大塚英志のレビュー一覧
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ネタバレ著書が教鞭をふるった神戸芸術工科大学まんが表現学科創立期のエピソードと、自身の大学時代に出会った民俗学の恩師とのエピソード、この二つを主軸に交えながら大学教育の在り方を問うエッセイである。
生きるための「方法」(それは小手先の技術や知識ではない)を生徒に教えることに情熱を注ぐ著者と必死に食らいつこうとする学生の熱量を目の当たりにすれば、学生の学力不足を嘆く先生方の「教える工夫」衰退こそ問題にすべきではないかと思わせる。
「AO入試批判」批判の章の著者の視点はまさに慧眼であり、生徒の能力をいかに引き出すかという問いは、教育に携わる者全て(それは教育機関関係者にとどまらず、例えば仕事場の後輩指導に携わる者も含まれるだろう)がいつも心に問い続けなければならないだろう。 -
Posted by ブクログ
東浩紀氏の「動物化するポストモダン」、「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んだ上でさらにコンテンツの本質に近づきたくて購入。本書は、東氏が「動物化〜」や「ゲーム的〜」の論の元として挙げる大塚英志氏との対談。今までで最も読みやすい一冊だった。その理由は、渡井が東氏のこれまでの著書やメディア・Twitterでの発信を自分なりに整理しかけた上で開いたこともあるが、本書の対談形式が大きい。大塚氏が執拗にツッコミ→東氏が応戦、という図が自然に論を左右に振ることで読者に分かりやすく読ませている。私は、2人の主張のポイントや違いがかなりクリアになり、これまでの東氏の著書の解説本のような感じで読めた。2人の対談はスタンスの違いが興味深い。大塚氏はとにかく東氏に議論をしかけ、自分のフレームワークに当てはめようとし、さらに東氏の論を昇華させようとしている風に見える。対して東氏は、大塚氏と積極的に議論する気はない。自分の論を発信し、それに対して批判する大塚氏に応戦しているようだ。大塚氏の主張の傾向の印象は、主体的な権力、公的、そもそもの議論をしたい、批評家としての責任感。東氏の傾向の印象はシステム的な権力、今そこにある具体的で個人に関わりの深い問題、気負いすぎずに自分がどうするか。2人の対談は回を増すごとにヒートアップし、全4回の3回目は特に大塚氏の攻撃が激しく、東氏も「人格攻撃では」と不快感を露にしている。だが、全体を通してみて、大塚氏はあえてそういう議論を仕掛け、そうすることでしかお互いの進化はないと考えているかのようだ。東氏も、それを受け止めつつも自分のスタンスを貫いているかのようだ。大塚氏は、世代を代表して議論をしかけているのかもしれない。初めから東氏寄りで読み始めた私も、大塚氏が仕掛ける論戦を通してより東氏の主張や、本質について理解を深めることができた気がする。引用箇所も多く濃厚で読んで良かった一冊。
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大塚英志の「大学論」は『「おたく」の精神史』を彷彿とさせる、思いのほか個人的でセンチメンタルな内容に、ぼくの方が気恥ずかしくなるのだが、そんな赤裸々な思いの告白のような、すごく私的でなおかつ青春グラフィティ的ノリに、自分の学生時代と重なって非常におもしろく読ませてもらった。
そして、いくつか気づかされることがあった。ひとつには大塚英志という先生は意外にやさしく、熱心で学生思いなのだな、ということだ。どちらかというと、訝しく学生を嫌悪し邪険にしそうなイメージであるが、実際は学生ひとりひとりをきちんと見る目を持っているようだ。さらには、教育に対する独自の信念や理想を持っており、それを貫こうとする気概が伺える。
「大学論」は評論というより読み物として評価できる。大塚先生と学生とのやりとりはまさに金八先生だ。そこには、学園モノの物語のモチーフがきちんと描かれており、それだけでも非常に価値ある読み物となっている。
さらに読みながらふと気づいたことだが、大塚英志が自身の単行本をやたら文庫化するのは、印税を稼ぎたいからではなく、より安価な物を買わせようという親心。さらには、かならず補講などおまけを付けて、単行本を売りさばいて買い換えることを奨励している。自身の本は消費財でしかないと考える大塚英志なりのやさしさなのだと思う。
