吉田知子のレビュー一覧
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ネタバレ本書に収録されている『お供え』は、一見すると穏やかな中年女性の日常の中に、不可解で幻想的な事象が入り込む作品である。毎朝、主人公の家の前に花や菓子が供えられるという奇妙な出来事から物語は始まり、やがて彼女自身が「神様」なる存在に輿入れさせられる──つまり自らが“供え物”であったという構図が暗示される。これは単なるホラー的仕掛けでなく、日常と非日常の連続性を保ったまま読者を不可視の恐怖へと導いていく、極めて純文学的な手法だといえるだろう。
では、作中で「神様」と呼ばれる存在は何を指しているのだろうか。具体的な姿も語りも持たないがゆえに多様な解釈が許されるが、もっとも明快な読みの一つは「神=家制度(イエ)」という象徴的解釈である。本作の主人公は夫と死別している妙齢の女性として描かれる。つまり彼女はすでに家制度の中に取り込まれた存在であり、それでもなお供えられ、捧げられ、神に嫁がされるのである。この構図は、家制度が女性に求める従属性をあたかも宗教的儀式のように描き出しており、制度的暴力の不可視性と反復性を文学的に可視化しているように感じられる。
また終盤で主人公が感じる「もう何もしなくて良い」という虚無感には、悲哀と安堵がないまぜになっているようだ。これは家庭内での役割や期待を終え、もはや主体的な選択を取る必要がなくなった女性(あるいは妻)の末路のようにも読めるのではないか。供えられる側でありながら主体性のない幸福へと導かれていく彼女の姿は、家制度における女性の最終的な帰結点──自己消失の安寧を暗示しているのだと解釈した。
特に印象的なのは、主人公が子どもに石を投げられる場面である。これは単なる狂気や疎外の描写ではなく、殉教者としての主人公像を強く暗示しているようだ。キリスト教における「罪なき者に石を投げるな」という逸話と重ねることで、彼女が社会における異物として糾弾される構図が浮かび上がる。その意味で『お供え』は、家父長制的構造と宗教的受難譚を重ね合わせた構造を持つといえる。
本作で描かれる新興宗教的・呪術的イメージは普遍的な宗教的感覚、すなわち“捧げる者”と“捧げられる者”という構造に根ざしているように思える。『お供え』における神は人格を持たず、祝福も語らず、ただ供物を受け取り、女性を吸収していく。これは制度・慣習・共同体……すなわち“空虚な神”としての社会そのものに他ならない。
以上をまとめると、『お供え』は幻想と現実、宗教と制度、日常と異常の境界に立つ作品である。主人公は自らの意思ではなく社会や家族の力学によって神に差し出され、やがてはその神と一体化する。「お供え」されるのは身体だけではない。女性の人格、主体性、そして人生そのものが供物とされ、個人では抗えぬ諸々の社会制度──見えざる神に取り込まれてしまうのだ。 -
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岸本佐知子さんの編んだ書き下ろしアンソロジー、タイトルに惹かれてまず読んだ津島佑子の短編「ニューヨーク、ニューヨーク」が素晴らしかった。読みながら、読み終わってから、幾つものことを思った。
「ニューヨークのことなら、なんでもわたしに聞いて。それがトヨ子の口癖だった、という」冒頭のセンテンスを読んで、わたしも数年前の夏に数冊の本を読むことで行ったことのない「ニューヨークのことはもう分かった」と嘯いたことを思い出す。そこには彼女がニューヨークを思うのと同じように個人的で特別な理由があったのだけど。
その後に元夫と息子がこの世にいない彼女について語り合うことで明らかになり“発見”される、今まで知り得なかった「彼女の孤独や哀しみやささやかな矜持や希望」あきらめ、恨み、失望は、編者あとがきで岸本さんが書いているように「私たちみんなが心の奥に抱えているもの」なのだと思えた。少なくとも、わたしは同じようなものを抱えていた。改めてそれらを見つめることになる。さらにその語り合い、解釈を通して「なにか肝心なものが欠けた存在」では、と思いはじめる元夫、名無しの“男”の人生に自分を省みて、思い出し落ち込み、わたしも「少し涙ぐむ」。
