和田忠彦のレビュー一覧
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本書のタイトルにもなっている、クオーレ・Cuoreと言うイタリア語の意味を調べてみましたが、心と言う意味以外に、胸中、情愛、優しい心情、思いやり、良、気分、気持ち、勇気、やる気、元気、などの意味のある言葉とありました。
19世紀のイタリアの状況と比較して、必ずしも今の世の中において正しい価値観ではないかもしれませんが、本書で書かれている心のあり方すべてが否定されるべきものでもないと思います。
大人になったら今だからこそ忘れがちな、大人から子供に対する愛情や敬意、世の中に奉仕してくれている人への敬意などのクオーレを思い出すことができました。 -
Posted by ブクログ
『もちろんわたしたちは、理解できないものに名前をつけるだけではなく、視覚的に表現することだってできる。しかしこうしたイメージは、不可解なものを「表象する」わけではない。ただたんに、わたしたちに不可解ななにかを想像するよう促し、そのあとでわたしたちの期待を裏切るだけだ』―『絶対と相対』
ウンベルト・エーコの講義録を読んでいたら、もう三十年以上前の飲み会での話を思い出した。それは学校を卒業していきなり英語を使って仕事をすることに苦労していた頃の話。正確には仕事以外の場面でする会話って苦労するよね、という話の流れだったのだが、ある(業界他社だが同窓の)先輩が、自分も英語が得意ではないけれどある時オーストラリアの技術者と呑んだ際に、一つひとつの言葉が何を意味するのかをじっくり話してから会話したらお互いに話が通じて一晩中話がはずんで楽しかったことがある、というのだ。その時はそんなものかと思っただけだったけれど、今更ながら、それってまさに記号論の話だったのだな、と再認識する。
仕事の話なら、差し出された一つの英文が言葉として何を意味しているのかを掴み損ねたとしても、言葉の中に散らばる記号(用語)のシニフィエ(用語に要約された概念)を取り違えなければ、それらを組み合わせて意味は立ち上がるのだが、普通の会話ではそのような共通のシニフィエを含有する共通の記号の在庫を(育った文化的な背景の違いもあり)持ち合わせていない、ということなのだ。だからいくら英単語のシニフィアンをイメージできたとしても話が噛み合わないことになる。――例えば、Can we retrieve the probe? と検層エンジニアに聞かれて、ある計測器の仕組みを理解している者には、probe という記号さえ正しく解釈できれば、現在の状況(という文脈)の中で何を問われているのかを正しく理解出来るが、そうでない者には英語の意味は判ったとしても retrieve も probe もシニフィアンとして受容されるのみで、エンジニアが何をしたいのか不明なままだろう。
常に皆が同じ記号から同じシニフィアンを想起する、あるいは同じシニフィエに辿り着くとは限らない。ウンベルト・エーコの小説を読んでいると常にそういう気持ちにさせられるものだが、その仕組みを一つひとつ解きほぐすようにエーコが解説するというのが本書の内容。だからと言って自著に対する解説という訳ではない。開かれたテクストという文脈でそういう本も書いてはいるけれど、これは「何故エーコの小説を読むとある種の不安に駆られるのか」ということを説くような本なのだ。
この厚手の上質紙に印刷された一冊は頁数の割には大部だ。それはふんだんに挿まれる絵画などのイメージの為の選択と思われるが、そのイメージから喚起されるシニフィアンと文章から読み取るシニフィアンを組み合わせて、立ち上がるもの(シニフィエ)を読者(実際には講義の聴衆)が取り違えないようにとエーコが意図した為でもあるのだろう。実際、この博覧強記の知の巨人が参照する先人の示した概念、文章、芸術とその解釈などは余りに広範囲に及ぶ為、「何々のように」とエーコが言う時に何を正確に意味しているのかを予備知識なしに理解するのは不可能なようにも思えるのだが、提示されるシニフィアンが理解の助けになることは読んでいくとよく解る。もちろん、それが正しい理解なのかどうか、冒頭の引用が示唆するように本当のことを言えば判らないのではあるけれど。ただ、エーコがそういう疑念を読者が抱くだろうことをも計算していたのだとも思えてくるから不思議だ。
