高橋昌一郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『理性の限界』なんて言われると、私なんかはブチ切れてしまう手前の精神状態なんかを想像してしまいます。
実際は、哲学の世界で「最高の理論だ!」と思われていたものがそうではない、といったことを、いろんな工夫を凝らして面白おかしく素人向けに説明してくれています。
いろんな工夫の一つが、それぞれの世界を代表して「出演」してくれている人たちです。しかし、きっと高橋昌一郎は出演者の中では「カント主義者」が一番好きなんじゃないでしょうか。落語のくまさんみたいな感じ?
説明内容としては、やっぱりよくわからないというか、感覚としてはそう思ってたけど証明されてもねーという感じです。しかし、パスカルの『パンセ』から「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めること」はなんというか腹に落ちました。 -
Posted by ブクログ
「理性の限界」に続いて、同著者による「知性の限界」を読んでみる。
「理性の限界」が、社会科学、自然科学、論理学を中心とした議論であったのに対して、こちらは、基本的には哲学の議論、でときどき複雑系、宇宙論、進化論がでてくる感じ。
中心となる哲学者は、ウィトゲンシュタイン、ファイヤアーベントかな?
とくると、分かる人には、なんとなく想像がつく内容かな?
個人的には、「理性の限界」以上に、どこかで読んだ話しが多かった気がする。(ウィトゲンシュタインとか、複雑系とか、宇宙論とかをここ数年かなり読んだので。。。)
けど、様々な立場の人による架空のディベートという形式をとっているので、多角的に理解出来る感じがして、良かったかな?
欲を言えば。複雑系や宇宙論に関するところは、もう一ひねり欲しい気もする。
というのは、無い物ねだりだろうな。
扱っているテーマの幅広さ、難しさから考えれば、すでに相当のレベルのエンタテイメントを実現していると考えるべきであろう。
哲学に興味なくても、最近の自然科学がとんでもないところにいっているか文系的に知りたい人には推薦できる。 -
Posted by ブクログ
課題図書。二冊目。
人間は全ての問題を理性的に解決し得るか。
ハードな一冊だった。
序章でどのような議論をしたいかをさっと見てゆき、選択の限界・科学の限界・知識の限界と、それぞれのパートに分かれていく。
正直、読解出来たとは言えない。
が、万能である存在などない、ということか。
例えば合理的選択にしても、誰が不利益を被るか、どのような見方をするかによって、不合理な結果が出てくる。
科学も、シュレーディンガーの猫のように、観察されなければ可能性の振れ幅があること。
また、観察すると言っても、人の目には限界があって、そうした世界の推論を確定することは難しいということ。
論理的には如何なるものも真か偽かに分けることは出来ず、クリティカルに詰めていっても破綻する矛盾、ランダムがあるということ。
これらが副題である「不可能性・不確定性・不完全性」と結びついているのだと思う。
ここからスマートなレビューが出来ない所が、私の浅さなのだけど(笑)
各専門家の語る内容には、専門家故の自負と視点の固定がある。
そこには知識への自信があって、反面、その方面に特化した知識しかないという苦しさもある。
そういった人達の語りを読んでいると、絶対的な価値観?というのはないんだなぁ、という非常に手前の部分に気付かされる。
専門であることは、その道を裏返されたくない思いというのがある。
けれど、その思いが事実を隠してしまうことがある。これが、天動説と地動説のパラダイムシフトに関係してくるように、いつも思う。
理性の限界とは具体的に何を指していたのかは分からないけれど、限界があることを弁えることで、壁を見通すことが出来るのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
相変わらずの縦横無尽な知的デフォルメ劇場。
前作よりもやや散漫な印象もあるが、要再読。
◯言語の限界
科学は言語の問題に集約されるのか。
・ウィトゲンシュタインのパラドックス
「規則は、それに従う行動を決定するもの」だが、有限個の観測事例から読み取れる規則は一意に定まるとは限らないので、「規則は、それに従う行動を決定できない」
・指示の不可測性
「語が何を指しているのか」という問題を追究するとき、言語を用いて答え続けるしかなく、どこまで適用範囲を狭めて問題に答え続けたとしても、その言語が言語外世界の特定の対象に対応していると確定することができない。
・翻訳の不完全性
「指示の不可測性」と同じく、ある現地語に関するすべてのデータが与えられたとしても、その現地語から母語への翻訳は一意には定まらない。
・理論の決定不全性
観測可能なすべてのデータが与えられたとしても、そのデータと合致する理論は一意には定まらない。
・観察の理論負荷性
「観察」は常に一定の「理論」を背負っている。誰もが自分の持つ「理論」を背負って「見て」いる。
◯予測の限界
・帰納法の限界
・反証主義
・複雑系とべき乗法則、大数の法則
◯思考の限界
・トリプルアルファ反応、原子結合エネルギーの微調整から想起される人間原理
・不可知論 -
Posted by ブクログ
『理性の限界』、『知性の限界』、『感性の限界』という限界三部作を書いた高橋先生の著作。『知性の限界』の書評で好意的な中にも「もしかしたら(『理性の限界』の)出がらしかもしれない。」と書いたら「出がらしではないです」とTwitterでコメントされてしまったといういわくもあるのを思い出しながら読んだ。
本書でも、限界三部作でも使われたディベート形式が用いられている。自身の授業でもディベート形式で進めているというが、きっとこのフォーマットがフィットするのだろう。このフォーマットには、自身の主張やスタンスを明確にせずに進められるというメリットがある。一方、それはデメリットでもある。何となれば、内容としてサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』の劣化版のように感じることもあった。
語られたテーマは、「鶏屠殺の授業」「韓国の犬食文化」「代理出産」「死刑」「性犯罪者の権利」「売春」「安楽死」など。こう見ると、哲学とは生命を巡る倫理の話だとわかる。生命も人権も自明のものではない、まずはそこから始めるのかどうかが倫理的には大きな分岐点のように思われる。そして、そこが自明であるとすると、ディベートはちっとも面白くない。「倫理を論理する」とのことだが、果たしてその目的は果たせられたのか。倫理を論理するというためには、ディベート形式ではそこに届かないのではないだろうか。