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一般に『花伝書』として知られる『風姿花伝』は,亡父観阿弥の遺訓にもとづく世阿弥(1364?―1443)最初の能芸論書で,能楽の聖典として連綿と読みつがれてきた.室町時代以後日本文学の根本精神を成していた「幽玄」「物真似」の本義を徹底的に論じている点で,堂々たる芸術表現論として今日もなお価値を失わない.※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.
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Posted by ブクログ
父・観阿弥と共に能楽を成立させた世阿弥による能楽の奥義書。奥義書といっても、素直に読むとこれは能楽の教科書とも言うべきもので、能楽師のキャリアや練習の方法、心の持ち方といったものが丁寧に解説されている。ごく簡単に要点を抽出すると、以下のようになるかと思う。
まず、能楽師の目標は観客に「花」を見せること。「花」のある演技を見せること。この「花」というのは、究極的には観客が珍しさを感じるような演技である。
では、どのように観客に珍しさを感じさせるか。これには三つのコツがある。一つめは、状況を適切に把握すること。時間帯、演目の内容、観客がこれまでに観たことがある演目等々、状況を適切に把握すれば自ずとどのような演技で珍しさを感じさせることができるかわかる。二つめはその状況に合わせて適切に演じること。状況に合わせて適切に演じることができれば観客に珍しさを感じさせることは難しくない。三つめは、観客に合わせてこちらがいろんな手を打つということを観客に知られないこと。こちらの手の内がわかってしまえば当然珍しさというものは発生し得ない。これが有名な「秘すれば花」である。
そのためには、能についてよく勉強をして適切な状況判断ができるようにし、状況に合わせて演じ分けられるよう常日頃から練習を怠らず、そしてこの能の極意は秘匿せよ、ということになる。
この論理からもわかるように本書はある種の専門的な職業についている人間にとっての普遍的なキャリア論、教育論としても読むことができるのではないかと思う。結局のところ、ある種の職業の要諦は、状況を適切に把握し適切な手段でもって相手の裏をかく、というところにあるのではないだろうか。
Posted by ブクログ
漫画「花よりも花の如く」(成田美名子/白泉社)を読んで日本っぽいもの、芸とは演じるとは、に触れたくなって手を出した。密で無駄なく普遍的かつ至りがたい。名前はみんな知っているけれど、本当にすごい本だった。漫画を読んでいて私は子供に惹かれるから小さな演者が好きだった。それに関しては「先づ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。聲も立つ比なり。二つの便り(ちご姿の美しさと聲の良さ)あれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ花めけれり。」とある。たまらん!しかし「さりながら、この花、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。」この花というのは端的にこれ、と示されない。いくつかのキーワードについて語られるなかに花は幻のように湧きあがるけれど、浅い読書じゃ掴めない。鬼についての言及もかっこいい。「「巌に花の咲かんが如し」と申したるも、鬼をば強く、恐ろしく、肝を消すようにするならでは、およその風体もなし。これ、巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、珍しく見ゆるる所、これ、花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。」荒々しい強い動作には足下は極めて優雅にとか、そのエッセンスと妙は挙げたらキリがない。神議云、の章も能関係の説話が面白かった。「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、「神」といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に、申楽と名附く。即ち、楽を申すよりてなり。または、神楽を分くればなり。」はーなるほど!きれい事ばかり書かれているのではなく、成功するための駆け引きなど厳しい世界がかいま見える。そもそも能は「壽福増長の基」、素敵だなあ。しかしこの本は広く能に親しんでもらうためのテキストではない。「この別紙口伝、当藝において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとひ、一子なりと云ふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家となす。人、人にあらず。知るをもて人とす。」と云へり。これ、万徳了達の妙花を極むる所なるべし。」家というのを現代人から見ても先進的に捉えていて感心するけれど、これは秘伝なのだ。私のような人間が読んでいることに、秘宝を盗み見るような後ろめたさと快感があり、ドキドキさせてくれる。演劇者文学者に限らずあらゆる意味での表現者にとってもこれは秘伝だ。現代語訳もそのうちに読みたいけれど、まずは注も控えめな岩波文庫で原文を読むのがオススメ。文に無駄が一切なく、章立ても細かいからなかなか読めるよ!
Posted by ブクログ
芸に生き、花を求めつづける世阿弥の姿。
ひとを写し取り、真似る能というもの。芸を志さねば、風の姿も、伝える花もいらない。芸とはそういうところにあるものだ。能について詳しくはないが、たくさんの芸術家がいた中で、彼だけがその本質を知りえていたに違いない。しかし、それをかつて達成したしたと思えるのは父、観阿弥のみであって、いかに道が険しいのかということを同時に知ってしまったにちがいない。門外不出にしたのもなんとなくわかってしまう。
美しさというもの、幽玄というものは決して弱々しいものではない。彼にとって強さとは、それがそれ自体で成り立つものだ。独立。現実現象。どのような場におおいても移り変わらぬもの。弱さ、荒さはそうでないもの。弱いのに強く見せる。もともと強いのに強く見せる。
しかし、それはおおよそ、ひとが手を加えて真似る能という芸術のあり方からすると、ほぼ不可能なのだ。物狂いや鬼を能として取り上げる以上、そこには、恐ろしさや狂気をそういうものとしてみせなけえればならないのだから。
それゆえ、場の空気やみせる順番、時節、文字の精神、稽古、技能というものがあるのだ。そうして、シテそれぞれの決して失われぬことのない「花」ができあがり、それが「風」となって伝わっていく。これは、いくら言ってもわからぬものだから、言わぬ。稽古の中で自らが知っていくものである。世阿弥曰く、そこまで至るのに30年。
それでも、花が続くかどうかは時の運次第だから、稽古はずっと続いていく。おそらく、この稽古というものは、舞台の練習にとどまらず、文字に触れたり、時節の移ろいに触れることなど、生活そのもののことなのだと思う。
能の始まりは、ひとの心を慰めたり、喜ばせたりするものだ。それをみたからって腹が膨れるわけでも、のどの渇きが癒えるわけでもない。けれどそれはずっと昔からひとに求められたから在る。なんと不思議なことではないか。始皇帝の生まれかわりとか、伝説のような能の始まりはたぶん、こういうひとの心性によっているんだと思う。
花とは、ひとが生きて在る、そのことだ。土を肥やし、適した時期にいい種を蒔く。どんな花が咲くかはわからぬ。そもそも、ちゃんと花が咲くかもわからぬ。それでも、種を蒔かねば花は咲かぬし、美しい花をみたいと望まれているから種を蒔くのだ。花は心。それは花となるひと、花をめでるひと、すべてに共通するものだ。心とは、思うと同時に行ってもいる。この風姿花伝は理論と実践というわけかたでは、決してない。便宜上、稽古とか技能ということばは使っているが。世阿弥にとってそれはどちらも同じことだった。それこそ、世阿弥によって咲いた花だった。
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