本郷和人のレビュー一覧

  • 壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか

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    壬申の乱と青野ヶ原の戦いと関ヶ原の戦いが、同一の場所であり、それを構造的に分析している点は、新しいし、とても興味深い。
    著書は中世史が専門ですが、古代史もいけますね。
    読みやすいし、面白かった。

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    2020年05月28日
  • 日本史でたどるニッポン

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    日本というのは、本当にある意味恵まれた地勢にあって
    そのため、特殊な社会ができてきた。
    でもそのことを、曲解するとナショナリズムの変な方向
    に行きそうな気もしますが、ある程度分かる感じがします。
    歴史を学ぶ意義については大きく同意します。歴史だけではなく、人文系の学問の意義がもっとみなおされても
    いいと思います。

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    2020年04月21日
  • 危ない日本史

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    歴史上の人物の性格や健康、一生に焦てた一冊。武田信玄や上杉謙信と織田信長の比較としては、大局観が一番の違いのような気がします。侵略する点はお互い同じだけど、甲斐や越後という点で考えるか、日本という面で考えるかという違いが大きい感じがしました。自ずとスピード感や考えも違ってくる。豊臣秀吉は信長のコピーであろうとしてけど、朝鮮出兵以降はモデルケースがなくなったために、愚行ばかりが目につく。
    石田三成については徳川の歴史からみたら愚将に見えるかもしれないけど、私利私欲のない生き方は現代の政治家に参考にしてもらいたい生き方だと思う。

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    2020年04月20日
  • 日本史のツボ

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    日本の歴史を、7つのカテゴリーで通史として考えてみるという本書。天皇、女性のカテゴリーが面白かった。本郷先生の持論炸裂的なところもあり。
    歴史をもう一度学びなおしたい私にはよかった。

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    2020年04月01日
  • 世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか

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    間違いなく今の日本史ブームの立役者の一人、本郷和人氏による氏と家、階級に関する考察。

    筆者の作品は語り口調であり実に読みやすい。結構、鋭い指摘も多い。ウルトラマンファミリーだったり北斗の拳、魔法少女☆マギカ、具体例も豊富に日本史について変幻自在に考察する。

    中国、朝鮮と異なり科挙の制度を採用せず、実力のある若者より、世襲を選んだ日本。ある意味全国の英才を首都に集めた実力主義の明治維新政府でも、万世一系の皇室が象徴とされている。

    一つ一つの細かい議論の是非はさておき、気楽に読めるが鋭い指摘が多いように思われる。

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    2020年03月28日
  • 世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか

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    述べられている史実(と考えられるもの)自体は有名な話が多かったが「イエ」つまり血のつながりの維持が日本の歴史では重要視されてきた、という切り口が新鮮だった。

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    2020年03月08日
  • 日本史のミカタ

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    世界史よりは面白かった。
    京大vs東大という「体制論」がフックになるんですかね。

    さて、「現代史のミカタ」は登場するかな?

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    2020年01月24日
  • 日本史 自由自在

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    スタートがあって終着点がある、そう言った一貫性のある歴史解説書ではなかった。
    著者が「はじめに」で自由に考える楽しい日本史のためにとりとめの無い考えをもとにまとめた、と言う通り、思いついた題材を書き綴った様な内容となっている。
    私の偏見であろうけれど小説と異なり、「学者」的な方の書いた書物はどうも読みにくい。
    専門用語が多いという意味ではなく文章の流れというのか構造というのか、何度も行ったり来たりして読まないと分かりにくい、あるいはそれでも判断を迷う文章が失礼ながら多い気がする。
    本作品にも自分としてはわかりにくい表現を時おり感じて折角の内容がもったいないなと思いながら読み進んだ。
    けれど最終章の「美」において書かれた「歴史は誰の物なのか」「美とは何なのか」という考察に触れ、若干の文章の読みにくさなどは問題にならない刺激を受け取ることができました。
    「おわりに」で、著者は「歴史研究者は面白い考えが詰まった本を書くべきなのだと思うが、違うのだろうか。何しろぼくの本は売れませんから」と自虐的に書いていますが、売れないのはもしかしたら内容ではなく文章の書き方に工夫が足りないせいなのではないかなと生意気な考えが湧きました。