そして、もういない人を語りあうこと、あるいは不在になったときに語られることについても考える。別の方向からの印象を聞き、ぶつかり合いすり合わされることで、新しい印象が浮かび上がる。それは勿論“正解”ではないのだけど、新たな、あなた、わたしが描き出される。何処までいっても憶測でしかないそれを、真実とその人自体だと思い込む、そうせざる得ないことは、実はとても恐ろしいことなのではと思い至る。しかし、人も含めた世界はそうやってしか捉えることが出来ないのなら、それは真摯に語られるべきだ。この小説のように。そんなことを少しこじつけて思う。とても素晴らしかったけれど、予想していなかった怖い思いもした短編小説だった。太宰治の娘だということはさっき知った。「電気馬」も読んでみたい。 -
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ネタバレ12編のアンソロジー。
どの作品も変愛の名に相応しかった。この一冊に密度濃く詰め込まれたそれぞれの変愛。愛と一口に言っても当たり前ながら1つも同じものはない。
その中でも特に好みだった2つについて書きたい。
『藁の夫』
2人の間に嫌な空気が流れる、その始まりはいつも些細なことなのだと思い出させる自然な流れだった。あんなに幸福そうだったのに、藁に火をつけることを想像させる経緯、鮮やかな紅葉にその火を連想させるところがたまらなく良かった。
『逆毛のトメ』
シニカルでリズムのいい言葉選びが癖になる。小説ってこんなに自由でいいんだと解放して楽しませてくれた。躊躇なく脳天にぶっ刺す様が爽快だし、愚かな人間の頭に邪鬼の形相のトメがいることを想像してそのコミカルさに取り憑かれる。気づけばトメのことが好きになっていた。 -
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「恋愛」ではなく「変愛」…変わった形の愛が描かれたアンソロジーです。
面白かったです。
ディストピア文学が大好きなので、「形見」が好きでした。工場で作られる動物由来の子ども、も気になりますが、主人公の子どもがもう50人くらいいるのも気になりました。色々と考えてしまいます。
「藁の夫」「逆毛のトメ」「クエルボ」も良かったです。藁の夫を燃やす妄想をしたり。クエルボはラストは本当に名の通りにカラスになったのだろうか。。
多和田葉子、村田沙耶香、吉田篤弘は再読でしたがやっぱり良いです。
岸本佐知子さんのセンス好きです。単行本から、木下古栗さんの作品だけ再録されなかったようですが。
表紙の感じに既視感が、と思ったら、多分小川洋子の「不時着する流星たち」の単行本の絵と同じ方でした。あったかいような不安になるような、好きな絵です。 -
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どれも不穏な作品。どれも設定が似てるように思うのは同じ頃に書かれたものだからか。気に入ったのは『迷蕨』『門』『お供え』。『迷蕨』と『門』はどちらも死者と生者が同じ場所にいて時間と空間が歪められ閉じる。どこへも逃れられない。こうやって百年歩いている。階段はもう決してみつからないだろうということだけだった。この文章でふたつの物語は閉じられる。伯母や祖母がいる。死者として。平穏ではない世界に主人公たちは絡めとられ、諦めてしまう。なんとも奇妙な読後感だ。『お供え』いつの間にか神にされてしまう初老の女性。女性のせいなのか、それとも土地のせいなのか。石を投げられる神様になんかなりたくないと思う。
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純文学作家の発想
ひとつづつ評していく。
川上弘美。未来SF。
発想が陳腐だと思ふ。書きたいことを意識的に書いてはゐるが、予定調和的で凡庸から突き抜けない。
人間由来の人間を工場で作らず、多様な動物由来の人間どうしが結婚し合ふ未来観(近親交配によるホモ接合型を減らすためだらう)。そこでの恋愛。
厳密にいへば、人間と他種ではゲノムの相補性が少ないからありえない。遺伝子組換かもしれない。まあそこは目をつむることにしても妙だ。
