【感想・ネタバレ】風姿花伝 (花伝書)のレビュー

あらすじ

一般に『花伝書』として知られる『風姿花伝』は,亡父観阿弥の遺訓にもとづく世阿弥(1364?―1443)最初の能芸論書で,能楽の聖典として連綿と読みつがれてきた.室町時代以後日本文学の根本精神を成していた「幽玄」「物真似」の本義を徹底的に論じている点で,堂々たる芸術表現論として今日もなお価値を失わない.※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.

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Posted by ブクログ

開始:2022/10/24
終了:2022/10/25

感想
めちゃくちゃ面白い。能の秘奥義を書いた深淵な書、であるがそれだけでない。能は客座の陰陽をも感じ取り花を咲かせる。珍しきを花とする。

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2022年10月25日

Posted by ブクログ

ビジネスとアートの世界をどう両立させるのかについての示唆が得られる。
いわゆる素人ウケと玄人ウケをどう両立させ、
時流に乗るのかについてなど現代にも通づる
「見せ方」を学べた。

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2020年04月29日

Posted by ブクログ

父・観阿弥と共に能楽を成立させた世阿弥による能楽の奥義書。奥義書といっても、素直に読むとこれは能楽の教科書とも言うべきもので、能楽師のキャリアや練習の方法、心の持ち方といったものが丁寧に解説されている。ごく簡単に要点を抽出すると、以下のようになるかと思う。

まず、能楽師の目標は観客に「花」を見せること。「花」のある演技を見せること。この「花」というのは、究極的には観客が珍しさを感じるような演技である。

では、どのように観客に珍しさを感じさせるか。これには三つのコツがある。一つめは、状況を適切に把握すること。時間帯、演目の内容、観客がこれまでに観たことがある演目等々、状況を適切に把握すれば自ずとどのような演技で珍しさを感じさせることができるかわかる。二つめはその状況に合わせて適切に演じること。状況に合わせて適切に演じることができれば観客に珍しさを感じさせることは難しくない。三つめは、観客に合わせてこちらがいろんな手を打つということを観客に知られないこと。こちらの手の内がわかってしまえば当然珍しさというものは発生し得ない。これが有名な「秘すれば花」である。

そのためには、能についてよく勉強をして適切な状況判断ができるようにし、状況に合わせて演じ分けられるよう常日頃から練習を怠らず、そしてこの能の極意は秘匿せよ、ということになる。

この論理からもわかるように本書はある種の専門的な職業についている人間にとっての普遍的なキャリア論、教育論としても読むことができるのではないかと思う。結局のところ、ある種の職業の要諦は、状況を適切に把握し適切な手段でもって相手の裏をかく、というところにあるのではないだろうか。

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2013年01月04日

Posted by ブクログ

「花」がポイント。
花とはつまり何なのか、何が肝なのか、が、大変簡潔かつ適切に書かれている。

このレビューでは、自身が読んでも何がなんだかわかるまい。
その時の自分へ:再読せよ。時間を割いてでも、その価値あり。

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2012年01月07日

Posted by ブクログ

漫画「花よりも花の如く」(成田美名子/白泉社)を読んで日本っぽいもの、芸とは演じるとは、に触れたくなって手を出した。密で無駄なく普遍的かつ至りがたい。名前はみんな知っているけれど、本当にすごい本だった。漫画を読んでいて私は子供に惹かれるから小さな演者が好きだった。それに関しては「先づ、童形なれば、何としたるも幽玄なり。聲も立つ比なり。二つの便り(ちご姿の美しさと聲の良さ)あれば、わろき事は隠れ、よき事はいよいよ花めけれり。」とある。たまらん!しかし「さりながら、この花、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。」この花というのは端的にこれ、と示されない。いくつかのキーワードについて語られるなかに花は幻のように湧きあがるけれど、浅い読書じゃ掴めない。鬼についての言及もかっこいい。「「巌に花の咲かんが如し」と申したるも、鬼をば強く、恐ろしく、肝を消すようにするならでは、およその風体もなし。これ、巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、珍しく見ゆるる所、これ、花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。」荒々しい強い動作には足下は極めて優雅にとか、そのエッセンスと妙は挙げたらキリがない。神議云、の章も能関係の説話が面白かった。「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、「神」といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に、申楽と名附く。即ち、楽を申すよりてなり。または、神楽を分くればなり。」はーなるほど!きれい事ばかり書かれているのではなく、成功するための駆け引きなど厳しい世界がかいま見える。そもそも能は「壽福増長の基」、素敵だなあ。しかしこの本は広く能に親しんでもらうためのテキストではない。「この別紙口伝、当藝において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとひ、一子なりと云ふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家、家にあらず。次ぐをもて家となす。人、人にあらず。知るをもて人とす。」と云へり。これ、万徳了達の妙花を極むる所なるべし。」家というのを現代人から見ても先進的に捉えていて感心するけれど、これは秘伝なのだ。私のような人間が読んでいることに、秘宝を盗み見るような後ろめたさと快感があり、ドキドキさせてくれる。演劇者文学者に限らずあらゆる意味での表現者にとってもこれは秘伝だ。現代語訳もそのうちに読みたいけれど、まずは注も控えめな岩波文庫で原文を読むのがオススメ。文に無駄が一切なく、章立ても細かいからなかなか読めるよ!

