じることがあった。
この本は学生の頃に教えていただいたものであるが5年後の今、再度読んだらまさに、新たな発見という感じだ。
自分自身の考え方を決める上での大事なことが書いてあって、自分の今までを振り返ったり今後の事を考えたりしたらドキドキしてしまった。
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■物狂
物ぐるいのまねぐらい申楽能でおもしろい芸能はない。物ぐるいの種類は多方面にわたるから、これが上手くやれるような達者のものは、結局なんでも上手にやれるわけだ。そこでくり返し工夫がいる稽古である。物のけが付いて狂わせるもの、例えば、神仏・生霊・死霊のたたりなどは、その付いているものの姿をまねてやれば、やりやすい手がかりがあるというものだ。ところが、親に別れ、子を訪ね、夫に捨てられ、妻に後れるというような、人情の悩みが原因で狂乱する物狂いは難しい。相当程度にうまい役者も、狂乱する原因が何かということをしかと突きとめないで、どれもこれも同じく通り一遍に狂いはたらいて見せるので、一向に見物人の感動も起こらない。物思いがもとで起った物狂いをば、できるだけ、何で悩むのかをしっかりと性根において、狂って見せるところを、舞台の花になるようにして、十分気を入れて狂えば、見物人の感動も、おもしろい見どころも、さだめしあるであろう。かようなやり方で見物人を泣かすことができれば、それこそ無上の上手といえよう。このことを心の底によくよく留めておくことだ。
およそ物狂いの扮装は、それぞれ役に似合うようにすべきは勿論である。しかしながらいっそのこと物狂いにかこつけて、場合によっては、できるだけ派手に扮装するがよい。時節の花を挿頭(かんざし)にさすことだ。
また、物まねというものはすべて実在のものの通りまねなければならぬはずのものであるが、ちょっと心得ておかなければいけないことがある。一体、物狂は付いているものの本体をまねて狂って見せるものであるが、女の物狂などに、たとえば、喧嘩乱暴者・悪鬼の様なものが付くことは、どれもいけないことだ。付き物の本体をやろうと思って、女姿ではげしくドタバタやると、女はやさしいものだと思って見ている見物の思いなしに合わない。女の風姿を本体にすると、付き物のいかついという道理がなくなる。まあ、男物狂に女などが付くことも、同じようなわけあいであろう。結局こんな風の能はしないのが秘訣である。そういう能があるというのは能作者の考えが足りないからだ。この道にすぐれた作者ならば、そのように似合わないことを色々と書くことはあるまい。この注意を心得ていることが大切である。
また、素顔の物狂の能は、能を究めてからでないと、充分にゆかぬと思う。なぜかといえば顔の表情を物狂らしくしないと、物狂には見えない。道に達したところがなくて顔の表情を変えたりすれば、見られたものではない。物まねで最もむつかしいものと言ってよい。大切な申楽の興行などには未熟なものはやらないことだ。素顔の能のむつかしさと、物狂のむつかしさと、二つのむつかしさを一つに合わせて一ぺんに心をはたらかせて、見物を引きつける芸の見せ場とすることは大変なことだ。十分稽古してやるがよい。
(問)能に得意得意と言って、とんでもない下手な役者でも、何か一つだけ上手に勝った点がよくあるものです。これを、上手がやってみせないのは、できないのでしょうか。または、してはいけないということで、しないのでしょうか。
(答)一切のことに、得意得意と言って、人間にはだれでも生れつきすぐれた持ち前があるものである。芸の実力はすぐれていても、この持ち前の得意芸にはおよばぬことがある。しかしながら、これもまた、要するに、相当程度の上手の場合の話である。本当に、芸の実力をそなえ、それを発揮する工夫を究めているような上手は、何でもできぬということはない。それが、下手な得意芸におよばぬというのは、本当に実力のあるシテが、万人の中に一人もいないからである。それがないというのは、実力を発揮する工夫はなくて、慢心があるからだ。そもそも、上手な者にも悪いところがあり、下手な者にも善いところはなからずあるものだ。それをはたで気がつく者もないし、当人も知らない。上手はうまいという名声をそら頼みにし、芸達者におおわれて、悪いところに気がつかない。下手は、元来工夫ということがないから、悪いところをも知らぬ代りに、まれに善いところがあるのも気が付かない。そこで、上手も下手も、互いに他人に悪いところをたずねるがよい。しかしながら、実力をそなえ、それを発揮する工夫を究めたような者は、自ら反省してこれを知るであろう。