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    2020年01月21日
  • 日本史 自由自在

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    ネタバレ

    <目次>
    はじめに
    第1章  編
    第2章  食
    第3章  境
    第4章  武
    第5章  裸
    第6章  王
    第7章  笑
    第8章  一
    第9章  男
    第10章  白
    第11章  道
    第12章  美

    <内容>
    編集者に与えられた漢字一文字から、日本史に関することを語っていく「大喜利」のような本。その中では本郷氏の生い立ちや若かりしときのエピソードなども。最近毎月のように本が出る。粗製乱造の感もあるが、歴史好きが思う存分歴史に関する話や考え方を語っている点で好感が持てる。他の方のように歴史エピソードだけでなく、歴史思想に関してだったり、本人の学生時代の話だったり、あちこちに寄り道するのがまたいい。

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    2020年01月06日
  • 怪しい戦国史

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    産経新聞連載中のコラムをまとめた1冊。日本史の通説を疑う軽い語り口のエッセイ。

    従来の定説を否定した考察が魅力の歴史エッセイ。川中島の戦いの上杉、武田両者の兵力を見積もったり、暴れん坊的イメージの強い福島正則が実は知恵者だったり。概ね2話続きでテーマは実に幅広く戦国史を考察している。

    軽い語り口が心地よい。歴史探偵半藤一利の後継者はこの方かもと思ってしまう。

    あくまで筆者の気楽な考察なので、学術的に検証されているわけではない。

    歴史に疑問を持つことを目的とした1冊。まさに題名のとおりでした。

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    2019年11月30日
  • 日本史のツボ

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    日本史について本郷和人が様々な角度から分析した一冊。

    まとまりはないが、読みやすくて面白かった。

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    2019年11月25日
  • 承久の乱 日本史のターニングポイント

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    ネタバレ

    誰もが日本史上の重要トピックとして覚えた経験はあるが、敗れた後鳥羽上皇が隠岐島に島流しにされたこと、北条政子の演説で鎌倉武士がひとつにまとまったことくらいで、実はよく知られていない「承久の乱」。
    そもそも後鳥羽上皇はなぜ幕府に戦いを挑んだのか?
    「錦の御旗」を敵に回して勝利したリーダー、北条義時はどんな人物だったのか?


    承久の乱に至るまで過程や承久の乱がもたらした影響などを、
    時の時代背景や人物相関などの観点からわかりやすく説明している。
    鎌倉幕府を語る上でキーマンとなる北条氏について、
    とても明確な解説である。
    「武士の時代」を決定づけたのは、まさに北条義時と後鳥羽上皇そして承久の乱である。

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    2019年09月16日
  • 日本史のツボ

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    令和元年の夏休みの部屋の片づけをしていて見つけた本です、記録によれば今年のGW明けに読んでいたものですが、レビューを書くのがこの時期になりました。

    本郷氏の本はここ1年くらいで数冊読みましたが、好きだったれ歴史を別の角度から解説してくれていて、楽しく読ませてもらっています。特に、この本では全体を理解している方でなければ書けない「通史」を通して、日本史のツボを解説してくれています。歴史というのは、現在にまでつながっているな、と感じることができる一冊です。

    以下は気になったポイントです。

    ・天皇が他豪族への優越を保つ機能を確立するのに重要な役割を果たしたのは、天智天皇(-671)、天武天皇(-686)、持統天皇(-702)である。日本ブランドの創生をし、それを促進したのは外圧であった、天武・持統の時代には、律令制の導入により土地はすべて天皇のものであるという公地公民制がひかれ、701年には大宝律令が整備された(p15、18)

    ・乙巳(いっし)の変(645)に勝った天智、壬申の乱(672)に勝った天武が強い力を誇ったのは、実力で天皇の座を手に入れたことが大きい。権力闘争に明け暮れていた時期には、継承が安定しないので系図は横に広がる、天皇が権力を失うと皇統が乱れずに系図は縦一直線となる(p23)

    ・日本全体が土地争奪戦に突入、つまり律令制(公地公民)が崩壊したことが、日本における中世の幕開けと言える(p26)

