アルボムッレ・スマナサーラのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
・今生きてる人は一度も死んでいないのです。
命に関わることで一度も間違った選択をしていない。たがら自分の選択を信じて前を向いて生きていくしかない。
・今の一瞬に集中し、自分のベストを尽くす。瞬間、瞬間の判断と行動に成功すればそれで良いのです。
毎日やってくる仕事の日々に、心が折れそうになるけど、一瞬を頑張れば良いという言葉に救われ、今日も仕事へ向かうことができている。
・ハッとさせられたのは、人生を自分でなんとでもできると思うのは大いなる勘違いで思い上がりという言葉。
確かに、私は自分の人生を自分でなんとかしなきゃと足掻こうとしてたけど、それが地に足ついてないと感じてる原因だったかも。だってずっと勘違いしたまま答えを探してても、そりゃあ見つかるわけないよね。
・感情で行動すると碌なことにならない、慈悲の心を持つ。
この二つの教えもしっかり大事に抱えながら生きていこうと思います。
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Posted by ブクログ
ネタバレ先日読んだ「自分なんて、ないから」におすすめ本としてあがっていたこちらを読破。
仏教すごい。分かりやすい。
一言で言うと、「怒っても得ないし、やめときや」という内容。
怒りは猛毒、怒りは無知、怒りは自己破壊、怒りは人を狂わせる…様々な言い回しで、怒ることの愚かさを説いている。
一見、ただの精神論のように聞こえるが、読み進めていくうちに、納得感を得られた。
特に心に残ったのが、「怒っていない時は、誰でも立派でいられる」という内容。その人の真の力は、怒りが湧きやすいような、厳しい状況下にこそ見られる。
話の中に出てくる「歩いている時に突然後ろから殴られても怒らないお坊さん」エピソードには驚愕。
ここまでは行き過ぎだが、「怒らない」を実践している人エピソードとしては、強烈に心に残った。
本書には、怒りの毒を抜く方法として、今の瞬間の自分に気づくことが挙げられている。この方法は、自分を客観視するというメタ認知的要素とも繋がっていると思う。
怒るのは自分のせい、言葉は不完全、世間は自分のことなど知ったこっちゃない…
今までに読んだことないジャンルの本だった。
「怒らない」を実践したい。 -
Posted by ブクログ
今の私にとって、読むべき本でした。転職しようか考えていたところで、かなり悩んでいたのですが、この本を読んでやるべきことは転職ではないかも、と思えてきました。
人生の目標は人格向上のみ。そのためには、笑っていなさい、丁寧にしっかりやりなさい。
現状の不満ばかりに目を向けて、もっといいお給料を、もっと評価される職場を、と求めても同じことが繰り返されるだけなのだろうと思いました。それよりも、もっと私にはやるべきことがあるのだと思えてきました。
丁寧にしっかりお仕事をしているだろうか。常にニコニコしていられているだろうか。答えは否。自分が目指すべき人格もまともに描けていない私が、現在の環境に不満たらたらでもっともっとと欲を出すとはなんと傲慢なことか。
手痛いこともたくさん書かれていた本でしたが、自分の傲慢さが手痛いと感じさせるのでしょう。もっと謙虚に、ただ丁寧にしっかりやる。
これからの指針になりそうなことが書いてあり、とても勉強になりました。 -
Posted by ブクログ
アルボムッレ・スマナサーラ
(シンハラ語: අලුබෝමුල්ලේ සුමනසාර Alubomulle Sumanasara、1945年4月 - )は、イギリス領セイロン(現・スリランカ)出身の僧侶[4]。スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であり[注 1]、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老[注 2]、日本テーラワーダ仏教協会長老[注 3]、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職[注 4]。日本において仏教伝道[注 5]、および瞑想指導を行う[13]。『怒らないこと』(サンガ新書)など多数の著書がある[4]。仏教とは今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。1945年4月、イギリス領セイロン(現・スリランカ)のアルボ村に生まれた[7]。名前のアルボムッレは出身地に由来する[14]。13歳で沙弥出家、1965年に具足戒を受けて比丘となった[7]。
スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を執ったのち[15]、1980年に国費留学生として来日し[7]、大阪外国語大学語学コースを経て駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻博士後期課程に進学し[16]、駒澤大学教授奈良康明の下[17]、道元の思想を研究した[7]。その後、スリランカと日本両国での活動を経て、1991年に再来日し、上座仏教修道会にて仏教講演や瞑想指導を本格的に開始した[7]。
1994年11月に、初代会長を鈴木一生として、日本テーラワーダ協会(のちの宗教法人日本テーラワーダ仏教協会)を設立し、2001年5月に東京都渋谷区幡ヶ谷にゴータミー精舎幡ヶ谷テーラワーダ仏教センターを開山し、2005年8月にスリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリヤ大精舎(英語版)にて日本大サンガ主任長老(ナーヤカ長老)[注 2]に任命された[7][10]。日本テーラワーダ仏教協会の長老(chief adviser)[注 3]、ならびにスリランカのベヤンゴダ町[18] にあるキリタラマヤ精舎住職を務める[注 4]。
日本テーラワーダ仏教協会や朝日カルチャーセンターでの講演、NHK教育テレビこころの時代への出演などを行い、仏教の伝道[注 5]、ならびにヴィパッサナー瞑想の指導に従事する[1]。23万部に達するベストセラーとなった『怒らないこと』(サンガ新書)[5] など100冊以上の著書があり、累計発行部数は100万部を超え[4]、内容としては、ダンマパダ(法句経)などのパーリ語経典の教えを現代向けに応用して話題にした法話集や、ラベリング[注 6]を重視するマハーシ系統のヴィパッサナー瞑想の解説書などがある[20][21]。上座仏教に関して、スマナサーラは、日本の仏教とは共通点も多いが違う点もあり、日本の仏教は釈迦の死後かなりたってから編纂された大乗経典に基づくため、釈迦のアイデアが旨く伝わっていない部分があると述べる[22]。上座仏教は神も信仰も無いことで他の宗教と異なると述べ、仏教は釈迦の「教え」であって「宗教」では無く、論理的で実践的な「心の科学」だと説き[23]、今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。
「怒らないこと」に関しては、「世界」は自分の思い通りには変えられないため、「自分」の方が変われば良いと説く[24]。一切の物事は無常であり、無常が怒りの原因であり、人は怒らずにはいられないと説き[25]、我々は常に変化し、体は苦の感覚で出来ており不変の実体は無いことを説く[12]。人を不幸にしているのは怒り・欲望・執着などであり、理性によって捨て去ることができること、そのために重要なのは怒らないことであること、怒ることは「自分は正しい」という態度であり極限の無知であること、人が怒りを止められないのは自我が強いからであるが、自我とは錯覚に過ぎないことなどを説く[23]。「自分は偉い、自分を認めてくれないといけない」といった自我が怒りの元であり、その状態から逃れるには、怒りがわいたとき「これは怒りの感情だ」と、自分の精神状態を客観視するのが良く、それにより気持ちがよくなり元気になれると説く[26]。
