梅原猛のレビュー一覧
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西洋哲学の行き詰まりから、
その思想に基づいた近代とその果ての現代もまた行き詰る。
若い頃、西洋哲学を研究しており、、
それを日本に根付いた東洋的な思想で打開しよう、と考えた
梅原猛さんに興味を持ったので、
読みやすそうな本を選んで、読んでみました。
当時の僧の偽善を謗り、人間の持つ欲望を認めて、
どんな悪人も(だからこそ)、
とりあえず念仏を唱えときゃー救われるんだよと
語る親鸞は魅力ある人物だと感じました。
また法然、親鸞、「歎異抄」を書いた唯円の関係について
歴史的資料から梅原さんが思いめぐらせており面白いです。
「歎異抄」の中に書かれている親鸞が語るパラドックスは
どれもハッとさせられるようなものです。まぁ屁理屈っぽいけれどw
また折に触れて読み直そっと。 -
Posted by ブクログ
「君子の学は己の為にす、人のためにせず」という言葉がある。真理を前にしたら、孤立しても構わないという勇気が君子たる人間の態度である。一方、小人は他人からの評価のため、出世のために学問をするのである。どちらが人間として尊敬できる行き方であるかはいうまでもない。新しい仮説の発見にまさる喜びはない。だからこそ、孤独や長く苦しい検証作業にも耐えられるのだ。
ニーチェのツァラトゥストラはかく語りきに「三段の変化」という一節がある。それはどういうものであるのか?
忍耐強く、精神的な重み、精神の砂漠を放浪する駱駝の時期を経て、やがて駱駝は獅子となる。そこで、何千、何万年の歴史をもつ真理という名の光り輝く黄金の龍と戦うことになる。龍と戦った獅子は最後に小児となる。駱駝、獅子であったことは忘却され、小児は全く、純粋に無垢な心で創造することができるようになる。
梅原猛は人生はかくあらねばならないと断言している。自分もこの話に感銘を受けていたので、彼と同じところでもって共感できてとても心強く思った。
「発見」についての覚え書きの章で創造についてのヒントを残しているので以下に示す。
1)人間は知らないうちに、一つの色眼鏡を通してものを見ていること、そして発見とはその色眼鏡から自由になることである。
2)発見の前提は疑いである
3)疑いには、裸の心と勇気が必要である。
4)発見には創造力が必要である。
5)生産的想像力を持つためには自由な心とともに、広い知識が必要である。想像力を養成するには一つの訓練が必要である。
6)発見はある日突然起こる。それは、向こうからやって来るもの。我々は一種の直観で、それを受け止めるだけである。
7)インスピレーションは疑いによって冷却することにより一層間違いないものとなること。
8)発見はいったんなされれば、大して難しいものではないと思う。それは、発見されるまでは全く思い掛けないことである。
9)認識はみずからの体系を成してそこに世界を形成している。
10)発見や創造を可能にするのはたえざる認識の努力であり、それを可能にするのはやはり真理あるいは美に対する強い愛である。 -
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角川ソフィアが出た頃に買ったはずの本なので、1996年には買っていたと思う。
それから、半分ぐらいは読んだのだけれど以後読まずで今まで18年間放置されていた本。本棚の奥まったところに移動せず、常に手前にあったことから「読む気だけはあった」と思う。
今回初めて最初から最後まで軽く流す。
今までは冒頭の地理のところで「参った!」状態の白旗。例えるのなら新約聖書の冒頭の家系図で頭が痛くなるような物か?
