永井玲衣のレビュー一覧
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戦争や平和を語る時、どうしても言葉を飾ってしまう。結局聞いたことある言葉を使い回して無理にまとめてしまう。だから、みんな同じことを言う。
このエッセイにある、実際に多くの人から見聞きした着飾らない生の声を通して、これまで私が平和について考えて生んだ言葉がどれだけ飾られたものかを実感した。
『言葉ってどういうときに生まれるのか、それは人との対話の中で生まれてくる』
とても共感。自分の中の考えって自分の世界から出られてなくて、なんだかそれって未完成なんだよね。
それを声にする過程の中で、言葉になるって感じ。
その過程で何度も言葉が失敗して、失敗して、そうしてつくられていく言葉の柱。
そう思うと、わたしは言葉の失敗を恐れてしまってる気がする。でもその失敗が本当は大切なんだろうね。
ガザでの戦争、報道でよく聞くけど、確かに身近に感じることはできない。
遠いところでの出来事。
でもその『遠い』って感覚はなんなんだろう。
物理的な距離?心の距離?
あまり知らない国だから関心が持てない?
でもそれを無理に近い出来事として捉える必要もないような。
遠いものは遠いものとして、それが近いものにならないように考えることが大事なのかな。
遠いところならどうでもいいというわけではなく。
変に身近なこととして捉えようとして、それこそ作品中にもあったように、『自分ごととして捉える』ということをよく勘違いをして、自分のスケールの中で考えてしまうことの方がよっぽど悲劇な気がする。
印象的に残ったフレーズ
『わたしいま飲食店で働いていて
いっしょうけんめい 水を運んでいる
でもせんそうになったら わたし
いっしょうけんめい
兵器とか運んじゃうのかな』
日常の何気なく行ってる行為や仕事が、恐ろしいものに成り代わったりする。
意味が変わって、人を救うはずのものが争いに加担するものになったりする。
音楽や文学、絵画だったりもそう。
自由に表現できなくなって、争いに励むことや賞賛する表現しかできなくなる。
わたしはいま聴くことができる音楽が好きで、いま読むことができる文学が好き。
これだけは絶対に奪われたくない。
そして好きな作家や芸術家が表現に苦しむ姿をみたくない。
そういえば、高校のとき、テレビの報道でとある国の最高指導者が亡くなったかなんかでその国の人民が皆、わざとらしい演技で嘆き悲しむ姿を見た。
大袈裟に天に手をかざし、土下座のような格好で頭を垂れていた。
当時、わたしには好きな人がいて、もし日本がこんな状況にあって、好きな人がこんな馬鹿らしい演技を強いられていたらと考えると、とても暗い気持ちになった。強い拒絶だった。
そして日常が恐ろしい別の意味になり変わるということは、戦時中の何気ない日常の日記や誰かに宛てた手紙が、"史料"になってしまうことでもある。
誰にも見られたくない特定の人に宛てたものがこうやって戦争史料に意味が変わり、嘆き悲しみながら見られる対象になってしまう。
その人にとっては、日常を続けようとする中での何気ない手紙や日記かもしれないのに、そこに戦争史料としての別の意味が宿ってしまう。
またその逆も然り。叔母がカラオケに軍歌を入れるのも、そのおばにとって青春の歌が軍歌だったってだけかもしれない。
日常が戦争になり変わるということ。
戦争って色を失うことだと思った。
ぼくにとっての赤は
大好きな甘いりんごの赤であって、
高原に乱れ咲くツツジの赤であって、
戦火に包まれる街の色ではないし、
腹から溢れる血の色ではない。
…まとまらなくなってしまった。
戦争と哲学、お互い遠いテーマのようで、たしかに戦争というイメージがあまりにも曖昧すぎているので、そこを哲学的に深く潜り、理解や感覚の真髄を探っていく。それはあまりない経験で、興味深く読むことができた。 -
Posted by ブクログ
日本各地で「哲学対話」を実施する永井玲衣さんが、写真家の八木咲さんと「せんそう」について考え、語る言葉を探す「せんそうってプロジェクト」を立ち上げます。この活動が文芸誌「群像」に連載され、その書籍化が本書とのこと。
このプロジェクトでは、戦争を知らない世代が多数派になる中、教科書の歴史知識としてだけではなく、自分の言葉で「せんそう」を知り語る方法を模索します。日本各地での観察・情報収集や、表現を交えた「哲学対話」の場をひらいているようです。
様々な人の言葉から伝わるのは、迫力‥例えば、教科書には書かれていない、見落とされがちな声、音、光、色、人の眼差しの力でした。「せんそう」は私たちのすぐ側に、そして日常の中にもその影が潜んでいることを突き付けられます。
広島と沖縄を撮った八木咲さんのモノクロ写真は、81年前と今のあわいにある光と影を切り取り、時空を超えた訴えが迫るようで引き込まれます。多くの人の言葉、永井さんの言葉に八木さんの写真が交差し、想像を膨らませられます。
本当は、本書を読んで考えたことを誰かと共に語る読書会とかに意義があるのでしょう。多くの言葉を手渡され、自分は「せんそうって」のあとに、どんな言葉を続けるか…。「せんそう」を語るための自分の言葉をさらに探し続ける必要がありそうです。
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Posted by ブクログ
哲学は心細い。さみしい。だがわたしは、さみしいからこそ哲学をしているような気がする。
