【感想・ネタバレ】「空気」の研究のレビュー

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Posted by ブクログ

「思考すること」と「自分の軸」の大切さ。

生きていく上で、「空気を読む」ことは重要ではあるものの、同時に嫌気がさすこともある。職場では特に、空気を読む機会が多く、その空気に屈する機会も多々ある。言いたい意見も空気を読んで発言しないとか、そもそも自由に言えるような空気じゃないとか、そんな空気を何度も味わった。そもそも空気ってなんだろうと思い、この本を読んでみた。

空気とは
・感情移入の絶対感
・こうあるべきであるという絶対感
によって生まれる。
感情移入の絶対感とは、例えば上司が「俺がいいと思うからお前らもそう思うよな」とか「こんなのできて当たり前だよな」といった個人の感覚によるものを出してしまうことによって発生する空気
こうあるべきである空気とは、みんながやってるんだからやるべきとか、社会人はこうあるべき、この階級ならこうあるべき、といったような同調圧力のような空気である。
そして、そういった空気は狭い人間関係の場所に特に発生しやすい。

空気に対抗するのは「水」であり、抗えないような空気にたいして、最もらしい反対意見を述べてみたりすることだ。まさに「水を差す」といった言葉はそのままである。しかし、その水は
「状況倫理」という、あの空気間ではああするしか無かったといったような圧倒的な空気感によって淘汰されることも多々ある。
更には、その「水」がさらなる空気や同調圧力を生むことにもなる。

そういった空気に対抗するためには
思考して、常に自分の軸を持ち根本に立ち返る事が重要である。
そうすることで空気に流されることもなく、自分をはっきりと主張する事が可能になる

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2023年01月10日

Posted by ブクログ

これは日本文化論として、大事な分析だと思う。空気は確実に存在し、時間が立つと雲散霧消してしまう。海や空、米軍の強さを知りぬいた海軍エリートがなぜ戦艦大和をして、沖縄特攻に向かわせたか。
コロナ禍の日本でもこの「空気」が未だに続いている。

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2022年12月28日

Posted by ブクログ

よく「空気が読めないやつ」、とか「そういう空気だった」、とかいう「空気」について、わかりやすい例を上げながら解説されていて面白かった。とはいえ「水」のあたりからだんだん頭がついていけなくなってしまったので、手元に置いてときたま何度も読みたい。

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2022年05月18日

Posted by ブクログ

「空気」の研究

タイトル通り,「空気」について解いた本.

「空気」に翻弄される人と,それに「はてな?」と手厳しく詰める筆者のやりとりには痛快さを感じる.

「空気」は支配力を持った「判断の基準」であり,その内容が表現されることは避けられ,破った場合はその人を村八分に追いやる.そしてその力は理論的検討,資料,データをも覆す超能力的で,宗教性を帯びた概念であると説明される.
”人間は理論的判断基準と空気的判断基準というダブルスタンダードの中で生きている”ことを胸に刻んでおけば,理屈で話が通らない場面があっても「ああこの人は空気的判断基準モードなんだな」と割り切れてストレスが減らせそう.

“ものごとの解決は,対象の相対化によって,対象から自己を自由にすることだと知っている人間のことだろう.”



明示的啓蒙主義は臨在感的把握,物神論が「ある」のに「ないこと」「野蛮なこと」と誤った位置付けをしたため,その反動を受けることになった.また,それ自身も教育勅語や御真影といった新たな物神に抗えなかった.

「空気」に高速さえされた新聞記者と,著者のやりとり

’日本の道徳は現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じており,それを口にすれば,たとえそれが真実でも”口にしたということが不道徳行為”と見なされる.’

”彼は,何やらわからぬ「空気」に,自らの意思決定を拘束されている.彼を支配しているのは,今までの議論の結果出てきた結論ではなく,その「空気」なるものであって,人が空気から逃れられないごとく,彼はそれから自由になれない.従って,彼が結論を採用する場合も,それは理論的結果としてではなく,「空気」に適合しているからである.採否は「空気」が決める”

「あの時の社会全般の空気では…」「会議のあの時の空気から言って…」->最終的決定者が人間ではなく,空気になっていることを示す言い訳

P19
太平洋戦争における大日本帝国の選択の誤りにも「空気」があったと主張
従って彼はそれが「空気の決定であることを,了解した」のであり,そうならば,何を言っても無駄,従って「それならば何をかいわんをや」とならざるを得ない

”日本には「抗空気罪」という罪があり,これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって,これは軍人・非軍人,戦前・戦後に無関係のように思われる”

P23
空気を認識して移行すること自体にも多大なエネルギーを消費


”「空気」とはなんであろうか.それは絶対的支配力を持つ「判断の基準」であり,それに対抗する者を異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力”
”だが通常この基準は口にされない.それは当然であり,理論の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれている”
”理論的判断基準と,空気的判断の基準という,一種の二重基準の元に生きているわけである”

p32
物神論ー>「クルマ」のようなものがあたかも人のように良し悪しを語られる
ー>「クルマ」は当然反論しない
→★反抗しないモノを悪者にするのが「空気」を作る方法の一つ
それに加担する科学者は実際は物神論的宗教家
”物神化と物神の反論なき一方的糾弾による空気醸成の過程”

p34
イスラエルの遺跡発掘事例 髑髏に触れ体調を崩す日本人,ケロッとしているユダヤ人
”物質からなんらかの心理的・宗教的影響を受ける.言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ,知らず知らずのうちにその何かの影響を受ける状態”
モノへの感情移入.

