【感想・ネタバレ】「空気」の研究のレビュー

あらすじ

昭和52年の発表以来、40年を経ていまだに多くの論者に引用、紹介される名著。
日本人が物事を決めるとき、もっとも重要なのは「空気」である。

2018年3月にも、NHK Eテレ「100分deメディア論」で、社会学者・大澤真幸氏が本書を紹介し、大きな反響があった。
日本には、誰でもないのに誰よりも強い「空気」というものが存在し、人々も行動を規定している……。
これは、昨今の政治スキャンダルのなかで流行語となった「忖度」そのものではないか!

山本七平は本書で「『気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。一種の『超能力』かも知れない。」「この『空気』なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる。」と論じている。

それから40年、著者の分析は古びるどころか、ますます現代社会の現実を鋭く言い当てている。
「空気を読め」「アイツは空気が読めない」という言葉が当たり前に使われ、誰もが「空気」という権力を怖れて右往左往している。

そんな今こそ、日本人の行動様式を鋭く抉った本書が必要とされている。
『「水=通常性」の研究』『日本的根本主義(ファンダメンタル)について』を併録。
日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探った名著である。


解説・日下公人

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Posted by ブクログ

●感想要約:
日本社会を支配する「空気」という無言の圧力を分析し、理性よりも場の雰囲気に流される危うさを指摘する.著者の洞察は現代にも通じ,思考停止を戒める鋭い警鐘として心に響いた.「水を差す」行為が重要ではないかと感じた.

●科学博士の書評指数:
楽しみ度:★★★☆☆
共感度 :★★★★☆
学び度 :★★★★★
話題度 :★★☆☆☆
お薦め度:★★★★★

●本の概要:
日本社会を支配する無言の同調圧力「空気」という概念を分析した評論である.著者は,理性や論理ではなく「空気」によって意思決定が行われる日本の特徴を,太平洋戦争の戦時体制などの具体例を通して明らかにする.個人の判断よりも場の雰囲気が優先され,異論が封じられる構造を批判し,これが日本の組織や社会に潜む危うさをもたらしていると指摘する.現代にも通じる日本的思考の本質を鋭く問う一冊である.

●感想:
(1)空気の研究,水の研究,臨在感,宗教論,天皇,ユダヤ教,キリスト教,日本民族論,保守・革新の考え方,,,大変興味深く一気に読めました.著者山本七平 氏の見識の深さに恐れ入りました.半世紀前の本ですが,今でも通用すると思いました.

(2)日本的意思決定方法の特徴について,良い面・悪い面を文章化していると理解しました.

(3)民族気質の特徴は,そう簡単には変わらないとのこと.だから歴史は繰り返すのかな?と思いました.

(4)指導者には「空気」に支配されることを「恥」と思う気概を持つことの重要性を理解しました.これ,忘れないようにしたいと思います.

(5)「臨在感」で状況判断することは,状況理解追求の放棄になるということにつながります.このことは,日本人として認識しておくべき事だと感じました.

(6)最後に,「人は、理論的説得では心的態度を変えない」という一文が強烈に心に響きます.言われれば,確かにそうだと共感できますが,これは理系の人間からすると受け入れたくない人間の特徴です.非常に敗北感を感じます.

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2025年10月11日

Posted by ブクログ

「空気」が醸成される原理原則は、対象の臨在感的把握である。そして臨在感的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、対象への分析を拒否する心的態度である。

兵庫県知事への「空気」が気になり本書を通読。人が自死している事実が、臨在感的把握で絶対視され、自死させた知事が悪いという感情移入、対象との一体化が、冷静な疑問を呈するコメンテーターを一掃する「空気」をつくったとみると判り易い。森友問題で自殺者が出た時も同様の「空気」ができたが、なぜか鎮静化できたのは、冷や水を差す行為があったか、その「空気」を上回る別の「空気」が官邸とマスコミとにあったのか?ジャニーズ問題も同様で、民事でジャニーズが負けているにもかかわらず、マスコミと芸能界との「空気」があった?としか思えない。
筆者はこのような「空気」共同体のバックボーンは情状倫理、「すべては情状のもとに判断され、共同体内では父(共同体)は子のために隠し、子は父のために隠すことこそ直きこと」であると述べる。これは孔子儒教を日本流に解釈・アレンジして日本儒教に改変した思想であり、戦前戦後変わることはない。これに対抗する思想は「個人」の「自由」であるが、水を差す自由さえ叩かれるSNSとワイドショーの状況をみると、なかなか難しそうである。一部の人々は、どのような論理的説明を受けても態度を変えない。ある種の思想を黙示録的に伝達することで、その読者に一切の論理:論証を受け付け得ないような手法がすでに開発されているのでは?と訝しく思う。
会社や町内会などの共同体から自由になって、「空気」が薄い状況をすがすがしく感じるが、それでもなお日本国や世界の国々に透けて見える「空気」を感じるにつけ、未来はどうなってしまうのか?と憂える今日この頃である。

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2024年10月09日

Posted by ブクログ

「思考すること」と「自分の軸」の大切さ。

生きていく上で、「空気を読む」ことは重要ではあるものの、同時に嫌気がさすこともある。職場では特に、空気を読む機会が多く、その空気に屈する機会も多々ある。言いたい意見も空気を読んで発言しないとか、そもそも自由に言えるような空気じゃないとか、そんな空気を何度も味わった。そもそも空気ってなんだろうと思い、この本を読んでみた。

空気とは
・感情移入の絶対感
・こうあるべきであるという絶対感
によって生まれる。
感情移入の絶対感とは、例えば上司が「俺がいいと思うからお前らもそう思うよな」とか「こんなのできて当たり前だよな」といった個人の感覚によるものを出してしまうことによって発生する空気
こうあるべきである空気とは、みんながやってるんだからやるべきとか、社会人はこうあるべき、この階級ならこうあるべき、といったような同調圧力のような空気である。
そして、そういった空気は狭い人間関係の場所に特に発生しやすい。

