小浜逸郎のレビュー一覧
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ネタバレ作品としては悪くはないです。
だけれどもどことなくその理論が机上の空論に
終わってしまう感が強いのは
専門家ではあるものの、書き物に終始しているひとの
せいなのかもしれませんね。
確かに教育方面に限界があるのは確かでしょう。
様々なものに方向が向きやすいですからね。
ただ、その教育がいかに生かされるかを考えるのは
大人の仕事。
こうなってしまったのもこうしてしまう人たちを選んだ
大人の責任でもあるんですよね。
それでその子供がそうなって文句を言うのは
筋違いなはず、どうするか、なんですよね…
なんだろう、ビジョンが見えない感じ。
変なの。 -
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情緒的な意味を含んだこの世界を生きているわれわれの実存のありようを明らかにするとともに、そうした立場に基づいて結婚・家族・国家の意味についての考察を展開している本です。
前半は、著者の実存主義的な立場が、「いる」という日本語を手がかりに説明されています。著者が手がかりとするのは、ハイデガーの「現存在」とは日本語の「いる」のことにほかならないという、詩人の菅谷規矩雄のことばです。「いる」という語はふつう、「あそこに猫がいる」「彼は走っている」「壮麗な伽藍が並んでいる」のように用いられます。著者はこうした「いる」の用法に検討を加えて、「いる」とは「話し手の身体それ自身が、言葉で直接指示された状況に……参入していることを示している」と述べています。つまり「いる」ことによって、自己と世界は生き生きとした情緒を含むような仕方で結ばれているのです。このことが著者の実存的な立場の根底をかたちづくっています。
次に著者は、結婚・家族・国家の意味を、実存的な身体をもつわれわれがエロス的・社会的な相互承認を形成してゆくプロセスにそくして解明しようと試みています。ヘーゲルは『法の哲学』において、人間の精神が家族から市民社会へ移行し、さらに国家へと進んでいく弁証法的なプロセスを描きました。しかし著者は、これは起源論的な発想に基づいた叙述ではなく、「より高い精神を持った共同体を、私たちは理念としてもたなくてはいけないという、一種の思想的な呼びかけだった」と解釈しています。
近代市民社会の中で「成熟」を問題にする著者の議論の大枠はそれなりに理解できたのですが、ジェンダー論批判などに見られる著者の「結婚」や「家族」についてのセンスは少し窮屈すぎるようにも感じました。 -
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具体的な問題・事例に即して「責任」のありようを論じた第1部と、「責任」についての原理的な考察が展開されている第2部から成っています。
第2部の原理論では、「責任」が問題となるような状況が立ち現われてくる理由が、うまく言い当てられているように感じました。著者は、カントの責任論が近代的人間像を前提にしていることを指摘し、そこでの「責任」が行為の前には理性的な意志が働いているはずだという虚構に基づいていると論じています。人間が自由な存在だと認めることは、この虚構を採用することにほかなりません。しかしこうした責任理解は、あることにかかわった人びとの事後の感情からはじめて責任概念が立ちあがるという現実的・具体的な状況を織り込んでいないと著者は批判します。
われわれの実存は、未来を見積もるという意識構造をもっていると著者は考えます。「責任」という概念が成り立つのは、われわれの実存にとって未来がこのように「見積もり」として手許につねにたぐり寄せられて「ある」ことに基づいています。未来に対する「見積もり」は、いまだ確定しておらず、偶然的な事態が生じる可能性を否定することはできません。不定の未来、あるいは可能性や蓋然性としてしかありえない未来を、過去の条件から推測しつつあたかも「かくある」はずであるかのようにたぐり寄せて生きているというわれわれの実存のあり方を考慮するならば、あらかじめ客観的・普遍的な形で責任の範囲を確定することはできないと著者は述べます。そしてこうした理解に基づいて、われわれはただ、事が起きればことばによってある範囲確定をしなければならないという不条理なものだということをよく肝に銘じて、それを開かれた、共同的な生へ、よりよい生へ向かおうとする相互の配慮によって支えていかなければならないという主張が展開されています。 -
