山本七平のレビュー一覧
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ネタバレ【書評】
政権交代が生じてもなぜ日本の政治は変わらないのか?本書は1975年に4度にわたって連載されたものを編集したものである。本書の指摘から35年以上経った今でも、その内容は今日の日本を考える際に極めて有効である。本書の価値は、「民主的か非民主的かを超えて」、民主主義に対峙するものとしてひと絡げにされて来た、官憲主義と全体主義という本来異なる二つの政体間の循環によって日本政治を捉える点だ。天皇機関説排撃運動や民法典論争、開戦時と終戦時の新聞の記事などを通して、この循環を明らかにする。その内容は、私たちの社会を包み込む「通常性」という規範こそが変化を拒むもである。しかしながら、その「通常性」に立脚しない思想、制度や組織は、外形的な形を整えても内部において全く異なる実質を備えた二重構造であり、しばしば全体主義化によって排撃される。このことを明らかにした上で、社会変革のための議論の土台を提供する。
【感想】
本書は鋭利な刃物である。よく切れ(視点のキレ)、扱い(「読み込む」こと)が難しい。しかし、この刃物を使って出来る日本料理(日本政治の研究)は、和の心(日本人の行動様式)をうまく捉えた一品となろう。軽くはよめない。筆者の言い回しや特有の言葉のチョイスには慣れないが非常に鋭い視点があった。
それは日本の政治を13~15年のスパンにおける官憲主義をベースとした全体主義化のサイクルとみる視点である。1930年代~1945年終戦、終戦〜1960年安保闘争、安保闘争〜田中内閣(特に76年ロッキード事件)でピーク、だとするとその次のピークは冷戦崩壊による「無思想非政治化統治技術者集団」たる自民党の下野(93年8月の55年体制崩壊)になる。その次は小泉政権の郵政選挙(05年9月)か。だいたいにおいて、そういえなくもない点が恐い—ただ09年という時期の民主党政権誕生をどう解釈するかが残る…—不安定な自民党ではもうやりたいことが出来ないと官僚の多数が考えた、民主党支持の官僚が増えた結果+彼らのメディア誘導+国民の飽き嫌気、お灸…。
また、田中角栄のロッキード事件(その他小沢一郎や鈴木宗男への「嫌疑」)は体制側の存在であった当人が、国民の総政治化=全体主義化からのバッシングを受ける際に、官憲主義側から差し出された生け贄—本書でいう美濃部達吉に当たる—と見ることも出来よう。
この場合、官憲主義(体制側—B)が日本政治のベースであり、しばしば生じる全体主義化(T化)は体制内部の代理戦争、官憲主義内部の力学変化による追放といえる。B側から排除したいB’が提供されそれをT化の下で叩かせ追放、浄化。この憂さ晴らしによって、スカッと「民意」が適うのが日本の「民主主義」か。そして何も変わらないか、悪くなる…
Bの提供する生け贄=B'が官僚か政治家か、はたまた政権党であるかによって日本型「民主主義」の形態は重層的で漠然としたものとなるけれど、空気のような「民意」が働いている限り、対外的に機能して(させられて)いることになる。これが「時代のケジメ」といわれるものの正体かな…
【まとめ】
日本の政治体制は官憲主義と言ってよいもので、日常的には統治集団以外の国民はすべて非政治化された存在である。しかしながら、おおよそ15年周期で、そのような非政治化された存在は徐々に全体主義的に政治化され、あるピークを迎えると再び官憲主義だけを残して崩れ、非政治化される循環が見られる。このような循環は、日本人の「忘年•新年的回帰」という歴史観を用いて説明される。つまり自ら矛盾なく構築した過去に、現時点で絶対的帰依するあり方が日本人の「通常性」で、それは根底のところで官憲主義を支える。欧米のように矛盾を内包しつつも歴史的事(史)実に当時のまま“現在形”の自己で対面するあり方はそこにはない。
天皇機関説排撃運動は言論弾圧運動というべきでない。それは官憲主義に対する全体主義的闘争であった。拙速な欧化主義のもと、時の体制側のイデオロギーであった機関説(及びそれが提供した法人という国家観、機関と化した天皇観)は、国民の国家•天皇観とは相容れないものとされた。国民はそこに、自らの「通常性」では捉えられぬ官憲主義による支配を見た。そのような国家は法人というよりも「宗教法人」であった。「宗教法人」は対外的に定款=憲法(その下の信教の自由)を持っていても、それは教祖(及びその信者)が何かをする権限を有するわけではなく、あくまで対外折衝の際の外形である。その内部では教主の「教え」(祖先教、それに基づく教育勅語)が優先されることから、「教え」に合わぬ機関説や信教の自由の論理は、総政治化の下で信者の攻撃対象になる—天皇機関説排撃や内村鑑三不敬事件の背景。これは、非政治的存在と認められる対象、行為であっても、それを政治化するために統制が用いられた事例であり、これを言論弾圧としては問題が見えなくなる。