p38
明示的啓蒙はモノへの感情移入の否定.
なぜ感情移入するのかという探究はしなかった.その結果,ものへの感情移入を無視,否定する立場をとった.それが多くの人にとっての”科学”と写った.否定された側はさらに反発し,ものへの感情移入を強めるー>反ワクチンその他似非科学や陰謀論への信仰につながるな

「空気」はどこから生まれる?ある事物とそれを認識する人,その人が抱く”臨在感的把握”
”この把握が成り立つためには感情移入を絶対化して,それを感情移入だと考えない状態にならねばならない”
ひよこにお湯を飲まして殺してしまう,赤ん坊が入った保育器にカイロを入れて赤ん坊を死なせてしまう.→問題は科学的啓蒙ではなく,行動に至った”感情移入の絶対化”

”記者たちは,イ病の悲惨な状態を臨在感的に捉え,そう捉えることによって,この日さんをカドミウム金属棒に「乗り移らせ」(すなわち感情移入し)乗り移らせたことによって,その金属帽という物質の背後に悲惨を臨在させ,その臨在感的把握を絶対化することによって.その金属棒に逆に支配されたわけである”

P50
西南戦争ー>文明開花後の明治武士だけでなく農民も兵士にー>「心理的参加」が必要
→官軍・賊軍,プロパガンダ=空気の醸成ー>西郷軍を「悪」そのものに概念化



”科学的に関係ないことを持ち出すな」などということは,「遺影は物質で無関係だ」という言葉同様,その言葉を口にしたものが超法規的に処断されてしまうだけのことである”
→「なぜ真実は人を変えられないのか」とい
う本があったなあ.ファクトを言うだけじゃダメ.ということ

西洋・アラビアでは一神教の世界→一部宗教では「偶像崇拝」の禁止.モノから臨在感的把握を受けること=被造物の支配を受ける=神への冒涜
神以外の全ては絶対視されてはならず,相対的に見られる.
一っぽう日本ではアニミズム. 絶対化されるものを多数抱える.(絶対視される対象は時代とともの移り変わる.「経済成長」→「公害対策」→「資源」etc…


“「天皇制」とは何かを短く定義すれば,「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」となろう.天皇制とは空気の支配なのである”

共産党:民衆の赤いホステス

"あの状況がそうさせた"→人間を平等に扱うための下駄としての情況倫理、伸縮する定規→その原点は通常人を超えた人や物=神格性
神格性への批判=不敬罪
多数の学生と一教師→一の存在

父(君)と子(臣)の相互隠蔽。

p154
カドミウムへの判断と"カドミウム"への判断は、全く別の判断と考える。p171

p173
"虚構の中に真実を求める社会"
"日本における拘束の原理の解明"

p180

水を差す自由

現人神と進化論の共存
→アタマを切り替える 194

「教皇はそう言う、だが聖書はこう言う」がプロテスタント=改革者の立場 聖書は絶対的真理

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2022年01月16日

Posted by ブクログ

日本人特有の空気。
何より水をさすの水の話も面白い。
太平洋戦争だけでなく、西南戦争の話は必読です。

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2021年06月18日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「空気」へと決定打をあびせた本書の論考をもってしても、現在において「空気」という現象はしぶとくつよく僕らのあいだに根付いてしまっています。でも、ちょっと難しいながらも、本書の内容をある程度咀嚼できる人が増えたならば、「空気」を覆すチャンスも増えていくし、本書が読まれ続けることで、「空気」に抵抗するためのファイティングポーズは継承されていく、つまり覆すチャンスが潰えずつないでいけるのだと思うのです。

本書は、具体例を多く引きながらだけれど、でも中心は本格の抽象的論考で進めていく形ですから、言外でイメージするところでけっこう苦労しました(というか、この本で僕は、読書中にその内容を言葉を離れて考えていがちなことにはっきり気付かされました。そして読書は本来そういうものだとも思います)。読んでいる途中の抽象的論考のその後の展開を推理する、対象となっている「空気」を自分なりにどう捉えてきたかをふわっと整理する、「空気」に関する考えで著者を出し抜く気持ちもまんまん(だって時代の利がある部分はあると思っていますからね)。合計すると、まあ疲れるし思ったほど読み進まないのでした。が、しかし、そのワンダーランドを濃密に冒険しているのは確かなのです。

ほんとうによい読書になりました。こういった、「格闘に似た対話」となるような読書でこれまで読解力をつけてきたんですもの。まだまだ自分にとって高い山はたくさんあるのだ、と希望に近いなにかを感じるのでした。

閑話休題。

最初に「空気」とはどう生まれるのかについて。「臨在感的把握」という語句で著者は表現していますが、モノや言葉、人などから元々感じとれるイメージのようなものがあります。お寺のお札や神社のお守りになにを感じるでしょう? そうやって自然と感じとることが「臨在感的把握」であり、ここから空気が生まれます。そうして、その空気が共有されてつよくなり、仕舞いには科学的な論証までもはねのけて物事を決定する動力源になってしまう。太平洋戦争中に戦艦大和が、沈む覚悟で出港して撃沈されたのも、空気による決定のためだと、本書で例に引かれていました。

さて、40年くらい前の本ですが、ここで語られる日本人像はいまもそうは変わらない。まず、政治家や官僚、会社員などさまざまな人々は何かを隠しているものだと前提するいわば「不信」の態度を持っていることがそのひとつ。次に、これは欧米では革新的な視座ではあるのだけれど、実は日本人的だとされるものがふたつめ。それは、ある出来事にはその背景にこそ原因がある(生活習慣病の原因は高カロリーの食物を入手しやすいからなど)という現象学的(現象学という概念にもさまざまな捉え方があるようですが)といえるような捉えかた(本書では「情況論理」と表現)に潜む「無責任さ(自己無謬性=自分は関係していないという意識)」。

