島崎藤村のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
教科書だけでは知り得なかったエタの苦悩がひしひしと伝わってきました。
文明開化で新しい時代を迎え、「新平民」となったのにもかかわらず、周りからは人外扱い。
人種差別が絶えないでいた悲しい日本の現状が見えたような気がします。
◆memo
『破戒』(はかい)は、島崎藤村の長編小説。1905(明治38)年、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年3月、緑陰叢書の第1編として自費出版。
被差別部落出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描く。
藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
◆20090612〜20090 -
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・辛い。こんな秘密を抱えるってことを、想像できない。
・当時の穢多に対する市民の感覚がわかりすぎるほどに良くわかった。当の島崎藤村すら、連太郎に自分たちを「卑しいもの」と語らせているほどで、どれだけ当たり前の感覚としてこの「差別」(今の言葉を使えば)が浸透していたのかが良くわかる。表現に驚くとかじゃなく、この感覚に驚く。
・親友の銀之助ですら、当たり前のように穢多を差別していて、そりゃ言い出すなんてとても無理、と思いましたわ。
・それにしても辛い。今の世の中で性的嗜好をカミングアウトすることとはこんな感じなのかな。
・志保の存在に救われた。
・今の作品であれば、きちんと穢多と呼ばれる人たちも皆 -
Posted by ブクログ
日本人のタブー穢多非人を題材にした小説。
恐らく今の若い人は穢多非人と聞いてもなんのことか分からないのではないか。なぜなら学校で教えていないから。そういう私自身も学校で詳しく習った記憶はなく、地域的にも縁が薄かったため、大人になるまで詳細は知らなかった。
江戸時代の身分制度の名残が令和の現代にまであるなんて思いもよらなかった。
本書は明治期に書かれた小説。
穢多非人へのあらゆる差別は明治政府により廃止されたが、当たり前だが制度として廃止されても人々の差別感情はそう簡単にはなくならない。差別とはそういうもの。
本書の主人公は学校教師で生徒にもよく慕われているが、出自が穢多のために、その人生はく -
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私は丑松に自己投影をしたのである。それについて誰がなんと言おうと、私は丑松の多くのことに共感した。それは、彼が夜に眠れないことや、ふと自分の運命について考え未来を恐れ過去を希望する一方で、女性についても考えずにはいられないことである。
「去年-一昨年-一昨々年-ああ、未だ世の中をそれほど深く思い知らなかった頃は、噴き出したくなるような、気楽なことばかり考えて、この大祭日を祝っていた。手袋は元のまま、色は褪めたが変わらずにある。それから見ると人の精神の内部光景の移り変わることは。これから将来の自分の生涯はどうなる-誰が知ろう。来年の天長節は-いや、来年のことはおいて、明日のことですらも。こう考 -
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まず述べておきたいのは、本作は解説を含めて読むことで当時の時代背景や差別の実態を把握しなければ、真に理解することはできないという点である。
本作は被差別部落出身者である主人公が素性を隠して教員として勤務するが、尊敬する同じ被差別部落出身の思想家の横死を経て、父から与えられた素性を明らかにするなという戒めを破るまでの葛藤を描いた物語である。
解説にも指摘されているように、本作は藤村の差別意識が無意識に表出している部分もあり、また結末も差別からのある種の逃避になっているため、社会派的小説としては極めて不完全ではあるものの、逆にそのこと事態が思想的な理想を描いた空虚な小説ではなく、ヒューマンドラマと -
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★★★★ 何度も読みたい
これは地元から離れ、普通の生活を手に入れた穢多の青年が、たった一人で抱えた自身の出自の秘密に苦しむ話である。
主人公瀬川丑松は部落出身であり、その身分を隠して教員として生計を立てていた。彼は堂々と己の出自を明らかにして活動する、部落出身の猪子蓮太郎を慕っているが、如何なる時も誰に対しても家系の秘密を隠し通せと言う父の言葉や恐れがあり、蓮太郎にすらも自分の秘密を伝えられていなかった。なぜなら彼は自分が穢多であるという事実が知られれば、今の生活は到底続けられないと知っていたから。
部落差別という、現代では表立って騒がれなくなった問題だったが、写実的な描写や何気なく穢多