生まれてきたことがさみしい。わからないことがさみしい。問いをもつことがさみしい。問いと共に生きることがさみしい。
なんて平凡なんだと自分で自分に(なぜか)落胆しているのだとしたら、それも安心してほしい。凡庸な考えをもっているひとなどはおらず、誰もがとりかえのきかない、なさけなくて、おかしくて、やさしい考えをもっている。
「えっ…なんで・・・ひとは生きている?」
少年だけが、眉間に皺をよせ、目の前の問いを反響させている。
わたしたちはもっともがいてもいいのではないか。どこかで聞いたことのある幸福の言葉を重ねないように。あなたが不幸でも、わたしが幸福を感じることができてしまうというその不条理さに驚いたり、戸惑ったりしてもいいのではないか。
あなたが好きなものは、別にわたしは好きではない。わたしが満足するものに、あなたが満足するわけではない。なんてさみしくて、意味がわからなくて、驚くべきことなのだろう。
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ネタバレ「他者によって生きる意味が生じるとは、どのようなことなのか」といった問いである。それも、一方的な関係性によって。…一方向的に他者を愛する行為は、痛みをともなう。推すことは、きわめて奇妙な主体と客体の関係性が混在したかたちで存在している。…推しという絶対的な存在に従属しているような経験。しかし実際は、相手を「偶像」としてまなざしてもいる。推しに向けられるまなざしは、相手を硬直化させる。ひとつの意味づけ、価値づけをされた対象物として見つめられる。…推しを愛することは、推し自身の喜びであり、苦しみである。そして常にその愛は、推しを客体とみなし、消費する暴力的なまなざしへと転じうる危険性をはらんでいる。(p.20-21)
どんなに相手のことを理解しようとしたとしても、わたしたちは互いにわかりあうということはできない。他者関係の根源的な負可能性は、解消されることはない。(p.22)
好意がありすぎるひととは、もはや相槌などうちたくない。終わらせたくない。ふにゃりとした、気恥ずかしく、でもたまらなくうれしいあの余韻を残しておきながら話していたい。「あーね」「なるほどね」なんて言葉で埋めるのではなく、ぽつりぽつりとひらく間に撫でられていたい。(p.48)
コントロールできない他者に出会った時とき、わたしたちはどうすればいいのだろうかという問いに再び戻ってきた。ひとつは対話を試みることであった。それ以外にあるだろうか。
それは他なるものを、他なるものとしてまっすぐに捉え、しみじみと新しいまなざしで眺めなおすことである。(p.77)
あなたと別れたあとも、わたしの心にいつまでもあなたが巣くうことがある。何日も、何ヶ月も、何年も。
今日君が持ってる本を買いました。もう本当のさよならなんだ(雲居ハルカ×町田千秋『壊れていてもかまわない』)
…もしかするとわたしたちは自らの手で「終える」ことなどできないのかもしれない。誰も予測できない仕方で、草木が枯れるように、花が落ちるように、ふいに場は終わる。閉じられる。結ばれる。(p.102-104)
多くの場合、世界に根ざしたひとは、自らの目で見回したものを、本に発見する。…一方で十七歳のわたしは、本だけが「ほんとう」だったし、本が現実に先立ち、そのまま本で閉じていた。
…「これがそうなのか」
現実を眺め返すと「ほんとう」がより「ほんとう」として立ち現れていた。脈打ち、動いていて、奇妙だった。ほんとうに、これがあったのだ、と思った。
既知のものを本に見出していく読書ではな買った。その代わり、本でものを知り、言葉を覚えた。そして現実を見ることになった。そのとき、世界は既知のものとして捉えられるのではなく、未知のものとして、より生々しく出現していた。
…本は世界の中で生まれ、鍛え上げられ、それを写し取った。そして世界もまた、本に影響され、変容し、大きな身体を脈打たせた。両者は別個ではなく、互いを飲み込みあいながら、ぐるぐると回転していたのだった。(p.181)
わたしたちはすでに、共に生きている。ひとりで生きることはできない。どうやってもできない。交差するまなざしの中でいき、どうやっても互いに影響を与える。…対話で最も核心的なことは、共に座るというところだと思うようになった。(p.212)
忘れたくないと願うことと、忘れても大丈夫だと思えることは、両立する(p.239)
他者と共に座るとき、本を読むとき、また文章を生み出そうと原稿を書きつけるとき、他者に問われるとき、わたしはあなたと出会っている。他者は可能性である。広々とうつくしく、はりつめた可能性なのだ。(p.313)
313 -
Posted by ブクログ
少し前の、永井玲衣さんの哲学エッセイ
読み始めは少し読みづらく
何ヶ月か部屋のすみで積読されていた
改めて読んで見たら
なんとも心にずっしりときた
世界情勢から、日本の災害の時の話
そして個人的な話まで
さまざまな適切な保存を考えている
今の状況を未来に残すことがどれほど
大切なことか、わからないが
もしかしたら、未来にとっては
どーでもいいことかもしれないが
体験して取り込んで伝えていく
でも、そのほとんどは完璧には
保存されないかもなのです
景色を見て感動して写真に撮って
誰かに伝えても
その瞬間はけして伝わらない
匂いや空気感も伝わらない
例えば烏龍茶を飲んだとき
自分では『猿の味がする』と思う
誰かに伝えても
猿食べたことないでしょ〜
と笑われる
ある時その話を友人にすると
「渋温泉の猿を見に行った時の
あの猿の臭い
鼻から口に伝わったあの臭いなんじゃない?