自身の活動に関しては、釈迦の語った内容を分りやすく話すことを行っており、現実に生きる人々の役に立つことを教えており、現実の日本社会で問題を抱える人に、どんな問題を持っているのか尋ね、それに適した仏教の教えを紹介していると述べる[5]。現代は、釈迦の時代と比べ機械文明が進んだが本質は変わらず、現代人の悩みは、釈迦の教えで全部答えることが出来、来日後約30年経つが、答えられなかった質問はひとつも無いと述べる[5]。日本で活動する理由は、日本人が仏教を何も分っていないと思ったからであり、一方、駒澤大学時代における学生との交流から、日本人は躾がされていて性格的にはしっかりしており、納得のいくことを言われればきちんと実行するので、難しい仏教でも頑張れば出来る人々だと思ったからだと述べる[5]。
著書『怒らないこと』に関しては、本書は「怒りがあってうまくいかない」という相談への答えとして書いており、「怒ってはいけない」ではなく「怒りとは何か」「何で怒るのか」を論理的に分析してみせており、それが分ると自己管理が出来るようになると述べる[5]。日本人は決断や心のコントロールが失われてきていると思うが、仏教を学べば怖くないことが判ると述べ、怒りの問題が最も分りやすく、怒りと戦うと他の弱みは全部消えると述べる[5]。人間は弱いため、厳しく極限的に言う必要があり、それを計算して書いており、言葉が荒っぽい・乱暴だと指摘されるが、それは全部敢えて意図的に入れており、指摘されても「ほら当たったぞ」という感じであり直そうとは思わず、論理的・知識的に本質を批判できないことを知った上で書いていると述べる[5]。
道徳に関しては、仏教では、自分が他人にしてほしくないものが非道徳・してほしいものが道徳であり、一切の生命を慈しむことこそが全ての人間の問題の解決策だと説く[12]。
「 たとえば隣の人が立派な家を建てたとします。しかし、自分にはお金がなくて立派な家を建てることはできません。新築の家があまりにもうらやましくて、その人はひそかに嫌がらせをするようになりました。相手の留守中に石を投げこんで新居の窓ガラスを割ったり、きれいな庭を汚したりする。相手にとっては大変迷惑な話ですが、当の本人は満足気です。それで気分がいいのです。決して素直な気持ちで「なんて美しい庭でしょう。なんて素晴らしい家でしょう」と一緒に喜ぶことができないのです。 そういう人間の心理をふまえないと、人々に善いことをしようと呼びかけてもうまくいきません。だからブッダは言われるのです。「悪いことをするときは、みんなとても気持ちよくやるものです。しかし、悪いことには必ず悪い結果が待ち構えています。自分が行なった行為の結果として、長い間不幸を背負わなければならない。火傷をしたように苦しみ続けるのです」と。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「他国に侮辱されたということは、自分たちの国にもそれなりの原因があるのかもしれない。だったら、それがたとえささいな、どうでもいい理由であろうとも構わないから、「申し訳ありませんでした」と謝ってみるのです。「それでは国のプライドが傷つくではないか」という人もいるでしょう。世論も「日本にも自国のプライドがあるのだから、単純に謝ってはいけない」という方向に傾きがちです。しかし、むやみに他国を侮辱する国よりは、わずかな過ちに対しても素直に謝る国の方が品格があります。自分の国から謝ることは瞬間的な苦しみをともなうから、どうしても実行し難い。品格ある国民ならば、勇気を出して、難しい方を選ぶことです。そうすれば、あとには延々と平和な毎日が続くのですから。 このように「瞬間的にこころが〝やれ!〟とけしかけることをやめましょう」というのが、ブッダの言葉です。悪の特色というのは瞬間的に心地よい刺激を与えて、そのあとからずっと無限に苦しませることです。善の特色は、瞬間的な苦しみをともなうけれど、自分に打ち克つ努力をすることで必ず幸福に導かれていく、ということです。瞬間的な苦しみとは、自分の瞬間的な欲求に克つことの苦しみなのです。それでプライドが傷ついたような苦しみを受ける。しかし、その苦しみに克つことが、幸福への唯一の道なのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「人間のこころを自然に放っておくと、卑しい、汚い、悪いことをしたくなるものです。ただ、そのときどきに生じる気持ちのままに生きようとしても、これは立派な生き方にはならない。逆にとても恐ろしい人間になってしまいます。私たちは自分のこころにある「本当の気持ち」は何か、と観ようとしないからわからないのですが、人間のこころは実に恐ろしい衝動に満ちています。 人間の社会では、その恐ろしい気持ちを少しでも抑えようと、親は懸命に子供をしつけます。人間には必ずしつけが必要なのです。もし、しつけをしなかったら恐ろしいことになるので、小さいときから善悪の基準とか、格好がいいとか悪いとか、行儀の善し悪しとか、ひたすら親に言われ続けて、なんとか文化人として生きています。それでも、やはり子供はしつけを嫌がります。子供だけではなく、ああしなさい、こうしなさいと言われるのは人間ならだれでも嫌がるものなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「四番目のアドバイスは、世の中のどこにでもいるような人間になってはいけない──「ありきたりの人間になるな。一般人のレベルを乗り越えよ」ということです。その辺のだれもがやっているようなことで、認められたり褒められたりするのを期待するのは、これもプライドのない生き方です。みんなが近寄れないほど自己を向上させ、特別な人間になってしっかり生きること。それがブッダの勧める生き方なのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「こんな例もあります。自分の子供は頭がよくて勉強しているのですが、母親が「この子はもっと勉強した方がいい」という気分になってしまう。これも貧乏思考なのです。そうなると幸福なのに充実感を得られない。私たちはいろいろなものを欲しがって努力をしますが、決して全部得られるわけではありません。期待や希望はたくさんあって、必死で努力をするかもしれませんが、成功する人間はほんのわずかです。努力をすればするほど、自分が成功する確率はとても低いことがよくわかってくるので悲しくなるのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「「みんながやっていることをやる」のは、とんでもない〝腰抜け〟の考え方です。一般の社会でも、他人とは少々違ったことをやる人こそが歴史に残るのです。だから仏教徒の立場から言えば、みんながやっていることではなく、「革命的に正しいこと」をやる勇気をもってほしいのです。自分がやろうとしていることが賢者の認める正しい行為ならば、何も心配する必要はありません。成功すれば最高に素晴らしいことだし、もし成功しなくても、正しい道を歩もうとした努力は賞賛されます。ですから、いっさいの生命が精神的な病で倒れているけれども、自分は病気から立ち直って健康的に生きよう、輪廻という重病から抜け出す道にチャレンジしてみよう、と明るく励むことです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「どんな生き物でも、よく観察してみると、とても忙しく動き回っています。人間は自分たちが忙しいということにいろいろな言い訳をしていますが、たいそうな理由はどこにもありません。その証拠にまず動物を観察してみましょう。彼らはなんと忙しいことか。動物たちはものすごく忙しく、絶えず素早く動いています。決して落ち着いてはいません。そして、その「忙しい」という気持ちは、ものすごい苦しみであり、強烈なストレスです。それは精神的な空白感──空しさを感じて生きることを意味します。虫も魚も鳥も動物も人間も、みんな忙しく動き回って強烈なストレスをため込んでいるのです。「忙しい」というと、善いことではないかと思われるかもしれませんが、本当は精神的なあせりを「忙しい」という言葉で隠しているだけなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「何かを聞きたくなったら、それを聞く。何かを見たくなったら、それを見る。何かを味わいたくなったら、それを味わう。体で何かを感じたくなったら、それをやってみる。頭の中でもいろいろとくだらないことを考えてしまう。本を読むことだって、そういう欲を満たすためです。頭になんとか刺激を与えて「ああ気持ちよかった」という満足感を味わいたいのです。だから知識を求めることも欲なのです。 あれも知っておきたい、これも知っておきたい、とやたらに何かを知ったところで、自分の人生にそれほど役立つものではありません。