コーマックマッカーシーのレビュー一覧
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凄い言葉を生むための物語。
胸に押し当てたいほど美しいものは全て苦悩に起源を持つ。それは悲しみと灰から生まれる。
- 63ページ
かたちを喚び起こせ。ほかになにもないところでは無から儀式を創り出しそれに息を吹きかけよ。
- 86ページ
善意が見つけてくれるんだ。いつだってそうだった。これからもそうだよ。
- 326ページ
全て凄い言葉。言葉に、“凄さ”を付与するための話。
「火を運ぶ」という言葉が多義的に解釈されている。解釈に一側面を付け加えるならば、これは“律”だ。そして律は、人間の主観なしには作り得ない。人間が作るものには全てが信仰が含まれる。それは律であっても例外ではない。
世界をあるべき姿に正すためには、律を作り出す時に用いた信仰を実践するしかない。つまるところ、“善い者”でなければならない。これはもちろん、自分にとっての善さに他ならない。
火を運ぶ中で少年は原初の火を灯し続けるが、彼は彼らの作り出したのとは違った律が世界に混ざり込み、たびたび少年と衝突する。その結果、大抵悲惨な事態を引き起こすが、父の世界を取り込み、少年の律も変容する。
しかし、どれだけ律が変わろうと、火を運ぶという目的が変わることはない。なぜなら、火を運ぶことは、律の内容とは全く無関係に行うことができるからだ。
コーマック・マッカーシーは、彼自身が火を運ぶために、我々に「言葉」という手段を用いて語りかけているように思う。それは、キャラクターと、物語による、「凄い言葉」という形をとって成される。
リストを作れ。連禱を唱えよ。憶い出せ。
- 38ページ -
Posted by ブクログ
荒野に放置された弾痕の残る車輛と複数の死体、多額の現金と麻薬を見つけたら、そのまま放置して警察に連絡するに限る。現金を持ち帰り、再度現場を訪れるようなことをすると、地の果てまで追われることになる。
冒頭から物語に引き込まれ、ストーリーや登場人物の行動、セリフに引っ張られ、終盤まで連れていかれる。章立て冒頭の保安官のモノローグの印象が残っているうちに、主人公と追手が繰り広げる逃走劇が脳内に入り込んでくる。ストーリーが脳内に入ってくるのは、著者の作品『ロード』でも同じだ。その文体がそうさせるのだと思う。
主要な登場人物はすべて戦争経験者だ。オールド・メンの条件が戦争経験のように思うが、アメリカはどこかしらで戦争を継続しており、必ずしも古いタイプの男を指す条件ではないが、本書ではおおむねベトナム戦争経験者までをオールド・メンの対象にしている。2007年に本書の著者は80歳近い年齢であったことから、当然のカテゴライズだと思う。
古いこと、新しいこと、時代がかったこと、今時のこと、いろいろなことが掛け合わさって入り乱れてくるが、ストーリーが立ち整然と物語は流れていく。しびれるほど面白かった。 -
Posted by ブクログ
舞台は1940年代のアメリカ・メキシコ国境地帯。主人公の少年は、三度び国境を越え、馬に乗ってメキシコの地を延々と放浪する。
一度目は捉えた雌狼を生まれた地に送り届けに、二度目は盗まれた馬を取り戻すために、三度目は生き別れた弟を探しに。
主人公は孤独な旅を逞しく続けるが、その過程であらゆるものを抗いがたい暴力によって喪失していく。
壮大で厳格な喪失の物語である。
文庫本で600ページを超える大作だが、最初の1、2ページを読んだところで、あまりの読みにくさに挫折しそうになった。
独特な言葉遣いと長いセンテンス、詩的な情景描写、短い言葉を交わすだけのダイアログ、場面の切り替わりのわかりづらさ。
心理描写は極力排除され、ただひたすら事物だけが描かれていく。
特に、主人公が放浪の過程で出会う人物によって語られる挿話が長くて哲学的・宗教的で難解で、心が折れそうになるが、そこを乗り越えたときに頭で理解するのとは異なる、深淵な何かが確かに生じるのだ。