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2011年07月28日

Posted by ブクログ

そのうち現代語訳も読みたいけれど、
はじめにシンプルな原文を岩波で読んでよかったと思う。
六百年も前の言葉なのに
削ぎ落とされているから結構読める。
全編芸をする、そこに花を咲かせるということを
浮き彫りにする言葉がぎっしり。
なのにその花は頭に浮かぶようで掴みきれない。
鬼の役は力強いだけではダメで、巌に花だから珍しい、
力強いだけなのはただの巌、というところが好き。

秘本であることを証する文で締めくくられ、
自分なんかが読んで良かったのかとドキドキする。
んーかっこいい。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

稀代のエンターティナーが残したソリッド(すぎる)教本。
日本語の響き、日本の「風流」をもっとも凝縮している、黒い小宇宙のような本。
密度が濃すぎて、たまに酔う。そんな本。

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2009年10月07日

Posted by ブクログ

能で有名な世阿弥の書
初心忘れるべからず
秘すれば花など記載されている

「初心」とは「始めた頃の気持ちや志」すなわち「初志」ではなく、「芸の未熟さ」、つまり「初心者の頃のみっともなさ」なのです。
初心者の頃のみっともなさ、未熟さを折にふれて思い出すことにより、「あのみじめな状態には戻りたくない」と思うことでさらに精進できるのだ、と彼は説いています。

「初心」は若いころの初心を表わしています。
しかしそれに続いて「時々の初心」「老後の初心」と言われている。

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2023年05月06日

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ネタバレ

初心忘るるべからずや秘すれば花などあまりにも有名な花伝書。白洲正子が能や仏像について語るとき「初心な心」という言葉を使っていたので、手に取る。

何度も読んだことがあった本であったが、ダンスをしているのであるいはエンターテイナーとしてパフォーマーとしての心得や芸の道を真摯に極める厳しい戒めが人としてのあり方をも示唆していて学びが多い。

世阿弥が義満の庇護なきあと政争に巻き込まれ佐渡へ71歳で配流となり佐渡で能が盛んであることを知り、芸術家とパトロンの関係の難しさを、ニジンスキーとディアギレフについて思った。

まごうことなき名著だった。

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2022年04月07日

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完全にやらかした、岩波文庫が好きだから岩波で買ったが、現代訳がついてないタイプだった。
学術文庫のように丁寧な解説ついてないので要注意