結局「私は科学も知っている、医学も知っている」と自慢したいだけです。勉強しなければいられない、本を読まずにはいられない、というのも一つの欲なのです。もっとおいしいものを食べたい、きれいなものを見たい、なんとかして体にいろんな刺激を与えたい……。これが私たちの生き方なのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「人間は「お金さえあればよい」と思っています。しかしブッダは「小判が雨のごとく降っても、欲は満たされませんよ」と説かれています。 欲というのは、それを満たそうとすると、ますます膨張するものです。一万円がなくて困っている人が一万円を手に入れれば「ありがたい」と思いますが、実際に一万円が手に入ると「やっぱり五万円ぐらいあった方が、あれもこれも買える」という気持ちになってしまうのです。そこで五万円を手に入れると、今度は十万円が欲しくなります。自分の欲しい金額は大きくなる一方です。 だから「小判が雨のごとく頭の上に降っても欲は満たせない。欲を満たそうという道を歩むなかれ」とブッダは説くのです。欲を満たすことは楽しいことです。しかし、そのためにどれくらいの苦しみを味わわなければいけないか、ということも考えないといけません。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「おいしいごはんを食べたいという小さな欲を満たすためにも、人間はけっこう苦労しているのに、あれこれといっぱい欲をもって、自己破壊をして世界をも破壊する。欲を満たすために、すべてを破壊し罪を犯すのです。すべてを破壊し尽くしたら、もうだれもこの世で生きることはできません。生きていて欲を満たしたいはずなのに、結局は生きていられなくなってしまうのです。 欲を満たすために罪を犯す。それによって自分の人生はさらに苦しくなります。不幸に陥って輪廻転生し続けます。欲を満たす道は、危険な苦しみの道なのです。しかし、こころに寄生している渇愛をとり除いてしまえば、幸福への道を歩むことができます。仏教はそれを実践しているのだということを、この偈では説いています。仏教の目的は、欲を満たそうとあがく不毛な生き方を離れ、渇愛を引き抜くことなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「「学問には復習しないことが毒である」。この偈に出てくる学問とはマントラ、つまりヴェーダ聖典のことです。バラモン階級の学問を指しています。バラモンたちは三十歳になるまで、学校でマントラを勉強します。学校で習った内容を覚えるには復習が絶対条件です。学問をする。勉強をする。知識を得る。いずれの行為も記憶をつかさどる脳のある部分の働きなのです。脳は論理的にできているので、理解能力があればあるほど知識を覚えやすい。それには個人差がありますが、とにかく復習をしてデータをきちんと覚えて脳にたたき込んでおけば、いつでも取り出して使えます。まずデータがあれば、それを基にいろんなことが理解できます。復習するということは、まさに学問の魂なのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「友だちを作るということは、若い人がよく考えることです。友だちとはどこかで自分と気持ちが通じ合っている人を意味します。互いに気持ちが通じ合えば一緒にいて楽しいし、話し合うのも楽しいものです。いろいろ合致するものがあるという存在が友だちです。その関係はお互いの人生にも大きな影響を与えます。自分がどんな人間になるのかということは、友だちがどんな人々かということで大きく左右されるからです。 自分の人生は友だちによって決まります。これは生命としてどうしても避けられないことです。私は独立している、私はだれの影響も受けない、ということは心理学的に観て成り立ちません。私たち一人ひとりのこころは、単独で機能するものではないからです。あらゆる情報によって、周りの環境によって、自分のこころは変化します。だからこそ、自分のこころを取り巻く環境を整えることは重要なのです。つまり「だれと仲良くするべきか」という問題は、人生最大の関心事として真剣に考えた方がいいのです。ブッダの教えはみなさんが友だち選びをするためにとても役立つと思います。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「ブッダは別の経典で「どうしても仲間がいなければ、独りでいてください」と答えています。「尊敬する友だちがいないならば、独りでいるしかないのだ」と。そのときは友だち関係の中で成長することはできない代わりに、堕落することもありません。しかし、不安に思わないでください。「ブッダこそが最高の善友です」「私がいなくても、私が説いた法があなた方の指導者になる」とブッダは言われているのですから。私たちを導くために常に偉大なる善友(ブッダ)がそばにいてくださるのです。 仏教の世界では、「友人関係、人間関係は、最大限、気をつけるべきことだ」と説かれています。ふつうは、「気に入ったから友だちになりたい」と思いがちですが、「その衝動に従うことはやめなさい」とブッダは言われています。だから、いい友だちを見つけるためには、「好き」「嫌い」という基準をなくすことが不可欠な条件なのです。「好き」と「嫌い」という感情には、生き方の幅を狭くする働きがあるからです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「昔も将来も今も、ただ非難されるだけの人も、ただ褒めたたえられるだけの人もいません。人間は完ぺきではありませんから、一部は善いところがあって、一部は悪いところもある。どこからみても悪だけの人間など存在しません。結局、世の中から非難されている人も、その人格や行為の一部分について非難されているだけで、全面的に非難に値する人というわけではないのです。 非難する側は相手を全否定するつもりで攻撃するものですが、非難される側だって善いところはたくさんあるのだから、そんなに気にすることはありません。反対に、世間では自分のことを完ぺきに認めてほしいと願っている人もいるのですが、これもあり得ないことです。そんな無理なことを期待すると、とても不幸になってしまいます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「つまり、どんな人間にも短所があって長所もあるということです。人間というのは、嫌な人の短所だけを見てごちゃごちゃと非難するし、好きな人の場合は長所だけを見て、極端に褒めたりする。その事実を理解してほしいのです。たとえば、ある人が自分の長所だけを見て、ずいぶん褒めてくれたとしても、あまり舞い上がることなく、「あっ、この人は長所しか見ていないのだ」と冷静になることです。また、ある人は自分の短所だけを見て「あなたは悪い人間だ」と非難するかもしれない。その場合も、「この人には短所しか見えていないのだ」と落ち着けばいい。自分を見れば長所もあって短所もあるのだ、ということを理解してほしいのです。そうすると、人生はうまくいくものです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「真理を探し求める人は、今も少数派です。抜群の能力をもち、あらゆることを発見して、だれも知らないことを教えてくれる人々は当然少ないのです。その貴重な人々が、だれも仲間がいないから寂しいとか、真理の探究をやめて一般人と一緒に生きるぞ、といったことになったら、とんでもない損失です。一般人に見放されても、もし自分の頭が鋭くて真理を求めているならば、その道を歩んだ方がいいのです。なぜなら自分が真理を発見すれば、自分をさんざんけなし、ばかにした人々の役にも立つのですから。仏教はたとえ一人になっても、真理の道を選んで歩め、と勇気を与えてくれるのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「他の動物は戦争なんか起こしません。自分のいのちだけ保てればいいという、ほどほどの欲を満たす限界のところで生きているからです。彼らは決して他の生命にまで迷惑をかけることはしません。みなさんは「牛に似ている」と言われて侮辱されたと思ったかもしれませんが、本当のところはもっとひどいのです。ブッダの時代ならば、「牛と同じ」で済みましたが、今はそのレベルよりももっと落ちています。