未来でも入籍といふ制度は残ってゐる。人間に本能の性欲が残ってゐるんだらうけど。結婚しない人や、核家族がどうなったかも書いてない。
妙にSFが現実路線のわりには、ふはっとしてあいまいだ。雰囲気小説のたぐひか。さいきんの川上弘美には『大きな鳥にさらわれないよう』等、未来小説がある。
多和田葉子。
川上弘美より面白い。
純文学らしく突っかかる表現が冒頭から続く。生花で花の首をちょんぎるだの、乱暴な表現は筒井康隆を想起した。独特で考へ抜かれた奇妙さを意識して、多和田自身も意図しない効果が出るやうな浮揺感を狙ってゐる。言語にこだはるナショナリストぶりもあらはれて、いつもの社会諷刺もある。
全体としては普段の多和田の域をつかず離れず。 -
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普段、ほとんど読むことのない現代の日本人作家のアンソロジー。
興味深く読んだ。
もとは、深堀骨 の作品を読んでみたかったから手に取ったが、どれもなかなか良かった。ありそうでない話というファンタジーというか、不気味な話が多い。恋愛要素はどれも少なく見えるが、一応恋愛ものという括りらしい。
一作だけ、多和田葉子の漢字の話はすでに読んでいた。
特に印象的だったのは、
本谷由希子、迫力とリアリティと奇想天外で面白かった。
村田沙耶香、細かく書き連ねて積み上げるのがうまい。
吉田知子、多分この中で一番好きなタイプの作家。
小池昌代、切れ味がよい。
星野智幸、描写がうまい。
というかんじ。
編者は岸本佐知子。掃除婦の訳者だ。納得。 -
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芥川賞を受賞した表題作、他6編。
寓話(1966年)
豊原(1967年)
静かな夏(1967年)
終りのない夜(1968年)
生きものたち(1970年)
わたしの恋の物語(1970年)
無明長夜(1970年)
巻頭、1966年のデビュー作「寓話」と、
次の「豊原」は素晴らしく面白かったが、
読者としてはページを捲るごとにトーンダウン。
ともあれ、個人的に特に重要と思われる3編について。
■寓話
偏屈な書家・桑木石道はカルト的な人気を誇りつつ、
奇行で知られていた。
年の離れた若い妻・裕子と、
結婚前からの住み込みの家政婦・浜と共に
静かに暮らしていたが、
あるとき胡散臭い若者・多田が居着き……。
*
何の寓意なのか見当もつかないが、
息の長い文体で奇妙な成り行きが淡々と綴られていて、
半笑いでスルスルッと読み進めてしまった。
最初は気難しい芸術家が周囲を振り回していたのだが、
彼もまた運命に翻弄される一個の無力な人間だったということか。
■豊原
タイトルは日本の領有下における南樺太の市で、
現在の名称はユジノサハリンスク。
父の仕事の都合で豊原へ移住した「僕」だったが、
そもそも母には奇矯なところがあり、
「僕」は母とどう接すればいいのか悩んでいた。
*
《毒親》という言葉が人口に膾炙した現在の方が、
読者の理解が得やすかろうと思われる、
うら寂しい物語だが、
相互に愛情が感じられず、手枷足枷になる一方なら、
子が親を捨ててもいいではないかと、私も考える。
■無明長夜
語り手である30歳くらいの女性「私」は、
御本山と呼ばれる田舎の大きな寺・千台寺を擁する
山に焦がれていたが、
宗教上の信仰とは違う性質の、
名付け得ぬ畏敬の念に打たれてのことだった。
夫の失踪後、一人暮らしを始めた「私」の中で、
御本山への憧れが再燃したのだが……。
*
序盤の思い詰めた風な語り口に引き込まれたが、
感情移入しにくいキャラクターであり、
終盤の展開は作者が着地点を考えあぐねて
力技に持ち込んだ感が否めない。
この点については解説者・白川正芳も、また三島由紀夫も
「小説とは何か」(1968~1970年:新潮社『波』連載)
で指摘している。
「終わりのない夜」や「わたしの恋の物語」には
初期の倉橋由美子作品にも通じる、
読んでいて生理的嫌悪感を催すテイストがあった。
邪推だが、
現代より遙かにコテコテの男社会だった文学界で、
純文学(って最早何?)を指向する女性の作家は、
こういう斜に構えたスタイルを
取らざるを得なかったのだろうか。