空気に対抗するのは「水」であり、抗えないような空気にたいして、最もらしい反対意見を述べてみたりすることだ。まさに「水を差す」といった言葉はそのままである。しかし、その水は
「状況倫理」という、あの空気間ではああするしか無かったといったような圧倒的な空気感によって淘汰されることも多々ある。
更には、その「水」がさらなる空気や同調圧力を生むことにもなる。

そういった空気に対抗するためには
思考して、常に自分の軸を持ち根本に立ち返る事が重要である。
そうすることで空気に流されることもなく、自分をはっきりと主張する事が可能になる

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2023年01月10日

Posted by ブクログ

これは日本文化論として、大事な分析だと思う。空気は確実に存在し、時間が立つと雲散霧消してしまう。海や空、米軍の強さを知りぬいた海軍エリートがなぜ戦艦大和をして、沖縄特攻に向かわせたか。
コロナ禍の日本でもこの「空気」が未だに続いている。

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2022年12月28日

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よく「空気が読めないやつ」、とか「そういう空気だった」、とかいう「空気」について、わかりやすい例を上げながら解説されていて面白かった。とはいえ「水」のあたりからだんだん頭がついていけなくなってしまったので、手元に置いてときたま何度も読みたい。

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2022年05月18日

Posted by ブクログ

「空気」の研究

タイトル通り,「空気」について解いた本.

「空気」に翻弄される人と,それに「はてな?」と手厳しく詰める筆者のやりとりには痛快さを感じる.

「空気」は支配力を持った「判断の基準」であり,その内容が表現されることは避けられ,破った場合はその人を村八分に追いやる.そしてその力は理論的検討,資料,データをも覆す超能力的で,宗教性を帯びた概念であると説明される.
”人間は理論的判断基準と空気的判断基準というダブルスタンダードの中で生きている”ことを胸に刻んでおけば,理屈で話が通らない場面があっても「ああこの人は空気的判断基準モードなんだな」と割り切れてストレスが減らせそう.

“ものごとの解決は,対象の相対化によって,対象から自己を自由にすることだと知っている人間のことだろう.”



明示的啓蒙主義は臨在感的把握,物神論が「ある」のに「ないこと」「野蛮なこと」と誤った位置付けをしたため,その反動を受けることになった.また,それ自身も教育勅語や御真影といった新たな物神に抗えなかった.

「空気」に高速さえされた新聞記者と,著者のやりとり

’日本の道徳は現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じており,それを口にすれば,たとえそれが真実でも”口にしたということが不道徳行為”と見なされる.’

”彼は,何やらわからぬ「空気」に,自らの意思決定を拘束されている.彼を支配しているのは,今までの議論の結果出てきた結論ではなく,その「空気」なるものであって,人が空気から逃れられないごとく,彼はそれから自由になれない.従って,彼が結論を採用する場合も,それは理論的結果としてではなく,「空気」に適合しているからである.採否は「空気」が決める”

「あの時の社会全般の空気では…」「会議のあの時の空気から言って…」->最終的決定者が人間ではなく,空気になっていることを示す言い訳

P19
太平洋戦争における大日本帝国の選択の誤りにも「空気」があったと主張
従って彼はそれが「空気の決定であることを,了解した」のであり,そうならば,何を言っても無駄,従って「それならば何をかいわんをや」とならざるを得ない

”日本には「抗空気罪」という罪があり,これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって,これは軍人・非軍人,戦前・戦後に無関係のように思われる”

P23
空気を認識して移行すること自体にも多大なエネルギーを消費


”「空気」とはなんであろうか.それは絶対的支配力を持つ「判断の基準」であり,それに対抗する者を異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力”
”だが通常この基準は口にされない.それは当然であり,理論の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれている”
”理論的判断基準と,空気的判断の基準という,一種の二重基準の元に生きているわけである”

p32
物神論ー>「クルマ」のようなものがあたかも人のように良し悪しを語られる
ー>「クルマ」は当然反論しない
→★反抗しないモノを悪者にするのが「空気」を作る方法の一つ
それに加担する科学者は実際は物神論的宗教家
”物神化と物神の反論なき一方的糾弾による空気醸成の過程”

p34
イスラエルの遺跡発掘事例 髑髏に触れ体調を崩す日本人,ケロッとしているユダヤ人
”物質からなんらかの心理的・宗教的影響を受ける.言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ,知らず知らずのうちにその何かの影響を受ける状態”
モノへの感情移入.

p38
明示的啓蒙はモノへの感情移入の否定.
なぜ感情移入するのかという探究はしなかった.その結果,ものへの感情移入を無視,否定する立場をとった.それが多くの人にとっての”科学”と写った.否定された側はさらに反発し,ものへの感情移入を強めるー>反ワクチンその他似非科学や陰謀論への信仰につながるな

「空気」はどこから生まれる?ある事物とそれを認識する人,その人が抱く”臨在感的把握”
”この把握が成り立つためには感情移入を絶対化して,それを感情移入だと考えない状態にならねばならない”
ひよこにお湯を飲まして殺してしまう,赤ん坊が入った保育器にカイロを入れて赤ん坊を死なせてしまう.→問題は科学的啓蒙ではなく,行動に至った”感情移入の絶対化”

”記者たちは,イ病の悲惨な状態を臨在感的に捉え,そう捉えることによって,この日さんをカドミウム金属棒に「乗り移らせ」(すなわち感情移入し)乗り移らせたことによって,その金属帽という物質の背後に悲惨を臨在させ,その臨在感的把握を絶対化することによって.その金属棒に逆に支配されたわけである”

P50
西南戦争ー>文明開花後の明治武士だけでなく農民も兵士にー>「心理的参加」が必要
→官軍・賊軍,プロパガンダ=空気の醸成ー>西郷軍を「悪」そのものに概念化



”科学的に関係ないことを持ち出すな」などということは,「遺影は物質で無関係だ」という言葉同様,その言葉を口にしたものが超法規的に処断されてしまうだけのことである”
→「なぜ真実は人を変えられないのか」とい
う本があったなあ.ファクトを言うだけじゃダメ.ということ