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障がい者や出生前診断、部落差別問題などをめぐって、われわれが感じる「言いにくさ」「遠慮」にひそんでいる問題を率直に提出し、それを突きつめて考えようとしている本です。
われわれが「弱者」というレッテルを貼って「聖別」をおこなうことで、ひととひととのあいだに成り立つ自然な交流が疎外され、「こわばり」を生んでいることに対して、著者は批判の矢を放っています。「予想される不幸感や大変さを避けたいと願う気持ちは、現に障害児を持っている親が、この子の障害を今すぐ取り除いてやる方法があったら、何でも試してみたいと思う心情とも同じである」と著者はいいます。そして、逃れられない現実に向きあおうとする個別的な経験を飛び越えて、出生前診断に対する批判をおこなうのは不適切だと主張しています。
次に部落差別問題に対しては、部落出身者には居住地域以外の外的な指標が存在しない以上、「部落差別は、そういう指標で差別してはならないという近代社会の原理のよいところがほんとうにきちんと貫かれるなら、必ず解消されるはずの差別である」という原理が確認されます。そのうえで、部落のアイデンティティを強調する戦略がかえって差別を助長する危険性を孕んでいることへの懸念を表明しています。
「弱者」をめぐるさまざまな言説に対する批判をおこなったうえで、著者は「弱者」の聖別を乗り越える道筋を探ろうとしているといえるのではないかと思います。とはいえ、著者は差別を克服する新しい〈理念〉を掲げているのではありません。本書において提出されているのは、「自分がなぜそのことを気にするのか、自分がそのことを問題にしようとする必然性はどこにあるのかということを、自らの経験と感覚の中に問い尋ねてみる」という、聖別を克服するための具体的な〈手続き〉だと理解するべきでしょう。 -
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引きこもりやフリーター、ニートなどの若者が増えている現状を受けて、子どもが「大人」へと成熟するための社会的プログラムの提言をおこなっている本です。
著者が掲げるプログラムは、教育、法、労働という三つの側面から構成されています。まず教育については、義務教育を小学校4年、中学校4年に再編成し、その後の高等教育は一人ひとりの個性に合わせて複線化するべきだとされます。また中学では倫理を必修科目とすることが提言されています。著者の考える「倫理」科目は、共同体のルールを上から教える「道徳」とは異り、「なぜそういうルールになっているのか」という問題を、一人ひとりの前に開けている人生の視野に引き寄せつつ、みずから考えさせることで、社会における人間関係を自覚的に考察することへとうながすことを意味しています。
次に法については、法の存在と意義をきちんと納得し理解するための法的な通過儀礼を設定することが提言されています。
最後に労働については、一人ひとりの子どもに労働を通じて社会的関係を築いていくことを身につけさせるため、労働経験を味わわせることが提言されます。これは「奉仕の精神」を教えるという保守的な立場からなされた提言ではなく、近代的市民としての成熟をうながすという立場に基づいた提言だとされています。
本書で提言されている具体的な方法は、実現性に乏しいものではありますが、近代市民社会という大きな枠組みの中で一人ひとりが責任ある市民として成熟するための条件を考えようとするという著者のスタンスには共感できます。 -
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子どもが大人になるということは、単なる個人心理学的な自我の発達・完成ではないと著者は主張します。こうした考え方は、人間を他者から切り離された個人とみなす先入観から生じたものです。大人になるとは、個人としての自覚を深めていくことであり、社会人としての責任や義務がわかるようになることであり、さらには、親や友達、異性との情緒的ないしエロス的な関係を再構築するということを意味していると、著者は主張します。
かつてさまざまな社会のなかには、子どもが大人になるための通過儀礼が存在していました。しかし、近代社会はそうした明確な通過儀礼をそなえておらず、子どもが大人へと成長することは、個人の内面的な発達にゆだねられています。この事態を著者は、「隠された通過儀礼」と表現します。しかし、それが隠された内面的な過程だとしても、人間の重要な課題であることには変わりがありません。むしろ内面化され隠されていることで、そうした成熟を遂げることに困難を感じている現代の若者たちの問題が見えにくくなってしまっているのではないかと著者は指摘します。