主人公の旅に付き合うことで、時間感覚や地理感覚が拡張されていく感じ。
先般(2023年6月)亡くなったコーマック・マッカーシーの「国境三部作」の2作目とされる。
1作目の『すべての美しい馬』より先に読んでしまった。
三部作すべてを読んでみたい気はするが、相当なスタミナが要求されそうだな… -
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ネタバレ物語の大半の舞台となっている、生きものを寄せつけず死体をすぐにからからに干からびさせてしまうアメリカ西部の岩だらけの原野のようにゴツゴツとした文体は、最初は読者を拒絶するようでもあるが、読み進めるうちになぜかペースに乗せられてしまう。何しろ長いので、読んでいるうちに慣れてしまう。むしろハマってしまう。
当たり前のように虐殺シーンが続くが、それが当然の時代だったというわけでもなく、この時代にあっても特に荒くれ者の(実在した)頭皮剥ぎ集団に身を置くことになった少年の物語。物語の終わりには少年ではなくなるので、ある意味ではビルドゥングスロマンに相当するのかなと思った。
感想を書くのは難しいが、何となく分かったような気がする部分と、こりゃ分からんお手上げだという部分があって、そのぐらいの歯ごたえのある文章を読むのは単純に楽しい。
特に強烈だったのがホールデン判事というキャラクター。いつの間にか存在に気付いたが読み返してみたらもう冒頭ぐらいから登場していた。何しろ風貌が怪異で、この風貌を描写するマッカーシーの文章が冴えに冴えている。何度も描写されるが毎回異なった表現がつけられていて、この部分だけをまとめた引用文集を作ってみたいぐらい。またこの判事の発言が実に哲学的で含蓄に富んでいて、理解できない部分が多いのだが、これもまたまとめてみたい。 -
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『信号弾はしゅーっと長く音を立てながら暗黒の中へ弧を描き海面よりも上のどこかで煙混じりの光にはじけてしばらく宙に懸かった。マグネシウムの熱い巻きひげが数条ゆっくりと闇の中をくだり渚の波が仄白く光って徐々に消えた。彼は少年のあおむいた顔を見おろした。
あまり遠くからだと見えないよね、パパ。
誰に?
誰でもいいけど。
そうだな。遠くからは無理だ。
こっちの居場所を教えたくてもね。
善い者の人たちにかい?
うん。ていうかとにかく居場所を教えたい人に。
たとえば誰?
わかんないけど。
神さまとか?
うん。そういうような人かな。』
目の前の本を読みながらどうしても他の本のことが頭の中を過ってゆく。読み始める前に想像していたのは、書名からの連想で、空想科学小説風の「オン・ザ・ロード」(ジャック・ケルアック)のような話だったのだけれども、実際に連想されたのはデイヴィッド・マークソンの「ウィントゲンシュタインの愛人」とジョゼ・サマラーゴの「白い闇」。翻訳者の解説にもある通り、確かに本書コーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」もロードノベルではあるのだろうけれど、本書はそれら二冊同様にいわゆる反理想郷を描いた小説と分類されるのが適切なように思う。ここで描かれているのはいわゆる「核の冬」の時代のようであり、自然も徹底的に破壊され人類以外の生物の痕跡もほぼ無い。