    ・鎌倉幕府が1192年に開かれた時点では、西の朝廷は辺境の武士たちの軍閥くらいと考えていたが、鎌倉幕府の優位が決定的になるのは、1221年の承久の乱で、後鳥羽上皇がこの戦いで大敗して天皇の権力を大きく減退させてから(p27)

    ・江戸時代に入ると天皇の仕事は、学問と定められた、改元も仕事とされたが、将軍の代替わりには必ず改元されたが、天皇の場合には行っていないときもある。暦も1685年には、渋川春海が完成させた、貞享暦に代わった(p37)

    ・白村江の戦い(663)は、唐に侵略されるかもしれないという脅威の大きさにおいて、後の元寇、黒船襲来、昭和の敗戦に匹敵するほどの国家の危機であった(p45)

    ・天皇家では仏教が神道よりも重視されてきた、神官よりも僧侶のほうが格段に位が高い。神官の最高位である神祇伯は従四位下で公卿ではない、仏教では入道親王が数多くいる(p46)

    ・仏教は、あくまでも修行僧個人の信仰であったが、平安時代に大寺院の内部に「院家」ができて変質していった、延暦寺の中の青蓮院、妙法院、三千院、興福寺の大乗院、醍醐寺の三宝院等がある(p51)

    ・平安仏教の在り方に異議を唱えて、仏教だけでなく政治・社会の在り方をも変えようとしたのが、鎌倉新仏教である。法然が説いた教えは、2つの意味で「やさしい教え」であった。誰でも救済するので、優しい、誰でもできるので。易しい(p55)

    ・信長が目指したものは、自らを頂点としてピラミッド型・縦の支配体制であった、惣村+一向宗の平等型の共同体は、それと真っ向から対立する原理であった(p62)

    ・日本の宗教史において、白村江につぐ外圧は「キリスト教伝来」である、宣教師がバチカンへの報告書に「カトリックと類似する考えをもち、ライバルとなるのは浄土宗である」と書いている(p60)

    ・在地領主は、教科書において「土地を寄進した」と表現されているが、毎年お米(例:400石)を年貢として納めるので、土地を国司から守ってください、という口利きの依頼である(p76)

    ・中央があてにならないとなると、地方の在地領主は自力救済しかない、これが武士の誕生である。国衙では4年に1度、大きな狩りを行って土地の神様に祈りを捧げていた。この狩りに出られる者(在地領主層)までが武士である(p80)

    ・貨幣経済が日本の隅々にまで浸透するのは、13世紀の半ば、1225-1250年くらいである。土地を売るときの証文は、それまでがコメであったが銭に代わる(p84)

    ・京都に室町幕府を開くが、京都を選んだ理由として、1)銭への対応、鎌倉幕府は貨幣経済に対応できずに滅んだ、2)足利政権が弱体で、朝廷などの京都の旧勢力と交渉せざるを得なかった(p88)

    ・戦争に勝つための条件は、古今東西問わない、1)敵を上回る兵力、2)優れた装備、3)大義名分(p98)
    ・通説では、応仁の乱は、十年戦って引き分けとされるが、終わってから、細川家が管領の座を独占、幕府の中で専制的な権力を振舞うことになるので、細川家・東軍の勝利である(p107)

    ・関東という言葉は、本来、愛発(琵琶湖の北、越前=北陸道)・鈴鹿(東海道)・不破(関ヶ原=東山道)の東側を指す、朝廷のある近畿地方は「西」ではなく、中央であった。(p120)

    ・日本の神社で、稲荷神社の次に多いのは八幡神社、戦いの神様でおおもとは、大分にある宇佐八幡宮である、近畿から瀬戸内海を通って北九州に至るエリアが、古代朝廷が自分の国であると実感できるゾーンであった、なので西には関所がなかった(p121)

    ・関東で勢力を持つのは源氏より平氏が先である、平将門が良い例、平家で関東に留まったグループとしては、相模国の三浦氏、上総の上総氏、下総の千葉氏である、北条氏もそうである(p131)