どんなに変てこりんなシテでも、もし善いところがあると思ったならば、上手な者もこれをまねするがよい。これが上達する第一の方法だ。もし他人の善いところを見たとしても、自分より下手な者のまねはすまいと思う手前勝手な気持ちがあるならば、その心にしばられて、自分の悪いところをも恐らくは知らぬに相違ない。これがつまり、道を究めね心情というものだ。また、下手な者も、上手の悪いところがもしわかったならば、上手でさえも悪いところがある。いわんや未熟な自分のことだから、さだめし悪いところが多いであろうと思って、それに気を付けて、他人にも尋ね、自分でも工夫をするならば、それが益々稽古になって、能は速やかに上達するであろう。もし、そうではなくて、自分はあんな風にへまなことはしはすまいものをと、慢心するならば、自分の善いところも、本当には知らないシテであろう。善いところを知らないから、悪いところをもよいと思うのである。そこで年は取っても能は上達しないのである。これが下手の心情というものだ。
こういう次第だから、上手な者でさえもわがまま勝手な気持でいると、能は下ってしまう。いわんや未熟な者の手前勝手はなおさらのことだ。そこでだれもみなよくよく反省するがよい。上手は下手の手本、また下手は上手の手本になるものだと思って工夫をするがよい。下手の善いところを取り上げて上手の得意芸に組み入れるということは、なんとうまい考えではないか。他人の悪いところを見るのさえも自分の手本になる。いわんや善いところを見ればなおのことだ。前に「稽古はうんとやれ、自分勝手はいけない」と言ったのは、このことだ。
奥儀に言う
そもそもこの風姿花伝の内容たるや、他人には見せないはずのもので、自家の子孫のために教えを説いたものであるが、その著作の主旨は、当今の申楽者たちを見ると、自分の芸の稽古はよい加減にして、専門外のことばかりをやっている。たまに申楽をやっている者があるかと思うと、その連中は、目先きを追って、ぱっと人の目に着くことばかりをやり、一時的な名声にとらわれて、根本を忘れ、目標を見失っている有様なので、こんなことでは、もう申楽も駄目になってしまうのではないかと残念でたまらない。
それだから、こういう中でこの道に励み、芸を尊重して、一所懸命やるならば、成功しないはずはないのだ。特に申楽の芸は、先輩の残した型を受け継いで行くものではあるが、それに自分の力で発明したやり方が加わって行くならば、この上もないことだ。先輩の風を会得して、心から心に伝わる「花」であるから、この書物の名を「風姿花伝」とつけたのである。
一体、能で名声を得るには、色々な場合がある。上手な役者は目が利かない観客の気に入ることはむつかしい。逆に下手な役者は、目の利く観客には問題にされない。下手な役者が目利きの眼がねにかなわぬことに不審はないが、上手な役者が目の利かぬ観客の気に入らぬことは、これはもとより目が利かぬ観客の批評眼がとどかぬところから来ているのだけれども、道に達した上手で、しかも自分の芸力を十分発揮する工夫の才を兼ね具えているような役者ならば、また目が利かない見物人の眼にもおもしろいと見えるように能をやるであろう。この工夫の才と芸の熟達とを合せて究めたような役者をば、花を究めたものと言ってよい。この花を究めた芸境に達した役者は、いかに年をとっても、若さの良さを発揮している役者などに劣ることはないはずだ。こういう芸境に到達したような上手な者こそ、天下に広く名手と認められ、また遠く地方の人たちまでも全部が全部おもしろいと見るに違いない。こういう工夫を会得したような役者は、大和申楽でも近江申楽でも、また田楽の風体でも何でも、世人の希望によって、どれでも上手くやれる上手と言えよう。こういう稽古のやり方をはっきり教えようとして、実はこの風姿花伝を作ったのである。
このように広く何でもやれなければいけないからと言って、自分本来の基本の風体の方がよい加減であるというようでは、能の長い生命はない。そういうのは芸力の弱い役者と言ってよい。まず自分の本来の風体の型をすっかり自分のものにしてしまってこそ、遍く種々の異った風体をも知ったということになるので、何でも心がけようとして、自分の流儀の基本をすっかりのみこんでいない様な役者は、自分の風体を知らぬばかりか、ましてやよその風体など確かにわかるはずはないのである。そんなことでは、能に底力もなく、久しく花を保つこともできまい。久しく花がないということは、結局どの風体もわからぬのと同じだ。前に花の説明をしたところで、まず芸力を十分に養い、その芸力を発揮する工夫を究めて後、はじめて花とはいかなるものかがわかるものだといったのは、このことだ。
