青木創のレビュー一覧
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人々の行動について思ったより多くが偶然によると説明する本
行動経済学的な感じがある。それよりちょっと説明が多く、実験の話が少ない。なんか読みにくい
現状の結果はかなり偶然に左右されているので、それを見越した行動が大事
常識は偏る、意味付けは得意だが理解は苦手、悩むことから開放、もっともらしい物語によるごまかし
常識の物語が歪められる、デフォルト、プライミング、アンカリング、確認バイアス、
常識も合理的理論と同じく人々の行動に理由をつける、情報があれば前もってわかったのにとあとづけする
成功の理由は成功したからという循環論法。
似たような集団も少しの偶然で大きく違う行動を取る、そして違う理由の説明は簡単に行われる。
大きなインフルエンサーより、小さなインフルエンサー多数のほうが買い得である
現実になったものは当然として扱われる。単純なシステム:値を予測可能、複雑なシステム:発生確率を予測可能
予測するべきものを予測するのが難しい
できることの限界近くまでは簡単、情報の収穫逓減
効率的な集団は大失敗か大成功かになる、戦略的不確実性、予測から対応へ
未来に役立つものを予測するより、現在役立っているものを知る能力の向上
「予測とコントロール」から「測定と対応」
ブライトスポットアプローチ、成功例に学ぶ
ハロー効果とマタイ効果と偶然の影響 -
Posted by ブクログ
オーストラリアの連邦警察官フォークが主人公のシリーズ第二作。
前作「渇きと偽り」は、オーストラリア特有の干魃の季節の中で土地も心も渇ききったヒリヒリするようなサスペンスを描いてあったが、今回は逆に雨が降り注ぐ森の中をさまよう女たちに何があったのかを描く。
前作ではフォークの警察官としてというよりは自分自身のプライベートな問題と向き合う話だったので忘れていたが、元々フォークは経済犯罪、資金洗浄とか企業の不正取引とかそういう犯罪を担当しているらしい。
今回、企業の合宿研修中に森で行方不明となった女性アリスはフォークが捜査をしている企業の内部協力者として、企業の様々な極秘文書やデータを渡してくれるように頼んでいたらしい。
ということは、それが会社にバレて消されてしまったのか。
だがここで別の説も。この森では過去に何人もの女性が殺されたり行方不明になった事件が起こったらしい。犯人とされる男は随分前に逮捕され刑務所内で獄死。しかし彼が本当に犯人なのかどうかは分からない。
ということは、真犯人が別にいてその犯人に連れ去られる、あるいは殺されてしまったのか。
だがさらにフォークが調べて行くと別のトラブルも見えてくる。
アリスは自ら行方を断ったのか、それとも誰かに連れ去られたのか、それとも遭難しているだけなのか、事故が起きたのか、それとも…。
フォークと彼の同僚カーメンとの捜査の合間合間に挟まれる合宿研修の様子は、まさに女同士のマウント争いという感じでドロドロしたドラマ。
面白いような、見たくないような。
行方不明のアリスは典型的な自己主張の激しい女性で、積極的には付き合いたくないタイプ。だが他の四人の女性もそれぞれクセがあってあまり好きにはなれない。
アリスが結局どうなったのか、何が起こったのかは、正直言っていろんなパターンの結末が考えられるし、どうとでも持って行けるので、そこに謎解きの余地は少ない。なのでミステリーではなくサスペンスなのだろう。
そもそも女性たちの森の中でのドラマが描かれている時点で殆どネタバレしている感もあるが、最後までどう来るかは分からないと思いつつ読んだ。
ちなみに女たちの醜い争いで終始するわけではないのでご安心を。
作中で他の仲間が言うように、アリスがどうなろうがあまり同情できないタイプなのでそこはどうでも良い。
ただ、都会の開かれた世界なら何とかやり過ごせることでも、こんな閉鎖された空間では普段ならやり過ごせることがやり過ごせなくなる、小さな引っかかりがたまらなく許せなくなることもあるのだろうと思うと興味深かった。
今回もフォークのプライベートな部分、亡き父が自分に寄せる思いを感じ取られるところが描かれていた。
しかしフォークの本来の仕事、経済犯罪の捜査についてはほとんど脇に置かれていたのが残念。といってもフォークはその点に置いても一番下っ端らしく、上司からの命令にしたがって動くだけということらしいが。
次こそフォークの警察官としての活躍が見られるのかどうか。