西洋・アラビアでは一神教の世界→一部宗教では「偶像崇拝」の禁止.モノから臨在感的把握を受けること=被造物の支配を受ける=神への冒涜
神以外の全ては絶対視されてはならず,相対的に見られる.
一っぽう日本ではアニミズム. 絶対化されるものを多数抱える.(絶対視される対象は時代とともの移り変わる.「経済成長」→「公害対策」→「資源」etc…


“「天皇制」とは何かを短く定義すれば,「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」となろう.天皇制とは空気の支配なのである”

共産党:民衆の赤いホステス

"あの状況がそうさせた"→人間を平等に扱うための下駄としての情況倫理、伸縮する定規→その原点は通常人を超えた人や物=神格性
神格性への批判=不敬罪
多数の学生と一教師→一の存在

父(君)と子(臣)の相互隠蔽。

p154
カドミウムへの判断と"カドミウム"への判断は、全く別の判断と考える。p171

p173
"虚構の中に真実を求める社会"
"日本における拘束の原理の解明"

p180

水を差す自由

現人神と進化論の共存
→アタマを切り替える 194

「教皇はそう言う、だが聖書はこう言う」がプロテスタント=改革者の立場 聖書は絶対的真理

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2022年01月16日

Posted by ブクログ

日本人特有の空気。
何より水をさすの水の話も面白い。
太平洋戦争だけでなく、西南戦争の話は必読です。

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2021年06月18日

Posted by ブクログ

ネタバレ

日本人がつよく拘束されている「空気」を論じた1977年発刊の名著。

「空気」へと決定打をあびせた本書の論考をもってしても、現在において「空気」という現象はしぶとくつよく僕らのあいだに根付いてしまっています。でも、ちょっと難しいながらも、本書の内容をある程度咀嚼できる人が増えたならば、「空気」を覆すチャンスも増えていくし、本書が読まれ続けることで、「空気」に抵抗するためのファイティングポーズは継承されていく、つまり覆すチャンスが潰えずつないでいけるのだと思うのです。

本書は、具体例を多く引きながらだけれど、でも中心は本格の抽象的論考で進めていく形ですから、言外でイメージするところでけっこう苦労しました(というか、この本で僕は、読書中にその内容を言葉を離れて考えていがちなことにはっきり気付かされました。そして読書は本来そういうものだとも思います)。読んでいる途中の抽象的論考のその後の展開を推理する、対象となっている「空気」を自分なりにどう捉えてきたかをふわっと整理する、「空気」に関する考えで著者を出し抜く気持ちもまんまん(だって時代の利がある部分はあると思っていますからね)。合計すると、まあ疲れるし思ったほど読み進まないのでした。が、しかし、そのワンダーランドを濃密に冒険しているのは確かなのです。

ほんとうによい読書になりました。こういった、「格闘に似た対話」となるような読書でこれまで読解力をつけてきたんですもの。まだまだ自分にとって高い山はたくさんあるのだ、と希望に近いなにかを感じるのでした。

閑話休題。

最初に「空気」とはどう生まれるのかについて。「臨在感的把握」という語句で著者は表現していますが、モノや言葉、人などから元々感じとれるイメージのようなものがあります。お寺のお札や神社のお守りになにを感じるでしょう? そうやって自然と感じとることが「臨在感的把握」であり、ここから空気が生まれます。そうして、その空気が共有されてつよくなり、仕舞いには科学的な論証までもはねのけて物事を決定する動力源になってしまう。太平洋戦争中に戦艦大和が、沈む覚悟で出港して撃沈されたのも、空気による決定のためだと、本書で例に引かれていました。

さて、40年くらい前の本ですが、ここで語られる日本人像はいまもそうは変わらない。まず、政治家や官僚、会社員などさまざまな人々は何かを隠しているものだと前提するいわば「不信」の態度を持っていることがそのひとつ。次に、これは欧米では革新的な視座ではあるのだけれど、実は日本人的だとされるものがふたつめ。それは、ある出来事にはその背景にこそ原因がある(生活習慣病の原因は高カロリーの食物を入手しやすいからなど)という現象学的(現象学という概念にもさまざまな捉え方があるようですが)といえるような捉えかた(本書では「情況論理」と表現)に潜む「無責任さ(自己無謬性=自分は関係していないという意識)」。

つまり、「不信」と「無責任さ」が大きく二つ、日本人の気質としてあるのだと読める。これこそ、空気を生みやすく、そして空気に翻弄されやすい気質でしょう。この、「空気」と密着した気質は、何を起源としているか。明治以降のみを考えれば、王政復古によって力をもたされた天皇を「空気」で把握しなければならなくなったことが大きいのかなと思いました。そこで「空気」の扱いが血肉化したのかもしれないと推察するところです(ただ、あとがきによると、明治がきっかけでも、初期はそうでもないようで、徐々に空気支配がつよまっていったようです)。

明治維新によって、それまでの臨在感的把握を切り捨てる方向へとパラダイムシフトを促されます。そういったものは科学的ではない、西洋的ではない、だからいわば「ドライ」な考え方を持ちましょう、という有名どころでは福沢諭吉らによるリードです。著者は、このようにあるものを「ないことにする」ことによって、かえってそれは深く沈潜し、逆にあらゆる歯止めが利かなくなり傍若無人にふるまいだすことになり、結局、「空気」の支配を決定的にする、と述べています。抑圧して失敗するパターンです。

また、「空気」支配はつきつめると、暴力などの「原理主義」行動に行き着く。だから、警戒してそこから脱却するのがほんとうはよいことです。対象を相対的に見れなくて、絶対的に見たうえで対象と一体化してしまうのが空気醸成のエネルギーですから、脱却のためには自由でいないと、なのでした。それも生半可な自由(水を差して現実へ引き戻す自由程度のこと)では、空気から脱却したはずの通常化したところからさらに空気支配が生まれてしまうとのこと(ここはもっとちゃんとまとめて説明しておきたいところなんですが、気になる方は本書をあたってください)。だから突っ切った自由が大切になる。それはたぶんに、孤独をかなりの割合で含んだ自由です。さらにいえば、その自由とは、一体化から逃れた自由であり、自分を拘束している「空気」を把握することだそうです。これは今でいえば、メタ認知的に「空気」を見てみることではないでしょうか。

