島崎藤村のレビュー一覧
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ネタバレ 購入済み
20世紀を代表する歴史小説と言えます。 候文、漢詩、和歌等現代人には判読不慣れな文体が随所に出てきますが、維新前後の日本の状況に関し詳細に書かれた内容は他に例を見ません。 現代歴史作家の著作を読まれる前に是非一読したい名作です。 西郷隆盛、坂本龍馬、新選組等々が単に維新のごく一部でしかないことに気が付くはずです。 島崎藤村は正に文豪です。
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ネタバレただただ「根が深い」という感覚を覚えた。
同和問題は西日本で主に語られる、という印象でいたが、舞台は長野である。
主人公の瀬川丑松が段々と追い詰められる様は読み応えがあった。「川の向こう・・・」という表現が、本当に出てきた表現であり、戦後であれそれは存在した表現であるそうだ。
そして、彼が独白するシーンの後、生徒が校長室に直談判をしにいく、その様も感動的であった。
最終的に彼は厄介払いのように扱われてしまう。
同和問題は今にも尾を引く問題である。大阪符豊中市の森友学園の場所は、関西では公然の秘密のように語られる場所であるそうだ。今後どうなっていくのか。問いかけられている気がした。 -
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島崎藤村の『破戒』は明治39年(1906)刊行。
士農工商の封建社会の身分制度が、「解放令」(1871)によって崩壊するかに見えた時代に書かれた作品で、自然主義文学の先駆と呼ばれる。しかし、この法令によってそれまでの身分社会が急速に変わることはなく、主人公の丑松をはじめとした苦しむ人々が登場する。結局、人の中に刷り込まれた差別意識は簡単に変わらない。
自信が穢多であることを床に顔をつけて告白する丑松。彼が穢多であることと、彼自身の人物性との間に穢多であることがどう関係するというのか。事実、彼は学校では生徒から絶大な人望を寄せられている。銀之助、お志保など、彼の素性を知ってなお彼を支えようとす -
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ネタバレ士農工商穢多非人.
明治以降に定められた身分制度に焦点を当てた,
文学界ではあまり類を見ない作品.
初めに感じたのが,文章の平易さと読みやすさである.改訂版で
あるから,多くの歴史的仮名づかいが現代仮名づかいへと変更
されていることは容易に想像できる.それが原因かは定かではないが,
同時期に発表された漱石の作品と比べるとはるかに理解しやすい.
また,共に自然主義を確立させた花袋よりも好印象を持った.
急に波風が立つことはなく,ストーリーは緩やかに進む.
自然主義たる威厳を十二分に示している.ここで,先に述べた
文章の平易さが潤滑油となり,理解の困難から来る退屈を決して
味わうことはない.
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教科書だけでは知り得なかったエタの苦悩がひしひしと伝わってきました。
文明開化で新しい時代を迎え、「新平民」となったのにもかかわらず、周りからは人外扱い。
人種差別が絶えないでいた悲しい日本の現状が見えたような気がします。
◆memo
『破戒』(はかい)は、島崎藤村の長編小説。1905(明治38)年、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年3月、緑陰叢書の第1編として自費出版。
被差別部落出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描く。
藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
◆20090612〜20090 -
Posted by ブクログ
・辛い。こんな秘密を抱えるってことを、想像できない。
・当時の穢多に対する市民の感覚がわかりすぎるほどに良くわかった。当の島崎藤村すら、連太郎に自分たちを「卑しいもの」と語らせているほどで、どれだけ当たり前の感覚としてこの「差別」(今の言葉を使えば)が浸透していたのかが良くわかる。表現に驚くとかじゃなく、この感覚に驚く。
・親友の銀之助ですら、当たり前のように穢多を差別していて、そりゃ言い出すなんてとても無理、と思いましたわ。
・それにしても辛い。今の世の中で性的嗜好をカミングアウトすることとはこんな感じなのかな。
・志保の存在に救われた。
・今の作品であれば、きちんと穢多と呼ばれる人たちも皆 -
Posted by ブクログ
なんという苦悩だろうか。自分では選べない出自によって、人並みの生活が送れないほどの差別を必然的に受けることになるとは。
主人公は瀬川丑松、24歳、信州で小学校教師をしています。父親から「隠せ」と厳しく戒められてきたとおり、自分が被差別部落出身の穢多であることをひた隠しにしています。
入院していた病院で穢多であることが広まり追い出され、戻された下宿でも「不浄だ」と罵られ追い出される富豪の大日向や、「我は穢多なり」の一文で始まる『懺悔録』を書いた著述家猪子蓮太郎といった人々を目の当たりにし、丑松は〈同じ人間でありながら、自分らばかりそんなに軽蔑される道理がない、という烈しい意気込を持〉ち