それを短く要約してしまうとエーコが意図したものに対する理解がこぼれ落ちてしまうとは思うけれども、至極単純に言えば「見ているものが必ずしも見えているものとは限らず、更に見えているものが正しく見えているとも限らない」ということだ(「見えないもの」というテーマだけが二度本書で語られる)。もしそんな風に全てを一つひとつ疑って、事実と思われるものを確認しなければならないのだとすると、この世を生きることはとてつもなく大変なことになる。そしてそれは事実上不可能だ。しかし、人がどのようにしてシニフィアンを誤って解釈しがちなのか、それをエーコは「百科事典的」知識の中から例を取り上げて示してくれる。すると少しずつ「意味」「事実」「理解」というようなものの本質が見えてくるような気になる。例えば、こんな警告をエーコは発している。
『想像したことが語られているのであって、現実世界でそれらのことが確認されることはないために小説の言説とはつねに虚偽だといえる。にもかかわらずわたしたちは小説の言説を嘘だとは思わないし、ホメロスのこともセルバンテスのことも嘘つきだと咎めたりはしない。わたしたちのよく心得ているように、物語テクストを読むときわたしたちは作者と暗黙の協定を結ぶ。作者は真実を語っているふりをし、わたしたちもそれを真面目に受け取るふりをしなければいけないという協定だ。(中略)したがって、アンナ・カレーニナが自殺したのは真実だと主張するとき、あるいはホームズはベーカー街に住んでいたと主張するとき、わたしたちはあるひとつの楽譜(あるひとりの作家が書いたもの)にもとづいて断言しているのではなく、ひとりの揺れ動く者について断言している。その人物の存在論的規定はいささか奇妙だ。というのもその人物は存在するはずがないのに、それにもかかわらずなにがしかの方法でわたしたちのあいだを動き回るうえに、わたしたちの思考を占領してしまうことすらできるのだ』―『見えないもの』
人は、その「ふり」がある文脈の中でのみ成立しているという前提条件を往々にして忘れてしまい、ふりのつもりがいつの間にかその言説を本当に信じてしまう。その恐ろしさはエーコの没後の世界に生きる我々は身に染みて感じてはいないだろうか。どうしてそんな風になってしまうのか。そこには「善」と「悪」という子供でも理解可能と思われる概念が、実はそう単純な二項対立ではないという実情と、「悪」にさえ惹かれてしまう人間の性[さが]があるのだともエーコは教える。そしてこんなことをつぶやく。
『というわけで、芸術は悪魔の醜さをじつに巧みに表現してきた。しかし、醜さを巧みに表現しようという競争は、わたしたちにある疑いを抱かせる。つまり、表面下でとはいえ、そこには恐怖(Torrendo)に対する真の悦びがあったのではないか、という疑いである。ある種の地獄が、キリスト教信者を脅かすためだけに考えられたものだ、などとは言わないでいただきたい。いくつかの地獄は、かれらを狂喜させることをも目的にして、考えられてきた』―『醜さ』
露悪的な悪人というのが物語ではしばしば登場し、それを読んでそんな人は現実には存在しないというような批判を人はよく口にするが、実際にはごく普通の人の心の中にもそういう一面が潜んでいる。そしてある状況下においてその一面が急に露わになるだけなのだ、とエーコは教えるのだ。そしてそれは時に「正義の仮面」を被ってさえいるのだ、と。
『ロルドンはスピノザの『神学・政治論』(一七世紀のものである)の一節を引用している。「庶民が真理も判断も知らなくても無理はない。国家の政務はかれらの預かり知らぬところで執り行われているのだから」。しかし、国家機密と隠蔽と陰謀とでは、それぞれ、それなりの違いがある。リチャード・ホフスタッターは、「アメリカの政治における偏執狂的スタイル」(一九六四)で、陰謀論への嗜好は、社会思想に精神分析の分類を適用することで理解されるべきだと説いている。その分類とは、二種類の偏執狂現象のことである。精神医学的な偏執狂は、世界全体がかれに対して陰謀を企んでいると考えるが、社会的な偏執狂は、隠れた権力者たちが、かれのグループや、祖国や、宗教を迫害していると思い込む。社会的な偏執狂は、みずからの妄想がほかの何百万という人びとからも共有されていると考え、みずからが私心なしに陰謀に立ちむかっていると信じている点で、精神医学的な偏執狂より危険だといえるだろう。このことが、これまでに起こった多くの出来事に加え、今日起こっているたくさんの事柄を説明してくれるはずである』―『陰謀』
この文章の元となった講義がなされた時(2015年。そしてあの大統領選挙は2016年)エーコが危惧していたことは、今まさに現在進行形で起こっている。なべて世に新しきことはなし、ということか。 -
Posted by ブクログ
西洋美術作品や書物を引用して、あるテーマにおいて人々はどんな見方をしてきたのかという事柄を問う作品。急ぎ足で読んでしまったために、理解しきれないところもあったが拾い読みでも大変面白い見解に触れることができた。