それにしても、ここまで分析・考察されていても、「空気」ってまだまだ現代でもつよいですもんね。「空気」という現象を否定しようとすらしない人が多いし。「空気」を自分のために使ってやろうとする気持ちが上の世代から下へと再生産されてきたからじゃないのかなとも思いました。あるいは、空気に逆らったら怖い、という気持ちの再生産、でしょうか。

僕の簡単なまとめはここまでです。本書を読むと、もっと豊潤に「空気」の論考や「水=通常性」の論考を楽しめます。こまやかに考えてみたい人はぜひ手にとって読んでみてください。

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2021年06月11日

Posted by ブクログ

我々は虚構の中に生きているのだなあ。空気があることが前提の世界であれば、それはまるでナウシカの世界観と同じであり、無くなると当然のごとく崩壊してしまうのだろう。

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2025年12月07日

Posted by ブクログ

空気と水の関係がキーワード。
熱にうなされた様な高揚した世論の空気。
又は本音は止めるべきと思いながら、その止めるが言えない、見えない壁に遮られた場の空気。
そこで冷静な視点で、そして批判を恐れずに「水を差す」様な言葉を発することが出来るか。
いつの時代も変わらない。

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2025年07月21日

Posted by ブクログ

Schooの先生が紹介していたので読んだ。
ちょっと難しい内容で、中学生には無理っぽい。
けれど、日本がいかに空気に振り回されてきたかという歴史を知ることができる。

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2025年07月08日

Posted by ブクログ

山本七平(1921~91年)氏は、東京生まれ、青山学院専門部高等商業学部卒、太平洋戦争に徴兵され、ルソン島で終戦を迎える。帰国後、書店勤務の傍ら、翻訳を手掛け始め、1956年に聖書学を専門とする出版社・山本書店を創業。1970年にイザヤ・ペンダサン名義で発表した『日本人とユダヤ人』は、300万部を超えるベストセラーとなり、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。以降、後に「山本学」とも呼ばれた、日本社会・日本文化・日本人の行動様式等に関する数々の作品を発表した。菊池寛賞(1981年)受賞。
本書『「空気」の研究』は、『日本人とユダヤ人』と並ぶ山本氏の代表作だが、初出は「文藝春秋」に連載された「「空気」の研究」と「諸君!」掲載の「「通常性」の研究」、「事件のあとに来るもの」で、それらをまとめて、1977年に出版された。
私は、山本氏の著作でこれまでに読んだのは『日本人とユダヤ人』のみだが、山本氏の言う「空気」と西洋史学者・阿部謹也が研究テーマのひとつとした「世間」の共通性を分析した、鴻上尚史の『「空気」と「世間」』と、山本氏の代表作を解説しつつ、その人物像を追った東谷暁による評伝『山本七平の思想』を読んでいる。
本書の主旨は、今ではあまりにも有名になっているが、日本社会を支配するのは、論理的な決まりではなく「場の空気」であり、その空気に「水を差す」行為は最も嫌われる、ということである。終戦間際に戦艦大和が出撃し、撃沈された際の経緯は、その典型的な事例である。
ただ、本書の具体的な記述・例の多くは結構硬質で、必ずしも理解しやすくはないので、上記のような解説本を併せて読むのが良いように思う。
そして、私は本書を読みながらある本が思い浮かんだのだが、それは、現代思想家の千葉雅也が書いた『勉強の哲学』(2017年)である。その中で、千葉氏は、深い勉強をするためには、「ノリがいい」、つまり、空気を読んで周りに同調していた自分が、「ノリが悪い」(もっと言えば「キモい」)、つまり、変身を遂げて周りから浮き上がる・阻害される、というプロセスが不可欠であると説いているのだが、山本氏のいう「水を差す」ことと千葉氏の「ノリが悪い」ことは、必ずしも同じ状態を指してはいないが、いずれも、空気に支配されることをネガティブに捉えているという点では共通している。
日本の社会を支配する「場の空気」の問題性については、山本氏が本書で鋭い指摘を行って以降、頻繁に取り上げられ、認識している人も多いはずなのに、日本社会の基本構造は変わっていない。周囲と同じ空気感で過ごしているのは、確かに快適だし、重要なことでなければ、いちいち摩擦を起こす必要もないだろう。しかし、手遅れになることが無いように、「和して同ぜず」、常に心がけていたいものである。
(2024年12月了)

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2024年12月13日

Posted by ブクログ

なかなか読みごたえのある本であった
ちゃんと理解できていない部分もあるので
もう一度読むことにする

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2024年11月01日

Posted by ブクログ

本著は「空気を読む」とか「その場の空気」などと言われる「空気」とは何かについて論理的に検証した本です。
あらゆる理論や論理を超える「空気」の正体を解明していく本著ですが、私には難しく感じられました。
ぜひぜひ読んでみてください。

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2023年07月25日

Posted by ブクログ

全体を支配する空気。
水に流すの意味。
色々と考えることの多かった本でした。
ただ、書かれた時代の事柄を例にした部分が多過ぎて話が分かりにくい部分がある。
本書を最後まで読むのには、そこを上手く理解して(流して?)読み進められるかどうかに係っている。

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2022年12月26日

Posted by ブクログ

日本人である私たちが自然と触れ合っていた、その時勢で流れる雰囲気や世論としての「空気」を論評しており、自分の日々の行動もその「空気」に左右されていることを振り返られる本。日本人の特性を多様な視点で説かれていて、『確かにそうやな〜!』と思い起こされつつ、「空気」にどう向き合うか、その「空気」を読むか、「水」をさすかなど、冷静に判断したい。