大塚英志のような先生は結構周りにいるもので、ぼくの場合、代ゼミの菅野先生が体型的にも性格的にも似ていた気がする。菅野先生は現代国語を教えていたが、その内容は大学受験の域を超え、大学生が学ぶべき智学であったと今にして思う。
そんな中で、菅野先生が「夏休みの推薦図書」とタイトルされたコピー用紙を学生たちに配って、何冊でもいいから読んでみろと、怒っているのか笑っているのかわからないいつもの顔で言い放つ。そんなぼくらの知的好奇心を誘発するような巧みな話術で、ぼくの読書欲を一気に引き上げてしまったのもこの先生だ。
菅野先生の推薦図書の中でぼくが読んだ本は今ではうろ覚えだが、さらには20年以上前のことなので本当に推薦図書だったのかもうろ覚えなのだが、例えば、鈴木孝夫「ことばの社会学」、河合隼雄「コンプレックス」、宮本常一「忘れられた日本人」、山口昌男「文化人類学への招待」、中村雄二郎「術語集」、浅田彰「構造と力」などの書籍の中で、中沢新一「チベットのモーツァルト」は価値転倒のすえ、ぼくの人生を大きく変えた一冊となってしまった。
その他にも、筒井康隆「薬菜飯店」、村上龍「コインロッカーベイビーズ」「愛と幻想のファシズム」、村上春樹「羊をめぐる冒険」などといった小説もぼくの読書欲をおおいに沸かしてくれたのだ。
そうして、ぼくは教師の道をあきらめ、文化の大海原に船出するはずだったのだが、結局はそんなたいそうなことにはなるはずもなく、デカルトの哲学とレヴィ・ストロースの文化人類学もしくは構造主義と…そして結果的に学術とは程遠い世界へと足を踏み入れていったのである。
ちなみに、中沢新一との出会いは実は菅野先生が最初ではなかった。中学2年のときにYMO散開後の細野晴臣が出したソロ12インチシングルに付録として付いてきた小冊子「グロビュール」の中で、細野晴臣と対談する中沢新一が最初である。このとき、角川書店から出版されていた対談本「観光」は、後にちくま文芸文庫版で読むことになるのだが、このときのニアミスが菅野先生の推薦図書「チベットのモーツァルト」へと誘い、ぼくはまんまとその誘いの深みにハマってしまうのである。
ところで、ここまできたので、さらに赤裸々な、勝手な思い込みに近い告白をさせてもらうけれど、実のところ、中沢新一と大塚英志とぼくには共通点がある。それは、親がいずれも日本共産党員であったことである。政治的な背景はないのだが、どちらかというとマイノリティな、ある意味で特殊な環境で幼少期を過ごした共通性が、勝手な共感に繋がっている。
さらに大塚英志との共通点で言えば、漫画家を目指し挫折したことである。と言ってもぼくなんかは目指す手前で挫折したので似ても似つかないが…
ということで、なにやらぼくの独白で終始した感があるが、大塚英志の「大学論」はそんな感じに赤裸々な物語が綴られているのである。 -
Posted by ブクログ
対談の起し本だが、大塚氏と東氏とのやりとりの臨場感が、ものすごい迫力を持って感じられ、引き込まれるように読んだ。
サブタイトルの「おたく/オタクはどう生きるか」の「おたく」と「オタク」は、大塚氏と東氏の暗喩であろうか。
両氏の差異が鮮明に現れるのは、書き手(知識人)として、公共性というものに対してにどう向き合っているか、という点であり、大塚氏が自身の文章や発言が公共に対して影響を与えることに自覚的である種の責任を追うべきと考えるのに対して、東氏は公共に対する影響は認めつつもそのような責任は追いきれるものではないとする。
公共に対する東氏の考えは自分自身の感覚としても理解できるが、最後のところで明快なことばに翻訳しきれていないようなもどかしさがある。一方大塚氏の公共に対するある種の責任感は、自分の職業柄いつも考えていることであり納得できるのだが、そこから逆に、ひとりの人間が出来ることの無力さみたいなものが照射されて感じられてしまう。
しかしながら、両氏が「リアル」というものに向き合っていることは紛う事無き事実であって、読み手に何かが届くだけの「リアル」がこの本にはある。大塚氏がこの本に付記するつもりであった注釈とあとがきを、校正の最後に削除したのは、この対談のリアルなやりとりをそのまま読者にぶつけたかったのだろう。氏のその意図は、見事に当たっている、と思う。