本書ではこうした考えに基づいて、子どもから大人へと向かう内面的な成熟のプロセスが分析されていきます。著者は、宮崎駿の『となりのトトロ』や芥川龍之介の『トロッコ』、つげ義春の『紅の花』、大江健三郎の『不満足』などの作品を例に、幼年期から青年期にかけてひとが経験する内面的な成長のテーマを抽出しています。 -
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センセーショナルな事件報道に基づいて「家族の危機」をあおる論調や、個人主義に基づいて日本的な家族の抑圧からの解放を主張する文化人たちの言説をしりぞけ、家族の中で自己を形成してきた実存的な立場から、日々の生活の中で家族の一員として振る舞う著者自身の実感に基づいて家族の本質をつかみ出そうとする試みです。
本書の刊行からすでに30年近くが経った現在から見たとき、やはり著者の主張の一部に時代的な制約が感じられるのも事実ではないかと思います。その一方で、家族という鈍重な制度がテーマになっているので、そう簡単に私たちの家族についての考えが変遷しないことが確かめられるともいいうるかもしれません。どっちつかずの感想ですが、元来わたくし自身は著者の実存的な立場に必ずしも全面的に賛同できないので、本書のようなアプローチが両義的な評価をもってしまうことそれ自体が問題ではないかと感じています。
他方で、カフカの『変身』を家族の本質を露わにした小説として読み解くところなど、興味深く読めたところも多々ありました。 -
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フェミニズムやジェンダー論と呼ばれる議論の多くは、系譜学的な権力分析をおこない、社会のなかの女性を抑圧する仕組みを批判します。こうした議論に対して著者は、現象学ないし実存論的な立場から、フェミニズムの外在的な批判が有効性をもちえないという主張を展開しています。
フェミニストは、精神分析や文化人類学の知見を動員して、この社会における男の「本質」や女の「本質」とされているものは、社会的に構成されたものにすぎないと主張します。しかし、それらの知見を援用しつつ論者たちが展望する新たな社会のあり方が説得力をもつのは、われわれの実存的な了解をくぐり抜けることによってのみだと著者はいいます。男女の間で何らかの不均衡が存在し、そのために女性が不幸な状態に置かれているとき、それを解決するための思想的努力は、男と女の関係の「本質」を深く了解することから出発しなければならないというのが著者の基本的立場です。
著者の議論もそれなりにわからないではないのですが、二点ほど疑問を感じました。まず、著者は精神分析や文化人類学の知見を動員した原因究明的な「物語」が、実存的な了解をくぐり抜けていないことを批判しているのですが、著者による男と女の関係についての議論も、五十歩百歩ではないかということです。たとえば著者は、性器的な特質から男の性のあり方を分析しています。しかし、個人的にはこうした議論は「よくできた物語」でしかないようにも思えます。要するに著者の分析も、実存的と呼ぶには射程が長すぎるのではないかということになります。
もう一つは、「本質」を明らかにするという著者の営みが、まさにみずからの実存的状況からの「へだたり」を生むということに無反省だということです。著者が男と女の関係の「本質」を取り出すというとき、われわれが他者とのかかわりのなかでどのような意味やエロスを受けとっているのかをよく見つめてことばにもたらすことが意味されているように思います。しかし、どうしてこのようなことが可能なのかと問うならば、われわれがみずからの実存的状況に埋没して盲目的に生きているのではなく、そうした状況からみずからを引き離して対象化することができるからだという答えが返ってくるはずです。そうだとすれば、系譜学的な考察を通じてわれわれの社会を相対化する視点を獲得することだって可能だといえるのではないでしょうか。そうした分析が実存的な了解をくぐり抜けていないという著者の批判は成り立たないのではないかという気がします。 -
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現代社会におけるアクチュアルな問題に対して実存的な視座から活発な発言をおこなっている著者の思想の、とくに原理的な部分について、比較的くわしい内容が明らかにされている本です。