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2022年06月26日

Posted by ブクログ

目に見えないが私たちの回りを満たす空気と水。その不可思議な力を説き起こしています。正直よく分からないところも多くありましたが、雰囲気は伝わったと思います。後々になって、「あっ、これか」という気付きにつながりそうな予感です。

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2021年10月16日

Posted by ブクログ

日本における「拘束の原理」を解き明かしていく本
久々に難しい(抽象的な)本を読んだが、日本人のメンタリティを雑に要約すると、
①日本人は一神教徒とは異なり、「絶対的な基準」がない
②それなら全てを相対化できると思いきや、「絶対化の対象が無数にある」状態
③基準や支点となる、「臨在感的把握」の対象を求める
④基準を失いたくないので、それが非科学的・非論理的であっても口にしない(基準となる側と隠し合う)
 →空気の完成
⑤「それはおかしい」と誰かが水を差す
⑥「水」は我々の現実=通常性であり、結局は空気醸成の基となる(ここが難しい)
⑦別の対象へ転向→過去の「偶像」を破壊
↑これを繰り返す、「汎神論的な神政制」
こんな感じ?

【空気の研究】
・空気とは
 論理を超えた判断基準、宗教的絶対性
 抵抗する者は「抗空気罪」で葬られるほど
 空気により決断するが、空気なので責任は取れない
 決断の過程や根拠を後から言語化できない
 「人工空気」も醸成できる
・発生のメカニズム
 対象への臨在感的把握(髑髏、カドミウム)
 明確なのが帝国陸軍支配の基本でもある「死の臨在」
 一方向ではなく、網の目のように支配されている
・臨在感的把握
 対象の背後の臨在する何かに心理的、宗教的影響を受ける状態
 感情移入を絶対化し、それを感情移入だと考えない状態
 一方的な感情移入による対象と自己の一体化
・克服のための要点
 ①臨在感を歴史観的に把握しなおすこと
 ②対立概念による対象把握(相対化?)
 対象への分析を拒否する態度なので、対象の分析では脱却不可
 →脱却したと錯覚するが、別のシンボルへ転向しただけ
 宗教的回心(古き神々を悪魔として否定)と似ている
・明治的啓蒙主義
 啓蒙家は「物質を拝むのは野蛮なので棄却すべき」とは考えたが、「なぜ拝んでしまうのか」までは探求しなかった
 →「啓蒙的」ではあるが、「科学的」ではない態度
 →日本における「科学」は「明治的啓蒙主義」であり、探求解明による超克ではなく「受験勉強的」
 また、空気の支配自体を「ないもの」と棄却した
 →根本解決ではないので、「過去の偶像」は踏めても、教育勅語や御真影など「新しい偶像」が出てくれば踏めなくなる
・海外との比較
 西欧では偶像支配(物神化)との苦闘の歴史
 →空気の存在を認め、問題視し、支配を許さない態度
 一神教において、神以外のものは徹底的に相対化
 →日本はアニミズムで相対化がなく、「絶対化の対象が無数にある」状態
 中東や西欧のように、滅ぼし滅ぼされるのが当たり前の国で「空気の支配」を受け入れていたら存立できない
 →日本は平和で、戦前までは西欧など先進国を「臨在的に」把握し、空気支配で模倣していれば上手くいった
 聖書の「相対化」世界も、日本に持ち込まれると絶対性が付与され、臨在感的把握の対象になってしまう
・水
 空気の支配に対して「水を差す」という方法
 これは日本的儒教の体系内の考え方に対しては有効だった

【水=通常性の研究】
・水とは
 最も具体的な目前の障害、今おかれている情況
 それを口にして現実に引き戻す=水を差す
 この水の連続(雨)が我々の「通常性」
・水の作用
 内村鑑三はこれを腐食に例え、外来の思想が実体を失い、名のみが日本風土に消化吸収されると述べた
 →徳川時代に儒教を取り入れたが、科挙はやらない等
 「内なる自然現象」なので、消化「酵素」と仮定する
・固定倫理
 人間を規定する尺度であり、「非人間性」を要請される
 →人間が触れられないからこそ平等の尺度となりえる
 →日本の人間的尺度である間(けん)に対するメートル
・日本的情況倫理(通常性)
 あの情況ではあれが正しい、この状況ではこれが正しい
 行為そのものではなく「情況への対応」が正当化の基準
 →批判する側もされる側も同一基準になっている
 →また、情況のせいにして個人の責任を無視
  自己の意思を否定している
 過去~現在を律する「固定倫理」「尺度」の欠如
 →「当時の情況を考察」という虚構の下に判断しがち
 日本はゴムの物差しで、尺度の方を身長に合わせている
 →この伸縮自在な倫理的尺度が「情況」
 →人間は基本みな「オール3」だが、異なって見えるのは「情況が違うから」という考え
・情況倫理の支点
 情況倫理そのままでは支点がないため規範とならない
 →情況を超越した一人間や集団、その象徴を支点とし従う
 →これが日本の伝統的な考え方である「一君万民」
  一人の絶対者、他は全て平等(一神教とも異なる?)
 →「君」が誰であろうと全体主義的無責任体制
・日本的儒教倫理(儒教に触発された「日本教」)
 子は父のために隠し、父は子のために隠す
 天皇は人であることを隠し、人民も天皇のために隠す
 事実を言えば不徳義とされる、集団倫理の社会
 →事実を事実と言う「自由主義者」は嫌われがち
 孔子は契約的な誠実さ「忠」と血縁的な秩序「孝」を別けた
 →日本は「孝」を組織や天皇へ拡大し、一家を形成しがち
・「何かの力」
 我々の通常性という無意識の規範の中から生じる
 →力である限りはプラスにも作用するはずである
  戦後の日本に「奇跡の復興」をもたらした
 →コントロールできなければ一挙に自壊する可能性もある
 虚構の中に真実を求める社会体制、「虚構の支配機構」
 →舞台は「演技であること」を演者と観客の間で隠すことで成立
 女形が男性であることを指摘すれば真実が崩れてしまう
 →このような関係性の形で「何かの力」が形成される
・問題
 この秩序で全日本をおおうなら、必然的に鎖国となる
 →政治、経済、外交、軍事、科学などの部門においても、この状態で種々の決定が行われて安全なのか?
 「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝わらない
 戦争とは、アメリカが日本研究をしたように「国際的事件」
 →逆に日本は英語教育を廃止したりと「超国家主義」
 外交においても「隠し合い」を樹立したがる