つまり、「不信」と「無責任さ」が大きく二つ、日本人の気質としてあるのだと読める。これこそ、空気を生みやすく、そして空気に翻弄されやすい気質でしょう。この、「空気」と密着した気質は、何を起源としているか。明治以降のみを考えれば、王政復古によって力をもたされた天皇を「空気」で把握しなければならなくなったことが大きいのかなと思いました。そこで「空気」の扱いが血肉化したのかもしれないと推察するところです(ただ、あとがきによると、明治がきっかけでも、初期はそうでもないようで、徐々に空気支配がつよまっていったようです)。

明治維新によって、それまでの臨在感的把握を切り捨てる方向へとパラダイムシフトを促されます。そういったものは科学的ではない、西洋的ではない、だからいわば「ドライ」な考え方を持ちましょう、という有名どころでは福沢諭吉らによるリードです。著者は、このようにあるものを「ないことにする」ことによって、かえってそれは深く沈潜し、逆にあらゆる歯止めが利かなくなり傍若無人にふるまいだすことになり、結局、「空気」の支配を決定的にする、と述べています。抑圧して失敗するパターンです。

また、「空気」支配はつきつめると、暴力などの「原理主義」行動に行き着く。だから、警戒してそこから脱却するのがほんとうはよいことです。対象を相対的に見れなくて、絶対的に見たうえで対象と一体化してしまうのが空気醸成のエネルギーですから、脱却のためには自由でいないと、なのでした。それも生半可な自由(水を差して現実へ引き戻す自由程度のこと)では、空気から脱却したはずの通常化したところからさらに空気支配が生まれてしまうとのこと(ここはもっとちゃんとまとめて説明しておきたいところなんですが、気になる方は本書をあたってください)。だから突っ切った自由が大切になる。それはたぶんに、孤独をかなりの割合で含んだ自由です。さらにいえば、その自由とは、一体化から逃れた自由であり、自分を拘束している「空気」を把握することだそうです。これは今でいえば、メタ認知的に「空気」を見てみることではないでしょうか。

それにしても、ここまで分析・考察されていても、「空気」ってまだまだ現代でもつよいですもんね。「空気」という現象を否定しようとすらしない人が多いし。「空気」を自分のために使ってやろうとする気持ちが上の世代から下へと再生産されてきたからじゃないのかなとも思いました。あるいは、空気に逆らったら怖い、という気持ちの再生産、でしょうか。

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2021年06月11日

Posted by ブクログ

本著は「空気を読む」とか「その場の空気」などと言われる「空気」とは何かについて論理的に検証した本です。
あらゆる理論や論理を超える「空気」の正体を解明していく本著ですが、私には難しく感じられました。
ぜひぜひ読んでみてください。

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2023年07月25日

Posted by ブクログ

全体を支配する空気。
水に流すの意味。
色々と考えることの多かった本でした。
ただ、書かれた時代の事柄を例にした部分が多過ぎて話が分かりにくい部分がある。
本書を最後まで読むのには、そこを上手く理解して(流して?)読み進められるかどうかに係っている。

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2022年12月26日

Posted by ブクログ

日本人である私たちが自然と触れ合っていた、その時勢で流れる雰囲気や世論としての「空気」を論評しており、自分の日々の行動もその「空気」に左右されていることを振り返られる本。日本人の特性を多様な視点で説かれていて、『確かにそうやな〜!』と思い起こされつつ、「空気」にどう向き合うか、その「空気」を読むか、「水」をさすかなど、冷静に判断したい。

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2022年06月26日

Posted by ブクログ

目に見えないが私たちの回りを満たす空気と水。その不可思議な力を説き起こしています。正直よく分からないところも多くありましたが、雰囲気は伝わったと思います。後々になって、「あっ、これか」という気付きにつながりそうな予感です。

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2021年10月16日

Posted by ブクログ

日本における「拘束の原理」を解き明かしていく本
久々に難しい(抽象的な)本を読んだが、日本人のメンタリティを雑に要約すると、
①日本人は一神教徒とは異なり、「絶対的な基準」がない
②それなら全てを相対化できると思いきや、「絶対化の対象が無数にある」状態
③基準や支点となる、「臨在感的把握」の対象を求める
④基準を失いたくないので、それが非科学的・非論理的であっても口にしない(基準となる側と隠し合う)
 →空気の完成
⑤「それはおかしい」と誰かが水を差す
⑥「水」は我々の現実=通常性であり、結局は空気醸成の基となる(ここが難しい)
⑦別の対象へ転向→過去の「偶像」を破壊
↑これを繰り返す、「汎神論的な神政制」
こんな感じ?