わかるよ」と言われた
その通りと思った
的確すぎて、凄いと思った
こんなふうに日常の中の些細なことでしか
表現できないけれど
それぞれに保存しつつ
生きているのかもしれない
自分が本を買い集めることも
保存の一種だろうか
たわいもない会話をすることも
その仲間だろうか
いろいろ考えてみるのも楽しい
余談だけれど
時々「あること」を話し始めて
その説明の中で別の話しを
挟み込んで説明しようとした時
そっちの話しで頭がいっぱいになって
肝心のはじめの「あること」を
忘れてしまうことがある
つくづく自分には保存が向かないのかなとも思う
ただの認知機能低下かもしれないけど‥
説明が下手なのは昔からですが
心を込めて伝えたい気持ちだけは
忘れたくないですね
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Posted by ブクログ
約1年の積読本。哲学者 永井玲衣さんのコロナ禍やその前後に書き溜められた文章が集められたエッセイ。永井さんの最新刊『これが、そうなのか』の方をなぜか先に読んでしまいましたが、この本の中でも『そうなのか。これが、そうなのか。』というセリフが出てきて、思考の流れを感じさせてくれて少し嬉しくなりました。
第1章は日記。短い文章の中に、なかなかに個性的なエピゾードが含まれていておもしろい。また、日々読んだ本が明記されていて、それも興味深いです。
第2章は、哲学者らしい文章が多め。繰り返し『問い』が出てきて…かと思えばその前提に立ち戻り、考えに考えに考える…。ちょっと気を抜くと、ぼーっと読んでしまいがちで何度も戻って読み直す。とことん深く考える文章が続くので気を抜くとただ字面だけ追っている状態になりがち。
何度か読んでも腑に落ちないものは、とりあえず「ネガティヴ・ケイパビリティ」を発揮し、わからないままに呑み込んで読みすすめました。先日、『血肉となる読書』で小川公代さんもネガティヴケイパビリティについて語っていたので記憶に新しい。こういうのは読書の醍醐味かも知れない。
第3章第4章とまた読みやすい文章に戻り、著者が感じた違和感に共感したり、わからなかったりしながら、そのわからなさがおもしろくて読んでいて楽しい。名著と呼ばれる哲学書はなかなか手が出ないのですが、このようにやさしくて私のようなものにも開かれているエッセイは読みやすい。ぼやっとしながらも確実に少しずつ心身に染み込んでくるので、大好きな読書です。
わたしたちは、ただ、考えたいのだ。奇妙なものを、奇妙なままに、考えることを許してくれる哲学を通して。p230
ひとには、どんなひとにも、ことばがあり、問いがあり、考えていることがある。それが役に立つとか深いとか面白いとか強いとか、そう輪郭付けられる前に、ただある。そのことに、集中したい。p234
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Posted by ブクログ
初めて哲学の本を読みました。
「こんな世界があったのか」という読み始めの印象でしたが、読み終わっても印象は変わりません。
しかし、読んだあとには
・日常の中に哲学があり、自分もその一部であり、哲学は身近なものなのかもと気づいた。
・普段から考えていることを言葉にする、言葉にできなくても考え続けることが世界を感じたり理解したりすることなんじゃないか。
・哲学って素敵だけれど、やっぱり面倒くさいな。話がいつまでも終わらなくなってしまう。
このようなことを思いました。
また、哲学の本を読むことがあるかはわかりませんが、気づいたら新しいのを探して読んでいる気もします。
自分としては楽しめたし、何が楽しかったのかを考えるのが楽しい一冊になりました。 -
Posted by ブクログ
人それぞれ・人間の本能・承認欲求
後ろ2つをまんまと使っていたことに気づきギクッとした
永井さんの本を読むと、自分が楽するために見逃していたこと、突き詰めずに折り合いをつけようとしたことを思い出させてくれ、問いに向かって開けるのを感じる。山月記の話など懐かしくて考え直す体験を一緒に行うことができた。
特に、「子供の人権」について私は子供→大人になっていくはざまにいるため、子どもとの向き合い方を忘れずに考えていきたい。また、「嫉妬」はなぜ生まれてしまうのかというのは誰もにあり、深い感情だと思う、考えがいがある。
それに、人間の誇張表現についても、「超」「神」ときて、「普通」にいたる。「普通」という言葉の虚構さと便利さがおもしろい。
改めて、この世界に自分に関係のないことなど1つもないと感じさせてくれる一冊でした。