それとフォークの男性としての魅力がそこまであるのか疑問。よほど見た目が良いのだろうか。 -
Posted by ブクログ
企業の研修キャンプで女性5人のグループが遭難し、4人だけが帰還する。キャンプで何があり行方不明の女性はどうなったのか、連邦警察官フォークのシリーズ第2作。
森のなかで遭難し食料もなく寒さに凍えるうちに、女性たちの本性があらわになっていくさまと、捜索にあたる警察の様子とが交互に語られる手法が、うまく緊張感を高めている。
前作では、干ばつの熱波とともに主人公の過去にまつわる苦悩が濃厚に描かれていて重い読後感だったが、今回そのあたりは添え物程度で事件の謎解きに重きが置かれている。
タイトルは第1作でも感じたのだが、原題の『Force of Nature』のほうが深みがあっていいと思う。
物語としては独立しているが、やはりシリーズ1作目から読むことをおすすめしたい。 -
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お久しぶりのウィンズロウ二冊目は、緊迫のミリタリー・サスペンス。すべてを失った男が元兵士の友人たちとともに、自らの手でテロリストに鉄槌を下すというストーリー。
序盤は面白かったが、チームと合流してから冗長に思え、退屈に感じることもしばしば。テロの真相にひねりがあるわけでもなく、謎解きはシンプルに終了し、そこから先はとことんアクション。各国から集められた傭兵のスペシャリストたちに注目しようにも、人数が多くて把握する気が失せ早々に諦めてしまった。
ハイテク武器とかクールなアクション・シーンが満載なので読み応えは抜群だが、私はそれを楽しめる読者ではなかったということでしょう。不完全燃焼が悔しいなー。 -
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内容はそれなりに面白いのだけど、文章が読みにくくてなかなか頭に入ってこない。読むのにとても難儀した。私はこの手の本が大好きで、『予想通りに不合理』も『明日の幸せを科学する』もガツガツ喰いつきながらよんだというのに、本書はページをめくる指が重かった。というわけで読み終わるまでに一月近くかかってしまった。
青木さんが翻訳したのにおかしいな、、、と思っていたら青木さん違いで、こちらは青木創、あちらは青木薫。な〜んだ。改めて青木薫さんを素晴らしいと思った。
やっと本の中味の話し。
著者は物理学者から転身した社会学者というユニークな立場。「社会科学が科学的であるとはどういうことか」についてとても丁寧に向き合い、それが本書の重要なテーマでもある「認知や判断の根拠としての常識」に見事につながっている。
事前には常識で考えるから間違うのに、事後には常識で考えればそれしかないと思えること。邦訳はあまりよくない。原題の方が著者のテーマを伝えてくれる:
"Everything is obvious, once you know the answer"
「そんなのはじめからわかってたさ(タネ明かしを聞いた後だけど)」。
人工知能の研究からわかったのは、ヒトの認知や判断というは、ものすごく膨大な暗黙のインプットをものすごく大胆に省略しながら処理しているということ。その剪定の仕方にはくせがあって、それが私たちの「常識」を形成しているということ。ふむふむ。そこから抜け出すにはかなり意識的に「反常識(非常識)」を取り入れる必要があるということ。
などなど、読みにくくて大変ですが、ヒトという奇妙な存在の面白さに出会える本でした。 -
Posted by ブクログ
本書「偶然の科学」を、数ある「常識を疑え系」の一冊として読むことは当然可能だ。そう読んだとしても本書の元は確かにとれる。
オビより
アップルの復活劇は、ジョブズが偉大だったこととは必ずしも関係がない。
VHS対ベータ戦争で敗れたのも、MDの失敗も、ソニーの戦略ミスではない。
給料を上げても、社員の生産性はかならずしも上がらない。
JFK暗殺も9・11も、可能性が多すぎて、事前の予測は不可能。
歴史は繰り返さない。したがって歴史から教訓を得ることはできない。
フェイスブックやツイッターの大流行は、人々のプライバシー観が変わったからではない。
ヒット商品に不可欠とされる「インフルエンサー」は、偶然に決まるため特定できないし、実のところ彼らの影響力も未知数である。
売れ行き予測を立てないアパレルブランド、ZARA。その成功の秘訣とは?
