想田和弘のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレドキュメンタリー映画を最近好んで見る。多額のお金をかけずにプロの俳優も使わずに、自分たちのお金で自分たちの映画を撮るドキュメンタリー映画。有名になって大ヒットしたりすることもないけれども、じわじわと感じられるよさがある。
そんな映画の中でもマイナーのドキュメンタリー映画の中で、ちょっと変わった映画が想田監督のドキュメンタリー映画である。彼はセレンディピィティを追い求めて映画を撮るという。
“Serendipity” :思いがけないものを偶然発見すること、能力
想田監督の映画は「観察映画」というスタイルを標榜する。台本を書かない観察映画の方法は予期せぬ偶然や発見を呼び寄せ人々の内面のやわらかい部分を描き出す。
作り始めの時にはテーマもなく撮影がどうなるか分からず、一種のギャンブルともいえるが、偶然が拾える準備は入念にしておき、Serendipityが訪れるときを逃さない。
もともと彼はNHKのドキュメンタリー番組を撮っていた。ひとつのドキュメンタリー番組では撮影スタイルは今とは間逆で、台本通りに撮ることに重きが置かれていた。
一方、観察映画を撮るにあたっての10の具体的方法論は以下の通り。
1.被写体や題材に関するリサーチを行わない。
2.被写体との撮影内容に関する打合せは原則行わない(集合場所などは除く)
3.台本は書かず、撮影前や撮影中に作品のテーマや落としどころを設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
4.機動性を高めるためカメラ・録音は原則一人で回す。
5.必要ないかも?と思ってもカメラは原則長時間で回す。
6.撮影は広く浅くではなく狭く深くを心がける。
7.編集作業でもあらかじめテーマを設定しない。
8.ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。
9.観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、その場に居合わせたかのような臨場感や時間の流れを大切にする。
10.制作費は基本的には自社から出す。
本当に上記の方法でうまく撮影できるのだろうか、と思ってみてみたのが、想田監督の最新映画は「牡蠣工場」という映画。奥さんの実家のある岡山県牛窓で漁師さんに出会う。日本の漁業に関しての映画が撮れると思い、「仕事場」に行くと、そこは牡蠣の殻剥き工場。船で魚を撮るイメージを想像していたがはじめから大きく覆される。
しかし、監督は観察を欠かさない。工場のカレンダーの脇に「9日中国来る」という書き込みがあり、そこから牡蠣工場の牡蠣剥きという作業が高齢化が進み中国からの研修生無しには成り立たなくなっている現状や、しかし中国から来た研修生がいつの間にかいなくなってしまって受け入れが必ずしもすんなりうまく言っているわけではない現状が次から次へと明らかにされていく。
多分いいドキュメンタリー映画は遊びがあり、見た人それぞれの感じ方が異なり、いろいろな解釈がある映画を指すのだろうと思う。
例えば、普段の仕事でも、計画通り(台本通り)にある決められた範囲の答えに向かって進めるのはとても大事なことだけれども、計画や結論ありきの仕事はこなす感じになってしまうし、なにかとても大事な出会いを失ってしまうような気もする。
そんなことを考え、来るべきセレンディピティが来たときに気付けるように、適度に計画を緩めて過ごして行きたいと思う。 -
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高校生が文章を読むに当たり、基本的な考え方をあたえてくれる、良本。
平川克美「人口減少社会について根源的に考えてみる」ではグラフの見方とともに、当たり前のようにように言われている言説について批判的な見方を示唆する。
仲野徹「科学者の考え方-生命科学からの私見」ではパラダイムシフト、疑う、シンプルに考えるなど科学を発展させている考えが書かれている。
白井聡「消費社会とは何か-『お買い物』の論理を超えて」ではボードリヤールの考えを援用し、いわゆる「消費」的な感覚が政治や教育にも適用させようとする現在の社会のゆがみと弊害を述べる。
山崎雅弘「『国を愛する』ってなんだろう」では、政治的無関心が生む危険と愛国の意味の多義性について分かりやすく述べている。 -
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【読書メモ】
p185
・何のために勉強するのですか?
