「時間は無駄には過ぎていかないと思うよ。人が時間を無為に過ごすことはあっても」
『僕には性欲と恋愛との区別がつけられない。性欲と恋愛と魔法の区別もうまくつけられない。』
『「嘘だけは聞きたくない」とそれから彼女はくり返した。「あたしたちのあいだで」
あたしたちのあいだで。初めて会ってから十日間に
...続きを読む五回もホテルへ行き、その倍の数のSEXをしたふたりのあいだで、夫のいる三十代の女と二回離婚歴のある四十男とのあいだで。』
「憶えてるか? これも初めて会ったときのことだ。長谷まりは映画の話をしたな。確かバットマンのなかにあこがれのシーンがある。キム・ベイシンガーが壁ぎわに男を押しつけて、男のネクタイを片手につかんで、自分のほうに引き寄せてキスをする。あれがあたしだと言ったな。本来あるべきあたしの姿だと」
「サンフランシスコの信号の話。あたしが住んでた町の歩行者用の信号はね、青のときは日本と変わらないんだけど、赤のときはちょっと違うの。それが印象に残ってる。立ち止まってきをつけをしてる人の絵じゃなくて、人間のてのひらのマークになってる。てのひらと言っても、やあ、って挨拶して近づいて来るときのてのひらとは違うのよ。信号が赤のときは、止まれ、そこで止まりなさいって、片手を突きつけられる。そんなてのひら。先生といるとときどきその信号のことを思い出す。てのひらを突きつけて、そこまで、そこから動くな、それ以上近づいてくれるな、そんな感じのイメージ。』
「会うのはこれが最後っていう人間なら、ここから電車で行ける距離にだっているよ。遠くにいたって近くにいたって会えない人間には会えないんだ」
「携帯電話を持つか持たないかは免許制にするべきだと思う。筆記試験と実地試験をやって、電話がかかったら必ず出る、届いたメールには返信をする、そのチェック項目がクリアできた人だけに免許を交付すればいい。違反したら罰則を科せばいい。そうしたら恋愛の苦労はほんとに消えるかもしれない。消えなくても多少は減ると思う。携帯電話を免許制にしたら」
「恋愛を免許制にしたほうが早くないか?」
「それはよくないだろう。いくら相手が石橋でも、2名のあいだにまちがいが起こるかもしれない。帯状疱疹がこれ以上変なとこに出たりしても困る」
「まちがいって? 夏目漱石なら『不徳義』とか『不始末』とか書くような意味のこと? 狭義では、婚約者や夫のいるひとを愛してしまうこと?」
「あたしが言ってるのは暖かい室内で昼間でも見れる星のこと」
「ラブホテルのことか」
「プラネタリウムに決まってるでしょう」
「中さんの好きにすればいいの。話したいことを話して、それで気がすめば甲府に帰ればいい。安心して。あたしは何もしない。勧誘も、要求も、矯正もしない」
「あたりまえなの。スープが冷めるのは、自然なことなのよ」
「どこの誰であろうと、どんな状況であろうと、どんな時代であろうとどんな時代が訪れようと、他にいっさい信念などなくともこの一文だけは、これまで僕が生きてきた証しとしてそう言い切るだろう。かならず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶのだ。」