これは秘訣であるが、一体、芸能とは何かと言えば、諸人の心を和らげて、あらゆる階層の人々に同じく感動を催させることである。そして、それが、生命を豊かにするという人生幸福増進の基になり、寿命を延ばす方法となるのである。究めつくせば、人間社会すべての営みは、ことごとく寿福延長(生命を豊かにすること)を目的としているものだ。けれども、この上下に感動を与えるということについて、経験上考うべきことがある。すぐれた智者の眼に認められるのが、芸の品格の究まった名手であれば、眼識と芸位とがうまく釣り合っているから論はない。ところが愚かな連中、地方人の教養不足の眼では、この品格の高い芸はとどきにくい。これをどうしたらよいであろうか。
この申楽の芸というものは、大衆の人気をもって一座を繫栄させてゆく基礎としている。それゆえに、芸の内容が向上して余り大衆のおよばぬ芸ばかりになってしまうと、大衆の人気が無くなってしまう。それを防ぐためには、能をやる場合に、初心(やりはじめの未熟)であったときのことを忘れないで、そのやり方を思い起こして、時に応じ場所によって、愚かな大衆の眼にも、なるほどもっともと思うように能をやるということが、一座を成り立たせてゆくこつである。よくよく社会の風俗に眼を向けると、貴人の御前から地方山村の祭礼にいたるまで、幅広くどこでもそしりを受けないようなのを、寿福に報われる達人と言ってよろしかろう。どんな上手な役者であろうとも、大衆の人気が欠けたような点がある者をば、寿福を増長する役者、芸能の本質を遂げるような役者とは言えない。そこで、死んだ親父は、どんな田舎、辺ぴな山村でも、その土地の人々の気風を十分のみこんで、そのところの風習によく気を付けて芸をやったものだ。
このように言ったからといって、未熟な者が、そんな大変なところまでどうして容易に究められようかと、あきらめてしまってはいけない。この花伝書の内容を心の底にしっかりしまっておいて、その教えを必要に応じて少しずつ取り上げて、適当に自分の分に応じた芸の力に照らし合わせて、工夫をするがよい。
大体、今ここで述べていることは、未熟な者に直接教えるというよりは、むしろもっとずっと進んだ段階の者に対しての注意である。道を究めた上手な役者は少ないが、たまにそういう者があっても、芸達者を空頼みにして、名声に迷わされて、この反省を待たず、評判ほどには寿福がともなわぬ者ばかりなので、それを残念に思うのである。芸力がそなわっても、それを発揮する工夫が無くては駄目だ。工夫を究めた場合は、花に種を添えたようなものだ。たとい天下に広く認められたような名手でも、人力のいかんともしがたいめぐりあわせで、万一中央で少し人気が落ちるようなことがあったとしても、地方での人気が無くならなければ、ぷっつりと芸道が廃ってしまうということはあるまい。また機会がめぐって来れば、再び全盛に出会うこともあるであろう。
一(ひとつ)、そもそも因果といって、善い時・悪い時をいうのがあるのも、工夫を凝らして見ると、要するにそれは珍らしい・珍らしくないの二つになる。上手な者がやった同じ能を、昨日と今日と続けて見たとして、前におもしろいなと見たことが、後ではまたおもしろくもない時があるというのは、昨日おもしろかったと思っていたのが、今日は珍らしくないために、よくないと思うのだ。その後またよい時があるのは、前に悪かったのにと思う気持が、また珍らしいということに返って、おもしろくなるのである。
こういう次第で、この道を究め終って、さとってみれば、「花」といっても、特別に存在するものではない。奥儀を究めて、万事に珍らしいということが大事だという原理を、自分からさとる以外には、花を知る方法はない。仏経に、「善といい悪といっても、それは二つのものではない。その現われ方は色々でも、その本体は一つである。邪といい正というのも一体である。」と見える。元来、善い悪いというのは、何を基準として決めるべきものであろうか。それは要するに、役に立つ物を善い物とし、役に立たぬ物を悪い物とするのだ。この申楽の風体の色々も、現代の大衆・各地において、その時の一般の好みによって取り出して演ずる風体は、これは、その時に効果を挙げるから花になるのだ。こっちでこの風体を喜ぶかと思えば、あっちではまた他の風体を楽しむ。これは各人の気持で「花」が違っているということだ。どれが本当の花なのか。どれもみな本当なのだ。ただその時々に効果があるのが「花」だと知るがよい。
