谷甲州のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
軍事や外交、気象変化や難民の問題など、興味深いストーリーが続きます。上巻の、どどどそうするのよこんなにたくさんのピンチ!というハラハラ感が、下巻の3/4くらいまで解決しません。全てを語らないうちに話が終わるのはこの著者の特徴なのかもしれません。あと私自身の読解力不足とでもいいましょうか。だからきっと読書マスターの方なら「スッキリしたー!」と感じられたのかもしれませんが、わたしはちょっとモヤモヤが残ったので、第一部を読み返して補足してみようかと思います。しかし、エンディングだけは、唐突なストーリーのインフレを見たようで、納得できなかったです。
-
Posted by ブクログ
単なる山岳小説と思って読むと、面食らうような内容だった。
発端の導入部は単にマックスという男の特徴を印象付けるためのエピソードだと思っていたが、作者は初めから「これは単なる山岳小説ではありませんよ」と警告を促していた事がわかる。
主人公たちの行動を左右するのは実にスピリチュアルな現象である。
主人公である日本人2人、筧井宏と加藤由紀は、イギリス人の2人、ジョージとデニスの「口寄せ」をし、登攀で訪れる悲劇を回避しようとするのだ。この小説はまさにこの非現実的な設定にノレるかノレないかに懸かっているといえる。
私はどうだったかと云えば、微妙だとしかいえない。
それはこういう現象を絵空事として簡単に否定できないからだ。
私の想像の範疇を超えた話だからでもある。
他の作家の山岳小説を読んだことがないので比較にならないが、谷氏の書く山岳小説は長編・短編含めてどこか宗教色が濃いものがあるのが特徴だと思う。
今回扱っているのはシャーマニズムだが、これまでにも輪廻転生や因習、呪いなどがテーマになっている。
それはこの作者が自ら世界の山々を登る登山家であることが大いに起因しているだろう。特にヒマラヤを題材にすることの多いこの作者が、ネパールやチベットの宗教色濃い習慣、考え方、しきたりに少なからぬ影響を受けているのは間違いない。
そして前にも述べたが、彼自身、極限状態のときに神の配剤としか考えられない事象を経験したのではないだろうか?
だからこういう作品を何の迷いもなく書けるのだと思う。
迫力の登山シーン(特に唾棄すべき男にあえて唾を吐かなかったのが、貴重な水分を無駄にしたくないという描写には非常にリアリティを感じた)と超自然的現象である「口寄せ」、そして予知視、もしくは幻視。現実と非現実が渾然となったこの作品。一見アンバランスに思えるが、地球上で最も宇宙に近く、酸素の薄い場所においては何があっても不思議ではないという作者からのメッセージなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
(上巻の感想からの続き)
この物語において一番意表を突かれたのは主人公エリコ、その人だ。男から性転換した娼婦という設定ならば、通常は美人でありながら腕っぷしも立つ、そう田中芳樹氏のシリーズキャラクター、薬師寺涼子のようなイメージを抱いていたが、谷氏はあえて逆を行った。
北沢慧人という男でありながら女性として生きる道を選んだエリコは、虐げられていたひ弱な過去と、どこか自分が普通とは違う違和感に対して正直に向き合った結果であり、女性となり、類い稀なる美貌と絶妙なプロポーションを持ちながらも、逆に元男ということで美女に対して引け目を感じるようになっているのだった。
なるほど、そういえばそうなのかも知れない。男として劣っている事を認め、女性になる事を決意したエリコはいわば、逃避者なのだ。そして見た目も心も女でありながらも、やはり女ではないことに時折気付かされ、心を痛める。その痛めた心を癒す拠り所は男勝りの腕力を誇る女性、胡蝶蘭の豊満な胸の中に抱かれるその時なのだ。これこそエリコの不完全さを表している。女性でありながらも女性の母性を求める、このアンバランスさはどうだろうか。