【空気の研究】
・空気とは
 論理を超えた判断基準、宗教的絶対性
 抵抗する者は「抗空気罪」で葬られるほど
 空気により決断するが、空気なので責任は取れない
 決断の過程や根拠を後から言語化できない
 「人工空気」も醸成できる
・発生のメカニズム
 対象への臨在感的把握(髑髏、カドミウム)
 明確なのが帝国陸軍支配の基本でもある「死の臨在」
 一方向ではなく、網の目のように支配されている
・臨在感的把握
 対象の背後の臨在する何かに心理的、宗教的影響を受ける状態
 感情移入を絶対化し、それを感情移入だと考えない状態
 一方的な感情移入による対象と自己の一体化
・克服のための要点
 ①臨在感を歴史観的に把握しなおすこと
 ②対立概念による対象把握(相対化?)
 対象への分析を拒否する態度なので、対象の分析では脱却不可
 →脱却したと錯覚するが、別のシンボルへ転向しただけ
 宗教的回心(古き神々を悪魔として否定)と似ている
・明治的啓蒙主義
 啓蒙家は「物質を拝むのは野蛮なので棄却すべき」とは考えたが、「なぜ拝んでしまうのか」までは探求しなかった
 →「啓蒙的」ではあるが、「科学的」ではない態度
 →日本における「科学」は「明治的啓蒙主義」であり、探求解明による超克ではなく「受験勉強的」
 また、空気の支配自体を「ないもの」と棄却した
 →根本解決ではないので、「過去の偶像」は踏めても、教育勅語や御真影など「新しい偶像」が出てくれば踏めなくなる
・海外との比較
 西欧では偶像支配(物神化)との苦闘の歴史
 →空気の存在を認め、問題視し、支配を許さない態度
 一神教において、神以外のものは徹底的に相対化
 →日本はアニミズムで相対化がなく、「絶対化の対象が無数にある」状態
 中東や西欧のように、滅ぼし滅ぼされるのが当たり前の国で「空気の支配」を受け入れていたら存立できない
 →日本は平和で、戦前までは西欧など先進国を「臨在的に」把握し、空気支配で模倣していれば上手くいった
 聖書の「相対化」世界も、日本に持ち込まれると絶対性が付与され、臨在感的把握の対象になってしまう
・水
 空気の支配に対して「水を差す」という方法
 これは日本的儒教の体系内の考え方に対しては有効だった

【水=通常性の研究】
・水とは
 最も具体的な目前の障害、今おかれている情況
 それを口にして現実に引き戻す=水を差す
 この水の連続(雨)が我々の「通常性」
・水の作用
 内村鑑三はこれを腐食に例え、外来の思想が実体を失い、名のみが日本風土に消化吸収されると述べた
 →徳川時代に儒教を取り入れたが、科挙はやらない等
 「内なる自然現象」なので、消化「酵素」と仮定する
・固定倫理
 人間を規定する尺度であり、「非人間性」を要請される
 →人間が触れられないからこそ平等の尺度となりえる
 →日本の人間的尺度である間(けん)に対するメートル
・日本的情況倫理(通常性)
 あの情況ではあれが正しい、この状況ではこれが正しい
 行為そのものではなく「情況への対応」が正当化の基準
 →批判する側もされる側も同一基準になっている
 →また、情況のせいにして個人の責任を無視
  自己の意思を否定している
 過去~現在を律する「固定倫理」「尺度」の欠如
 →「当時の情況を考察」という虚構の下に判断しがち
 日本はゴムの物差しで、尺度の方を身長に合わせている
 →この伸縮自在な倫理的尺度が「情況」
 →人間は基本みな「オール3」だが、異なって見えるのは「情況が違うから」という考え
・情況倫理の支点
 情況倫理そのままでは支点がないため規範とならない
 →情況を超越した一人間や集団、その象徴を支点とし従う
 →これが日本の伝統的な考え方である「一君万民」
  一人の絶対者、他は全て平等(一神教とも異なる?)
 →「君」が誰であろうと全体主義的無責任体制
・日本的儒教倫理(儒教に触発された「日本教」)
 子は父のために隠し、父は子のために隠す
 天皇は人であることを隠し、人民も天皇のために隠す
 事実を言えば不徳義とされる、集団倫理の社会
 →事実を事実と言う「自由主義者」は嫌われがち
 孔子は契約的な誠実さ「忠」と血縁的な秩序「孝」を別けた
 →日本は「孝」を組織や天皇へ拡大し、一家を形成しがち
・「何かの力」
 我々の通常性という無意識の規範の中から生じる
 →力である限りはプラスにも作用するはずである
  戦後の日本に「奇跡の復興」をもたらした
 →コントロールできなければ一挙に自壊する可能性もある
 虚構の中に真実を求める社会体制、「虚構の支配機構」
 →舞台は「演技であること」を演者と観客の間で隠すことで成立
 女形が男性であることを指摘すれば真実が崩れてしまう
 →このような関係性の形で「何かの力」が形成される
・問題
 この秩序で全日本をおおうなら、必然的に鎖国となる
 →政治、経済、外交、軍事、科学などの部門においても、この状態で種々の決定が行われて安全なのか?
 「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝わらない
 戦争とは、アメリカが日本研究をしたように「国際的事件」
 →逆に日本は英語教育を廃止したりと「超国家主義」
 外交においても「隠し合い」を樹立したがる

【日本的根本主義について】
・アタマの切り替え
 進化論と天皇が共存(現人神はサルの子孫)する日本人
 進化論裁判のあったアメリカ人にとっては理解不能
 →情況に応じて切り替えるので、進化論or現人神の択一にならない
・根本主義(ファンダメンタリズム)
 キリスト教でいえば、聖書を絶対とする超保守主義
 進化論(聖書の教えに反する)を講ずることを州法で禁ずるなど
 →起源である聖書の絶対化が「改革」を生むという奇妙な関係
 明治維新の王政復古にも同じ傾向がみられる
・ミュンツァー
 合理性追求と聖書絶対を一体化するための思考体系が神学
 我々にとって対立する二つの面が一体となっている
 一方の追求は、究極的に一方の成就という発想
・合理性と非合理性
 合理性の象徴である「法」は、非合理性の制御となりえても、
 それ自体が何かを改革したり、自らを破滅させる「力」はない
 むしろ非合理性が「新しい合理性の追求」の力となっている
 伊藤博文は西欧の「神政制と合理制」のうち合理性だけを分離
 →我々日本人においても合理性と非合理性が結合している
 合理性だけ抽出分離しても失敗する
 →非合理性の力を制御して改革へ転化する発想が必要
・日本のファンディ
 「神の前での平等」と対比されるべき「一君万民・家族的平等」
 この倫理主義を強行しうる「強権」への喝采
 絶対化を行いつつ「ドグマ」を何よりも嫌いうる
 相矛盾する言葉を平然と併存させておける状態
 汎神論を基礎とした「汎神論的神政制」
・これから
 空気に基づく行動が、回りまわって自分の首を絞めていく
 →これは日本人だけの傾向ではない
 黙示文学は「言葉の映像」の積み重ねで読者を拘束
 拘束されると、論破されても心的転回を起こさず殉教
 →黙示録的支配からいかに脱出してきたかの歴史が参考となる