人間は、牛よりも他のどの動物よりも大変危険な状態にいるのです。 人類は自分たちを破壊し破滅させるだけではなく、他の生命にも迷惑をかける生き方をしています。人間ならもう少し違う道があるのではないでしょうか。ブッダは智慧の大切さを説かれています。生きるとはどういうことか。自然の法則とはなんなのか。なんのために生きているのか。生きることに何か意味があるのか。意味があるのならば、なぜこんなに生きることは苦しいのか。そういったテーマについて、私たちはもっと考えるべきです。そして、今の人間よりも優れた生き方を実践するのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「だから仏教の国では、小さいころから「冗談にでも、うそを言ってはいけない」と教えています。うそをつくことで、人間はだめになるのだと。自分がうそをつくような人間だったら、人生を捨てる方がましです。「麻薬をやめますか、人間をやめますか」という評語がありますが、この麻薬と同じくらいうそは罪深いことなのです。「うそをやめますか、人間をやめますか」「うそをやめますか、それともすべての幸福を捨てますか」と言ったら、みんな驚くかもしれませんが……。 賢者から観れば、罪の世界はそういう仕組みになっています。人間が平気でなんのためらいもなくうそをつくから、平和が失われて戦争が起こるのです。夫婦げんかは絶えませんし、子供同士のけんかも盛んです。学校でいじめがあったとしても、先生たちは「体面にかかわる」とか「学校の名前に傷がつく」とか言って事実を隠してしまう。これも立派なうそです。初めから事実を知っているのに、取り返しのつかない問題が起きたら、「予測もできなかった。びっくりした」などと国民に向かって堂々とうそを言う。二〇〇五年四月二十五日に尼崎で JR福知山線の脱線事故が起きたときもそうでした。JR西日本の幹部職員が最初に考えたのは「どうやってうそをついたらごまかせるか」ということでした。問題を解決しようとする前に、そちらに頭が働いたのです。たくさんの人が亡くなっているのに、さらにまた被害者に嫌な気持ちまで与える羽目になったわけです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「おもしろいことに人間というのは、やらなければいけないことは嫌々こなし、決してやってはいけないことを楽しくやってしまいます。たとえば、日々、家事と育児に追われている主婦が、息抜きに大好きなパチンコに行ったとします。その人はパチンコに没頭し、日ごろのストレスを発散しました。つまり、家事や育児によって、相当なストレスをため込んでいたわけです。主婦としてやるべきことを嫌々やっているわけですから、ストレスがたまるのは当然です。そして、今度はストレスを発散するために、時間とお金を無駄にしてでもパチンコに行くわけです。しかし、やるべきことではないことをいくら楽しんで実行してみても、人生が成功することなどあり得ないのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「たとえば元気いっぱいの若い男女にしても、何か別のことに夢中になると性欲を忘れてしまうものです。性欲の盛んな若い男の子が、ある女の子を気に入ったとします。彼女をデートに誘ったとき、たまたまホラー映画でも見てしまったら、上映中はスクリーンに釘づけで、女の子に対する下心なんかはきれいに消えているでしょう。別なことに気持ちが移ったとたんに性欲など忘れてしまうものなのです。性欲が生物学的に説明できるホルモンの作用だとしたら、そう簡単にはいかないはずです。たとえば、男女二人が人目につかない場所に隠れて何かいかがわしい行為をやっているとします。そこに突然だれかが入ってきたらどうですか。ましてや自分の親や兄弟が目の前に現われたら、恥ずかしさで逃げ出したくなって、性欲などたちまち消えてしまうでしょう。生物学的な原因だったら、そうはならないはずなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「仏教では人間の若者が肉体的に異性と交わることを怒っているわけではありません。ただ、「火は用が済んだら消すものです。ずうっと燃やすものではない」と言っているのです。人間だけは、性欲を死ぬまで燃やして生き続けてしまう。燃やすために、あれこれと工夫する。漫画にせよ、映画にせよ、小説にせよ、性欲を引き立てる場面がなければ、だれも見ようともしない。そんなに興味がない人でも、見るものによって、聞くものによって、突然、頭の中で性欲の炎が燃え上がる可能性はあります。だから実際の火を扱う場合と同じく、かなり気をつけた方が身のためなのです。火はほんの少し扱い方を間違えただけで、すべてを焼き尽くしてしまいます。特に若い人々も、性欲に対しては、「これは火と同じなんだ」と覚えておけば、自己管理はできると思います。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「恐ろしい戦争も怒りによって起こります。怒りのせいで、人間は生きることに失敗するのです。人生のいかなる場合でも、怒りだけは抑えた方がいい。怒らない方がいいのです。「怒ったら負け」というのが仏教の考え方です。もし人生に負けたければ、思う存分に怒ってください。人生に勝ちたければ、いかなる条件の中でも怒らないで生きることです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「よく「蛇は嫌いだ」とか「虫は苦手だ」と言う人がいます。虫が苦手な人のところに羽虫なんかが飛んでくると、驚いて飛び上がったり、悲鳴を上げたりするものです。しかし、虫はそこまで恐ろしい生き物でしょうか。別にどうってことのない無害な生き物でしょう。虫を気にしない人なら、虫が飛んできて自分の体に止まっても平気です。虫を恐れる人が悲鳴を上げておびえる原因は、虫が作ったのでしょうか。虫が原因だと言うなら、かわいいと思っている人にも同じ苦しみ、恐怖感が生じるはずです。だからその場合も自分の感情が苦しみを作っているのです。 そうやって五蘊の一つひとつに引っかかって、自分が苦しんでいる。自分で自分の苦しみを作っているということなのです。だから逃げるところはありません。トラがこわいのであれば、トラから逃げればいい。自分の外に苦しみがあれば、逃げてしまえばいいのです。しかし、自分が苦しみそのものだったら、どうすればいいのでしょうか。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「たとえば、女性がひげをつけて、男性のように踊ったり、反対に男性が女装をして踊ったりすれば、みんなが愉快に楽しめます。倒錯というか、ごまかしというか、事実をねじ曲げて楽しむわけです。世の中の出来事をその通りに語っても、だれも笑えません。まったくとんでもないこと、あり得ないことを、いきなり言われると大笑いしてしまう。ありのままの事実では、笑えないのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「仏教では友人関係というものをとても重要視しています。信頼できない悪友からは距離をおこう、信頼できる立派な人を友だちにしよう、自分も友だちに信頼される人間になろう、と励むことが大切なのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「だれでも口をそろえて言うのは、「暇がなかった」という言い訳です。 では暇がないほど何をやったのかと振り返ると、だれにでもできる無駄なことばかりです。たとえば、幼稚園では一年に一回、子供たちのお遊戯会があります。その日は、親たちが一日がかりで苦労をしなければいけません。家族がみんなで準備をして、朝早くから夕方まで何をやっているかと言えば、別に何もやっていない。わざと人生をややこしくして、大切な時間を失うだけです。しかも有益な結果を何も生み出さない生き方です。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「人間に生まれることはまれである。その中で真理を知ろうとする人は、もっとまれな存在である。それよりもさらにまれで難しいのは、ブッダが現われることなのです。ブッダは、だれも真理を知らない世界にあって、自分一人で真理を発見した方なのです。