美しさ・醜さの章では、美しいとは何か。醜いとは何かを様々な時代の美醜の描かれ方を通して解明する。
美しさについて。「美の経験はいつも、私たちがその一部をなさないこと、どうしても直接参加したくないようなことを前にして、そこに背を向けながら感じるものだったように思う。美しさの経験とそのほかの情熱のかたちを分けるか細い千は、私たちが美のあいだに取る距離に引かれている(p59)」などの記述や、醜さについては、美とは逆に私たちの感情に根差したものであるとの指摘。
美醜は私たちの生活に根差していながら、それを消費する日常の私は美醜とは何かという問いにこのような答えの可能性があることを知らなかった。
その他、小説の登場人物の存在について、芸術で表現される不完全さのかたちについて、果ては陰謀論について。様々な作品を読み解いて得られる見解を私たちに分け与えてくれる書。美醜編のような、いままで生活の身近な場所にありながらも、深くは考えて来なかった様々な事柄の意味の可能性の一端を示してくれる。
相当にじっくり読まなければ理解できないように思える箇所もあったため、ちょっとずつ再読予定。 -
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「見えない都市」でもそうであったように、カルヴィーノは、この「パロマー」でも各文章群を数学的な配置に収めることに成功している。パロマーの場合のそれは、3、という数字を基にするもので、あるいは「ソナタ形式」の入れ子、とでも言ったらよいかも知れない構造である。註には、この本が出現する章の順番通り以外にも読んで構わないと記させているが、個人的には、各章の3拍子を味わいながら読むのが、やはりよいような気がする。それにしても、そのような「形」から思考へ至る道筋が、カルヴィーノは好きなのだろうか。
パロマー氏、というのが登場人物の名前であるが、彼の名が有名な天文台と同じ名であることには、何か意図があるのだろう。パロマー氏は観察をする。観察の視線は、眼球の縁から外へと伸びているようでありながら、その実、ぐるっと回って、瞳の中へ、そして、その映像を作り出す臓器の内側へ、さらに、その臓器の上に展開する「意識」の主体へ、と帰結していく。いや、帰結するのではない。そこから更に、視線は外界へと向いて行き、存在するということの持つ意味を、主観である自分が存在から感じ取れる意味と切り離して見いだせるかどうか、という客観的観察、自我を離れた純粋な客観による観察、というところへ戻っていくような、あるいは拡がっていくようなところへ繋がるからだ。それはあたかも、閉じた宇宙に向けて高性能の望遠鏡を向けているかの如く、星々の彼方へ、更にその向こうへと視線を伸ばしていった先に、出発点である自分の星が見え始め、その星で自分を観察している自分を発見する、といった構図のようでもある訳だ。
各章がばらばらに書かれたとは思えないほど、各章の間のバランスが取れている。緩急、強弱、と言ったようなバランスが、あるいはテンポの良さが、ある。内面と外面のバランスと言ってもよい。観察された事象に対する言明、その言明に対する内省、内省の末の達観、概ねそのようなリズムが終始この本を貫いているとも言えるだろう。これは、個人的な思索でありながら、大衆へ開かれた脳の活動であり、その中に読者を取り込み、ぐるりと回ったらせん階段の次の周回を促すような本だ。
カルヴィーノの文章には、虚構という訳ではないのだが何か頭の中だけで構築されていて、現実の質感を伴わないものの危うさというのを感じる。そのことは、描写されている対象の固有名詞に自分の質感が伴ってこないという読み手の側の問題であるかも知れないが、例えば比較的身近な竜安寺の枯山水に対する描写を読んでいても、その感じがなくなることはない。むしろ、風景が浮かべば浮かぶほど、その中で猛スピードに回転するカルヴィーノの思考ということが明確になる。対象と思考との線引きがくっきりし、思考の部分の特異さが強調されるためであろう。やがて、その思考が作り出すもののイメージが、現実の対象の上にオーバーラップして投影され、その結果、現実のものでありながら質感を失うというようなプロセスが、そこにはあるような気がする。
勿論、その思考の中だけに漂っていってこの本を読み終えるという楽しみ方もあるだろう。その為には、その思考の波を楽々とサーフできる肉体がいる。波に乗り損ねないための身体感覚がいる。しかし、演繹的に思考する意識を必要としない、その状況に自分を順応させるには、とても勇気がいる。特に、カルヴィーノの本のように至る所に落とし穴が仕掛けてあるような本を読む時には。自分は、やはり入り口から細い糸を順繰りに伸ばしながらでしか、迷路の先へは進んでいくことができない性格なのだ。そのことを、とても強く意識させられるのがカルヴィーノなのである。