著者はまず、日本語の「いる」と「ある」の比較をおこなうことで、「いる」とは話し手自身の身体が語られる状況そのものに居合わせていることを意味するという、実存的な規定を引き出します。その上で、自己の身体が立ち会う実存的な状況とは、単なる知覚的な内容によって構成されているのではなく、そのときどきの情緒によって彩られていると論じられます。
このような基本的な視座に基づいて、他者との相互的な交渉の仕方が、エロス的な関係と社会的な関係の二極に分けられます。エロス的な関係とは、個別的に限定された他者との関係であり、社会的な関係とは一般的な相互交渉を意味しています。そして著者は、この二つの関係のそれぞれについて、具体例をあげながらわれわれの実存が個別的・一般的な他者とのかかわりのなかに投げ出され、そのなかでかたちづくられていくと主張しています。 -
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「敗戦体験を軸にして、その前後(日本近代)で、西欧的思考とひとりで格闘した創造的な思想家を選」(p.18)んで、それらの思想家の論について批判、批評を加えるもの。選ばれている思想家とは、丸山眞男(政治思想)、吉本隆明(文学思想)、時枝誠記(言語思想)、大森荘蔵(哲学思想)、小林秀雄(実存思想)、和辻哲郎(倫理思想)、福澤諭吉(社会思想)の七名。
まったくおれの勉強不足で、名前だけ知っている、という人たちばかりなので、論についていくのがやっとという感じで、難しかった。思想の内容について解説されるだけでなく、そこからさらに突っ込んで批評する部分がメインであるので、おれが消化不良を起こしてしまった。
その中でも面白いと思った部分をいくつか記しておく。吉本隆明の親鸞の「悪人正機説」に対する誤解について。「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」というのが「逆説は逆説でありうる限りで成り立つ」(p.127)というのはたしかに、と思った。それを悪いことしてもいいよ、というように解釈した人がいたとして、そのロジックを騙されずに否定する力がおれにあったのだろうかと思う。時枝誠記の詞と辞、というのは知っていたが、それ以上は何も知らなかった。生成文法とは違って、膠着語には膠着語としての分析の仕方を提示しているのが面白い。「入れ子」型構造、つまり「『辞』がその上の『詞』を包み込んで統括しつつ、次に進んでいく」(p.187)ということらしい。ただそこで、辻褄を合わせるための「零記号」という思考過程を経なければならなかったというのも面白かった。そして、大森が遂に抜け出せなかったという「独我論的思考様式」(p.269)への批判、つまりデカルトの「我思う~」に対する批判、というのも新鮮だった。高校では教えてくれないことだった。確かに、言葉にしている時点でもう共同体が存在していることも疑いえない事実であるというのもその通りだと思ってしまった。さらに、この本では色んな思想家がメタメタに批判されているが、和辻と福澤だけはおおかた持ちあげられている。そして、和辻がすでにこのデカルト的な思考を批判していたという事実も面白い。高校倫理では、和辻と言えば『風土』がメインで、あとは人間(ジンカン)、間柄的存在といった用語をオマケ的に覚えておけばいい程度だと思っていたが、ハイデガーの思想とリンクさせたことや、明快な善悪の規定(「共同性から個人へ、個人から共同性へと展開しゆく人間存在の本来的な運動過程を『停滞』させることが、絶対的な『悪』である(p.384))とか、和辻の著書を読んでみたいと思った。ところで、ハイデガーの「自己欺瞞の装置」三つとは、「空談と好奇心と曖昧性である」(p.396)というのもなるほどと思う。最後に福澤の「徳の大切さを真に活かすためにこそ、それに智が加わらなくてはならない」(p.454)も、大いに賛成できる。
という感じで、おれ自身がまったく批評的に読めず、ただただ書いてある内容をなぞってやっと読めた、という感じだった。七大思想家について知るための本、というよりは、おれもこういう思考力というか分析力を身に付けないとだめだな、と思わされた一冊だった。(15/01/08) -
