本郷和人のレビュー一覧
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いやー,わたしは面白かった。こういう切り口の本は,とても読みやすくて,ニホンの歴史を縦に眺めることが出来る。
ます,印象的だったのが,「それが史実かどうかばかり突き止めようとしての仕方がない」というような著者の姿勢である。
青砥藤綱が本当に引付衆のひとりだったのかわからないし,そもそも彼が実在したのかどうかもわからないのですが,しかしこうした逸話が伝わったということは,当時の幕府に「銭の信用を維持することが大事」という意識があったことを示しています。(本文,p19)
もしも鎖国がなかったと考えるなら,ペリーがやってきたときに,あれだけ日本人が驚いたり,世界情勢にいかに対応するかという問題意識を持つことはなかったでしょう。(本文,p247)
まさに,歴史の見方考え方を教えてくれる本である。
あと,つけ加えておきたいのが,ヘーゲルの「自由の相互承認」についてもふれられていたことだ。それは,自分の師匠・石井進氏の歴史の見方考え方を紹介する場面でのこと。
そうした自由の相互承認を通じて,つまりお互いの権利を認め合うことによって,人が暮らす自由な空間が広がっていく。その概念と,石井先生の言う中世の拠点理論は,重なっているように感じます。(本文,p178)
細菌,苫野一徳先生の本を読んで,ちょうどこの考え方に触れていたところなので,同じ言葉が出てきてビックリした。つながっているなあ。 -
Posted by ブクログ
久しぶりに、とっても面白い本と出合いました。歴史では、印象深い場面だけがクローズアップされますが、その印象深い場面までの経緯を分かりやすく詳細に知ることができました。
P25 乱と変は、勢力Aと勢力Bが拮抗した時に起こる。
BがAに比べて取るに足らない弱小勢力である場合には、
単にBが滅びるだけで「乱」「変」という言い方はしない。
AとBが同じ土俵で戦うことになると、
その戦いの背景にある人々の見方や考え方、
生き方などを知る手掛かりになる。
AとBは、その間に深刻な対立があるからこそ戦う。
Aという選択肢を取った人たちが、Aグループを
Bという選択肢を取った人たちが、Bグループを
形成して戦い、勝った方が選択肢に従ってその後の社会を形成する。
P184 応仁の乱は、室町幕府の長きにわたる
政治抗争の結末に他ならない。
足利将軍家の権威、権力が失墜したから応仁の乱がおこった。
「宿命的なもの」であった。
P235 宗教が機能しない日本の土壌は江戸時代に、ほぼ基本ができた。
P246 勝者と敗者を分けるもの
この国における勝者の条件とは、時代・社会の要請に忠実に従った者。
P250 日本は
・特徴として外敵が少ない。
・多神教であり、時代の変化が穏やか。
・天皇・朝廷が世襲で変わらない為、中国の王朝のような大変動は起きにくい。
結果、日本はゆっくりと進み、蓄積が生かされていく社会。
今の時代はどのような時代か、歴史の大きな流れをつかむために
歴史を学ぶ意味がある。 -
Posted by ブクログ
歴史が好きで特に戦国時代について、解説本や歴史小説を読んできました。信長、秀吉、家康とみんなカッコいいのです。ですが、読んでいるうちに、その前にはどんな大名が活躍していたのだそう、そしてどうして彼らはその地位を譲ることになってしまったのだろう、と疑問が湧いてきました。
それをひも解くには、戦国時代の前の時代、鎌倉・室町時代等の歴史を勉強するのが一番良いですね。そんな私にとって、この本の著者である、本郷氏の本との出会いは素晴らしかったです。
ここでは歴史上有名な、乱と変の日本史について解説されています。本能寺の変、有名ですが「三大どうでもいい話」の一つにあげられている点、なるほどと思いました。
テレビや小説で取り上げられてきている、多分、物語として作りやすい事件よりも、日本の姿を決めることになった事件をこれからは追いかけていきたいと思いました。
以下は気になったポイントです
・国全体を揺るがすような大きな戦いを「乱」、影響が限定的で規模が小さな戦いを「変」である、乱や変でどちらが勝ったかよりも、当時の日本がどうゆう状況にあり、当時の日本人が何を選択したかを考えるのが重要である(p17、24)
・当初は京都から派遣されたが、京都に戻っても出世できないと思った役人の中には人気が終わっても土着(p31)