そんなカルヴィーノが「帰納法」は好きになれないが「演繹法」には常に魅力を感じるということを述べている。それを聞いて納得するものも多少ある。カルヴィーノが熱心に言及するもの、それは出発点についてであり、一般化されている一つの思考の行程である。そこからは、一気に道筋全体についての一般化が繰り広げられる。前提とされている命題は必ずしも明らかではなく、個々の事象と導き出される法則の間の論証も多分に主観的ではあるものの、必然的な思考の結果であることにはなっている。しかし、本当にそんなことが言いたいことなのか、という疑問がつきまとう。
何故なら、その導き出されたものの影にあるもの、それこそカルヴィーノの文章を読んでいて意識せずにはいられないものだから。思考の道程を書き出してみて、そこに語り尽くせていないと感じるものこそ、カルヴィーノが求めているものであるような気がするから。自分には、このプロセスが、ジタバタしながら、頭の中から決して出てこない何か、多分それは身体的思考とでも言えるもの、を求めるためになされていることであると思えて仕方がないのである。
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Posted by ブクログ
イタリア文学大好きカルヴィーノ大好きなので、この本の存在を知って、買うかどうかではなく、いつ買うか、だったこの数ヶ月。
満を持して入手。嬉しくてスリスリしながら読んだ。
カルヴィーノを中心に、タブッキ、エーコ、ギンズブルク、ブッツァーティ、カルロ・レーヴィなど、都市をめぐり、作家をめぐる参考書。
目と手で楽しむ一冊だった。幸せ。
トリノのエイナウディ社は、その歴史や内容から言っても、日本における岩波書店、というのが印象に残った。
なるほどねえー。
そしてトリノは自動車FIATの街だというのも初めて知った。tはトリノのt!
fは工場、iはイタリアの、aは自動車のことで、なんなら全然固有名詞ではないのですね…。
帯にもあった須賀敦子にはほとんど本文では触れられていないのは何故…?
第二弾として、須賀敦子リベンジと、児童書もまぜて、ビアンカ・ピッツォルノとか、ジャンニ・ロダーリとか、あとは硬派な自然作家のマリオ・リゴーニ・ステルンも入れて欲しい!! -
購入済み
全編パロマー氏の思索によって埋め尽くされた本。訳の問題か、原著もそうなのかわからないけど少し読みづらかったかな。
思索に耽りがちなパロマー氏にちょっとずつ愛着がわく -
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「ぼくがいく、アメリカへ、かあさんをさがしに」マルコ13歳、名作アニメ『母をたずねて三千里』の原作を収録。
小学3年の少年が1学年の学校生活を記した日記をベースに、愛国心や博愛などについて説いた児童向けの読み物、という体裁。新学期の10月から翌年7月まで正味9ヶ月間の物語のなかに、教訓的かつ心温まる?両親からのメッセージや、毎月1話ずつ先生からの紹介として「今月のお話」などが挿入される。
徹底した「愛」の精神、ハートフルな世界観。学校ものらしく個性的な先生や児童の面々とぶつかり合いながら、家庭では親子の絆を深めつつ、10歳の少年が成長していくという流れ。また一方で、当時のイタリアの生活における貧困や病気、戦争などといった背景にあるものも透けて見える。
素晴らしい愛の物語、といえばその通りだが、読み終えてどうも釈然としない感じが残るのは、やはりあまりにも「愛と善意」の押し付けが過ぎるせいだろう。愛国心に関しては特にだが、感動をあおる美談というのは一歩間違うと洗脳につながる危うさがあるのではないか。全体的に今の時代にはそぐわない感覚が強く感じられる。とにかく端的にいえば「説教くさい」のだ。とはいえ、もちろん本質をちゃんと見極めれば、本書から学ぶものは多い。
「今月のお話」として毎月1話紹介される短編の感動エピソード。アニメで有名な『母をたずねて三千里』(本来は“アペニン山脈からアンデス山脈まで”というタイトル)はその中の一つ。別格に長く中編に近い作品になっているこのお話は、本作中の白眉であり、これだけで本書全体の価値を高めているといえる。アニメ版は概要を知っているだけでほとんど見ていないため比較はできないが、とにかく夢中で読んだとだけ言っておこう。
美談の寄せ集めともいえる本作。素直に心洗われるか、説教くささに鼻をつまむかは読者しだいだ。