偶然による過失をめぐる倫理的難問。司法はどう裁くべきか?
しかしそれでは本書を読んだことにはならない。それでは著者は読者に詫びなければならないことになる。それはあまりにも忍びない。
まえがき
社会学者の考え方を学ぶのは、物事の仕組みについてのおのれの直感そのものを疑い、場合によってはそれらを完全に捨ててしまうことを学ぶに等しい。だから、この本を読んでも、皆さんが世界についてもう知っていることを再確認する役にしか経たなかったのなら。お詫びする。わたしは自分のつとめを果たせなかったのだから。
本書の原題は"Everything is Obvious* Once You Know the Answer" 「全ては自明--あらかじめ答えを知っているなら」というのは、対偶をとれば "Till you know the answer, nothing is obvious" 、「答えが分からぬうちは、自明なものなどなにもない」となる。
それでは自明ならざるものとはなにか。
人間、つまり社会である。
それを明らかにしていこと、つまり"Science"は、"Social Science"、「社会科学」と呼ぶほかない。
著者はその状況を、まずまえがきで詫びている。
まえがき - ある社会学者の謝罪
社会科学の有用性に疑いの目を向けている人は、少なくない。私も物理学者から社会学者に転身してからというもの、聡明な人物が頭を働かせても解明できなかった世界の問題について社会学は何を語ってくれるのかと、好奇心あふれる部外者から何度も尋ねられた。
しかし、すごいのはここからだ。
だが悲しむべきことに、われわれは経済を運営したりふたつの企業を合併させたり本の売れ行きを予測してたりするよりも、惑星間ロケットの航路を計画するほうがはるかにうまい。それならどうして、ロケット科学はむずかしすぎるように見え、それよりずっとむずかしいと言ってもいい、人間にかかわる問題は単なる常識の問題であるかのように見えるのか。
著者は行間で檄を飛ばしているのである。
「自然科学者達よ、おまえらこそ自分たちにどうにか解ける問題だけ選んで解いているだけの、真に解くべき問題から目を背ける常識の虜囚ではないか」、と。
オビにあるのは、その例題にすぎない。
「社会科学を科学(笑)から本物の科学」にしてみせるという、「社会学党宣言」こそ、本書のコアなのだ。
「はじめに」にあるように、著者は物理学者から社会学に入った。著者を「科学者のなりそこない」ということはこの点で出来ない。そして著者は物理学的に社会を観測することによって、スモールワールド現象を解明した。でもそれはほんのはじまりにすぎない。社会科学が自然科学と同等の科学として常識されるには。
しかしそのためには、社会科学が自然科学と同等に役に立つところを見せなければならない。それが著者を突き動かす力。どうしてニュートン力学で乗物を設計するように、社会という乗物を我々は設計できないのか。
しかしニュートンは社会も何もないところから登場したわけではない。そこに至る前にティコ・ブラーエがいて、コペルニクスがいて、ケプラーがいたのだ。
そう。観測。社会科学に決定的に欠けていたのは、自然科学における最初の一歩だった。だから「たまたま」その学者が目にした現象を「たまたま」その学者が持っている「常識と偏見で料理したもの」が「学説」として流通する。そんな連中をソーカルのように揶揄するのは安価で愉快なことだけど、そろそろそんなことより観測-仮説-立証サイクルを回そうぜ、インターネットのおかげで観測が可能になったのだから。著者はそうシャウトしつつ本書を〆ている。
あとがき
なぜ都市部の貧困や経済発展や公教育といった社会問題の理解に必要な科学が、注目に値しないことになるのか。もっと注目に値するはずだ。必要なツールがないと言い張ることももうできない。望遠鏡の発明が天空の研究に革命をもたらしたように、携帯電話やウェブやインターネットを介したコミュニケーションなどの技術革命も、測定不能なものを測定可能にすることで、われわれの自分自身についての理解や交流の仕方革命をもたらす力がある。
マートンのことばは正しい。社会科学はいまだに自分たちのケプラーを見いだしていない。しかし、アレグザンダー・ポープが人間の適切な研究課題は天上ではなくわれわれの中にあると説いてから三〇〇年後、われわれはようやく自分たちの望遠鏡を手に入れたのである。
「さあ、革命をはじめるとしよう…」。革命家ならぬ一読書家として、せめて本書をおすすめする次第。