堀井憲一郎のレビュー一覧
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内容はまさにタイトル通りの本。
最近追い詰められて、神経過敏になっている社会や日本人や私のような人には、肩の力が抜けてしっくりくるものだ。
全9章あるタイトル、例えば「第5章 子供の名前を自由に付けてはいけない」や「第6章 無縁社会はみんなの努力の結果である」というのは本当に納得できる。科学に対する批判はパラダイム論とも違い、「正義を放棄してみよう」という程度の意見だとも思う。
日本の政治や外交が2流だとも3流だともいうのは、政治家個人の素質に依拠するのではなく、日本人の政治と外交の意識が2流であり3流である証左なのだけど、そうえいば、外交1流国というのは結局人情が死滅した世界に住んでいる国だ -
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ネタバレもはやインパクトのあるタイトルで勝負!ってのは新書界での常識なのでしょうか。
非常に社会学的で、各年代の若者たちを追った内容は単純に興味深かった。雑誌アンアンの1983歴史的宣言が、クリスマスを「パーティー」から「恋人たちの夜」とするクリスマス・ファシズムの走りだとか。ホームドラマが衰退し、トレンディドラマが台頭してきたあたりに若者はアウトドア派(サーフィン、スノボ)とインドア派(オタク)に二分されたとか。1997年、若者が携帯電話で覆い尽くされてしまったとか。例を挙げたらキリが無いのだが。
自分のお誕生日に、いったいいくつメールが来たか。そのメールの数で「いま存在する世界の中 -
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落語から覗える江戸の「気分」を追体験してみよう!という本。
一昔前に「週刊文春」を時々読んでいた(最近はほとんど買わないなぁ)が、この人の連載「ホリイのずんずん調査」は「はぁぁ」と体中脱力するほどクダラナイことを調べ、そのクダラナサのあまりについつい読んでしまう欄であった。「テーマパークのアトラクションの待ち時間」だの「チョコ菓子をいくつ買ったら当たりが出るか」だのをとにかくひたすら調べるのである。今でも連載は続いているらしい。ある意味、すごい欄なんである。
で、そんな「ずんずん調査」風のテイストもちょっと盛り込みつつ、数々の落語から、現代人がなかなか嗅ぎ取れない江戸時代の「空気」をすくい -
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ネタバレ堀井氏の著書は、他に『若者殺しの時代』を読んだことがあります。『若者殺しの時代』は、雑誌やテレビ番組の分析を通じて、80年代とはどういう時代だったのかを検証するユニークな一冊でしたが、今回ご紹介する『落語の国からのぞいてみれば』も手法は一緒。落語の作品を分析することを通じて、江戸時代とはどんな時代であったのかが検証されます。
堀井氏の真骨頂は、メディアの中身に分け入りながら、自らの身体感覚を通じて、その時代の空気感を浮かび上がらせていくことにあります。本書でも、縦横無尽に落語の作品世界に分け入っていきながら、同時に、実際に京都まで徒歩旅行を試みるといった身体を張った検証作業を通じて、江戸時代 -
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[ 内容 ]
クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。
そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。
「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうすべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。
若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった―80年代に謎あり!
ずんずん調べてつきとめた。
[ 目次 ]
第1章 1989年の一杯のかけそば
第2章 1983年のクリスマス
第3章 1987年のディズニーランド
第4章 1989年のサブカルチャー
第5章 1991 -
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[ 内容 ]
時間の感覚、死生観、恋愛と結婚、酒……
今の暮らしは、どこかヘン!?
江戸を向いて歩こう!
恋愛こそすべてという圧力、名前に対する過剰な思い入れ、死んだらおしまいと言えないムード……どこか息苦しくないか?
落語のなかに生きる人々の姿から、近代人のおかしさを撃つ!第1章 数え年のほうがわかりやすい。
[ 目次 ]
第2章 昼と夜とで時間はちがう
第3章 死んだやつのことは忘れる
第4章 名前は個人のものではない
第5章 ゼニとカネは別のものである
第6章 50両で人は死ぬ
第7章 みんな走るように歩いてる
第8章 歩くときに手を振るな
第9章 生け贄が共同体を守る
第10章 相撲 -
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「80年代、女の子がお姫様になった」
文章が軽妙で時代の軽さによく合っている気がする。そんな文体なのに、どこかバッサリと斬られるような感じがする。伸びよう、広がろうとするのにバッサリと斬られるような。読みながら、その時代の若者をイメージしながら読んでいると、確かに殺されているような気分になる。
バブルを通して、「若者」までもが市場として意識されたということだろうか、名前をつけられた途端にそれは世界の中に位置づけられて絡め取られてしまう。
バブルで生まれた金の多くが女性に捧げられ、女の子がお姫様にまつり上げられた。男の子はお姫様に好かれエッチできるように本を買い服を買い自分を磨いた。
大 -
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まず、文章が流暢で読み心地が良い。言い回しが面白い
>昔の雑誌を介して怒られるのは理不尽なのだが、怒ってる内容は正しい。
>女性に怒られるときは、いつだってそうだ。入り口は間違ってるんだけど、指し示しているポイントが恐ろしいほど正確なのだ。何も言い返せない。
>第一陣の逃亡者たちは、ほとんど捕まってしまい「ニート」という立派な名詞が与えられてしまった。いまは構成しろと監視されている。
>あきらかに逃亡する前よりも扱いが悪くなっている。次の逃亡は慎重にやったほうがいい。
とかね。
目の付け所が面白い。
多くの人が見過ごすであろう、社会の変化から独自の分析・持論を展 -
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この世代の3年は大きいと他の人が書いていたが、本当にそう実感して来た。個人的な感覚をグラフにすればU字状に左翼傾向から右傾化に移っていく底の部分が1960年生まれで、堀井氏58年組はやや左翼的情熱が文中でも記されるようにあったが、60年組ぐらいになると“先輩方”の“転向ぶり”に白けつつも理解できなくもないわなと漂流していたが、61、62年生まれになると左翼の影響など感じられない、というかそんな事に興味を持たずにひたすら自分の衝動に気が向いていたようで、校内破壊とか暴力への形となっていったのを当時見ていた。そんな事したって意味ないのにと60年組は眺めていた。つまり尾崎豊の世界は61年組以降の世界