【日本的根本主義について】
・アタマの切り替え
 進化論と天皇が共存(現人神はサルの子孫)する日本人
 進化論裁判のあったアメリカ人にとっては理解不能
 →情況に応じて切り替えるので、進化論or現人神の択一にならない
・根本主義(ファンダメンタリズム)
 キリスト教でいえば、聖書を絶対とする超保守主義
 進化論(聖書の教えに反する)を講ずることを州法で禁ずるなど
 →起源である聖書の絶対化が「改革」を生むという奇妙な関係
 明治維新の王政復古にも同じ傾向がみられる
・ミュンツァー
 合理性追求と聖書絶対を一体化するための思考体系が神学
 我々にとって対立する二つの面が一体となっている
 一方の追求は、究極的に一方の成就という発想
・合理性と非合理性
 合理性の象徴である「法」は、非合理性の制御となりえても、
 それ自体が何かを改革したり、自らを破滅させる「力」はない
 むしろ非合理性が「新しい合理性の追求」の力となっている
 伊藤博文は西欧の「神政制と合理制」のうち合理性だけを分離
 →我々日本人においても合理性と非合理性が結合している
 合理性だけ抽出分離しても失敗する
 →非合理性の力を制御して改革へ転化する発想が必要
・日本のファンディ
 「神の前での平等」と対比されるべき「一君万民・家族的平等」
 この倫理主義を強行しうる「強権」への喝采
 絶対化を行いつつ「ドグマ」を何よりも嫌いうる
 相矛盾する言葉を平然と併存させておける状態
 汎神論を基礎とした「汎神論的神政制」
・これから
 空気に基づく行動が、回りまわって自分の首を絞めていく
 →これは日本人だけの傾向ではない
 黙示文学は「言葉の映像」の積み重ねで読者を拘束
 拘束されると、論破されても心的転回を起こさず殉教
 →黙示録的支配からいかに脱出してきたかの歴史が参考となる

【あとがき】
・空気支配の歴史
 徳川~明治初期には、空気に支配されることを恥とする文化
 いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて~
 →昭和に入ると、いつしか空気は不可抗力的拘束に
・再把握
 一人格の中に当然ある「賢なる部分」「愚なる部分」
 明治以降「愚なる部分」は棄却して今日に至った
 →民主主義の名の下に「消した」ものが我々を拘束している
 それを再把握することだけが脱却の道

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2021年09月26日

Posted by ブクログ

日本人がどのような社会に生きているのか教えてくれる一冊。自分が納得する選択をする上でなぜ空気に拘束されるのか知っていると対策も出来る。

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2021年08月15日

Posted by ブクログ

山本七平の名著。40年以上経って、当時とは状況が変化しているけれど、日本人の世間の空気を読む能力は変わらない。政治もメディアも空気を読んで動いている。その空気を読んで、人が動く。みんな昔から知っていた事だけど、それを考察して本にした功績はあると思う。

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2021年07月31日

Posted by ブクログ

空気を読む、流れで判断する、ブームに乗る、熱しやすく冷めやすい、恒常性を乱す報道はしないし聞こうとしない…。戦争を止められなかった日本人の、今の私たちにも当てはまる歪な思考を解説している。聖書と絡めた記述が面白い。

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2025年09月09日

Posted by ブクログ

20250725039

日本人のなかに流れる「場の空気を読む」という現象はいまだに根深い。根拠のないムードや雰囲気が支配する世の中、SNS主導の現代でも大きな問題である。

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2025年07月25日

Posted by ブクログ

かなり色んな角度から掘り下げをして聖書から江戸や明治、昭和の文化文学もあり難解でした。空気の支配はいつから始まったか、江戸や明治初期までは空気の支配は恥とされていた文化があり、始まりは昭和期に入るととも空気を読む日本人が増えていったとある。

また、うやむやにするなと叫びながら、うやむやになる原因をうやむやにしている事に気づかない点に現れているとある。

いわば空気に拘束されているからうやむや反対の空気に拘束されているからうやむやの原因の追求をうやむやし、平気でいられる自己の心的態度の追求もうやむやにしている。コレがすなわち空気の拘束と記載されていた。

要は色々考えるより先導者が示した言葉や空気感に暗黙の了解を読むのかとも思ったり、色々西洋文化を取り入れて試行錯誤した結果でもあるのかと思たり。日本人は不思議な人種だなぁと感じた。

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2025年07月05日

Posted by ブクログ

空気の研究 山本七平 文春文庫
ヤッパリシツコイな〜
面白い出合いはあるが
大方は無駄に疲れてしまう
塩梅を科学で割り出しても意味がないということだ
地球から割り出したメートル法か
人間の暮らしから自ずと生まれた尺貫法か
まあ規模の問題だけれど平均値が
どんな規模を母数にしたかでしかないのと同じであ
絶対値などありはしないのだ
色は混ぜれば混ぜるほど無彩色に近づくだけのことだ

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2025年06月24日

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臨在感的把握(あるものごとへの感情移入が強くなりすぎて感情移入だと考えられないほど絶対化してしまう状態)…
ちょっとタイトルからイメージしていた内容と違い、一冊を通じて正直何を言っているのか、何を言いたいのかよくわからなかった。著者のバックグラウンドがそうだからなのかもしれないが、言葉遣いが難しく、結局背景知識を共有できている人にしか響かない気がした。