日本社会は「組織的家族社会」であり、組織は存在せず、個の組織化である民主主義も現れてこない。ここで組織とはつねに目的を有し、目的に対応するため自己を正当化する存在であり、目的を果たせない=機能を失えば解体される。しかし、日本の「組織的家族」は調和によって、機能を失っても「血縁」を絶やせず、社会の負担の下に「生体」を維持されたいわば「植物状態」になる。その家族的組織が解体されるのは総政治化のピーク後の非政治化現象であり、官憲主義を残したままの崩壊である—家族的組織の代表たる官僚(軍隊)、及び選挙の度に非権威化、非政治化していく政権、国民の総政治化=全体主義化を支える議会と新聞…家族的組織が機能不全でも維持され、全体主義化を止められず高揚したままピークという開戦を迎える。そして敗戦でピークから暴落し過去を「忘却」し、原点すなわち官憲主義へ回帰。国民の非政治化によって戦後再びの官憲主義が日本を支配する(15年後安保闘争で再び全体主義化)。 -
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山本七平(1921~91年)氏は、東京生まれ、青山学院専門部高等商業学部卒、太平洋戦争に徴兵され、ルソン島で終戦を迎える。帰国後、書店勤務の傍ら、翻訳を手掛け始め、1956年に聖書学を専門とする出版社・山本書店を創業。1970年にイザヤ・ペンダサン名義で発表した『日本人とユダヤ人』は、300万部を超えるベストセラーとなり、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。以降、後に「山本学」とも呼ばれた、日本社会・日本文化・日本人の行動様式等に関する数々の作品を発表した。菊池寛賞(1981年)受賞。
本書『「空気」の研究』は、『日本人とユダヤ人』と並ぶ山本氏の代表作だが、初出は「文藝春秋」に連載された「「空気」の研究」と「諸君!」掲載の「「通常性」の研究」、「事件のあとに来るもの」で、それらをまとめて、1977年に出版された。
私は、山本氏の著作でこれまでに読んだのは『日本人とユダヤ人』のみだが、山本氏の言う「空気」と西洋史学者・阿部謹也が研究テーマのひとつとした「世間」の共通性を分析した、鴻上尚史の『「空気」と「世間」』と、山本氏の代表作を解説しつつ、その人物像を追った東谷暁による評伝『山本七平の思想』を読んでいる。
本書の主旨は、今ではあまりにも有名になっているが、日本社会を支配するのは、論理的な決まりではなく「場の空気」であり、その空気に「水を差す」行為は最も嫌われる、ということである。終戦間際に戦艦大和が出撃し、撃沈された際の経緯は、その典型的な事例である。
ただ、本書の具体的な記述・例の多くは結構硬質で、必ずしも理解しやすくはないので、上記のような解説本を併せて読むのが良いように思う。
そして、私は本書を読みながらある本が思い浮かんだのだが、それは、現代思想家の千葉雅也が書いた『勉強の哲学』(2017年)である。その中で、千葉氏は、深い勉強をするためには、「ノリがいい」、つまり、空気を読んで周りに同調していた自分が、「ノリが悪い」(もっと言えば「キモい」)、つまり、変身を遂げて周りから浮き上がる・阻害される、というプロセスが不可欠であると説いているのだが、山本氏のいう「水を差す」ことと千葉氏の「ノリが悪い」ことは、必ずしも同じ状態を指してはいないが、いずれも、空気に支配されることをネガティブに捉えているという点では共通している。
日本の社会を支配する「場の空気」の問題性については、山本氏が本書で鋭い指摘を行って以降、頻繁に取り上げられ、認識している人も多いはずなのに、日本社会の基本構造は変わっていない。周囲と同じ空気感で過ごしているのは、確かに快適だし、重要なことでなければ、いちいち摩擦を起こす必要もないだろう。しかし、手遅れになることが無いように、「和して同ぜず」、常に心がけていたいものである。
(2024年12月了) -
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ネタバレトヨタ自動車元会長が「ぜひ読むように」とトヨタ幹部に薦めた本。マネー、外交、政治・・・このままでは日本は再び敗れる。キャッチコピーに惹きつけられて。
2004年初版、ちょっと古い気もしたがキャッチコピー補足をみて共感をもった。
~山本七平氏は戦時中フィリピンで生死を彷徨い捕虜となった。戦後三十年、かつての敗因と同じ行動パターンが社会の隅々まで覆っていることを危惧した山本七平が、戦争体験を踏まえ冷徹な眼差しで書き綴った日本人への処方箋が本書である。現在、長期の不況に喘ぐ中、イラクへの自衛隊を派遣し、国際的緊張の中に放り込まれた日本は生き残れるのだろうか・・・?執筆三十年にして初めて書籍化される、日本人論の決定版。~
本書は最初に敗因を簡潔に述べている。なぜ負けたか。「それははじめから無理な戦いをしたから」とそれにつきるとしている。そして、日本人には大東亜を治める力も文化もなかった。敗因21か条をもとに日本人の本質を分析している。
なにも変わらない日本人の思考的本質。今も昔も変わりない。
失われた30年からさらに20年も前の出版物である。
日本人の生まれながらの“気質”は変わらない。あとがきの短い文に再思三考する。歴史を通して現在位置を知り、この先の羅針盤となるヒント、アイディアがちりばめられている。 -