【あとがき】
・空気支配の歴史
 徳川~明治初期には、空気に支配されることを恥とする文化
 いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて~
 →昭和に入ると、いつしか空気は不可抗力的拘束に
・再把握
 一人格の中に当然ある「賢なる部分」「愚なる部分」
 明治以降「愚なる部分」は棄却して今日に至った
 →民主主義の名の下に「消した」ものが我々を拘束している
 それを再把握することだけが脱却の道

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2021年09月26日

Posted by ブクログ

日本人がどのような社会に生きているのか教えてくれる一冊。自分が納得する選択をする上でなぜ空気に拘束されるのか知っていると対策も出来る。

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2021年08月15日

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山本七平の名著。40年以上経って、当時とは状況が変化しているけれど、日本人の世間の空気を読む能力は変わらない。政治もメディアも空気を読んで動いている。その空気を読んで、人が動く。みんな昔から知っていた事だけど、それを考察して本にした功績はあると思う。

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2021年07月31日

Posted by ブクログ

『「空気」の研究』

評論家の 山本七平 氏の著書です。
1983年に刊行された本の復刻盤になります。

本書の内容は、以下のようになります。

日本で拘束力をもつ「空気」とは?
・非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」
・論理的判断より空気的判断が優先される

例)戦艦大和の特攻、日本版マスキー法など

発生のメカニズムは、以下による
 ①対象の臨在感な把握
  物に何かが宿るといった歴史観的把握
 ②感情移入
  感情移入だと考えない、日常化・無意識化

「空気」の利用事例としては、西南戦争が好例である。

この「空気」は一神教の国では発生しづらく、日本のようなアニミズムで発生しやすい。
空気を壊すには、「水=通常性」を差すことが必要である。

しかし、水を差す通常性は、一君万民・状況倫理をもたらし、結果的に空気支配に到達する。
結局のところ、日本はこうした「虚構の支配機構」でなりたっている。

以上より、日本的根本主義(ファンダメンタリズム)を考えた場合、次のような結論に至る。
状況を臨在感的に把握し、それによってその状況に逆に支配されることによって動き、これが起る以前にその状況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かいないが、瞬間的に状況に対応できる点では天才的。

人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない。


【本書で学べること・考えること】

・空気とはなにか?
・どのように醸成されるか?
・なぜ、空気の支配から逃れられないのか?


読んでみての感想です。

この本の出版は1983年と約37年前です。
最近の日本を見るとこの「空気の支配」が更に加速しているように思います。
コロナ禍での対応などをみても、SNSの状況を見ても・・・
「空気を読め」という圧が強まっているように思えます。

面白いのは、著者の論によれば、「企業などは一種の鎖国状態に陥り、私的信義に基づく忠誠を醸成し強固にしていく。」とあります。
いわゆる、ガラパゴス状態を予見しているように思えます。

グローバル化という流れは、日本人にはなかなか馴染めないようで、苦戦はしばらく続きそうですね。

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2020年06月15日

Posted by ブクログ

 場の「空気」を読むことが、西欧に比べ、日本人社会には強く存在するといわれる。最近でいえば、官僚組織の中で、上席から支持されていなくとも「空気」を読み「忖度」する。ということが、組織の中で、当然とされているように思われる。
 昭和時代の作品ではあるが、ジャーナリストの口などから、よく引用される作品であるため、通読してみた。昭和50年代の社会情勢(学生運動、ロッキード事件など)を理解していない世代には、読みにくい部分もある点には注意が必要である。
 「空気」とは、何なのか。また、日本人が「現人神(である天皇陛下)と進化論(天皇もまた、猿の子孫であるという考え)」を違和感なく、信じていたことについての分析が西欧における対比とともに丁寧に書かれている。筆者は、キリスト教徒にもかかわらず、客観的にそのあたりを論述している点は興味深かった。
 現在、連日報道されるコロナ禍で揺れる国内の現状や、ここ数年の政権と官僚間で繰り広げられる「空気」「臨在観的把握」を客観的に理解するうえで、有益な示唆を得られたように思う。

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2020年05月02日

Posted by ブクログ

公害、差別、いじめなどの問題に対してその事象そのものを絶対悪として消滅せしめんとすると空気というベクトルが生じて正常な判断に至れませんよというお話。
事象は相対的に捉えなければそもそもなんの解決にもならないのである。
差別はいけないけれど、なぜ起こってしまうのか、人間的な性なのか、だとすれば妥協点はどこなのか等々...