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2023年10月07日

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一言ですごく難しい。そりゃそうだ。だって、普段から『空気を読む』ってすごく難しいなーって感じることが多いのに、それについての著者による研究をまとめた本なんだから。
そして、S52年著ということもあり、例えも近代史的な内容が多く、一般教養も必要。

で、本著で語られていた『空気』とは、実態はないのに絶対の権威の如く、驚くべき力をふるい、科学的最終決定すらも覆す妖怪、あるいは超能力のこと。
その最たる例が戦艦大和の特攻や天皇制について。そして、その『空気』の醸成方法が分断化である。例えるなら一方を善とし、もう一方を悪とする等。その最たる例がマスメディアとなる。

ただ、その空気をリセットする役割を持つのが『水』であると。それはよく『水を差す』と表現されるように、一方的に偏った際の通常性作用として、日本語で用いられる表現方法であり、空気に対しての知恵である。

で、本当はもう一章本著では語られてるんだけど、難解すぎて理解できんかった。
そのうち頭がリセットされたらもう一度チャレンジしよう。







昭和期以前の人々には「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では「空気」はある種の「絶対権威」のように驚くべく力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探った名著。(解説:日下公人)

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2023年09月18日

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そもそも研究対象が「空気」なので仕方ないのだろうが、論拠が著者の思考によるものが多く、表現も抽象的な部分があり所々自分には「ちょっと何言ってるかわからない」感じだったものの、全体的には言われてみればそうだなと思わせる内容であった。
日本を悲惨な敗戦へと至らせ、戦後も日本人を様々な場面で支配している「空気」を見抜き、研究対象としたこと自体とても画期的なことだったのだなと思った。

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2022年05月14日

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ネタバレ

内容が難しく読みにくい箇所もあったが、印象に残ったところは以下。

戦争直後に軍部に抵抗した人として英雄視された多くの人は勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」であった。
「竹槍で醸成された空気」に「それはB29に届かない」という「事実」を口にしただけである。
戦後最も強く「空気」の拘束をうけ続けてきたのが共産党だったと思われる。「空気」は火炎瓶闘争も生んだし山村工作隊も生んだしそれに類する様々な行動を生んだ。

空気と水なしに人間が生活できないように、「空気」と「水」なしには我々の精神は生きていくことができない。
「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念している。

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2021年06月27日

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日本人論の名著?空気によって支配されるのは、日本固有の現象なのか?

【感想】
 なぜ、日本では、空気によって支配され、空気によって意思決定を行うのか?そのメカニズムついてのエッセイ。「研究」と銘打ってあるが、作家である山本氏の著書であり、論文や研究の本ではない。そのため、著者の得意分野である宗教、文化論、からこの「空気の支配」を説明する。読みながら、そこに違和感を感じてしまった。「日本人は空気によって支配される」ということを主張するが、社会心理学や行動経済学からみれば、そうも限らないのではないかと。空気によって支配されるのは、ヒト全般にみられる、普遍的な行動なのではないの?という私は考える。
 著者は、まず「空気によって支配されている日本人」という現象を取り上げる。その後、その現象の原因を、日本特有の文化や歴史の中に求めていく。確かに、その説明自体は筋が通っている。聖書は世界を相対的に把握するのに対し、アミニズムの文化では全て一元的になる、などの説明がある。ただ、別にこれらの行動の現象の説明は、宗教や文化以外からも解説できるだろうし、そちらの方が科学的に信用できるだろうと思ってしまい、筆者の論にのめりこめなかった。
 加えて、この筆者の宗教論とか政治論とかの説明が極めて難解なのが辛い。当時の時代を知っているものではないと理解できない事例紹介を連発するものだから、とても読みづらい。ある程度のキリスト教や神学、共産党の知識が無いと読み解けないケースや文章が多い。その難解さが、本書による説得力を下げている(少なくとも、私にとっては)。その時代にホットであったであろう事例を使って解説をする文も多く、発刊から30年以上たった今では、著者がどういう意図を持っているのかもい読みづらい。
 本書を読んで、「日本人は文化的、歴史的に鑑みて、空気の影響を受けやすいのかもしれない」とは思ったが、「日本人は空気に支配されやすく、キリスト教圏のアングロサクソン系民族はそうではない」とまで合点することはできなかった。

【本書を読みながら気になった記述・コト】
■>>人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。

■>>天皇は人間宣言を出した。だが、面白いことに明治以降のいかなる記録を調べても、天皇家が「自分は現人神であるぞよ」といった宣言をだした証拠はない。従って「人間宣言」を出すべき者は、現人神だと言い出した者であっても、現人神だと言われた者ではないはずである。これは、警察がだれかを間違って犯人だと言ったら、これを否定する義務は警察にあるのであって、間違われた人間にあるのでないのと、同じ理屈であろう。だが、奇妙なことに現人神だと言い出した人間を追求しようというものはない。(中略)天皇制とはまさに典型的な「空気支配」の体制だからである。

■>>「経済の発展」と「公害問題」という相対立するものを対立概念で捉えることを拒否し、相対化されていた対象を、一方を削除することにより、「公害」の方を絶対化して、これを臨在感的に把握して、「熱しやすい」すなわちブーム的絶対化を起こした   

■>>あらゆる事実は状況に対応するのだから、その"真実"が事実になるように情況を設定すればよい、いわばゴムの尺度を事実の方に合わせればよいわけである。

■>>「『空気』の研究」とともに、これまで記してきたことは、一言でいえば日本における拘束の原理の解明である。


【本のエッセンスを抽象化すると】
日本人は周りの意見に忖度して行動する。「周りの意見」のことを「空気」と呼び、直接的に他人のせいであることを言わない ※筆者はこのように書いていないが、自分なりに解釈するとこういうことだと思う。筆者は空気のことを虚構と書いているが、私なりに平易に言い換えると「他人の意見」である。