谷氏はあえてエリコを強いキャラクターとして描いていない。元男でありながらも華奢なその体はあらゆる敵から自分の身を守る術を知らない。胡蝶蘭、愛甲ヨハネ、シャオチン、棚橋らの助けがなければ全然苦難を乗越えられないのだ。
しかし、物語の終盤、エリコは自分が完全に女性になった事に気づく事で強さを得る。それは正に「母は強し」ともいうべき、精神的強さだ。
男が完全に男を捨て去った時に強くなる。本書はエリコにこういう設定を持ってきたことが非常に特徴的なのである。
そして物語の後半に現れる巨敵、弘田という政治家。極端な選民主義者であり、他者を自分の野望を達成するための道具としてしか見ない男―家族までもだ!―。その男が唱えるスローガンに美しい日本人を目指すというのがあり、非常によく似た人がいることに気付き、苦笑した。
1999年に書かれた本書において谷氏はこういう政治家が約10年後に出てくることを予想していたかのようだ。
最後に、本書に出てくる「クラヴィウス事例」なる設定について。
端的に述べれば、月面都市に移住した各国の子供たちの中で突出した才能を発揮し、リーダーシップと執るのが日本人だというのがこの事例の内容だが、これはなかなかに面白い。過去の歴史と現在の世界を振り返れば、世界に散らばり、成功しているのはユダヤ人と華僑と云われる中国人であるのだが、ここで敢えて谷氏は月面で力を発揮するのは日本人とした。
私はこの設定を読んだ時に、ある話を思い出した。日本人というのは西から流れて最後に極東の地に辿り着く事が出来た民族だから強いのだという説があるそうだ。山岳登山家でもある谷氏がたびたび極限状態に陥ったときに垣間見た日本人の粘りとか強さなどもこの設定には反映されているのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
いやあ、いいね、この世界観。大友克洋氏の『アキラ』に通ずるものがある。
谷氏のSF小説は初めて読んだが、実に躍動感があり、物語世界の構築がしっかりしている。山岳冒険小説よりもこちらの方が好みだ。
映像化するなら押尾学氏、マンガ化するなら、士郎政宗氏か先に挙げた大友克洋氏あたりだろう。
何よりも登場人物が非常に魅力的だ。
男から性転換したエリコを筆頭に、類い稀なる怪力を誇るエリコの幼馴染みでルームメイトの女、胡蝶蘭(カチョーラス)。20世紀から生きているという噂のある情報屋、源爺。姑との軋轢であえて老婆に変る手術を受けた30歳の“老婆”、咲夜姫。長髪で中性的な容貌を持ちながらも、強引な捜査で危険の香りを漂わせる刑事、愛甲ヨハネ(これはいささか少女マンガ趣味ともいえるが)。エリコのクローンでありながら、残虐な貌とかつての弱かった男性時代の性格を併せ持った慧人ことワイレン。倒錯性交ショーの司会者でありながら、エリコを支援しつつ、寺尾医師との愛に身を投じるミズ・ヤンことシャオチン。風体の上がらぬ風貌で、ぼやきを呟きながらも警察たちを出し抜く探偵、棚橋。
彼らに加え、動物の組織を埋め込む違法な手術を受けた改造人間(フリークス)が横行する。サイの角と怪力を移植された一角獣。犬の鼻と脳を移植された殺し屋、などなど。
そして舞台は大阪、上海、東京から月面研究都市クラヴィウスと移っていく。
谷氏の描く未来像は派手派手しくなく、淡々と描写するからすっと頭に入っていくように感じた。月面へ降り立つシーンからクラヴィウスの景観など、よくある作者独自の逞しい想像力で構築した未来テクノロジー理論を熱く語り、どうだ、すごいだろうといわんばかりに読者をその世界観に引き入れようといった肩肘張った印象がなく、そこにあるかの如く語る筆致には好感が持てた。
これは数多存在する少し先の未来を描いた映像が横行しているおかげなのか、それとももはやここに書かれていることが絵空事でなく、そう遠くない未来であるように認識できているからかもしれないが。
(下巻の感想に続く) -