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2022年03月16日

Posted by ブクログ

芸に生き、花を求めつづける世阿弥の姿。
ひとを写し取り、真似る能というもの。芸を志さねば、風の姿も、伝える花もいらない。芸とはそういうところにあるものだ。能について詳しくはないが、たくさんの芸術家がいた中で、彼だけがその本質を知りえていたに違いない。しかし、それをかつて達成したしたと思えるのは父、観阿弥のみであって、いかに道が険しいのかということを同時に知ってしまったにちがいない。門外不出にしたのもなんとなくわかってしまう。
美しさというもの、幽玄というものは決して弱々しいものではない。彼にとって強さとは、それがそれ自体で成り立つものだ。独立。現実現象。どのような場におおいても移り変わらぬもの。弱さ、荒さはそうでないもの。弱いのに強く見せる。もともと強いのに強く見せる。
しかし、それはおおよそ、ひとが手を加えて真似る能という芸術のあり方からすると、ほぼ不可能なのだ。物狂いや鬼を能として取り上げる以上、そこには、恐ろしさや狂気をそういうものとしてみせなけえればならないのだから。
それゆえ、場の空気やみせる順番、時節、文字の精神、稽古、技能というものがあるのだ。そうして、シテそれぞれの決して失われぬことのない「花」ができあがり、それが「風」となって伝わっていく。これは、いくら言ってもわからぬものだから、言わぬ。稽古の中で自らが知っていくものである。世阿弥曰く、そこまで至るのに30年。
それでも、花が続くかどうかは時の運次第だから、稽古はずっと続いていく。おそらく、この稽古というものは、舞台の練習にとどまらず、文字に触れたり、時節の移ろいに触れることなど、生活そのもののことなのだと思う。
能の始まりは、ひとの心を慰めたり、喜ばせたりするものだ。それをみたからって腹が膨れるわけでも、のどの渇きが癒えるわけでもない。けれどそれはずっと昔からひとに求められたから在る。なんと不思議なことではないか。始皇帝の生まれかわりとか、伝説のような能の始まりはたぶん、こういうひとの心性によっているんだと思う。
花とは、ひとが生きて在る、そのことだ。土を肥やし、適した時期にいい種を蒔く。どんな花が咲くかはわからぬ。そもそも、ちゃんと花が咲くかもわからぬ。それでも、種を蒔かねば花は咲かぬし、美しい花をみたいと望まれているから種を蒔くのだ。花は心。それは花となるひと、花をめでるひと、すべてに共通するものだ。心とは、思うと同時に行ってもいる。この風姿花伝は理論と実践というわけかたでは、決してない。便宜上、稽古とか技能ということばは使っているが。世阿弥にとってそれはどちらも同じことだった。それこそ、世阿弥によって咲いた花だった。

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2016年03月29日

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室町時代の能楽師・世阿弥が能を行うにあたっての精神や心得をその芸術論とともに家伝として遺し伝えられたあまりにも有名な秘伝書。
完成形は全7編によりなり、特に第7編目の『別紙口伝』は一代一人相伝と記されていて、例え一子であっても器量が無ければ伝えてはならないとしている。
全7編の概要は次の通り。
第1編『年来稽古条々』一人前の能芸者になるまでに辿るその年齢に見合った練習の仕方と境地を記載。
第2編『物学(ものまね)条々』女、老人、法師、修羅などその役柄に合わせた演じ方を記載。
第3編『問答条々』緩急や陰陽などを踏まえた演じ方や、相手に合わせた変化、慢心の禁止、花・幽玄・風情など世阿弥ならではの能芸術論を問答形式で論じる。
第4編『神儀云』申楽(さるがく=能)の歴史を記載。
第5編『奥儀讃歎云』本作を記すに到った背景を記載。本作を『風姿花伝』と名付けている。
第6編『花修云』能の極意を記載。優しい言葉を選ぶこと、珍しい風体になること、音曲と風情を合わせること、能には強き・幽玄・弱き・荒きがあり強きと幽玄を行うこと、稽古を重ねることで年老いても花は残るなど。
第7編『別紙口伝』能が目指すべきは花、そして毎回珍しいものを演じること、物まねはちょっとズラして真似た方が面白い、あらゆる物まね芸を修得すればそれは引き出しになる、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」、因果を知ること、など能の最終奥儀を記載。

有名な言葉「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(パンチラのようなものか?)にもあるように、本書で世阿弥が能(申楽)に一貫して求めていたものは「花」である。美しい、珍しいといって観賞されるが、やがては散ってしまう花のようにあるべきだとする。また、そもそも芸能とは諸人の心を和らげて感動を与えるもの、寿命増長の基となるものであるとした上で、珍しい風体をして優しく柔らかく、時にはその役に相応しい強さをもって演ずれば観客に面白く受け入れられるとしている。
現代では古典芸能として知られる能(申楽)であるが、こうしてみると、いかにすると観客を面白さで惹きつけることができるかということがまず考えられていて、1人前のプロとして大衆心理を踏まえた演出と演技を求める内容が大半を占めているように思われる。その中で、世阿弥が考える芸の美学の追求としての「花」が結び付けられ、実際面として「幽玄」や「風情」「物まね」「珍しさ」「緩急」「陰陽」などのキーワードで彼なりの芸理論が語られるのである。
そして、舞台装置の妙や役稽古ついてや音楽と舞の同期合わせなども含め、ひたすら芸のあり方・やり方を熱心に考え、どうやって観客に面白がってもらおうかと考える姿は、時空を超えてとても真に迫って感じられるものであり、なかなか興味深いものであった。
本書の趣旨はこうした芸の奥儀を家伝として彼の家へ相伝することにあったが、あまりにも熱心に追求し過ぎたため、それが「花」という美学への昇華とか、パンチラの推奨や微妙にズラした物まねの方が面白いなど人間心理をつくものであっただけに芸術論にまで高めることができたといえる。しかし、こうして家伝として秘密に伝えられることになったが故に、時代の移ろいとともに大衆受けする芸能から切り離され古典芸能となったことは、世阿弥の芸術感性の確かさを表すとともに、世阿弥が目指した面白さの追求からはかけ離れることになってしまったともいえる。
世阿弥の芸に対しての強い想いの息吹が伝わってくるかのような作品である。

