山本七平のレビュー一覧
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かなり色んな角度から掘り下げをして聖書から江戸や明治、昭和の文化文学もあり難解でした。空気の支配はいつから始まったか、江戸や明治初期までは空気の支配は恥とされていた文化があり、始まりは昭和期に入るととも空気を読む日本人が増えていったとある。
また、うやむやにするなと叫びながら、うやむやになる原因をうやむやにしている事に気づかない点に現れているとある。
いわば空気に拘束されているからうやむや反対の空気に拘束されているからうやむやの原因の追求をうやむやし、平気でいられる自己の心的態度の追求もうやむやにしている。コレがすなわち空気の拘束と記載されていた。
要は色々考えるより先導者が示した言葉や -
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一言ですごく難しい。そりゃそうだ。だって、普段から『空気を読む』ってすごく難しいなーって感じることが多いのに、それについての著者による研究をまとめた本なんだから。
そして、S52年著ということもあり、例えも近代史的な内容が多く、一般教養も必要。
で、本著で語られていた『空気』とは、実態はないのに絶対の権威の如く、驚くべき力をふるい、科学的最終決定すらも覆す妖怪、あるいは超能力のこと。
その最たる例が戦艦大和の特攻や天皇制について。そして、その『空気』の醸成方法が分断化である。例えるなら一方を善とし、もう一方を悪とする等。その最たる例がマスメディアとなる。
ただ、その空気をリセットする役割を -
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ネタバレ内容が難しく読みにくい箇所もあったが、印象に残ったところは以下。
戦争直後に軍部に抵抗した人として英雄視された多くの人は勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」であった。
「竹槍で醸成された空気」に「それはB29に届かない」という「事実」を口にしただけである。
戦後最も強く「空気」の拘束をうけ続けてきたのが共産党だったと思われる。「空気」は火炎瓶闘争も生んだし山村工作隊も生んだしそれに類する様々な行動を生んだ。
空気と水なしに人間が生活できないように、「空気」と「水」なしには我々の精神は生きていくことができない。
「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使し -
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鈴木正三と石田梅岩の思想を読み解きながら、日本人の勤勉性がどのような性格のものであるかということを明らかにするとともに、非西洋諸国であるにもかかわらず日本が近代化に成功した理由をさぐる試みがなされています。なお巻末には、小室直樹による70ページを超える分量の「解説」が収録されています。
マックス・ウェーバーは、西洋において資本主義が成立した理由を、プロテスタンティズムのエートスのうちに求めました。これに対して著者は、神道・儒教・仏教をひとつに帰するものとしてあつかい、プラグマティックに「薬種」として参照しながら「勤勉」という、日本人に受け継がれているエートスにせまった思想家として、鈴木正三や -
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日本人論の名著?空気によって支配されるのは、日本固有の現象なのか?
【感想】
なぜ、日本では、空気によって支配され、空気によって意思決定を行うのか?そのメカニズムついてのエッセイ。「研究」と銘打ってあるが、作家である山本氏の著書であり、論文や研究の本ではない。そのため、著者の得意分野である宗教、文化論、からこの「空気の支配」を説明する。読みながら、そこに違和感を感じてしまった。「日本人は空気によって支配される」ということを主張するが、社会心理学や行動経済学からみれば、そうも限らないのではないかと。空気によって支配されるのは、ヒト全般にみられる、普遍的な行動なのではないの?という私は考える。 -
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「空気が読めない」ことを「KY」と言い始めたのはいつの頃だろうか。「あいつは空気を読めない奴だ」などと言われ、「KY」はどちらかといえば、歓迎されない態度を指すことが多い言葉だ。当初は、いわゆる若者言葉であったろう「KY」も、すでにだいぶ社会に浸透し、今や半ば死語になってきたように思う。
ところで、この「空気」とは一体何モノであろうか。
という疑問に切り込んだのが、本書である。
題名からして非常に興味をそそられるし、実際読んでみて、面白い所もあるが、正直に言えば、やや読みにくい感が否めない。
おそらくそれは、書かれた年代が1977年、今から40年以上前であって当時の読者は、まさに「臨在感 -
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ネタバレ輸入したひとつの組織と日本の伝統的社会構造と言うのが非常にうまく働くときは、おそらくプラスになるのでしょう。これがおそらく明治と言うもの、あるいは戦後と言うものでしょう