昨今の政治団体やその他諸々の運動家達の主張が陳腐であるのはまさに相対化をしていないからではないだろうか。

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2020年03月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

Eテレの100分deメディア論で取り上げられていたことから興味を持って読んだ本。
読みやすくはないけれど、書かれていることはとても明快だった。40年以上も前にその場を支配する空気なるものをここまで的確に指摘しているのに旧態依然。SNSで即時的に情報が発信できるようになった今、この傾向はさらに強くなっている。実体のない空気に右往左往するばかりで問題を解決できないのが人間の本質なのかと思い知らされて虚しさが残る。

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2019年12月06日

Posted by ブクログ

個人の意思とは別に強い強制力を働かせる「空気」を体系的に語った一冊。
戦前戦後あたりの政治事例に精通していないため、読み解くのに非常に時間がかかった。
まだ消化できていないものの、また読み返したい。

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2019年02月10日

Posted by ブクログ

臨在感的把握(あるものごとへの感情移入が強くなりすぎて感情移入だと考えられないほど絶対化してしまう状態)…
ちょっとタイトルからイメージしていた内容と違い、一冊を通じて正直何を言っているのか、何を言いたいのかよくわからなかった。著者のバックグラウンドがそうだからなのかもしれないが、言葉遣いが難しく、結局背景知識を共有できている人にしか響かない気がした。

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2023年10月07日

Posted by ブクログ

一言ですごく難しい。そりゃそうだ。だって、普段から『空気を読む』ってすごく難しいなーって感じることが多いのに、それについての著者による研究をまとめた本なんだから。
そして、S52年著ということもあり、例えも近代史的な内容が多く、一般教養も必要。

で、本著で語られていた『空気』とは、実態はないのに絶対の権威の如く、驚くべき力をふるい、科学的最終決定すらも覆す妖怪、あるいは超能力のこと。
その最たる例が戦艦大和の特攻や天皇制について。そして、その『空気』の醸成方法が分断化である。例えるなら一方を善とし、もう一方を悪とする等。その最たる例がマスメディアとなる。

ただ、その空気をリセットする役割を持つのが『水』であると。それはよく『水を差す』と表現されるように、一方的に偏った際の通常性作用として、日本語で用いられる表現方法であり、空気に対しての知恵である。

で、本当はもう一章本著では語られてるんだけど、難解すぎて理解できんかった。
そのうち頭がリセットされたらもう一度チャレンジしよう。







昭和期以前の人々には「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では「空気」はある種の「絶対権威」のように驚くべく力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探った名著。(解説:日下公人)

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2023年09月18日

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そもそも研究対象が「空気」なので仕方ないのだろうが、論拠が著者の思考によるものが多く、表現も抽象的な部分があり所々自分には「ちょっと何言ってるかわからない」感じだったものの、全体的には言われてみればそうだなと思わせる内容であった。
日本を悲惨な敗戦へと至らせ、戦後も日本人を様々な場面で支配している「空気」を見抜き、研究対象としたこと自体とても画期的なことだったのだなと思った。

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2022年05月14日

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ネタバレ

内容が難しく読みにくい箇所もあったが、印象に残ったところは以下。

戦争直後に軍部に抵抗した人として英雄視された多くの人は勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」であった。
「竹槍で醸成された空気」に「それはB29に届かない」という「事実」を口にしただけである。
戦後最も強く「空気」の拘束をうけ続けてきたのが共産党だったと思われる。「空気」は火炎瓶闘争も生んだし山村工作隊も生んだしそれに類する様々な行動を生んだ。

空気と水なしに人間が生活できないように、「空気」と「水」なしには我々の精神は生きていくことができない。
「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念している。

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2021年06月27日

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日本人論の名著?空気によって支配されるのは、日本固有の現象なのか?

【感想】
 なぜ、日本では、空気によって支配され、空気によって意思決定を行うのか?そのメカニズムついてのエッセイ。「研究」と銘打ってあるが、作家である山本氏の著書であり、論文や研究の本ではない。そのため、著者の得意分野である宗教、文化論、からこの「空気の支配」を説明する。読みながら、そこに違和感を感じてしまった。「日本人は空気によって支配される」ということを主張するが、社会心理学や行動経済学からみれば、そうも限らないのではないかと。空気によって支配されるのは、ヒト全般にみられる、普遍的な行動なのではないの?という私は考える。
 著者は、まず「空気によって支配されている日本人」という現象を取り上げる。その後、その現象の原因を、日本特有の文化や歴史の中に求めていく。確かに、その説明自体は筋が通っている。聖書は世界を相対的に把握するのに対し、アミニズムの文化では全て一元的になる、などの説明がある。ただ、別にこれらの行動の現象の説明は、宗教や文化以外からも解説できるだろうし、そちらの方が科学的に信用できるだろうと思ってしまい、筆者の論にのめりこめなかった。
 加えて、この筆者の宗教論とか政治論とかの説明が極めて難解なのが辛い。当時の時代を知っているものではないと理解できない事例紹介を連発するものだから、とても読みづらい。ある程度のキリスト教や神学、共産党の知識が無いと読み解けないケースや文章が多い。その難解さが、本書による説得力を下げている(少なくとも、私にとっては)。その時代にホットであったであろう事例を使って解説をする文も多く、発刊から30年以上たった今では、著者がどういう意図を持っているのかもい読みづらい。
 本書を読んで、「日本人は文化的、歴史的に鑑みて、空気の影響を受けやすいのかもしれない」とは思ったが、「日本人は空気に支配されやすく、キリスト教圏のアングロサクソン系民族はそうではない」とまで合点することはできなかった。