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太平洋戦争での日本敗戦の教訓について考える人におすすめ。
【概要】
●陸軍専任嘱託として徴用され、ブタノールを製造する技術者としてフィリピンに派遣された小松真一氏が書いた『虜人日記』の敗因21カ条の分析
【感想】
●『虜人日記』には、太平洋戦争のときフィリピンに派遣されていた際のことが書かれている。何の力も顧慮せずに書かれたものであることから、ありのままの内容であるため、読めば有用な教訓が得られるであろう。
●著者が書いた、小松氏の敗因21カ条の分析を読むと、今日の日本社会に通ずる内容が多々あり、なるほど改善されていないと思われる点が多々ある。反省すべきではないだろうか。 -
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ネタバレ日本における「拘束の原理」を解き明かしていく本
久々に難しい(抽象的な)本を読んだが、日本人のメンタリティを雑に要約すると、
①日本人は一神教徒とは異なり、「絶対的な基準」がない
②それなら全てを相対化できると思いきや、「絶対化の対象が無数にある」状態
③基準や支点となる、「臨在感的把握」の対象を求める
④基準を失いたくないので、それが非科学的・非論理的であっても口にしない(基準となる側と隠し合う)
→空気の完成
⑤「それはおかしい」と誰かが水を差す
⑥「水」は我々の現実=通常性であり、結局は空気醸成の基となる(ここが難しい)
⑦別の対象へ転向→過去の「偶像」を破壊
↑これを繰り返す、「汎神論的な神政制」
こんな感じ?
【空気の研究】
・空気とは
論理を超えた判断基準、宗教的絶対性
抵抗する者は「抗空気罪」で葬られるほど
空気により決断するが、空気なので責任は取れない
決断の過程や根拠を後から言語化できない
「人工空気」も醸成できる
・発生のメカニズム
対象への臨在感的把握(髑髏、カドミウム)
明確なのが帝国陸軍支配の基本でもある「死の臨在」
一方向ではなく、網の目のように支配されている
・臨在感的把握
対象の背後の臨在する何かに心理的、宗教的影響を受ける状態
感情移入を絶対化し、それを感情移入だと考えない状態
一方的な感情移入による対象と自己の一体化
・克服のための要点
①臨在感を歴史観的に把握しなおすこと
②対立概念による対象把握(相対化?)
対象への分析を拒否する態度なので、対象の分析では脱却不可
→脱却したと錯覚するが、別のシンボルへ転向しただけ
宗教的回心(古き神々を悪魔として否定)と似ている
・明治的啓蒙主義
啓蒙家は「物質を拝むのは野蛮なので棄却すべき」とは考えたが、「なぜ拝んでしまうのか」までは探求しなかった
→「啓蒙的」ではあるが、「科学的」ではない態度
→日本における「科学」は「明治的啓蒙主義」であり、探求解明による超克ではなく「受験勉強的」
また、空気の支配自体を「ないもの」と棄却した
→根本解決ではないので、「過去の偶像」は踏めても、教育勅語や御真影など「新しい偶像」が出てくれば踏めなくなる
・海外との比較
西欧では偶像支配(物神化)との苦闘の歴史
→空気の存在を認め、問題視し、支配を許さない態度
一神教において、神以外のものは徹底的に相対化
→日本はアニミズムで相対化がなく、「絶対化の対象が無数にある」状態
中東や西欧のように、滅ぼし滅ぼされるのが当たり前の国で「空気の支配」を受け入れていたら存立できない
→日本は平和で、戦前までは西欧など先進国を「臨在的に」把握し、空気支配で模倣していれば上手くいった
聖書の「相対化」世界も、日本に持ち込まれると絶対性が付与され、臨在感的把握の対象になってしまう
・水
空気の支配に対して「水を差す」という方法
これは日本的儒教の体系内の考え方に対しては有効だった
【水=通常性の研究】
・水とは
最も具体的な目前の障害、今おかれている情況
それを口にして現実に引き戻す=水を差す
この水の連続(雨)が我々の「通常性」
・水の作用
内村鑑三はこれを腐食に例え、外来の思想が実体を失い、名のみが日本風土に消化吸収されると述べた
→徳川時代に儒教を取り入れたが、科挙はやらない等
「内なる自然現象」なので、消化「酵素」と仮定する
・固定倫理
人間を規定する尺度であり、「非人間性」を要請される
→人間が触れられないからこそ平等の尺度となりえる
→日本の人間的尺度である間(けん)に対するメートル
・日本的情況倫理(通常性)
あの情況ではあれが正しい、この状況ではこれが正しい
行為そのものではなく「情況への対応」が正当化の基準
→批判する側もされる側も同一基準になっている
→また、情況のせいにして個人の責任を無視
自己の意思を否定している
過去~現在を律する「固定倫理」「尺度」の欠如
→「当時の情況を考察」という虚構の下に判断しがち
日本はゴムの物差しで、尺度の方を身長に合わせている
→この伸縮自在な倫理的尺度が「情況」
→人間は基本みな「オール3」だが、異なって見えるのは「情況が違うから」という考え
・情況倫理の支点
情況倫理そのままでは支点がないため規範とならない
→情況を超越した一人間や集団、その象徴を支点とし従う
→これが日本の伝統的な考え方である「一君万民」
一人の絶対者、他は全て平等(一神教とも異なる?)