ところで、パンチラを技にできるなんて、あるいは美少年だった世阿弥だからこそできたともいえないだろうか?(笑)

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2015年11月06日

Posted by ブクログ

思っていたよりも読みやすかった!
と言ってももちろん、内容や文章が全部理解できたわけではなく、ぽつぽつ「こういうことを言っているのかな」と思ったってだけだけど。
同時並行で読んでいる『和泉式部日記』よりは断然わかりやすい。
もう手元には無いので、覚えている分だけメモ。

・誠の花
・花は心なり、種は態なり
・強き、幽玄、弱き、荒き
・陽気、陰気
・神楽→示す偏を取って「申楽」
・秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず
・人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり

他にもあった気がするけれど、とりあえず興味深い本だった!

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2015年08月04日

Posted by ブクログ

会社に入って先輩のいいところ、悪いところ。後輩のいいところ、わるいところを見たとき、自分の技術を磨く上での考えのベースになりました。

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2014年12月04日

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世阿弥の能芸論書。
能の芸術論としてはもちろんだが、「年来稽古条々」などは、教育書としても価値があると思う。

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2013年05月17日

Posted by ブクログ

日経ビジネスのコラム(?)で紹介されていたのを見て、読みたいリストへ。
職人をひとりを育て技術を伝えていく、という視点で考えたとき、
指南書というにはかなり深いかと。(自戒をこめて。)

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2013年03月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

言わずと知れた世阿弥の能楽についての芸術論書。芸術論ではあるものの、我々現代人の考え方や生活にも活かせるというか関連する要素が多く含まれていると感じる(但し、脚注はあるものの基本原文というか古文なので、どこまで正確に読み込めたかは少々疑問・・・)。

再読予定で、現代語訳併記の別の出版社のものを読むかは思案中。いずれにしろ、再読に関してはすべて家で読むことにします。音読したく。

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2012年12月31日

Posted by ブクログ

もう少し若い内に出会うべき本だったかも。
少し偏りはあれど、芸の事について問うた素晴らしい本だと思います。
出来れば13〜15歳の間に読みたい。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

名前だけは知っていて,「秘すれば花」の文句だけは知っていた風姿花伝.まじめに読んでみると,本当に,演技をやる人は一度は読まなきゃ!といった内容でした.簡潔に本質だけを述べていてすごいと思いました.古文だけど時代が新しめだし,文章も短いので読みやすいです.

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

「道」を極めるということはどういうことであるのか、それは全てこの本に書いてある。と高校時代に習ったわけです、あたしは。音楽の先生に。2年間教わったのに名前を忘れてしまったなぁ。名前に「藤」がついた気がする。とても風変わりな先生で(現役のピアニストかなんかだったと思う。CDも出してたりするって聞いたことがある)、その授業は音楽ではなく、むしろ芸術論とかそういうものに近かった。人間としての生き方とか振る舞いとか、心の持ち様とか、「美しい」とは何なのかとか、人間の多様性とか、そういう話ばかりしていた。楽器の練習とかって一度もなかったなぁ。。「風姿花伝」に関しても1年か2年か忘れたけれど、半年くらいかけてその音楽の授業で習った(その年の期末試験の問題は「『誠の花』とはなにか?」とかそういうものだった気がする)。今思うと、よい授業だったなぁ、あの音楽の授業は。(06/4/10)

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

世阿弥作、能楽論の古典。実際のところは、父・観阿弥の思想を後代に伝承するために書かれたものらしいです。「花」という言葉が多用されているため、一見、詩的・幻想的なことが書かれているのかと思いきや、内容はかなり現実的。たとえば、身分の高い人が観能にくるときは待たせぬよう開演時間を早めるのがよい、とか。室町時代、義満や公家の保護を受けていた能は、一歩間違えれば、いつ路頭に迷うかという不安もあったのかもしれません。実際、ドナルド・キーン氏の「能・文楽・歌舞伎」(講談社学術文庫)によれば、江戸時代、祝いの席での能を少しでも間違うと、切腹を命じられたという記述もあります。この本は、父(観阿弥)の子(世阿弥)に対する厳しさのなかの優しさを秘めた書だともいえます。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