人生のちょっとしたヒントも与えることができない世界にあって、一人で真理を発見されたのです。それは極めて珍しく難しいことです。時間的にみても、仏教語では阿僧祇劫に一人だけ。いくつもの宇宙がまるごと生まれては消えていく膨大な時間の中で、たった一人だけが現われると言われています。目を覚まして考えれば、今、そのブッダが現われた時代なのです。ブッダは亡くなりましたが、ブッダの教えが生きている時代なのです。しかも自分は人間に生まれた。だから真理を見つけるならば、今、この瞬間のチャンスだけだ、ということです。この瞬間、自分にとって一番大切なことは何かを知って、必死にがんばるのです。それは「こころを清らかにする」ことなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「そこでブッダは「すべて壊れていきます。しかし壊れないものが一つあります。真理だけは壊れません」と説かれているのです。真理とは、ありのまま、そのままの事実、ということです。ブッダの教えとは、その法則を説明してあげることなのです。ブッダが発見した真理だけは事実ですから、それはだれにも変えることはできないし、変わることもない。古くなることもありません。しかし、真理以外のものはすべて古くなって老いて壊れていくのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「法則に逆らう人にただ「愛着を捨てなさい」と言っても通じません。ですからブッダは対話を通して、「すべての物事は変わるのだ。愛着に値しないのだ」と理解させるように人々を導かれました。自分で事実を調べさせて「どんなものも愛着には値しない」ことを納得させたのです。パセーナディ王もまた、「歴代の王が永続を願って特注した王車も、今はなんの役にも立たない。人間の肉体もそうやって壊れていく。その事実は認めるしかない」と納得できたからこそ、深い悲しみから立ち直ることができたのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「たとえ人格的に立派な人間でなくとも、それこそ性格の悪い人であっても、いろいろな勉強をすれば、専門的な知識を身につけたり、お金をもうけたり、名誉を得たりすることができます。しかし彼らがビジネスに成功し、それらを手にするとき、実は社会に多大な迷惑をかけることになります。彼らは自分の目的を達成するためには手段を選ばない──ときには戦争まで引き起こし、何もかも破壊し尽くしてしまうからです。反対にこころが柔らかで平和主義を堅持する人、他人のことを心配する人、相手を思いやるこころの持ち主ならば、この恐ろしい競争社会に入ることはできません。そうした観点から現代を見つめていくと、私たちの社会は平和を壊す人々やお互いに憎しみ殺し合う人々で成り立っていると言っても過言ではないでしょう。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「勉強をして知識を身につけたりするよりも、お金もうけに挑戦するよりも、名誉を得ようとするよりも先に、まず人格者になりなさいと。人格ができていない人が、いくら勉強をしてお金をもうけたとしても、身の破滅を招き、他人をも巻き込んでしまいます。これはとても危険なことです。しかし、私たちが人格者になって富や名誉を得るならば、必ずや世の中に善い結果をもたらします。次代を担う子供たちやこれから社会人になる若者たちが、まず人格的に立派な人間になるための土台を築き、その上で自分の目的に挑戦すれば、世の中はもっと素晴らしくなります。そうした一人ひとりの努力によって、やっと初めて平和な社会を築くことができるのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「ビジネスに成功して大会社を築き、多くの収入を得ている人でも、思いがけない攻撃によって経営が破たんし、生きていられないほど経済的に困窮する危険を常に抱えています。つまり、お金持ちであろうが、知識人であろうが、名誉を得た人であろうが、死ぬまで常に攻撃を受ける仕組みになっているのです。それも過酷な競争を勝ち抜き、上に行けば行くほど、激しい攻撃にさらされます。これでは自分がなんのために頂点をめざしてきたのか、わからなくなってしまいます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「しかし世の中は競争原理の上に成り立っています。この三つを得るためには、過酷な競争に打ち勝たねばなりません。成功者とは大勢のライバルをつぶして、激しい競争を勝ち抜いた人のことです。「勝ち抜いた」ということは、「ライバルをどんどん増やしていった」ことになります。だから、自分の成功した位置が高ければ高いほど、自分に敵対するライバルの力も、どんどん大きくなってしまいます。 たとえば性格がまっすぐで立派な人が、ある国の政治に参加したとします。しかし政界の頂点をめざし、やがて総理か大統領などになった時点で、みんなから攻撃されるようになるのです。だれも協力などしてくれません。なぜならば、政治とは競争原理の上に成り立っている、人を倒してのし上がっていくシステムだからです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「競争原理の上に何が成り立とうとも、社会は非常に不安定です。だから成功者がたくさんいるならば、それだけ社会は不幸になる。そういう大きな矛盾を抱えているのです。アメリカン・ドリームという言葉がありますが、成功者が派手に成功を収めるほど、どんどん不幸な人々が増えてしまう。みんなが成功者に嫉妬して、すきをみつけては攻撃しようとします。学者の世界でも名誉の世界でも見られる光景です。世の中が決して平和にならないような矛盾したやり方によって、私たちは幸せな人生を手に入れようとしているのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
「この矛盾を解決する方法は、やはり人格を育てることが一番大事なのだ、と決めることなのです。やさしさと思いやり、そして、人のことを心配する気持ちをはぐくむ。自分が得る知識であろうが名誉であろうが財産であろうが、それはみんなのためにも使おうと努める。仲良くするために、調和のために、共存して生きるために使おう、という気持ちがあれば、この競争原理はなくなってしまうのです。 その代わりに「自分に挑戦する」という道が出てきます。自分自身でどんどん自分の能力を向上させて、同時にみんなにも協力してあげる。そういう人が人の上に立ち、さらに上へ上へと進んでいけば、だれからも感謝されます。その人を支える人々の輪も大きく広がっていきます。だれかを踏み倒しながら頂点をめざしているのではありませんから、敵対する人もいません。そういう成功者ならば、世の中にいくら増えてもありがたいのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ著
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これ分かる。あんまりされたことないけど、アジア人差別にしてもレズビアン差別にしても、怒りになった事ない。そんな事言うやつは可哀想な人しか居なかったもん。いじめもどう考えてもいじめをする方が心に闇抱えてるじゃん。
これ、フェミニストにも思うことなんだけど、フェミニストって、フェミニストしか読まなそうな本ばかり読んでるし、思想に固執した人達ってイメージがあって苦手なんだよね。
アルボムッレ・スマナサーラ
(シンハラ語: අලුබෝමුල්ලේ සුමනසාර Alubomulle Sumanasara、1945年4月 - )は、イギリス領セイロン(現・スリランカ)出身の僧侶[4]。スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であり[注 1]、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老[注 2]、日本テーラワーダ仏教協会長老[注 3]、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職[注 4]。日本において仏教伝道[注 5]、および瞑想指導を行う[13]。『怒らないこと』(サンガ新書)など多数の著書がある[4]。仏教とは今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。1945年4月、イギリス領セイロン(現・スリランカ)のアルボ村に生まれた[7]。名前のアルボムッレは出身地に由来する[14]。13歳で沙弥出家、1965年に具足戒を受けて比丘となった[7]。
スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を執ったのち[15]、1980年に国費留学生として来日し[7]、大阪外国語大学語学コースを経て駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻博士後期課程に進学し[16]、駒澤大学教授奈良康明の下[17]、道元の思想を研究した[7]。その後、スリランカと日本両国での活動を経て、1991年に再来日し、上座仏教修道会にて仏教講演や瞑想指導を本格的に開始した[7]。
1994年11月に、初代会長を鈴木一生として、日本テーラワーダ協会(のちの宗教法人日本テーラワーダ仏教協会)を設立し、2001年5月に東京都渋谷区幡ヶ谷にゴータミー精舎幡ヶ谷テーラワーダ仏教センターを開山し、2005年8月にスリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリヤ大精舎(英語版)にて日本大サンガ主任長老(ナーヤカ長老)[注 2]に任命された[7][10]。日本テーラワーダ仏教協会の長老(chief adviser)[注 3]、ならびにスリランカのベヤンゴダ町[18] にあるキリタラマヤ精舎住職を務める[注 4]。
日本テーラワーダ仏教協会や朝日カルチャーセンターでの講演、NHK教育テレビこころの時代への出演などを行い、仏教の伝道[注 5]、ならびにヴィパッサナー瞑想の指導に従事する[1]。23万部に達するベストセラーとなった『怒らないこと』(サンガ新書)[5] など100冊以上の著書があり、累計発行部数は100万部を超え[4]、内容としては、ダンマパダ(法句経)などのパーリ語経典の教えを現代向けに応用して話題にした法話集や、ラベリング[注 6]を重視するマハーシ系統のヴィパッサナー瞑想の解説書などがある[20][21]。上座仏教に関して、スマナサーラは、日本の仏教とは共通点も多いが違う点もあり、日本の仏教は釈迦の死後かなりたってから編纂された大乗経典に基づくため、釈迦のアイデアが旨く伝わっていない部分があると述べる[22]。上座仏教は神も信仰も無いことで他の宗教と異なると述べ、仏教は釈迦の「教え」であって「宗教」では無く、論理的で実践的な「心の科学」だと説き[23]、今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。
「怒らないこと」に関しては、「世界」は自分の思い通りには変えられないため、「自分」の方が変われば良いと説く[24]。一切の物事は無常であり、無常が怒りの原因であり、人は怒らずにはいられないと説き[25]、我々は常に変化し、体は苦の感覚で出来ており不変の実体は無いことを説く[12]。人を不幸にしているのは怒り・欲望・執着などであり、理性によって捨て去ることができること、そのために重要なのは怒らないことであること、怒ることは「自分は正しい」という態度であり極限の無知であること、人が怒りを止められないのは自我が強いからであるが、自我とは錯覚に過ぎないことなどを説く[23]。「自分は偉い、自分を認めてくれないといけない」といった自我が怒りの元であり、その状態から逃れるには、怒りがわいたとき「これは怒りの感情だ」と、自分の精神状態を客観視するのが良く、それにより気持ちがよくなり元気になれると説く[26]。
自身の活動に関しては、釈迦の語った内容を分りやすく話すことを行っており、現実に生きる人々の役に立つことを教えており、現実の日本社会で問題を抱える人に、どんな問題を持っているのか尋ね、それに適した仏教の教えを紹介していると述べる[5]。現代は、釈迦の時代と比べ機械文明が進んだが本質は変わらず、現代人の悩みは、釈迦の教えで全部答えることが出来、来日後約30年経つが、答えられなかった質問はひとつも無いと述べる[5]。日本で活動する理由は、日本人が仏教を何も分っていないと思ったからであり、一方、駒澤大学時代における学生との交流から、日本人は躾がされていて性格的にはしっかりしており、納得のいくことを言われればきちんと実行するので、難しい仏教でも頑張れば出来る人々だと思ったからだと述べる[5]。
著書『怒らないこと』に関しては、本書は「怒りがあってうまくいかない」という相談への答えとして書いており、「怒ってはいけない」ではなく「怒りとは何か」「何で怒るのか」を論理的に分析してみせており、それが分ると自己管理が出来るようになると述べる[5]。日本人は決断や心のコントロールが失われてきていると思うが、仏教を学べば怖くないことが判ると述べ、怒りの問題が最も分りやすく、怒りと戦うと他の弱みは全部消えると述べる[5]。人間は弱いため、厳しく極限的に言う必要があり、それを計算して書いており、言葉が荒っぽい・乱暴だと指摘されるが、それは全部敢えて意図的に入れており、指摘されても「ほら当たったぞ」という感じであり直そうとは思わず、論理的・知識的に本質を批判できないことを知った上で書いていると述べる[5]。
道徳に関しては、仏教では、自分が他人にしてほしくないものが非道徳・してほしいものが道徳であり、一切の生命を慈しむことこそが全ての人間の問題の解決策だと説く[12]。
怒りは、自分も他人も破壊してしまいます。いやなことをされて、「憎しみをもつのは当然だ」といって怒りをいだけば、その怒りによって、さらに自分が苦しくなります。腹を立てたとき、いちばん最初に怒りに汚染されるのは自分自身です。腹を立てて、だれが不幸になるかというと、憎しみに満ちている自分自身なのです。心は汚れ痛んで、悪い報いをまず自分が味わってしまうのです。怒って相手を攻撃しようとしても、相手はそれによって困ることもあるし、まったく困らないこともあるでしょう。しかし、自分が怒りで汚染されることだけはたしかなことです。 あなたが、ある人を憎んでいるとします。しかし、相手はあなたが憎んでいることを知らなければ、相手にとっては、どうってことはないのです。あなたの怒りを知っていても、気にしなければ、それだけのことでしょう。怒るのは、汚物を投げつけるようなものです。投げつけるためには、まず自分がその汚物を手に取らなくてはなりません。自分で自分の手を汚すのです。汚物を投げつけても、相手がひょいとよけたとしたら、汚れるのは自分だけです。さらに、人を憎むと、憎んでいる相手と、いつもいっしょにいることになります。憎んでいる相手が、いつも心のなかにいて、いつも思いだされるからです。だから、ますます苦しむことになります。衣服に一つの小さな汚れがついたとします。その汚れを取るために、あっちこっち拭いて、汚れを広げる必要はありません。それは放っておけばいいのです。 そのように、相手から受けた怨みは放っておけばよいのです。たとえ相手が悪人であっても、みずからが怒りや憎しみをいだいたら、自分自身が損をするだけなのです。自分が怒りで汚れてしまえば、自分も悪人も、もうすでにどこか似ているのです。