→「君」が誰であろうと全体主義的無責任体制
・日本的儒教倫理(儒教に触発された「日本教」)
子は父のために隠し、父は子のために隠す
天皇は人であることを隠し、人民も天皇のために隠す
事実を言えば不徳義とされる、集団倫理の社会
→事実を事実と言う「自由主義者」は嫌われがち
孔子は契約的な誠実さ「忠」と血縁的な秩序「孝」を別けた
→日本は「孝」を組織や天皇へ拡大し、一家を形成しがち
・「何かの力」
我々の通常性という無意識の規範の中から生じる
→力である限りはプラスにも作用するはずである
戦後の日本に「奇跡の復興」をもたらした
→コントロールできなければ一挙に自壊する可能性もある
虚構の中に真実を求める社会体制、「虚構の支配機構」
→舞台は「演技であること」を演者と観客の間で隠すことで成立
女形が男性であることを指摘すれば真実が崩れてしまう
→このような関係性の形で「何かの力」が形成される
・問題
この秩序で全日本をおおうなら、必然的に鎖国となる
→政治、経済、外交、軍事、科学などの部門においても、この状態で種々の決定が行われて安全なのか?
「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝わらない
戦争とは、アメリカが日本研究をしたように「国際的事件」
→逆に日本は英語教育を廃止したりと「超国家主義」
外交においても「隠し合い」を樹立したがる
【日本的根本主義について】
・アタマの切り替え
進化論と天皇が共存(現人神はサルの子孫)する日本人
進化論裁判のあったアメリカ人にとっては理解不能
→情況に応じて切り替えるので、進化論or現人神の択一にならない
・根本主義(ファンダメンタリズム)
キリスト教でいえば、聖書を絶対とする超保守主義
進化論(聖書の教えに反する)を講ずることを州法で禁ずるなど
→起源である聖書の絶対化が「改革」を生むという奇妙な関係
明治維新の王政復古にも同じ傾向がみられる
・ミュンツァー
合理性追求と聖書絶対を一体化するための思考体系が神学
我々にとって対立する二つの面が一体となっている
一方の追求は、究極的に一方の成就という発想
・合理性と非合理性
合理性の象徴である「法」は、非合理性の制御となりえても、
それ自体が何かを改革したり、自らを破滅させる「力」はない
むしろ非合理性が「新しい合理性の追求」の力となっている
伊藤博文は西欧の「神政制と合理制」のうち合理性だけを分離
→我々日本人においても合理性と非合理性が結合している
合理性だけ抽出分離しても失敗する
→非合理性の力を制御して改革へ転化する発想が必要
・日本のファンディ
「神の前での平等」と対比されるべき「一君万民・家族的平等」
この倫理主義を強行しうる「強権」への喝采
絶対化を行いつつ「ドグマ」を何よりも嫌いうる
相矛盾する言葉を平然と併存させておける状態
汎神論を基礎とした「汎神論的神政制」
・これから
空気に基づく行動が、回りまわって自分の首を絞めていく
→これは日本人だけの傾向ではない
黙示文学は「言葉の映像」の積み重ねで読者を拘束
拘束されると、論破されても心的転回を起こさず殉教
→黙示録的支配からいかに脱出してきたかの歴史が参考となる
【あとがき】
・空気支配の歴史
徳川~明治初期には、空気に支配されることを恥とする文化
いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて~
→昭和に入ると、いつしか空気は不可抗力的拘束に
・再把握
一人格の中に当然ある「賢なる部分」「愚なる部分」
明治以降「愚なる部分」は棄却して今日に至った
→民主主義の名の下に「消した」ものが我々を拘束している
それを再把握することだけが脱却の道