・中央から国衙に派遣される地方官が国司、四等官制によって、守・介・掾(じょう)・目(さかみ)が置かれた、京都から派遣されていたが、帰っても出世が見込めないと思った彼らは、土着して私営田領主となっていった(p31)
・武士が戦う時の基本は、刀ではなく、馬に乗り弓で矢を射て相手を倒すこと、弓を持つ左手を弓手(ゆんで)、馬の手綱を取る右手を馬手(めて)と呼んだ、左側前方に相手をとらえて矢を射る(p33)
・源氏は、嵯峨天皇が皇室財政の負担を軽くするために、皇子・皇女を臣籍降下させて、その際に与えた姓「源」がルーツになる。合計21流あるなか、最も力を持ったのが、清和天皇の孫・経基から始まる清和源氏で、頼朝はこの嫡流(本家)である(p49)
・坂東八平氏である、千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾氏は、武家の棟梁になれなかった、東の源氏と西の平氏がおたがいに力を得たことが、保元の乱の背景にあった、源氏は藤原本家の傭兵隊長、平氏は上皇の傭兵隊長であった(p51)
・後白河天皇についた藤原信西は、敵対する宗徳上皇の勢力を武士によって殲滅すべく、勅命をだした、これに応じたのが、平氏の当主・平清盛と、源氏の当主・源義朝である(p58)
・平治の乱は、敗北側:藤原信頼・源義明・源義平・源頼朝、勝利側:藤原信西・平清盛・平重盛・平頼盛(p67)
・平治の乱自体は大した戦いではなかったが、武士が朝廷の一員になったという点では大きな意味がある、清盛は武士のトップだけでなく政治家としてのトップに上り詰めた。当時の朝廷や貴族たちからすれば、どうでもいい地域の東に、武士だけの権力が誕生するが、保元・平治の乱はそのおおきなきっかけとなった戦い(p70、71)
・日本の中世では、天皇(王家)を、貴族(公家=政治)、武士(武家=治安維持・軍事)、僧侶・神官(寺家・社家=祭祀祈祷)が支えていた、陸奥平泉の奥州藤原氏をいれる考え方もある(p76、78)
・治承、寿永の争乱(1180)は、源氏と平氏の戦いではなく、朝廷による反乱の鎮圧であり、それが源平の争乱として表れている(p81、86)
・承久の乱とは、日本史上唯一、官軍が負けた戦いである、旧体制の復権を主張する後鳥羽上皇と、武家政権を樹立した新体制を主張する鎌倉幕府との戦いである(p94)
・北条義時は、ライバルを次々と引きずりおろした、まず梶原景時、次が比企能員(よしかず)、畠山重忠、和田義盛、これにより義時は政所・侍所別当を兼ねることになった(p104)
・鎌倉幕府が始まった時、平氏から没収した所領が500か所、承久の乱によって没収したのは3000か所、これにより幕府の勢力は西国を含む全国に広がった(p112)
・幕府の財産とは、御家人の不動産の総和なので、御家人が土地を売り払って品物を手に入れるようになると、幕府の財産も目減りした。徳政令が出される素地がここにある。鎌倉幕府は貨幣経済の進展に追いつけなかった(p133)
・足利尊氏は直義を追いかけるために関東に向かう時、南朝と和議を結んだ、北朝の崇光天皇を退位させて、観応という北朝年号を廃止して、南朝の年号(正平)に統一、南朝の後村上天皇に忠誠を誓った(p139)
・悪党とは、室町幕府から御家人として認められなかった武装集団、新興集団をいう。社会秩序を乱す者とshちえ、幕府や荘園領主と対立した(p158)
・管領とは、将軍を補佐して政務を統轄する職のことで、足利氏の一族である、細川氏・斯波氏・畠山氏の三家が持ち回りで行い、三管領と呼ばれていた。次いで要職だったのが、京都の警護・訴訟を担った侍所で、その長官「所司」になれるのが、赤松氏・一色氏・山名氏・京極氏(佐々木氏)・土岐氏、途中から土岐氏が外されたので「四職」と呼ばれた(p166)
・室町幕府の在り方を決める政策が、明徳2-4年に起きている、1)明徳の乱により山名氏の勢力減退、2)南北朝の合一、3)東日本を切り離した、鎌倉公方が管轄することになった、4)幕府が京都支配をする(p176)
・堺の権益は、初めは山名氏、明徳の乱の後には大内氏、そして応仁の乱の結果、細川氏が握った(p180)
・幕府が西日本を中心に舵を切ったことが、斯波氏衰退の背景にある(p189)
・足利義満と細川頼之によって、土岐氏、山名氏(明徳の乱)、大内氏(応永の乱)が潰された。応仁の乱での対立図式は、足利義満時代に勝ち組だった守護大名が東軍、負け組が西軍に加わっている(p194)