「キリスト教の「聖書」にも、こんな話があります。律法学者たちが、イエスの前にある女を連れてやってきました。それは姦通の現場で捕らえた女でした。かれらはイエスに「姦通した女は石で打ち殺せと、律法(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。イエスは、こう言いました。「あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。すると、一人また一人と立ち去って、その場に残った者はイエスと罪を犯した女だけになりました。そして、イエスは言います。「わたしはあなたを罰しない。帰りなさい。もう、罪を犯してはならない」と。「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。自分のことをかえりみずに、他人を責める生き方をしているのです。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「スリランカでは、在家の方がわたしたち僧侶を礼拝します。その姿を見ると、出家と在家では、大きな差があると思うかもしれません。でも、日本の人が思うほどに、在家と出家の差はないのです。わたしの子どものころは、在家のおばあちゃんたちがわたしたちを叱って、立派な僧侶になるように教えてくれました。そのおばあちゃんたちは、わたしたちの振舞いに間違いがあれば、今でもわたしたち僧侶を叱りつけたりします。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「人は、自分の欲も怒りも可愛いものです。自分には正当な理由があって怒っているのだと正当化さえします。人にとって怒りと欲は、自分の心に咲いた花のようなものです。しかし、いつまでももちつづけるのではなく、それは捨てたほうが安全なのです。わたしたちは、怒りと欲によって心身が消耗しています。怒りは余計なのです。 いつも「戦わなくてはいけない」「負けるものか」という気持ちでいる人がいます。どんな話をしても否定的な意見ばかり述べ、いつも相手を批判しています。ふとしたことばにも怒気が含まれ、つねに周囲に威圧感を与え、恐怖感をまき散らします。だから人と無用な争いを起こすのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「よく食べすぎる人がいますが、ストレスがたまってイライラするから、それを解消しようとして無意識に食べてしまうのです。ゆっくり時間をかけて食べると、体に必要なものが入っただけで満足感が得られるようになります。やせすぎの人も太りすぎの人も、ちょうどよい状態になっていきます。こうして体自体が必要としているものがわかってくると、不必要なものは自然に食べたくなくなります。ですから「わたしは菜食主義で肉は絶対に食べない」などと思う必要はありません。主義に固執しているとそれがストレスになって、頑固で落ち着きがなくなってしまうからです。頭では菜食でいこうと思っていても、心は肉や魚を欲しているので、無意識にストレスがたまってしまうのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「この食事の瞑想をしてみると、今まで発見できなかった味がわかってきます。ご飯だけでも、噛むたびに味が変わっていきます。高級グルメをさがし求めなくても、ニンジンをそのまま食べてみれば、びっくりするほど美味しく感じられるでしょう。野菜そのものの味がして、とても美味しいのです。野菜の青臭さとか、苦みとか、素材そのものの本来の味を味わってみてください。ゆっくりと丁寧に食事をしていると、最初はいらだちがでてくるかもしれません。しかし、それでも実践してみるのです。それができるようになれば、人生のいらだちまでもが解消されてゆきます。このような日常の些細なことから落ち着きを体得していけば、いつでも人生を落ち着いたものとすることができるのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
わたしたちは、「ないもの」を「ある」と思い、「あるもの」を「ない」と思っています。価値があるものを価値がないとして、価値がないものを価値があるとしています。 経典にはこういう話があります。生まれつき目の見えない人がいました。ある男が、その人にとても醜い汚れたボロの服を差しだして、こう言いました。 「この服は世界でもっとも美しい服です。高価なもので、大切に使わなくてはいけません。生命をなくしても、この服だけはなくしてはいけませんよ。それくらい価値があるのです」 かれはその話を信じて、その服をいつも大切に着ていました。あるとき、かれの姿に哀れみを感じた医者に助けられ、かれの目は見えるようになりました。目が見えたら、自分が世界一美しいと思って着ていた服は、汚れた粗末なものだったということがわかりました。かれはなんの未練もなく、その服を脱ぎ捨てました。
わたしたちの人生もまたかれと同じです。ボロの服を身にまとい、それを美しい服だと思い込んで暮らしているのです。その服が意味するものは、まさしく「自我」です。自我があるために、わたしたちは自己と他人を区別して、自分を大きく見せようと競争します。それが争いの原因になるのです。 自我が消えてしまえば、相手が自分よりも劣るとか、立派だとか区別して競うことはなくなって、心は穏やかになるのです。自我がなくなるといっても、あったものがなくなるわけではないのです。じつは、もともと自我というものはなかったのです。自我の働きは、「自分がもっとも大切で偉いのだ」という思い込みです。そこが問題なのです。
「「わたしはすばらしい」と思っていると、人間というものは、どんどんと傲慢になってしまいます。自我をだしたとたん、心の成長が止まるのです。それを恐れて出家のあいだでは、このような儀式を行なうのです。たとえばわたしなど、こうして袈裟を着て人前で説法などをしますと、さも立派な坊さんのように勘違いされることもありますが、日常生活の至るところで、自我がでてきます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
電車が混んでいれば、「もうちょっと奥へ詰めてくれれば楽に立てるのに」と思ったり、地下鉄の出口を間違えたら、「わたしはなんてバカなんだろう。出口の名前を覚えておけばよかった。それにしても地下鉄の会社は、どうして看板にちゃんと書いておかないんだ」などと思うわけです。人間というものは、そんな程度なのです。「わたしは、ろくでもない。大したことはない。よく間違いをする」ということを、よく知っておくことが大切なのです。
「成長は自分では気がつかないものです。ちょうど植物の成長のようなものです。種から花が咲くまで、瞬間瞬間にはわかりませんが、確実に花は咲いていくのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
仏教では、この「自我」こそが、苦しみを生むおおもとになると説いています。そこをもう少し、詳しく見ていきましょう。 「かれがわたしに挨拶をしなかった」という場合、たんに「挨拶をしなかった」というだけのことです。ところが、「わたしはかれの上司だ。だからかれはわたしに挨拶をするべきなのに、挨拶しなかった。けしからん」ということになりますと、そこに苦しみが生じます。それは「わたし」という思いが、争いをつくってしまうわけです。ですから安らぎを得る道は、この「わたし」という思いを捨てることにあります。 わたしたちの心は、外からさまざまな情報が入ることによって、瞬間瞬間に動きだします。外からの情報が入る窓口は、眼・耳・鼻・舌・身・意と六つあります。目には色、耳には音、鼻には香り、舌には味、体には熱さとか硬さなどの感触、頭にはいろいろな概念が入ってきます。情報に触れたときに、わたしたちは、そこにさまざな価値判断を入れてしまうのです。
たとえば、音が耳から入ります。それは、たんなる音です。しかし、わたしたちは、「心地よい」とか「耳障り」だとか、主観的な価値判断を入れます。そうしてそこから、「わたしをいじめている。非難している」とか「仕返しをしなくては」というふうに、妄想がふくらんでいくのです。それが煩悩の働きです。 この煩悩の働きを断つには、外からの情報を得たとき、「ただ音だけ。ただ色が見えただけ」と観ていくのです。そこに「わたし」というものを入れないのです。
一切の事物に、「わたし」というものを入れない。それが、煩悩の働きを断ち、明らかな智慧を生むことになるのです。心を清らかにするには、特別な山中で修行する必要はありません。歩いていても、料理をしていても、電車に乗っていても、いつでもどこでもできることなのです。とかく、わたしたちの心は、ちょっとしたことで感動したり、悲しくなったり、暗くなったりしてしまいます。それは自動的な反応であったり、他人や外部から操られているようなものです。それは、不安定な浮わついた心です。
「わたしたちは、人の過失を指摘するのが大好きです。それは他人の過失を指摘することで、「自分は正しい」と思いたいからです。「あの人は嘘つきだ」というとき、「自分はあの人と違って正直者だ」と思うのです。自分をだまして、気分よく生きているわけです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