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定期的に読み返すことで、感じ方が変わったり、内容がしみこむだろうなと思う本。特に、第五 奥儀と第七 別紙口伝が秀逸。 特に印象に残っている内容は、以下2点。 「芸能の本質は、あらゆる階層の人に同じく感動を催させることであり、それが生命を豊かにする人生幸福増進のもとになる。」 「花と、おもしろいということと、珍しいということは同じ意味合いである。どの植物も式の変遷につれて咲いていくものだから、それが時節に調和して珍しく感じられるので、人がおもしろいと思うのだ。」
Posted by ブクログ
全く古さを感じさせない、芸への眼差しに驚く他無い
現代語訳・解説もついているのでとても読みやすかった
一度の読み通しだけでは花や幽玄の本質を自分には読み解けないので
これからなんども眼を通して行きたい
最近この本の能面表紙を枕にすると良く眠れることに気がつきました
Posted by ブクログ
せっかくの丁寧な解説や現代語訳にもかからわず、私にはちょっと難解でした。
ですが、演技論や「花」に関する記述は面白く、演劇や芸術活動をしている人にとっては、もっと面白いのではないかと思います。
世阿弥の著作だとばかり思っていましたが、お父さんの観阿弥の主張を世阿弥が書き留めたものだそう。さらに面白いことには、ずっと秘伝にされていたもので、発見されたのは近代なんだそう。秘伝書ですからねぇ・・。ってことは、この本のようにとても面白い、すごい本が秘されたまま世に出ずに、その権利をもった人だけに語り継がれている、という本もたくさんあるのでしょうね。
まさに「秘すれば花」か。
この本についで『隠れたる日本霊性史 古神道から視た猿楽師たち』(菅田正昭著 たちばな出版)という本を読んでいますが、おかげで世阿弥や能楽についての世界が深まりました。オススメです。
Posted by ブクログ
どんな人に同じく感動をもたらすこと、それが芸能
ずーっと、存在はわかっていて読みたいなーと思っていて手を付けていなかった本を、読みました。
パンセの時と同様、これは多くの人に読まれるための文章ではないので、こうやって公になってしまって観阿弥さんもかわいそうと感じてしまいます。秘すればこそ花なのに。
ご存知、能についての教えの本でありますが、現代芸能と照らし合わせてあれこれ考えさせられることとなりました。
「十七八より
このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ声変りぬれば、第一の花失せたり。」
で声変わりの時期には一切の歌手活動を控えていた三浦大知さんが浮かんだり
「三十四五
このころの能、盛りの極めなり。」
で森高千里さんが「女ざかりは19だ」と言っていたけど能の盛りは34,5なのか、と安心したり。
「私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。」
どんな人に同じく感動をもたらすこと、それが芸能なのですと。東日本大震災から、芸能とは?とその意義を考える人が多かったですが、その一つの答えなのではないでしょうか。
観阿弥さんいわく、とにかく稽古。よそ見しないで稽古。これが大事というところや、どんなに下手な人からも良いところを見つけたらうまい人も見習うべし、とか能以外にも通じる教えは参考になりますね。
私も稽古で種を育て、花を咲かせるため一意専心しなければ!と勇気づけられる本でありました。
冒頭、川瀬先生の注釈のポリシーに信念を感じました。
注釈を見ながら原文を読み、そのあと現代語訳で理解を深めることが出来、非常に読みやすく最後まで楽しむことができますよ。
Posted by ブクログ
結婚してから購入した本と記憶。これは、オベンキョウのつもりで、声をだして音読してみました。ヒトハ、何ヲ、スルベキデ、ショウネ?アカン、コタエ、ハ、ワカンナイ!