自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を言う。ただそのためだけに勉強するのです。山本義隆
p190
・同じことを、違った側面から考える視点を与えてもらうためにディスカッションをするのです。当たり前のことですが、自分は自分の考えに染まりきっています。そこへ、違う刺激を与えてもらって、自分の考えを方向転換させたり、バージョンアップさせたりすることが重要なのです。
p103
・科学がグローバルである最大の理由は、真実をあつかうからということです。
…科学的な視点は予測できない社会を生きるうえでの全員にとってマストなものの見方なのかもしれない。情緒的に考えたとしても、それを相手に理解できる自分の言葉で伝えて、ブラッシュアップしていかなきゃいけない。誰かが先に答えを用意してくれている時代でないのであれば、自分の考え、意思を言語化して、まず自分を納得させることができなければ、何も頼りにするものがなくなってしまうから。自分を納得させるために、何故自分がそう考え、思ったのか、その前に何が頭に浮かんだのかを自分自身に伝えなければならない。
科学的なものの見方とは、パラダイムが人間の思考をいかに制限・固定・維持しているかを理解したうえで①まず疑う、②データに基づいて具体的に説明する③合理的に考える④いっしょに考えてグロ−バルに展開してくという流れ。
・消費社会について
…資本主義がすすみ、消費社会が到来した。最初は「必要だから」何かを求めていたものが、今では「これを持っていると周りから羨望の眼差しを向けられるから」といった“意味”に価値が置かれている。だって、物が溢れる時代に、物をほしがり続けてもらわないと資本主義は回らないのだから。
しかし、そうした消費社会の高度化が人間精神の在り方に異常を来していると筆者は述べる。「お買い物」の論理を、その論理が当てはまらないもにまで当てはめようとしているからだ。
選挙の投票や教育はその良い例。
投票は、投票したい候補者がいないし行っても無駄、という合理的な考えで処理されることがあるが、その危険性はでかい。あなたがほしがるものをお膳立てしてくれるわけではない。あなたが何もしなかった行為そのものが、結局はあなたとあなた以外の人にふりかかることになる。だから、「もっともマシ」だと思う人に投票することが求められる。
また、教育はお金を払えばすぐに分かりやすい商品価値が返されるものではない。つまり、商品として捉えるならば出来損ない。さらに教育が商品とみなされたが、教育は不可能になる。学ぶ主体が「消費者である」と自己認識している限り、最低限の支出で最大限の有用性を得ようとしている限り、教育は死ぬ。お客様→学ぶ主体
・「愛国心」について
…そもそも「国」をどう捉えるかは3種類ある
①外国的に「独立国」として承認されている国家の領土
②その領土内に住む国民を特定の政府が統治する国家体制
③政府に統治される側の、一人一人の国民の命と生活環境
時代的背景によって、上記の優先順位は前後する。
第二次世界大戦で、ドイツ軍に攻め入れられたフランスは、わずか6週間で降伏を宣言した。③市民の命を最優先にし、①領土の半分を失い、③ドイツ寄りの中立の立場をとることになった。
一方、太平洋戦争中の日本は、軍人や市民の命が犠牲になったとして、早く負けを認めて戦争をお渡せようという空気は起きなかった。なぜなら②天皇とその天皇が統治する国家体制が何よりの崇高なものであったわけで、③はそれを支えるために存在していると解釈されていたから。
日本で「愛国心」というと、この戦時中のイメージが先行されてしまうきらいがある。なぜなら、平和な時代の③を優先する愛国心(いわゆる新バージョンの愛国心)の概念ができあがっていないから。
反戦運動をする人に対して「裏切り者」や「売国奴」などど軽々しく言うひとにとっての愛国心は、②と③を最優先にさせたもので、指導者が決めた物事について疑いをかけずに従順に突き進んでくれる都合の良い存在。いわゆる「馬鹿」なのだけれど、そんな存在を刺激するには近隣諸国に敵をつくって、危機を煽れば良い。そういったかれらにとっての愛国心は、本当は国を破滅に導くとも知らずに、彼らはついてくるから。
「もしかしたら、自分の国の指導者は間違った判断をするかもしれない」と考える市民、そして命を最優先に考える市民にとっての「愛国心」は上の人たちとは違うことを理解しておく必要がある。
自国の黒歴史、つまり、戦争のために命を落とした人たちの死が無駄であったか、そうでなかったかは軽々しく結論付けられないが、それを決めるのは現在と将来の私達の行動にかかっている。