    ・承久の乱の後、鎌倉幕府は、朝廷監視として、六波羅探題を設置、尾張から西が管轄となった、三河から東が鎌倉の管轄であった。東西の境界線=三河に配置されたのが、足利氏であった。だから三河と尾張のあたりは、東西の文化や経済の境でもあり、両方が交流しあう場所でもあった(p134)

    ・尊氏が開いた足利政権が本格的に確立するのは、尊氏の孫である三代将軍・足利義満の時代である、室町幕府という呼び名も、京都の北小路室町に花の御所を建てたことに由来する(p138)  

    ・義満の補佐役を務めた細川頼之は1392年(前年末、山名氏を討伐)、関東地方・東北地方を切り離した、関東公方に関東地方だけでなく東北地方も任せた、つまり室町幕府の責任範囲を中部地方から西に限定させた、博多は山口の大内氏、関東公方のお目付け役を今川氏とし、この2大名のみ現地に住んだ(p138)

    ・室町時代の日本を、都と「鄙=ひな」に分けている。都には、京都・近畿・中部・中国・四国の4つが含まれている、鄙は、関東・東北・博多以外の九州=鎮西、ここでいう「都」が室町幕府の統治範囲である、この関係がひっくり返るのが戦国時代である(p140)
    ・1467年の応仁の乱は、戦っているのは都の守護大名たちであり、鄙の大名は対象外、京都が戦場となり焼け野原となり室町幕府が機能しなくなったので、大名たちはそれぞれの国に帰っていった、しかし守護大名から戦国大名になれたのは、武田・大友・島津・少弐・大内・今川くらい(p141)

    ・信長のライバルとして、1)越前(福井)、最大の強みは京都へのアクセスの良さ、三国港を擁しているのもメリット、2)播磨(兵庫)、京都に近くて鉄も産出、瀬戸内海に面している(p143)

    ・関ヶ原の地は天下分け目の戦場となる、最初の戦い(壬申の乱)では天皇が誕生、二度の戦い(青野ヶ原の戦い)では、室町幕府が誕生、関ヶ原の戦いでは、江戸幕府が誕生した(p147)

    ・豊臣政権が崩壊したのは、秀頼が幼かったからではない、朝鮮出兵がもたらした疲弊・混乱によって、人心が離れてしまったこと(p147)

    ・日本が男女別姓だったのは事実であるが、それは実家の家父長権が強くて結婚してもそこから抜けられなかったため、実父の苗字を名乗っていた、だから父の支配権の強さと、結婚後も女性に一定の財産などが確保されていた(p169)

    ・夫婦墓の時代は夫婦別姓である、それが江戸時代の元禄期あたりに家族墓となり、手請制度ができて宗門人別帳などで住民を管理するようになる、このあたりから夫婦同姓になる(p180)

    ・遣唐使の廃止(894)は国風文化が花開く面もあるが、一方で律令的経済が本格的に崩壊していく時期でもあった(p195)

    ・欧州にたとえると、瀬戸内海が地中海、日本海交易が、北海・バルト海貿易になる(p198)

    ・平清盛は、日宋貿易に着目して、京都の外港として福原(兵庫)に港をつくる、これが後の神戸港である。神戸と博多を結ぶ途中に、宗教的・経済的拠点としたのが、広島の厳島神社である(p200)

    ・日本と中国を行き来するときに、当時はバラスト(重し)が必要であった、日本から行くときには材木であったが、帰りは、宋の銅銭であった(p202)

    ・国司のポストが売り買いされていた、三河の国の国司が文永元年(1264)で、3600貫=3.6億円であった。地位は中納言以下(p204)

    ・なぜ江戸時代には銭からコメへと逆転現象が起きたのか、関東地方、東北地方で銭本位経済についていくのは非常に難しかったからではないか(p205)

    ・江戸の人間にとって、上方から下ってきたものが高級品、下ってこないもの=上方のものでない品は、品質が落ちる=「下らない」という表現が生まれた、これは東西格差を表す言葉であった(p216)

    2019年9月16日作成

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    2019年09月16日
  • 考える日本史

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    教科書の欄外にあるような豆知識ではなく、太字になっているようなメジャーな人物、事件の見方を変えてくれる。歴史を学ぶとはどういうことか、考えさせてくれる良書。