一度組織を作ると家族になってしまうので、それ自体が存在理由を主張する。だからいらなくなった組織を解体できない。これは日本の組織が絶えず持っている問題点でして、これをどう処理するかというのがおそらく国家の場合でも、企業経営の場合でも問題になる点だと思います
日本における指導者の条件は色々と言えると思いますが、必ず密かなる第二案を持っていること、これは必要であろうと思います -
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西洋とは異なる日本の資本主義のなりたちを、鈴木正三や石田梅岩、上杉鷹山らの思想にまでさかのぼることで明らかにしようとする試みです。
著者は、小室直樹の発言などを引用しながら、神への絶対的な帰依の精神が存在しない日本社会において西洋的な契約の観念がいまだ十分に理解されていないと指摘します。さらに、疑似的な血縁関係にもとづく社会構造が日本社会のさまざまな局面で見られることを指摘し、石門心学を中心に、そうした精神的風土に根差した思想が江戸時代に生まれていたことを明らかにしています。
主として文化的要因によって日本的経営の特色を説明することには大きな問題が含まれていますが、そのことはさておき、『勤 -
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「いえ、ただ、ちょっと、あの、何となく、名所だそうですから」この言葉は一つの思想の立派な表白のはずだ。ではこの思想はどこから来て、どのように日本人を律しているのであろう。15
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無洗礼派とは、おそらく最も強く洗礼を意識している人びとであろうから、この人びとのほうが、より強い洗礼を心に受けている、とも言えよう。17
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日本人の意識の中には明治天皇の墓はないのである。前述のように墓は思想だから、意識の中にないことは、存 -
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市場へ行って、あの汎用機がいいだろうとか、こっちのほうが能率的だろうとか、いろいろ選定して買ってきた。61
奴隷は生産性が低かったそうである。62
「自由」と「奴隷解放」とは同じ意味である。63
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徳川幕府は、軍事と外交は一切やらないというのが原則であるが、自民党もそうである。そのくせ、かゆいところに手が届くような、国内的な経済政策はやる。
武士がなぜ経済官僚に変化したかといえば、徳川幕府は、経済政策しかやっていなかったからであろう。
外交面における政略的発想などと -
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下巻では、キリスト教の受容史から始まり、江戸時代の文化史・技術史・思想史が詳しく解説されています。
キリスト教受容史では、豊臣秀吉や徳川家康の禁教政策が、ふつう考えられているような宗教弾圧ではなく、個人の信仰のうちにまで立ち入るものではなかったことが語られます。
また、江戸時代の思想史を扱ったところでは、中国の儒教的な枠組みから脱する動きがさかんであったことに、著者の関心は向けられています。埼門学派の浅見絅斎は、日中の対等を主張しました。また鈴木正三や石田梅岩、山片蟠桃、鎌田柳泓、海保青陵、本多利明といった思想家たちは、商業を重視するとともに、商業の中に働く倫理思想を明らかにすることに力を -
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日本人の精神が形成されるプロセスを、伊達千広の『大勢三転考』の歴史観に従って記述した本。下巻の「解説」を執筆している谷沢栄一によれば、「この本は、山本七平の、最高傑作である」とのこと。
幕末の紀州藩士・伊達千広が執筆した『大勢三転考』では、江戸時代までの日本の歴史が、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」の3つに区分されています。これはそれぞれ、「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」という意味になります。このような、政治形態の変化に基づいて客観的に歴史を区分し、儒教的な名分論や勧善懲悪といった価値観に基づく判断を加えない歴史観を持ちえたところに、日本の精神の独自性が示さ -
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まとまった「イエス伝」ではなく、著者の山本七平がこれまでイエスについて書いた文章を、彼の死後に夫人がまとめた本です。
サタンについて著者は、『旧約聖書』ではサタンは神に敵対する存在ではなく、神に従属し、人間の悪を神に報告する存在としてえがかれていると述べています。そのうえで、このサタン像を、ラインホルト・ニーバーの「われわれが遠慮なく真理を語っているときは、相手に憎しみをもっている時か、全然人間的な愛情をもっていない時だ」ということばに関係づけています。つまり「人が義を口にするとき、正義の側に立って告発するとき、それがじつは憎悪であって「愛」ではないという恐るべき事実」を教えているとしていま