P281
ブレーズ・パスカル「われわれは絶望が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶望のほうへ走っている」(パンセ) -
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恥ずかしながら今まで知らなかった映画監督、想田和弘さんの著作です。
「台本や事前のリサーチ、ナレーションや音楽などを使わない「観察映画」の提唱者」だそうで、本書ではドキュメンタリーとは何か、なぜ人がドキュメンタリーに惹かれるのかについて、想田さんの丁寧な言葉で綴られています。
4章にある、
究極的には「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくるのだと思う。
という意見に物凄く納得させられました。
私は観察映画と聞いて、大好きな「花とアリス」を連想しましたが、あくまであの作品から私が感じたのは、主演二人の演技力であり、それを引き出す岩井監督の技量であり、「人間の心の中を垣間見た!」とまでは思いませんでした。
と、いうワケで今、「映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外にあり得ない」と言い切ってしまう想田さんの作品をモーレツに観てみたい。 -
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フレデリック・ワイズマン
結果的にテーマが出てくるのはよいが、製作中にテーマに縛られないことが肝心なのである
個人的には、タイトルはシンプルであればシンプルであるほど、観客の頭の中でイメージが広がりやすく、強い印象と余韻を残すのではないかと思っている
ショットが長ければ長いほど、観客に自分の目で観察・解釈できる時間が与えられるので、映像は多義的になる。逆にショットが短ければ短いほど、作り手による操作の強度が高くなり、映像は多義性を失っていく
観客に観察モードを立ち上げさせるために、長いショットを使う
つくづく思うのは、作品が結果だとすれば、方法論は原因である。旧態依然たる作り方をすれば、必ず作品もそうなる。原因をそのままにして、結果だけ変えようとしても無理だからである。逆に言うと、作品を変えたければ、方法論を変えればよい。それは映画だけでなく、あらゆる分野の「イノベーション」に言えることだと思う
マース・カニングハム チャンス・オペレーション
ブレアウィッチは、映し出された学生たちが現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた
同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものか
観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察にならざるを得ない
映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。既成の言葉を介在させることなく、現実をダイレクトに映し出すことが可能だからだ。だからこそドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組そのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。ドキュメンタリーにナレーションによる説明が不要であることの、もう一つの重要な理由であろう
演劇を観る人々は、「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくる(平田オリザ)
そして、俳優が演じる演劇なら、いくら人間の心の内側を覗き見ても、倫理に反することはない -
Posted by ブクログ
「選挙」「精神」の想田監督による(ちょっと乱暴だけど)ドキュメンタリー論。
文脈は異なるけれど、「写真を撮るに際し撮影者の存在をどう処理するか」
という問題を常々考えていた僕にとって、
本書は今まで考えてきたことと大きく重なる部分があったり、
新たな視点を与えてくれた点で貴重なものだ。
本書の内容を大まかにまとめると、
(1)「観察映画」の定義・手法
(2)その方法論を採用する理由
(3)その方法論を基に撮影した映画のエピソード
ということができるでしょう。
(勿論本書の構成はこれとは違います。)
世界から何かを学ぶこと、その方法を学ぶことの一助になる。