    冷静に、分析的に、特に戦争関連について考える
    「乾いた目」という表現が何回か出てくるのが印象に残った。

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    2019年07月30日
  • 世渡りの日本史 苛烈なビジネスシーンでこそ役立つ「生き残り」戦略

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    <目次>
    第1章  陰謀渦巻いた鎌倉時代
    第2章  政略の室町時代
    第3章  一寸先すら読めない戦国時代
    第4章  愛憎蠢いた江戸時代
    第5章  時代の大転換を迎えた幕末

    <内容>
    「本郷和人、書きすぎでしょう」と最初は手に取らなかった本。タイトルもなんだし…。が、この人の筆力はさすがで、またどの本でも独自の視点を入れてくるので、結果として評価も高くなった。出てくる人も鎌倉期の平頼綱(かなりマイナーな御内人)、細川頼之(足利義満の育て親。細川家の発展の基礎をつくる)、福島正則(著者の言うように、イメージの「腕力バカ」では考え慣れない出世と没落)という感じで、歴史好きの心を揺さぶります。

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    2019年07月14日
  • 上皇の日本史

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    上皇の歴史を紐解く一冊
    『上皇の日本史』著者の本郷和人先生は、大河ドラマ「平清盛」の時代考証も担当されました。
    まず、前書きで、「地位」か「人」かということを述べています。

    皇帝や王様はその国で最上位の権限をもちます。だからひとたべ皇位・王位を獲得した人は、死ぬまで地位を手放しません。「終身在位」が当たり前。「地位」こそが「人物」を正当化するからです。
    (中略)
    これに対して日本は異なるのです。「世襲」の観念が強固である。世界のどこの国でもどこの地域でも、世襲は強力な原理として機能しますが、日本はとくにその傾向が強い。そのため、「地位」よりも「人」が重視されます。
    「人」を正当化するのは第一に血統であり、家柄です。「地位」が人に権限を付与するのではなく、大きな権限を創りあげた「人」がしかるべき地位を選び取る、という順番になります。

    実は天皇を退いた人、上皇という位は日本にしかありません。他の国では前皇帝、前国王とは呼ばれても、それに当たる地位は無いのです。
    しかし、「地位」より「人」を優先した日本では、上皇という独特の地位が誕生しました。

    本書では、ヤマト朝廷の大王(おおきみ)の時代から始まり、奈良時代、天皇・上皇の誕生、平安時代の摂関政治を経て院政期、武士の台頭、鎌倉時代の承久の乱、乱後のシステム化されていく上皇、室町時代には足利将軍に取って代わられて行き、戦国時代には天下人の権威を飾るための存在になって行く。江戸時代には、太平の世で儀式に関する需要が高まり皇室の存在が思い出されるようになるも、光格上皇を最後に上皇の位は途絶えます。

    このように、上皇という位の変遷を見ながら、日本の歴史が語られています。

    現代の上皇
    大河ドラマの影響で上皇という存在に興味は持っていたけれど、古代から今に至るまでの上皇の歴史について触れたのは初めてでした。最初の頃は上皇自身が権力を奮っていたけれど、武士が幕府を開いてからは武士に権力を奪われ、そのうち皇位の継承まで介入され…、今では皇室そのものが政治から遠ざけられています(天皇親政の復活などは望んでいませんよ。念のため)。

    私は、陛下がお気持ちを表す前から「第二の人生としての上皇」というポジションがあってもよいのではないかと思っていました。天皇の公務は激務だと言われています。災害が起きれば被災地に行くし、そうじゃない時でもスケジュールがかなり詰まっているようで、もう次世代に譲ってもよいのではないかと。そう考えていたのです。

    ただ、実際にお気持ちを表し、退位(譲位)が現実的になってから、上皇の位の復活は有識者会議などでもかなり渋られていたように思えました。
    私としては、「堅いこと言わずにスパッと決めてあげなよ〜。保元の乱なんて1000年前の話じゃん」などと思っていたのですが、本書を読んで、渋られていたのがなんとなく分かりました。
    上皇というと、歴史を踏まえればどうしても権威が連想されてしまうからです。
    今回の譲位が皇室典範改正ではなく、特例法による措置にしたのもその辺りを考えてのことでしょう。