「ウィトゲンシュタインの愛人」は本書と同じように何らかの理由で人類がほぼ滅亡してしまった近未来的な世界に残された女性が主人公の小説(そう呼んでよければ)だが、一人残されていく過程の描写はなく、世界はどこか形而上学的(ウィトゲンシュタインの名が付く位なので当然だが)で、滅んでゆく人類たちの修羅場のような状況は描かれることがない。かつ、自然そのものは何も汚染されていないかのような雰囲気が漂う。一方の「白い闇」はある日突然人類が盲目になるという伝染病が蔓延し社会が機能しなくなっていく世界の中、一人目が見えるまま「取り残された」女性が主人公の小説で、こちらは「目が見えること」を前提として成り立っていた社会通念が倫理観も含めて覆されていく様が、少々糞尿愛好過多気味に描かれている。何らかの理由で人間社会が機能しなくなりやがてほぼ滅亡した状態になるというのがこの類型の空想科学小説の一つの時間の流れだとすると、本書は「白い闇」(未読ながら、続編では疫病は自然と克服されるらしいのだが)と「ウィトゲンシュタインの愛人」の中間の時代を描いており、ひとり取り残されてしまった状況より、その前にこういう時代が来ることの方がもっと過酷だということを改めて認識させる。言わずもがなだが一番凶暴なのは人類なのだ。だから映画「マッドマックス」が描くように、そこに「正義の味方」的な主人公を置きたがる聴衆や読者が多いだろうとも容易に想像できるのだけれど、本書の主人公たちはメル・ギブソンとは違ってタフでもなければ特別な才能に恵まれている訳でもない。ただ温暖な土地、そして残された食料を求めて彷徨い歩くだけだ。道々出会う困難を何とか紙一重でかわしながら進む親子の物語を描くこの小説の終着点は一体どこなのだろうと訝しく思うほどに、終盤に至るまで救いらしい救いの光明は見えてこない。旅を続けながら父親はじわじわと弱っていく。ロードノベルの定番である成長譚という視点から見ても、破壊され尽くした世界に生まれてきて「前の時代」を知らない息子が成長しているようでもない。悲惨さだけがずんずんと降り積もっていく。
しかし、やはり最後はそうなるしかないというエピローグが待っている。ご都合主義的と言ってもいいその終結はハリウッド映画的な世界観と相性がいい。それがいいとも悪いとも思わないのだけれど、ドン・デリーロと並び称されるという作家の作品に何を読めばいいのかを判らなくもさせるように思えてならない。自分の中での置き所が上手く見つからない小説である。 -
Posted by ブクログ
個人的に現代アメリカを代表する最も重要な作家の1人と考えているコーマック・マッカーシーの長編第9作。既に単行本時として翻訳されていたが、当時の『血と暴力の国』から改題され、原題と同じ『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』として今回、文庫化で復刊されたのが喜ばしい。
コーマック・マッカーシーという作家の魅力を説明しようとしたとき、「血と暴力の国」というワードは極めてシンプルにその魅力を表している。単行本時にこのタイトルが選ばれたのもよくわかる。本作を10ページほど読むだけで、5名が無惨な暴力で殺され、血に塗れることになるのだから。
マッカーシーの作品は一般的には犯罪小説などの意味合いを持つノワール(暗黒)小説、と括られることがある。しかし、個人的にはその括りには違和感がある。ノワール小説の多くは単に犯罪、血と暴力などの意匠によって記号的に成立するのに対して、マッカーシーの作品においては世界がいかに存在するかを描こうとしてときに不可欠な意匠として犯罪、血と暴力などが存在しているからである。
本作、”NCFOM”では、メキシコの麻薬密売人の金を持ち逃げした男と、彼を追う謎のサイコパス的なシリアルキラーの男、そしてその暴力を食い止めようともがく保安官の男、という3名を主軸に物語が描かれていく。血と暴力はますますとエスカレートしていくなかで、物語のキーマンである保安官の男が見せる内省にこそ、本作の隠れた主題が込められている。
なお、『テスカトリポカ』で度肝を抜く文学世界を見せてくれた作家、佐藤究が本作では解説を寄せている。彼が本作に解説を書くということを知ったときに、個人的には強い納得感を覚えた。現代日本において、コーマック・マッカーシーと極めて近い場所にいる作家こそ、彼である、という両者のつながりを感じたからである。