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①何故自分がその問いに捕まってしまったのか、その動機を考える。②簡単な解答は有り得ないと覚悟する。③問いそのものにまずい点はないかどうかを検討し、まずければ、もっとよい問い方を編み出す工夫をする。口角(こうかく)泡(あわ)を飛ば・す 興奮して口からつばきを飛ばす。激しく議論するさまにいう。包括ほうかつ ひれき【披瀝】心の中を包み隠さずに打ち明けること 生きよ、何かをなせと命じている 幼い子どもの自然な生き方 あらゆる恋愛はどんなに霊妙さを装っていても、性本能の特殊化され、個別化された姿にすぎない 次の時代の構成に他ならない 思想家ショーペンハウアー 獣姦やフェティシズム倒錯的な形態 相手を所有し、相手に所有されたと感じること 間男された亭主 大衆の屈性した嫉妬と羨望 売買春 猥談的な笑い 猥褻わいせつ 同胞の再生産 秘匿ひとく 職業に貴賎きせん有り 軽視される現実 山田太一 西オーストラリア 永遠しかないとおもうような、全く何もないところ 立ち戻って思い出す値打ちのある光景 実存的な渇き 情緒が論理を支える 毀損きそん 想像力の欠落した、偽善的な物言い 親鸞 罪と罰 ラスコリーニコフ 人は人を殺すのである 個人感情の高揚 荒ぶる攻撃本能の発露 プリンシプル(principle)1 原理。原則。根本。2 主義。信条。逆臣の粛清 英雄神話被害者側の遺恨感情を放置すれば、報復の繰り返しが無限に続く可能性がある。 無規定の自由はかえって人間を行動不能にする
プラクティカル(practical)実際に役立つさま。実用的。実践的。「―な訓練」「―な学問」
けいじじょう形而上1 形をもっていないもの。2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。⇔形而下。
それまで生を支えていた物語に対する崩壊感 日常が断ち切られた事に対する驚愕 乖離
戦後レジーム(せんごレジーム)とは戦後に出来上がった政府の体制や制度。現代の日本では主に、太平洋戦争での日本の降伏後、GHQ下で出来上がった日本国憲法を始めとする法令等を意味する言葉として使われている。
理性的で人格の高潔な軍人というのはちゃんと存在する ペンディング=保留 殊勝しゅしょう 逡巡しゅんじゅん 問題の輪郭が俄かに鮮明になってきた -
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ネタバレ社会的弱者がどういうふうに作られるかを考察した本。障害者をやたらと感動ものにするメディアの演出、ダウン症児を生んだ親の覚悟への違和感、被差別部落者が差別を恩恵として行政から手厚い保護を受けている事実、など公には言えないがなんとなく言いたいことを述べた本。
若干、ぶんぶんうるさい虫を叩くようなぴしゃりとした物言いに流れることはあるが、強いて感情的な批判ではない。
最終章での「生産年齢人口」(すべての15歳以上から65歳未満まで)ではなく、「就業人口」とみなし、むやみに若年者に進学させずに職業教育を行うという考えには同意できる。これは老人はみんな養われるべきという敬老に偏りもしない。
絶対的な弱者もいなければ強者もいない。弱者はある面では強者であり、既得権益を求めて「新しい弱者」の共同体が生まれるが、自己責任、自己決定をこころしていればいいと説く。
「煙草訴訟」の話など、まさに、博士進学しながら職が保障されないのは大学のせいという高等遊民の嘆きと似ていなくもない。
意訳すれば、弱者ー強者構造に巻きこまれないためには、多元的な共同体を背負いながらそれぞれの中での優位を認め合うのがよい、別の関係を持ちこんで寛容になる、ということだろう。要するに違っていてもいい、その人のいいところを別に見つけなさいな、ということ。 -
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この本は「社会的弱者」の正体を明らかにするのが趣旨ではない。社会的弱者が発生する社会構造に焦点を置いて考察するのが狙いであり、優先席問題、五体不満足、子供、部落差別といった個々の事例を分析していく。あまり表立たない話題を取り扱っているため現実離れしているという感想を持つ人もきっといる。しかし、小浜逸郎の「何だかおかしいと感じながら、私たちがそれを表明したり追究したりしない理由」という問題意識は現在も共有されてもいいはず。
小浜逸郎の問題意識は内田樹『街場のメディア論』が引き継いで語っているようにも思える。内田樹は「定型」的な文章構成に頼りジャーナリスティックを失ったメディアの態度がメディアの受け手である私達の「知の不調」に繋がり、誰が言っても問題なくリスクを負ってまで自分が言う必要のない世論形成を助長する、と述べている。本書で本位的に書かれないメディアの存在については、内田樹『街場のメディア論』を読んでみるのがおすすめ。
個々の事例は小浜逸郎の「実感から立ち上る言葉」で記され、意識の凹凸が激しくて読むのに精神的な疲労が伴う。有益な知見は先に挙げた問題意識に集約されていると言っていい。したがって星3つ。