    しかし、それでも、平均年齢が1000年前とは比べ物にならなくなった今、政治や権威などとは切り離した「第二の人生としての上皇」の位をどうにか作って差し上げられたらと、私は切に願っています。

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    2019年07月06日
  • 承久の乱 日本史のターニングポイント

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    ネタバレ

    「応仁の乱」以降、中世の歴史学者による、新書が面白い。本書も例外ではない。研究による背景はあるのだろうが、読み物としても、読者を飽きさせない。
    もう一つの「承久の乱」も読んでみよう。

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    2019年06月07日
  • 承久の乱 日本史のターニングポイント

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    日本史における重要なターニングポイントとされる「承久の乱」について解説する本。京都朝廷が鎌倉武士に完膚なきまでに叩きのめされた衝撃は大きいのであった。朝廷が「西国の守護」たちを政治的に押さえたにも関わらず、西国の土豪たちが(東国から来た落下傘の)守護の言うことを聞かなかったため戦力にならなかったという観察は、歴史から得られる大きな教訓と言える。

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    2019年05月30日
  • 日本史のツボ

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    また違った視点で、歴史を俯瞰することができ、とても面白かったです。

    複雑な土地支配の仕組み、なるほどそういうことだったのだと、よく分かりました。

    戦争に勝ったということは、結局、どういうことなのか。
    著者の立てた基準は、戦争目的を達成できたかどうか。
    この視点で、応仁の乱などの著名な戦いを語るのが新鮮でした。
    応仁の乱は、複雑すぎて、勝ち負けもよく分からず、ただ京都を荒廃させた戦いという印象しか持ってなかったので、この乱への理解が少し進んだ気がします。
    豊臣秀吉が、兵站の天才というのも、新たな視点でした。
    この観点からすると、朝鮮出兵は秀吉が正常な判断能力をもはや持ってなかったのではないかと、思わされました。

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    2019年05月05日
  • 承久の乱 日本史のターニングポイント

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    この本に出合うまで、日本史の転換点(折り返し点)は、関ケ原の戦い、若しくは、応仁の乱だと思っていました。それが、この本のテーマである「承久の乱」なのですね。恥ずかしながら、この事件について名前こそ、高校三年生の世界史の授業で聞いた覚えがありましたが、内容をほとんど知りませんでした。日本史を変えてしまうような事件だったにもかからわず。。

    と、このような新しい気づきを与えてくれたのが、この本でした。本郷氏の本の中での語り口を面白く、講演を聴いている気分にもなりました。今後の作品にも期待したいですね。

    以下は気になったポイントです。

    ・承久の乱が日本史最大の転換点といえるのは、この乱以後、明治維新に至るまで、実に約650年にわたって武士が日本の政治を司ることになる(p4)

    ・承久の乱の最大のみどころは、実際の戦争が始まる前段階にある。これが広く伝わっていないので、関心が低いといえる(p3)

    ・鎌倉幕府は、室町幕府(足利氏)江戸幕府(徳川氏)と違って、創業家が将軍の座を独占できなかった。150年続く鎌倉幕府は三代で絶えた。(p7)

    ・当時はだれも鎌倉幕府が生まれたとは考えていなかった、武士が政治を司った体制・政権を一般に幕府と呼ぶようになったのは、明治時代のこと(p21)

    ・関東で勢力を広げた平家のなかで、もっと豊かな西国に移ろうと考えた一族が、平清盛を生んだ伊勢平氏(p29)

    ・義朝を父とする頼朝は、母方の家柄の良さ(熱田神宮の大宮司の娘)もあり、三男なのに生まれた時から源氏の跡取りとみなされていた(p31)

    ・頼朝が反平家を掲げて蜂起したときに従ったのは、舅の北条時政とその家来、地元合わせて90人あまり。石橋山の戦いで大敗北を喫したのちに、千葉氏、上総氏等の豪族を味方につけて、河越氏、畠山氏を従えて相模、鎌倉に入って本拠地とした、この時に事実上、鎌倉幕府は誕生した(p33)