すみません、よく分かりませんでした…
こういう文章に慣れていないため、内容が入ってこなかった。自分には早すぎた...現代語訳版を見て再チャレンジしたい。

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2023年04月28日

Posted by ブクログ

古文は高校を卒業していなかったから読むのが非常に困難だった。けれど内容は思っていたよりもずっと深く示唆的で、ものを作る人はぜひとも読むべき一冊であるように思える。おそらく古文に関する理解が浅いため、本来読み取れる内容の5割も理解できていないだろうから、そのうち実力をつけてもう一度読み返したい。

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2022年06月18日

Posted by ブクログ

秘すれば花なり。
パンチラはみえないくらいがちょうどいい。


人生において各人の「花」を咲かせる努力を行うことが大事。

種を仕込み育てる試み。

萎れる姿が美しいのは、花だからで草ではあまり風情がないのと同様、花を咲かせることが最優先課題。

一時の花ではなく、しっかりと長く咲く花でないと飽きられてしまう、そのためには鍛錬が必要。

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2013年06月08日

Posted by ブクログ

 藝術を語るならば・・・の一冊である。芸能ジャンルであるが、表現の何たるかが書かれている。それをそのまま今語っても当てはまらぬが、それを踏まえねば、何も語れない。

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2010年01月10日

Posted by ブクログ

タイトルからして美しいことです。

古典というには新しい時代になるのでしょうが、
久方振りに古語辞典が必要やった。

読むのに四苦八苦で、
ページ数は少ないのに難儀した。
「否定を2回重ねてんやな」
「否定の後に断定やな」
などなど声に出して自己確認。

積み重ねた技と己の姿形を花に例えるあたりから
精神論とか観念的なこと言われるのかと思ってたんだ。
しかし、
世阿弥にしても将軍の庇護を受けてた訳で、
高貴な人のパトロンを得る為に演じるノウハウ有り。
いやはや現実的な実践論です。



秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。
この分け目を知る事、肝要の花なり。
そもそも、一切の事、諸道藝において、その家々に秘事と申すは、
秘するによりて大用あるが故なり。
しかれば、秘事といふことを顕はせば、さしたる事にてもなきものなり。



印刷データを仕上げる自分にとっても、
試行錯誤と制作の行程はお客に教えてはいけないし。
見せてもいかんと思います。

「あっ、簡単に色って変えられるんや」
「思ったより簡単やん」
そんな風に作業が簡単だと思われても困る。
段取りと打算がバレてもあかん。
ある程度もったいぶっておこう。
無茶な事言われん為にも、
未知なる部分は必要だ。

それに、
出したデザインには
予断を排して素直に評価してもらいたい。



他所から見たらしょうもない事や、
言葉にしたら陳腐なこと、
頑な部分。
誰にも見せないし話さない。
そんなことをひっそりと心に抱き隠し持つこと。
それはきっと自分を深く、
おもろいやつにしてくれるんだと思うんだな。



昔々、初めて付きおうた彼女が教育実習で古文を教えとって、
その予行演習で生徒役をやったのが最後の古文授業。
こんなことなら、
もっとしっかり聞いておくべきだったなぁ。
そんな事を思い出したり、反省したり。

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2009年12月18日

Posted by ブクログ

とても短いが、要点が簡潔にまとめられており、その言葉の言い回しも、歯切れがよく美しい文章が多い。この本には、「花」という言葉が多く登場する。能の要点というのは、この「花」という一点に尽きて、ただひたすらにそれを、あらゆる言葉を用いて説明しようとしている書なのだと思った。
「花」というのは、気やオーラのような、目に見えない、言葉では表現しにくいものであるけれども、世阿弥はそれを極めて客観的に、論理的な文章で説明している。

この(12、3歳の頃の)花は、誠の花にはあらず。ただ、時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてやすきなり。さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきものなり。この頃の稽古、やすき所を花にあてて、技を大事にすべし。(p.14)
秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるが故なり。しかれば、秘事ということを顕わせば、させる事にてもなきものなり。これをさせる事にてもなしと云う人は、未だ、秘事と云う事の大用を知らぬが故なり。(p.103)
この別紙口伝、当芸において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとえ、一子たりと云うとも、無器量の者には伝うべからず。「家、家にあらず。次ぐをもって家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす」と云えり。(p.110)

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2020年07月15日

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