吉行淳之介のレビュー一覧
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原色の街と驟雨はどちらもいわゆる赤線地帯と呼ばれる歓楽街の娼婦たちとそこに通う男の物語。都会的でクールな主人公の娼婦との関わり方は付かず離れず。時には心を揺り動かされることもありながらそれを悟られまいとする両者はある種、非常に技巧的な人間関係を敷いているといえる。
しかし、この技巧的な人間関係というのは別に娼婦と男にだけ存在する訳ではなく、社会集団の持つ力が弱まって、個人と個人を繋ぐ引力も弱まった現代においてはごく一般的に存在する。その絶妙な距離感を描くのに題材として娼婦や彼女らがいる遊郭が適していたのだろう。
主人公は直截な感情の発露を行わない。代わりに自らの心の動きを第三者的視点で見つめ -
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戦争体験が与えた意味を文学的に表現した第一次戦後派と、西洋の文学理論や新たな手法を積極的に取り入れた第二次戦後派。
それら戦後派作家に続く形で現れた新しい世代の文学作家達を、評論家の山本健吉は『第三の新人』と称しました。
『第三の新人』には、共通した思想、定義があるわけではなく、同一の文学理論や問題定義、同一同人誌・文学雑誌での活動等もないです。
単純にこの頃に相次いで現れた多才な新人文学家を総称したワードであり、今日、純文学と大衆小説の垣根が薄くなったその始まりと言える時期かもしれないと思います。
現代だからこそ日本文学史上の一つとして位置づけられていますが、当時、『第三の新人』は文壇からは -
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ネタバレ30数年振りで再読。文庫本の版を見ていると大学入学後に買って読んだ様子。
当時、20歳ぐらいの自分としては、ちょっとエッチな小説と思って読んだような気がするが、まあまあおもしろいなと思うと同時に、若い女性と付き合うたぶん40代と思われる親父に対して、いい年して何やっとるねんとちょっと反発した気持ちがあったと思う。
それから年月は流れて、今やこの主人公よりあきらかに年上になってしまった訳だが、再読してこの小説の無駄を削ぎ落とした簡潔で美しい文章には感心した。主人公に対しては、かなり羨ましいと言うか、時代が変わったから今はそう簡単には行かんのちゃうのとか、そういう気持ちになった。
ただ、女性と -
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ネタバレいい文章だなあ うまいなあ うまいこと落ちをつけるよねえ と感心しながら読んだエッセイ。
近頃ネットの情報満載の文章ばかり読んでいたため、このうえなく癒やされ心地よかった。
この人のエッセイは、つらつらとあちこち寄り道しながら思いつくまま書いているようでいて、実のところものすごく計算された構成になっている。
文章作法を研究したところで、常人はこんなふうに洒落た感じに主張をユーモアでカバーしながら書くはなれ技は無理だ、と思う。
もてたんだろうねえ
飲む打つ買う をどこまでも上品に嗜むタイプ
と文章からわかってしまう。
ミソジニーなだけでなく、今日なら差別的として校閲で直されそうな表現も -
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私の今年のテーマは「第三の新人」。
安岡章太郎、丸谷才一に続いては、吉行淳之介です。
本書に収められているのは、吉行の初期の短編5編。
エロティシズムでしょうねー。
谷崎とはまた違った魅力があります。
世間的には、表題作になっている「原色の街」や「驟雨」なんでしょうが、ぼくは断然、処女作の「薔薇販売人」。
主人公の若い会社員がニセ花売りになって、緋色の羽織が掛けられている家に住む女に薔薇を売ろうとします。
女には夫がいます。
この夫がくせ者で、妻に対する恋心をこの会社員に植え付けられたら面白いとさまざまに画策するのです。
会社員は夫の留守中に、女の家に上がり込むことに成功します。
ここからの会 -
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七夕にこうしたレビューを書くのもなんですが(笑)、表題は、純粋恋愛とは無縁に生きようとし情事において女を道具としてしかみなさい主人公の中年小説家が、女に言われた素敵な夜空ねという発言に対し、「あんなものは、空のあなぼこだよ」と象徴的に言い放った言葉に由来している。
小説家である主人公が、同名小説を自身をその小説の主人公のイメージで執筆している話とパラレルに、心情を先取りする形で物語が進行する構成をとる。
心の底では純愛を求めながら原体験によりそれを憎んでいる象徴を、アパートの窓から見える公園とブランコに巧みに絡ませながら、若い商売女と行きずりに知り合った女子大生との度重なる情事と対比させて、主 -
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吉行淳之介には、『原色の街』「驟雨」などをはじめとする、赤線の娼婦を扱った所謂「娼婦もの」と呼ばれる一群の作品がある。
これらは1958年3月31日を境に赤線が廃止され、その時代状況とともに終わりを迎えている。
では、その後。
吉行はどうしたか、といえば、やはり本質的には変らない。
確かに、赤線の娼婦を描かなくなるし、そもそも職業としての娼婦を描くこと自体ほとんどなくなる。
(正確なところは寡聞にして存じません。)
しかし、作品の中には、『暗室』でいえば夏枝がまさにそうだが、娼婦のようにふるまう女が登場する。
ただし、ここで肝腎なのは、“娼婦”が吉行の作品で一貫して描かれているわけではな