    ・関東の在地領主が求めたものは平家の討伐などではなく、東国の新しい秩序の樹立であり、そのトップとなることを頼朝に求めた、旧来の朝廷による支配か、在地領主の権利の保障かが大事であった(p35、36)


    ・刀が武士の象徴となるのは、実戦から遠ざかった江戸時代のこと、それまでは弓や槍が有効な武器とされ、刀はよほどの接近戦にならないと出番はなかった(p41)

    ・駿河、伊豆、相模(鎌倉)、武蔵の4か国は東海道で連なり、政治・経済・文化の面で深い連関をもっていた。これが鎌倉武士の本場であった。(p47)

    ・頼朝政権の権力が及ぶ範囲はあくまで東国中心、地頭を任命できたのは、もともとの東国武士の土地に加えて、「平家没官領」という平家の旧領や謀反人の土地に限定されていた(p49)

    ・頼朝が最も信頼を寄せていたのは、比企氏であった、梶原氏(頼朝・頼家に重用)の両氏を滅ぼすことで、北条時政は幕府の主導権を握った(p65)

    ・北条時政をなぜ他の御家人たちが支持したかというと、頼家の将軍としての権力が強くなりすぎているという危機感を持ち始めていたから(p71)

    ・頼家が病に倒れて、関西38か国を千幡(のちの実朝)、関東28か国を一幡(頼家の長男)の分割統治となった(p83)

    ・平安後期から鎌倉初期に関しては、天皇という地位よりも、天皇家の家長である「上皇」の方が力を持った、これが院政である(p100)

    ・治暦4(1068)年、実に170年ぶりに母が藤原氏でない天皇、後三条天皇が即位し、天皇親政を復活させた。切り札は、荘園整理令であった、これにより藤原氏は荘園の3分の1を失うことになり権力基盤を削られた(p102)

    ・当時の相続は子供が二人いれば土地は二分割とされていたので、上皇や天皇の娘である内親王は、結婚せずに独身のまま一生を終えることがほとんど、生活費としては荘園を与えられて、そこの番人として暮らした(p106

    ・北条義時は、和田義盛から、侍所別当(長官)を奪い取ることに成功し、政治・軍事とも握る体制が確立した(p130)

    ・大内惟義は幕府によって、近畿周辺の6か国(越前、美濃、伊勢、伊賀、丹波、摂津の守護に任命された、特に、日本を東西に分断する越前・美濃・伊勢には、愛発(あらち)・不破・鈴鹿関があり重要である(p140)

    ・幕府は、天皇の息子である親王を将軍に迎えることは、朝廷も幕府もともに天皇家をいただくものとして同格の存在となり、より独立した国家として歩む大義名分ができると考えた、朝廷はこれが朝廷による幕府支配の実現と考えた(p164)

    ・承久3年5月15日、後鳥羽上皇はついに鎌倉幕府の追悼を決意した、それが正式文書である「官宣旨」なのか、略式版の「院宣」なのかは議論が分かれる(p169)

    ・近代の戦争では三割が死傷すると、ほぼ全滅とみなされる。命令系統がズタズタになり軍隊の体をなさなくなるから(p181)

    ・後鳥羽上皇は北条泰時に使いを送り、全面降伏ともとれる院宣を伝えた、ポイントは、1)もう政務には口出ししない、2)これから武士たちを出仕させない、貴族でも家業をつがず武芸のけいこをしているものは朝廷に出仕させない、これは武力放棄を宣言している(p189)

    ・西国の守護達の権力の源泉は、「地位」の論理、東国のそれは「人」の論理である、この差が動員力の差となった(p198)

    ・承久の乱で幕府が得た後鳥羽系の荘園は3000に及んだ、平家を倒したときの領地の6倍となり北条政権は盤石なものとなった、これはそれまで東国中心だった幕府の支配地域を日本全国に広げるものであった(p208)

    ・日本という国のメインプレーヤーが貴族から武士という在家領主へ、そしてそれ以外の一般の民へと広がっていく過程であった、その大きな画期となったのが、承久の乱であった(p213)

    2019年4月29日

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    2019年04月29日