Posted by ブクログ
登山家でもある作者が、登山の時にどうしても感じてしまう神々の存在について著したかったと思われるのが本書。
人の生死を左右する極限状態の中、昨日まで、いやつい10分前まで冗談を云い合っていた仲間がクレパスに落ち、ザイルが切れて落下し、物云わぬ屍と化す。
かと思えば、絶対助からないだろうと思われる強烈な雪崩の中に巻き込まれながらも、九死に一生を得て生還するようなこの世界、明らかに神の配剤なるものを感じずにいられないのだろう。ミグマというラマの修行僧を通してまずは曼荼羅に記されたこの世の真理を説き、生死の境で相見える山に住まう神々の存在を知った者たちを通して登山と神との関わりを幻想文学の形で描く。
読中、頭をしきりに過ぎったのは坂東眞砂子氏の『山妣』だ。『山妣』で語られる山神の厳しさは山に敬意を払わない者には鉄槌を下すが、山と共存する者には糧を供給し、異形の者でさえ受け入れる懐の深さが感じられたものだが、谷氏が本作で描く山ヤシュティ・ヒマールは、異世界への通廊を守るために何人(なんぴと)たりとも受け入れない冷徹さがあり、登頂を目指すミグマをあらゆる手法で追い詰める。
もちろん『山妣』とこの作品では日本の山とヒマラヤの山という高さ、急峻さ、自然状況の過酷さの違いはあるだろうが、同じ雪山を舞台にして、これほどまでに違いがあるのかという思いがあった。
しかし、その違いも確かに解る。前者はその雪山を生活の場にしている者達の物語であるのに対し、後者は雪山を登山の対象にしている、つまりそこに住まう期間が非常に短いのだという所にある。登頂という目的―本作では単純に登頂のみを目的とはしていないが―を達成するために山の気候、形状はその目的を阻害する敵以外何物でもなく、打ち克つべき存在であるのに対し、生活の空間としている者にとってはその過酷さまでも運命として受け入れ、共存していかなければならない存在であるからだ。
しかし、やはり両者に共通するのは、山には神がいるという感覚だ。前にも書いたが、それぞれ人間の死を左右するのに神の悪戯としか思えない不思議な偶然を感じ、またそれを否定しない。根底に流れるのは同じなのである。
本作は同じヒマラヤの登山を舞台にした『遥かなり神々の座』とはガラリと違い、チベットの修行僧を主人公にしたヒマラヤの登山を通して世界の真理を知るという物語であり、主人公ミグマは幽体離脱と、前世回帰を繰り返し、魂の旅路を繰り返す。彼の前世であるナムギャルが果たせなかった世界の中心を司るメール山(須弥山)の登頂を目指し、そこにあるという世界の真理を知る扉を目指すのだ。
その目的を果たすため、ミグマは曼荼羅の謎を解き、更には転生を繰り返す自らの魂の原初となる詩人ミクラパまで魂を遡る。
もはや物語において時間や空間といった概念は無意味である。更にミグマは登山家としての経験を物質世界でも積む。
何ともまあ、壮大な物語だ。
物語は更に思弁哲学の様相が濃くなりやがて相対性理論に行き着く。それも西洋数学の知識に基づくのではなく、仏教的世界観を以って、そこにアプローチしていくのが面白い。
そしてミグマが垣間見る異世界への通廊には、世界を統べる法則が全く異なった世界だ。それは私達の世界で理論として確立している万有引力の法則や量子力学なる物がそれぞれの宇宙では全く異なった理論で形成されていると述べているのだ。
これは作者の意見なのか、どこかの学者が述べた理論なのか、寡聞にして知らないが、この箇所を読むに当たり、我々の論理では宇宙の謎は解けないのではないかという思いを強くした。この考えに同調する自分がある。
我々人間の描く尺度を全く越えたところに宇宙は存在し、かつ機能している。
作中、山の神としてミグマが乗越えるべき存在として立ちはだかる大いなる存在ヤクティは、それ相応の知識・経験を備えていない者に対して非常に排他的に振舞う。
これはこの非常に思弁性に富んだこの作品を書いた作者の、解る人だけに解ってもらえればいいという態度そのものなのかもしれない。