【本書を読みながら気になった記述・コト】
■>>人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。

■>>天皇は人間宣言を出した。だが、面白いことに明治以降のいかなる記録を調べても、天皇家が「自分は現人神であるぞよ」といった宣言をだした証拠はない。従って「人間宣言」を出すべき者は、現人神だと言い出した者であっても、現人神だと言われた者ではないはずである。これは、警察がだれかを間違って犯人だと言ったら、これを否定する義務は警察にあるのであって、間違われた人間にあるのでないのと、同じ理屈であろう。だが、奇妙なことに現人神だと言い出した人間を追求しようというものはない。(中略)天皇制とはまさに典型的な「空気支配」の体制だからである。

■>>「経済の発展」と「公害問題」という相対立するものを対立概念で捉えることを拒否し、相対化されていた対象を、一方を削除することにより、「公害」の方を絶対化して、これを臨在感的に把握して、「熱しやすい」すなわちブーム的絶対化を起こした   

■>>あらゆる事実は状況に対応するのだから、その"真実"が事実になるように情況を設定すればよい、いわばゴムの尺度を事実の方に合わせればよいわけである。

■>>「『空気』の研究」とともに、これまで記してきたことは、一言でいえば日本における拘束の原理の解明である。


【本のエッセンスを抽象化すると】
日本人は周りの意見に忖度して行動する。「周りの意見」のことを「空気」と呼び、直接的に他人のせいであることを言わない ※筆者はこのように書いていないが、自分なりに解釈するとこういうことだと思う。筆者は空気のことを虚構と書いているが、私なりに平易に言い換えると「他人の意見」である。

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2021年03月06日

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「空気が読めない」ことを「KY」と言い始めたのはいつの頃だろうか。「あいつは空気を読めない奴だ」などと言われ、「KY」はどちらかといえば、歓迎されない態度を指すことが多い言葉だ。当初は、いわゆる若者言葉であったろう「KY」も、すでにだいぶ社会に浸透し、今や半ば死語になってきたように思う。

ところで、この「空気」とは一体何モノであろうか。

という疑問に切り込んだのが、本書である。
題名からして非常に興味をそそられるし、実際読んでみて、面白い所もあるが、正直に言えば、やや読みにくい感が否めない。

おそらくそれは、書かれた年代が1977年、今から40年以上前であって当時の読者は、まさに「臨在感的に」理解できていたであろうトピックスが、時を経て現代の読者には極めて通じにくくなっていることは一つ挙げられるだろう。実際に私も、共産党リンチ事件(なぜここで特高が出てくるのか調べるまでまったくわからなかった)とか、シベリア天皇、林彪事件などは即座に理解できず、調べながら読んだ。
また、本書は発表当初、雑誌に連載されたものを、1冊の本の形にまとめたものらしく、そのため、全体として話の流れがよくわからず、論旨にどんぶらこと乗っていけない所が多々あり(時に座礁しそうになる)、これも読みにくい一因だろう。
それから、読んでみてわかるのは、キリスト教の記述が多く出てくるが、空気論とキリスト教がどういうツナガリがあるのかが、いまいちよくわからないという点も読みにくくしている点だ。

最初から読みにくさを羅列してしまったが、他面で、共感を呼ぶ、首肯できる内容も多くある。
たとえば、筆者は、遺跡から出土した人骨や、イタイイタイ病におけるカドミウムや天皇陛下の御真影、神社における御神体などを例に挙げながら、私達が目の前の物質を超えて、そこに霊(おどろおどろしいものではない)とか風とかプネウマとかいったものを感覚していることを指摘する。このプネウマを《空気》と捉え、これを「臨在感的」に把握することで、《空気》が醸成されていくとする。そして、この《空気》が社会の中で力を強めるようになると、《空気による支配》が発生し、いわゆる《情況倫理》(砕いて言えば暗黙のルールみたいなものだろうか)を形成し、次第に私たちはそれに支配されていくと説く。確かに、戦時中の話を聴いたり、先ごろ惜しまれて亡くなられた半藤一利氏の『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』(文春新書)などを読んでいると、私たちは昔から現在まで《空気》を醸成し、これに翻弄されてきたことに気付かされる。

では、この《空気》は私たちにどのような働きをするのかだろうか。
筆者は《空気》の機能について、支配の道具としての空気という点もさることながら、「対立概念で対象を把握することを排除する」機能を指摘する。言い換えれば、均質化機能ということだろうが、この機能はまさに、冒頭の「KY」につながってゆきそうだ。

対立概念を打ち出し、自己を主張する者は嫌われる。嫌われる程度ならまだ良いが、エスカレートするといわば「村八分」に遭い、「波風を立てる者」として排除される。こうした「コワイ」目に遭わないように、私たちは迎合主義とか「長いものには巻かれろ」などと言って、表面的には世間や社会(あるいは所属するコミュニティ)に合わせて、時には息を潜めて周囲に合わせてきたのだろう。昨今のニュースを見ていると、政治や経済の世界にもこうした情況が影を落としている例が多いように思われる。海外にもこの《空気》というヤツはあるのかもしれないが、こと日本がこうした社会であるのは、我が国が島国であって、容易に外に脱出できない地理的要因とも無縁ではないのだろうなと私は本書を通じて考えた(同時に“京のぶぶ漬け”の小噺を想起した)。小さな所にひしめきあって生きていくための、ある種の方法論である。

