小浜逸郎のレビュー一覧
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読みやすくて、興味深いことが書かれていました。
中でも興味深かったのは、マスコミの言語規制のこと。いきすぎた言語規制は、本来の意味を見失いつつあるように思います。「肉屋」では駄目で「精肉業者」にしろなんて、なんておかしな話だろう。表面だけを変えたところで意味はないし、そうすることで糾弾から逃れようとしているかのようにすら見えます。
あとは、逆差別の問題。被差別者に対して保護を、と優遇措置が行われている。しかし、これも言語規制と同じように目的を見失っているように思いました。弱者というのは、「社会で生活する上で何かしらの不利を生じるもの」という意味では、支援が必要な場合もあるでしょう。け -
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[ 内容 ]
人間の身体は、たんなる生体システムではない。
人は身体という座において、世界と関係を結び、他者と出会い、そして触れあい、ついには「私」を立ち上がらせる。
私たち人間は、「身体をもつ」のではない。
むしろ、「身体として・いる」存在なのである。
他者とのかけがえのないかかわり=「エロス」を軸に、身体の人間論的な意味を徹底して考え抜く。
[ 目次 ]
序章 哲学者たちの身体論
1章 「身体として・いる」私(「いる」と「ある」;私は身体で「ある」のか、それとも身体を「もつ」のか)
2章 身体は意味の体系である(身体の機能的な意味;身体の人間関係的な意味)
3章 性愛的身体(「性欲」概念 -
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ネタバレ[ 内容 ]
何か不祥事が起こるたびに責任追及の声が高まっている。
政治家、企業、マスコミ、学校が悪い、と。
だが、そもそも「責任」とは何か。
正しい責任のとり方とは。
人は責任をどこまで負えるのか。
JR脱線事故やイラク人質の「自己責任」論争、「戦争責任」など公共的な問題から、男女、親子における個別の責任問題までを人間論的に考察。
被害者―加害者というこじれた感情をどう克服するか。
法や倫理では割り切れない「責任」の不条理性を浮かび上がらせる。
「求められる責任」と「感じる責任」を真摯に追究した書。
[ 目次 ]
なぜ「責任」を論じるのか
第1部 責任はだれにあるのか―自由主義社会における -
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弱者、この本が取り上げるのは例えば被差別部落出身者や障害者なんだけど、彼らについて語るときに感じる遠慮みたいな、それは何だろうから始まる。
三つ挙げていて、その一つがある時代で広く支配的な「正しさ」の共通観念に人々は支配される。言ってみればちょっと流行った「空気」ってヤツ。
二つ目が「言ってみても問題は解決しない」とゆうあきらめ、もう一つが切実さの欠如、メディア情報の氾濫。
現代社会のいたずらな弱者の記号化みたいな、例えば電車の優先席とか、そこを問題にして何が弱者かを問うことから始めるべしとする。
情緒のファシズム、ことさらな言挙げや賛美が「弱者」に聖痕を残し不必要な境界線を引く可能性を指摘。 -
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■本の内容・特徴
往復書簡による、違う価値観同士のガチンコ(議論)。
■目的
人は分かり合えるのか? また、娯楽。
■感想
PHP新書の書簡形式の本は2冊目です。
これ、面白いです(笑) 何が面白いって、真剣勝負なところです。「人は分かり合えるのか?どうなのか?」という前提なので、妙に相手にへつらうことなく容赦なく二人はぶつかります。「きっと分かり合える」という予定調和が感じられないこともあり、読者としてはハラハラドキドキしながら、大の大人のケンカを目の当たりにすることができます。
結局、人は分かり合えないかもしれないけれど、面と向かって真摯にぶつかればぶつからないよりはいい、一つの -
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当事者のことは、当事者にしか語りえないのか。普段、その問いに「イエス」と答える人は、ぜひこの本を読んでみると良いと思います。明解な答えが出るとは思いませんが、何らかの形で、考える一助になると思います。
本文では、結構過激めいた発言もしていますが、ある意味ここまで「弱者」という言葉とその真意に切り込む人は、貴重だと思います。特に部落問題をとりあげ、「弱者聖化のカラクリ」を説いています。確かに、「弱者」とは絶対的なものではなく、相対的なものとして考える必要があるのかもしれません(著者の発言に全面的に賛成することはとてもできませんが)。
小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』への批判は、ちょっと大人 -
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『人生、終盤にさしかかれば、心身にガタがくるのは自然の定め。しかし、いまや六十になっても、なかなか「老人」と認めてもらえず、やれ「生涯現役」だ、「アンチエイジング」だと、世間は喧しい。」もう一花咲かせる気力や体力はもちろんないが、残り時間は、なるべく不幸せでなく埋めていきたい----そんなささやかな願いはどうしたらかなえられるのか?自らの老いの真情を吐露しつつ問う、枯れるように死んでいくための哲学。』 (裏カバーより)
文章から滲み出てくる著者の人間性がとってもいい。飄々としてて、どこか達観(もしくは諦観(笑))してる感じ。そこからは現在巷間で言われている理想の老人像とは大きく異なった老人 -
Posted by ブクログ
先日読んだ今井むつみ先生の「『何回説明しても伝わらない』はなぜ起こるのか?」に続き、同じようなテーマで少し難しいタッチの本を読んでみた。
アプローチや表現は違えど、なるほど、結論は同じ点に収束する。
言語を語ることは、人間交流のあり方を語ることになる。
音声が先か、思想が先かと考えれば、言語の発生期を想像すると、概念がまずあって、それを音声にするために苦労したというような過程は想像しにくい。
新約聖書にあるように「はじめにことば(ロゴス)ありき。」なのではなく、古今和歌集の冒頭にあるように「ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなれりける。」のではないか。
というように展開されてい -
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ー 人は、幸福であるときには、幸福について深く考えようなどとはしない。また、不幸のどん底にあるときも、「幸福論」を手に取ってみる余裕などとても持てないだろう。「幸福論」に関心を引き寄せられるのは、これから人生に踏み出そうとしていて、自分にとって幸福な生き方とは何だろうと不安になっているときとか、人生の波風を幾らか経験してきて、自分の来し方をかみしめながら、それを踏まえてこれからどう生きていこうかと思いあぐねているときなどだ。この本は、そんな心境にある人たちに言葉を届かせたいという思いを基礎にして書かれている。 ー
小浜さんは2年前に亡くなってしまったのだが、読みやすい批評家で、そこそこ面白い