・斯波氏は、越前・尾張国の守護を兼ねていたが、応仁の乱の後には、越前は守護代の朝倉氏、尾張国は守護代の織田氏に奪われている(p197)
・関東、東北、九州の守護大名の多くは、戦国大名に転身することに成功している、京都に縛り付けられず、地元にいたから(p198)
・応仁の乱は東軍である、細川氏が管領を独占し、幕府の要職を独占したから(p199)
・一向一揆が江戸時代で退潮したのは、人々が平等な世の中よりも、平和な世の中を求めたから(p228)
・西南戦争は、旧薩摩藩を中心とした武士の軍隊・反乱軍と、武士以外も含む徴兵軍(国民軍=政府軍)の戦いで、徴兵軍が勝利した、最後の大乱である、そして武士の否定が西南戦争の本質である(p241,244)
・今私たちが生きている時代はどのような時代か、それはトレンドの終わりか始まりなのか、それを見極めるために歴史を学ぶ意味がある(p251)
2019年4月21日作成 -
Posted by ブクログ
教科書で習ったが、実は承久の乱についてなにもわかっていなかったことがわかった。人名とその関係がなかなか頭に入らず、難儀したが、構成が見事なので、要はこういうことなのですね。ということは理解できた。あとがきを読んで、著者と編集者の労力に敬意を表します。
・幕府と言い始めたのは江戸時代。幕府という用語は室町時代。
・鎌倉幕府は、保証人ならぬ保障人・源頼朝と主従関係を結んだ仲間たちが、東国に築き上げた安全保障体制。
・刀が武士の象徴になるのは、実践から遠ざかった江戸時代のこと。
・『吾妻鏡』は基本的に北条氏支配を正当化するもの。
・鎌倉時代は女性の地位が高い時代。
・「権門体制論」と「東国国家論」
・この時代、一番大切なのは、土地の安堵。そこから「恩」の考え方が出る。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ小和田哲男氏が「御大」化(失礼!)する中、著者は磯田道史氏とともに、メディア露出の多い歴史学者のツートップといえるのではないだろうか。
別の著書の前書きで「ぼくの本は売れない」と嘆いていたけど、決してそんなことはなく、本書も語りおろしの形式で、とても読みやすいものとなっている(ときどき筆が走るのもご愛嬌)。
日本の歴史研究の最前線とも言うべき東京大学史料編纂所にいるだけあって、自説にも資料的根拠を付加するところも興味深い。「あの兵力差で信長は本当に桶狭間を戦ったか」とか「家康と『信康切腹』と『長篠』」などはなるほどなぁと思わされてしまった。
AKBヲタの先生だけに、「大島優子とキャラが似ている蒲生氏郷」とか、歴史ヲタには訳が分からない(笑)章立てがあるのも特筆すべき点か?w -
Posted by ブクログ
関ヶ原の合戦状況を詳しく書かれている。
三成は大垣城岐阜城あたりを防衛線として戦う戦力。
それを徳川は以前に三方ケ原で武田信玄に敗北したように石田三成を戦場に誘き寄せる。
三成はのこのこ大垣城から出て関ヶ原て徳川に挑んだ。おそらく三成は秀忠3万8千の後軍がいない今が最大のチャンスと錯覚させられ、家康の巧妙に仕掛けた罠にまんまとやられたのだろう。
これが野戦に強かった家康と兵站に強かった三成との差なのだろう。
野戦が得意でないなら仕方がない。三成は佐和山城へさっさと入り籠城して立花毛利の援軍と挟み撃ちにすればよかった。そうすれば松尾山の小早川を隔離することもできるし吉川の出方もわかっただろう。
もしくは西進する東軍をそのままやり過ごしてその後松尾山の麓に備えさせ隔離して先の15000です挟み撃ちにすればよかったのだろう。
勝ちに目が眩んだ三成がまんまとタヌキ家康にやられたんだな。
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Posted by ブクログ
ネタバレ十分な資料の裏付けのない推測も交じってはいるが、筋が通った関ケ原までの情報戦・外交戦と家康と三成の戦略。
・三成は東西二分による持久戦を狙い、西日本の経済力・人口と家康の歳から最終的に勝利し、引き続き豊臣体制を維持。家康は、豊臣体制を妥当し、新たな主従関係による全国一統。
・宇喜多家と上杉家は、豊臣の支えにより家内統治しており西軍一択。毛利は内部分裂、輝元は東西二分に備えた中四国の覇権、官兵衛は北部九州の覇権を目指した。島津も内部分裂。
・会津攻めに動員された諸将は初めから家康に与するつもりで領国から動員。大谷刑部は三成の説得で裏切る。
・秀忠軍が来る前に戦いを仕掛けたのは、西軍の籠城を避け野戦に持ち込むため。