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2021年03月06日

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「空気が読めない」ことを「KY」と言い始めたのはいつの頃だろうか。「あいつは空気を読めない奴だ」などと言われ、「KY」はどちらかといえば、歓迎されない態度を指すことが多い言葉だ。当初は、いわゆる若者言葉であったろう「KY」も、すでにだいぶ社会に浸透し、今や半ば死語になってきたように思う。

ところで、この「空気」とは一体何モノであろうか。

という疑問に切り込んだのが、本書である。
題名からして非常に興味をそそられるし、実際読んでみて、面白い所もあるが、正直に言えば、やや読みにくい感が否めない。

おそらくそれは、書かれた年代が1977年、今から40年以上前であって当時の読者は、まさに「臨在感的に」理解できていたであろうトピックスが、時を経て現代の読者には極めて通じにくくなっていることは一つ挙げられるだろう。実際に私も、共産党リンチ事件(なぜここで特高が出てくるのか調べるまでまったくわからなかった)とか、シベリア天皇、林彪事件などは即座に理解できず、調べながら読んだ。
また、本書は発表当初、雑誌に連載されたものを、1冊の本の形にまとめたものらしく、そのため、全体として話の流れがよくわからず、論旨にどんぶらこと乗っていけない所が多々あり(時に座礁しそうになる)、これも読みにくい一因だろう。
それから、読んでみてわかるのは、キリスト教の記述が多く出てくるが、空気論とキリスト教がどういうツナガリがあるのかが、いまいちよくわからないという点も読みにくくしている点だ。

最初から読みにくさを羅列してしまったが、他面で、共感を呼ぶ、首肯できる内容も多くある。
たとえば、筆者は、遺跡から出土した人骨や、イタイイタイ病におけるカドミウムや天皇陛下の御真影、神社における御神体などを例に挙げながら、私達が目の前の物質を超えて、そこに霊(おどろおどろしいものではない)とか風とかプネウマとかいったものを感覚していることを指摘する。このプネウマを《空気》と捉え、これを「臨在感的」に把握することで、《空気》が醸成されていくとする。そして、この《空気》が社会の中で力を強めるようになると、《空気による支配》が発生し、いわゆる《情況倫理》(砕いて言えば暗黙のルールみたいなものだろうか)を形成し、次第に私たちはそれに支配されていくと説く。確かに、戦時中の話を聴いたり、先ごろ惜しまれて亡くなられた半藤一利氏の『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』(文春新書)などを読んでいると、私たちは昔から現在まで《空気》を醸成し、これに翻弄されてきたことに気付かされる。

では、この《空気》は私たちにどのような働きをするのかだろうか。
筆者は《空気》の機能について、支配の道具としての空気という点もさることながら、「対立概念で対象を把握することを排除する」機能を指摘する。言い換えれば、均質化機能ということだろうが、この機能はまさに、冒頭の「KY」につながってゆきそうだ。

対立概念を打ち出し、自己を主張する者は嫌われる。嫌われる程度ならまだ良いが、エスカレートするといわば「村八分」に遭い、「波風を立てる者」として排除される。こうした「コワイ」目に遭わないように、私たちは迎合主義とか「長いものには巻かれろ」などと言って、表面的には世間や社会(あるいは所属するコミュニティ)に合わせて、時には息を潜めて周囲に合わせてきたのだろう。昨今のニュースを見ていると、政治や経済の世界にもこうした情況が影を落としている例が多いように思われる。海外にもこの《空気》というヤツはあるのかもしれないが、こと日本がこうした社会であるのは、我が国が島国であって、容易に外に脱出できない地理的要因とも無縁ではないのだろうなと私は本書を通じて考えた(同時に“京のぶぶ漬け”の小噺を想起した)。小さな所にひしめきあって生きていくための、ある種の方法論である。

狭小な島国にひしめき合って生きるためには、できるだけ「諍い」を無くさねばならない。それゆえ《空気》による社会の均質化は、いわばいびつな平等主義にも通じるように思われる。本書では、140cmのゴムの話が出てくるが、このバカバカしさというか、ある種の気持ち悪さは、少し前に話題になった、運動会の徒競走でみんなで手をつないでゴールしようという話を連想させた。「結果平等」ということだろうが、極めて日本的だなと思った。「機会平等」をベースとする他国では、おそらく、走る条件やスタートラインは皆同じにするが、結果はそれぞれ違って良いし、その結果はそれぞれが受け入れましょうということになるのだろう。

こうした《空気》によって醸成された、怪しげな情況を一瞬にして打ち壊し、通常性に戻すものとして、続いて筆者は《水》を挙げ、《水を差す》ことについて論究している。

この《水を差す》という点は、現代の私たちを取り巻く情況を考えるのに、面白い視点を提供するように思われる。SNSなどのインターネット上での言論について、ある人は、既存メディアやSNSが社会的《空気》を醸成している、という。確かにこれは首肯できることで、その面は大いにあると思う。しかしながら他面で、SNSは既存メディアやそれらが作ろうとする《空気》に対する《水》の役割をも担っているのではないかと私は考える。なぜかというと、大本営発表のプロパガンダのように既存メディアが、各社均質な情報で埋め尽くされる情況にあって、それは事実じゃないんじゃないか、もっと違う事実があるじゃないかといって、《水》を指している例をSNS上でしばしば目にするからである。匿名性ゆえの、無責任な言いたい放題という見方もありえようが、例えば内部告発が匿名で真実を語るように、匿名の言論の中に真実がキラキラと見え隠れすることも、またあるように思われる。

《空気》を醸成し、《空気をよむ》という因習は、狭い国土の中で、うまく折り合いをつけながら国を運営するための一方策として培われてきたものであり、時として私たちを守り、快適さを供するものであったかもしれないが、同時に私たちを窮屈にさせてきたこともまた事実である。では、このどんよりと重い《空気》を吹き飛ばし、いますぐに清々とした社会に変えましょう!というのは、なかなか容易ではないだろうが、私はこの《空気》というヤツに時として抗いつつ、時として流されそうになりながらも、自律的な個人でありたいと思ったのである。この意味で、古びない、考えさせられる一冊となった。

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2021年03月07日

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