立派なかぶりものにだまされてはいけません。大会社の社長とか、一流大学の教授と名乗ると立派な人格者と思われます。しかし、それらは所詮はかぶりもので、中身は普通の人間かもしれません。宗教の世界でも、立派な法衣を着ていて、あたかも聖者のように振舞っていても、ほんとうの姿は違うということがよくあります。人間に必要なことは、外のかぶりものではなく内の心の清らかさです。心の清らかさとは、嫉妬・憎しみ・怒り・貪りなどで心が汚れていないことです。仏教では「捨てろ、捨てろ」と言います。それは「一切のかぶりものを取りなさい」ということなのです。
「自分は愚かだということに気がついている人は、日々学びます。その人は、けっして愚かではありません。 愚かな者は、自分にありもしない尊敬を得ようと願う。 修行僧らのあいだでは高い地位を望み、僧院にあっては支配権を望む。(七三) 愚か者の特徴は、自分が賢者に見られたいということです。そういう人にかぎって有名な先生につこうとします。偉い先生のそばにいることをありがたがるのです。「」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「「自分はなにも知らない」として学びつづける人は、かならず花が咲きます。人はいつ学ぶのが終わるかというと、それは死ぬ瞬間です。「学ぶのは死ぬまで。教えてもらうのは死ぬまで」。インドにはそういうことわざがあります。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
「他人の幸せを願うことは、自分の心を喜ばせることになります。そして相手の心も喜びます。人の心が喜べば、同じ波動が自分に返ってくるのです。 人を祝福するとき、お互いがいい気分になります。祝福するほうも気持ちがいいし、されるほうも気持ちがいい。ともに喜び合えるのです。それが慈悲の働きなのです。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
慈悲の瞑想とは、どんなときにも心のなかで「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものです。まず「自分の幸せ」、つぎに「親しい人の幸せ」、そして「親しくない人の幸せ」「嫌いな人の幸せ」「自分を嫌っている人の幸せ」、最後に「生きとし生けるものすべての幸せ」を念じるのです。そして、できるだけ怒らないようにしていかなければなりません。ひとたび怒ったならば、慈悲の心はたちまち消えてしまいます。 「わたしを嫌っている人も幸せでありますように」「わたしが嫌いな人も幸せでありますように」と念ずるときには、やはり腹が立ったりするかもしれませんが、がまんして念じるのです。するとそのうちに、「あの人も、この人も幸せであってほしい」という気持ちになってきます。「みんなが幸せであってほしい。どうして、あの人たちは苦しんでいるのだろう」と、他人にたいする心の視野が広くなってくるのです。慈悲の瞑想が深まっていきますと、親しい人の幸せを念ずるときには、どんどん人数がふえていきます。
「犬に吠えられて怖くなった子どもは、どんな犬を見ても怖くなってしまいます。おいしい食べ物は、たびたび食べたくなります。小さいころ、本を読んで感動したら読書家になります。ちょっとしたことでも怒る癖がついたら、さまざまなところで人間関係の問題を起こして苦労することになります。いったん悪い癖がついたら、どんどんそれが強化されていくので、不幸になってしまいます。よい癖をつけた人びとは幸福になっていきます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
お釈迦さまのことを「如来」といいます。如来の徳の一つは、かならずみずから実践したことを人びとに語っていることです。みずから実践していないことを語ることはないのです。お釈迦さまを模範とするのであれば、わたしたちも他人に言うばかりではなくて、みずから実践しなくてはなりません。自分の子どもにたいしても、だれにたいしてもそうです。 生きるということは、たいへん苦しいことです。逆境に遭うと、悲しみにおちいってしまうこともあるでしょう。でも、お釈迦さまのことを念ずると、自分に負けてはいけないという気持ちになります。
一般的には、勉強すれば頭がよくなると思われています。しかし、現代人は情報や知識を詰め込むだけですから、かえって頭が悪くなっています。なんのために知識や情報を蓄えるのか、ということを考えずに詰め込んでいるからです。それでは、結局のところ、なにもわかっていない。だからといって、「なにも知らない」とも言えないのです。頭のなかはなんの役にも立たない知識が雑然としているだけなのに、「知っている」と思っているわけです。余計な知識によって、ものごとを明晰に見ることができなくなっているのに……。
「智慧があるということは、「明晰である」ということです。特別に「なにかがある」ことではありません。じつは「特別になにもない」ことなのです。「心のなかになんの価値判断もない」ことです。ある価値判断や、特定の主義とか考えを強くもっていると、それにあてはまるものしか見えません。あるいは、なにかの知識にしがみついていると、それで頭がいっぱいになりますから、他のものが入らなくなってしまいます。」
—『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ著
インドの人びとにとって、花はとても大切なものです。花はご飯を食べる行為と同じように、日常生活でとても重要な役割をもっています。たんなる鑑賞のためだけではなく、神さまに捧げたり、体の健康のためにも使われるからです。 花は見た目の美しさとともに、香りが大切にされます。ジャスミンの花などはとても香りがよいので、さまざまな儀式にも使われます。また、体の調子が悪いときには体に花をつけて治したりもします。悪いエネルギーを体から外に出すために、花をお茶にしたり、ベッドに敷いたりするのです。 たとえば、ジャスミンの花でつくったレイを首にかけると目の疲れが取れます。また花の香りは心身をリラックスさせます。柔らかい自然な香りは、心を穏やかにさせ、怒りを鎮めます。 そのように、花の美しさは香りと結びつくことで、心身を癒してくれるのです。もしも、美しい花が、美しいだけでよければ造花でもよいことになります。 同じように、どんなに美しいことばでも、どんなにすばらしい真理のことばにしても、日常生活の中で役立てることができなければ、それは香りがない花のようなものです。 -
Posted by ブクログ
仏教の伝道師、アルボムッレ・スマナサーラ師によるアンガーマネジメント本。『怒り』には様々な状態があてはまり、一般的に想像する『怒り』の他に「嫉妬」「軽視」「後悔」「物惜しみ」なども『怒り』に分類されるとのこと。
「怒り狂った状態」よりも、「些細なことに反応してイライラする状態」に対してマネジメントしていく心構えが書かれていると感じる。毒舌感がありながらもやさしさに溢れ、また、知性とユーモアも感じられた。
穏やかに、そして他者に対して、自分に対しても寛容に構えようと思わされる。
『怒り』の状態は損だし、不機嫌でいるよりも、機嫌よく構えていた方がハッピーであり、良いこと、良い人を「引き寄せる」のは実感する。日々精進! -
購入済み
普段の生活に
心の迷いがあり仏教を読んでみようと読みました。普段の生活、会社生活とどちらでもいきる言葉が、ありました。4ページ読むとまとめの言葉がありわかりやすく心に入ってきました。ありがとうございました。
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Posted by ブクログ
基本自分は怒らない方だと思う
怒りゲージが10でも そこまでキレないし…基本淡々と話して終らせる
ほとんどの人が気づいていないのが…
怒ったりキレたりしても何も問題は解決しないということ
解決しなかったり、悪化したり、長引いたり、決裂したり
ほぼ良くなることは無い。
怒りは すべてのバランスを崩す
でもなぜ人間に【怒り】が存在するかが書かれている
自分で【怒らない方】と思っているが
実は怒りには何種類も怒りがあり
小さいものでは【はぁ…退屈】と思うのも怒りの一種らしい
この内容を少しでも理解し心がければ
少しずつでも ホッコリと暮らせるはずだ。
※だから結局俺が何を言いたいか言うと
【子供の頃に兄や従兄弟がラジコンで遊んでいて、ラジコン持ってない俺はそれを眺めていたら、父親が「買ってきてやる!」と言って買ってきたのがウルトラマンの怪獣 レッドキングのラジコンだった…なんで俺だけ二足歩行なの?】ってこと!!
(これも怒りでしょうか…)