狭小な島国にひしめき合って生きるためには、できるだけ「諍い」を無くさねばならない。それゆえ《空気》による社会の均質化は、いわばいびつな平等主義にも通じるように思われる。本書では、140cmのゴムの話が出てくるが、このバカバカしさというか、ある種の気持ち悪さは、少し前に話題になった、運動会の徒競走でみんなで手をつないでゴールしようという話を連想させた。「結果平等」ということだろうが、極めて日本的だなと思った。「機会平等」をベースとする他国では、おそらく、走る条件やスタートラインは皆同じにするが、結果はそれぞれ違って良いし、その結果はそれぞれが受け入れましょうということになるのだろう。

こうした《空気》によって醸成された、怪しげな情況を一瞬にして打ち壊し、通常性に戻すものとして、続いて筆者は《水》を挙げ、《水を差す》ことについて論究している。

この《水を差す》という点は、現代の私たちを取り巻く情況を考えるのに、面白い視点を提供するように思われる。SNSなどのインターネット上での言論について、ある人は、既存メディアやSNSが社会的《空気》を醸成している、という。確かにこれは首肯できることで、その面は大いにあると思う。しかしながら他面で、SNSは既存メディアやそれらが作ろうとする《空気》に対する《水》の役割をも担っているのではないかと私は考える。なぜかというと、大本営発表のプロパガンダのように既存メディアが、各社均質な情報で埋め尽くされる情況にあって、それは事実じゃないんじゃないか、もっと違う事実があるじゃないかといって、《水》を指している例をSNS上でしばしば目にするからである。匿名性ゆえの、無責任な言いたい放題という見方もありえようが、例えば内部告発が匿名で真実を語るように、匿名の言論の中に真実がキラキラと見え隠れすることも、またあるように思われる。

《空気》を醸成し、《空気をよむ》という因習は、狭い国土の中で、うまく折り合いをつけながら国を運営するための一方策として培われてきたものであり、時として私たちを守り、快適さを供するものであったかもしれないが、同時に私たちを窮屈にさせてきたこともまた事実である。では、このどんよりと重い《空気》を吹き飛ばし、いますぐに清々とした社会に変えましょう!というのは、なかなか容易ではないだろうが、私はこの《空気》というヤツに時として抗いつつ、時として流されそうになりながらも、自律的な個人でありたいと思ったのである。この意味で、古びない、考えさせられる一冊となった。

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2021年03月07日

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読書会課題本。あまり論理的にカッチリした文章ではないが、独特な説得力があって面白く読めた。取り上げられている事例が古くてわかりにくい印象を受ける人もいるだろうが、本書の考察は今のコロナ禍を言い当てているようにも感じる。いろんな意味で日本社会って変わってないなと思う。

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2021年02月23日

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最初のうちはまだ理解できる話であったが、後半聖書が絡むあたりになるともう理解が出来なくなってしまった。

例を用いてわかりやすい部分もあったので「空気」という考え方は何となくであるが理解はできた。水を差すということも併せてなるほどという感じ。

根本的に、空気とは何で、どう克服すれば良いのかが結局よくわからないまま終わってしまった。何度も読まないとわからないのかもしれないが、すぐ再読する体力は今のところない。

空気に呑まれず水を差す事も必要なのか。もしくは空気に呑まれる事を理解し、冷静に考える事が大事ということか。そういう民族である事をよく理解する事が大事か。

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2020年07月12日

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くだらないと思いながらついつい読んでしまう空気、頑張って逆らってみたらボコボコにされる空気、この日本特有と思われる「空気」とは一体何なのかに興味を持って拝読。

そこに何か特別なものがあるという臨在感的把握が「空気」を醸成する。臨在感的把握の対象である「何か」が変化すれば、「空気」も一瞬で消えてしまう。が、これを永続的にし、一つの体制とするのが、通常性=「水」の裏打ち。ただこの通常性も一つの基準によるもので、それが戦前の天皇「一君万民」であったり、学校教育における教師「一教師・オール3生徒」であったりする。
そして、水が体系的思想を全部腐食したとき、その表面に出ている「言葉」が矛盾していても、それを平然と併存させておけるのが日本人のファンダメンタリズム。

…ということがくどくど書かれているように思える。それでこれをどうしろと?ということが書かれていない。

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2020年03月08日

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飛ばし読み。ただ空気と水と自由主義の関係は面白い。そして空気に水をかける空気の醸成が必要であるという、なんとも御し難い論理だが真理が書かれている

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2019年10月02日

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・論理的思考とは何かを考えさせられる一冊だった。
論理的に思考していても、そこのどこかに、空気的判断があれば、それはもはや空気的判断であり、考えることの難しさを感じた。
・空気とは、何かを臨在的に把握し、それを絶対化すること。
 マスコミによりマインドコントロールがまさにそれ。
 タピオカの流行もそれに近い。
・空気があると、時に阿吽の呼吸や、話さずともわかるといった状況を作り出すことができるが、一方、これは同じ人種である日本人同士であればこそできるものであるのだと思う。
・論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の 二重基準 のもとに、通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準が強制力を働かせる。これは私が考えている、会社内で「そのうち考えるのやめる」上層部が生まれることにつながるのだ感じた。
・自分にあてはめれば、その場の空気や感情に流されることはすなわち、まさしくここでいう空気に流されるのと一緒なのだと感じ、何事も冷静に見ないといけないとおもった。しかし、そうできるかは自分次第。
・全体的に難しい本。

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2019年07月12日

Posted by ブクログ

発行当時話題の出来事や当時の「空気」は我々にはわからないし、比較している西欧に関しても今はやや異なる性質を持っているように思うが、指摘されている日本人の性質は40年経った今も根深く残っているのは確かに感じる。
表現がやや難しいのと広汎な知識故に論が飛びがちで、現代の新書などの論理展開とは異なる進み方をするので少し読みづらかったかな。

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2019年03月20日

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