そこを突破してしまえば釈迦の語った仏教の基礎的な教えがしっかりと書いてある良書だと思う。今回はさらっと通り過ぎたが、この後天台、真言と読み進めまた読み返すと思う。
それにしても、釈迦が説法を始めたのは孤独だったからというのは斬新な考えだ。
確かに知ってしまえば孤独になるのかも知れない。そのときに「周りはバカだ」とさらに孤独になる道もあれば、釈迦のように「皆すべて同じところへ」と説法を始める人もいるのだろう。
もっとも、森にある葉っぱと手のひらの上の葉っぱ、どちらが数が多いか?と釈迦が弟子に問うたように、彼の知ったことのうち伝わったのは森の中で手のひらにのせた程度の葉っぱの量なのだろうな。その上には多くの葉っぱが生い茂っていることを感じなければ仏教のなんたるかは理解出来ない。
いや、それを知っているからこそ仏教はキリスト教のように他宗派を弾圧せずに(そのような歴史がなかったわけではない)、今に至っているのかも知れない。
世界に道を示す宗教があるのだとすれば争いを好まない仏教以外には存在するまいと確信する。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。
強烈なパラドックスを含むこの成句で有名な『歎異抄』。
その一言一句から発せられる「毒」と「薬」は、時代や階層をを超え、人々の魂を揺り動かしてきた。
親鸞の純粋なる信仰を、直弟子唯円が大胆率直に記述した『歎異抄』の魅力はと何か。
わが国で最も優れた宗教書であると絶賛する著者が、その真髄をあまさず語る。
法然と親鸞、親鸞と唯円という師弟関係を通して浮かび上がる独自の世界。
道徳の延長ではない宗教の本質を抉る。
原文と現代語訳、年表付きの決定版。
[ 目次 ]
第1章 『歎異抄』わが心の恋人
第2章 「専修念仏」への道
第3章 法然、親鸞、そして唯円
第4章 道徳の延長線上に宗教はない
第5章 弥陀を信じた親鸞の究極の境地
第6章 現代語訳『歎異抄』
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
梅原さんの著作を見かけるとつい買ってしまいます。相当な梅原信者だとこの頃思うようになりました。
仏教の宗派や僧の名前はたくさんあるし何がどう違うんだろう?と思うくらいであまりきちんと調べたことも考えたこともなかったのです。仏教に特に関心があるわけではないのですが一生をかけて熱心に極楽往生の道を研究し、勉強し衆生を救おうとした一人の人間の物語として読んでもとても面白いと思います。
人一人の思想の変化を見るとき、その人の過去があり、歴史がありその人物の考えが作られていくということがよくわかります。
現地の言い伝えや伝承などから読み説かれていく法然の幼少の姿は推理小説を読んでいるように面白かったです。
ただ、浄土宗の教えだと確かに怠惰で堕落した私なぞはこの世を真摯に生きることなくただ念仏を唱えれば極楽に行けるんだ、くらいの軽い気持ちに陥りそうです…
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Posted by ブクログ
気になるのによく知らないこと、曖昧なままで雑然とした知識、それらが整理されはっきりしてくる何とも言えない快感を味合わせてくれる読書であった。
東アジアの4世紀から7世紀にかけて、日本の政治や宗教、大陸や朝鮮半島と日本との関係がこの作品の重要な背景である。古文書からの引用にはカナが振ってあり、すべては読み切れないが、克明で丁寧に説明している。学説の違いや争点にも両論併記の気遣いを見せるが、いわゆる専門学者の研究書とは一味違う。
筆者の持論が大胆に展開され、一般の読者をも意識した書き振りである。
かつて教科書の「日本史」で学んできたことや興味本意の読書の知識がほんの一部に過ぎなかったこと、その後の研究の進展でどれだけ変わってきているのかなども改めて教えてくれる。
主題の聖徳太子はまだ多くの登場人物の一人にすぎず、彼が本舞台に登る背景や必然性が展開される。
天皇をめぐる物部氏と蘇我氏の権力闘争、そして中国の梁と朝鮮半島の百済・新羅・高句麗三国のそれぞれの確執と日本への思惑などが古書解釈で解き明かされる。日本古来の八百万の神信仰に対して、大陸の仏教を日本国家として正式に導入するか否かの抗争である。
552年(538年)仏教は欽明天皇時、百済(聖王)から伝えられた。
5世紀の中頃、物部氏は大和朝廷の日本全国制覇と朝鮮半島出兵に大友氏とともに軍事力で大きな役割を果たした。氏は武人であり軍需産業家であり大和の石上神社の祭祀権を持つ排仏派であった。
一方蘇我氏は文官の家柄で、帰化人を統制し三蔵の出納を司る大蔵官僚である。古い日本の神道による軍事国家の殻を破って世界宗教の仏教による宗教的官僚国家の出現を望んだ。
崇仏派の蘇我稲目から代わった馬子が排仏派物部守屋との戦いで決定的に勝利し、崇仏派が権勢を極める。
天皇は欽明・敏達・用明・崇峻と続き崇峻が仏教崇拝を公言したが日本で唯一臣下に殺された天皇となる。
蘇我氏も中大兄皇子と藤原鎌足によって滅ぼされる。
政治権力者は天智・天武帝と藤原氏に移り鎌足の血を引く人たちの世になる。
4世紀から7世紀にかけて大和朝廷の大陸・朝鮮半島との政治・軍事関係と国内仏教の扱い、そして天皇を仰いだ氏族同士の権力闘争のなか、いよいよ聖徳太子が活躍する舞台が出来上がってくる。