飛田茂雄のレビュー一覧
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比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルとジャーナリストのビル・モイヤーズによる対談をまとめた一冊。キャンベルは世界各地の神話や宗教、文学を比較し、文化や時代を超えて繰り返し現れる神話の共通構造を研究した人物。特に、英雄が日常世界を離れ、試練を経て変容し、再び帰還するという「英雄の冒険」の構造を論じ、後世の文学や映画にも大きな影響を与えた。
一方のモイヤーズは、長年テレビ・ジャーナリズムに携わってきた人物で、本書はキャンベルが一方的に神話学を講義するのではなく、モイヤーズが現代社会や私たち自身の人生へと議論を引き寄せながら問いを投げかける対話形式になっている。そのため扱われる範囲は、ギリシア神話やキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、アメリカ先住民の神話などにとどまらず、結婚、愛、成人、仕事、芸術、死、さらには現代社会における生き方にまで広がっていく。
本書でキャンベルが語ろうとしているのは、神話を「昔の人々が信じていた物語」として学ぶことではない。文化や時代が異なっても、人間は誕生し、成長し、親から離れ、社会に入り、愛し、苦しみ、何かを失い、やがて死ぬ。神話とは、そうした人間に普遍的な経験を、物語と象徴によって意味づけてきたものなのであるということである。
① 神話は、個人・社会・宇宙をつなぐ
本書の第一の重要な命題は、神話が個人の人生を、それより大きな社会・自然・宇宙の秩序へと結びつける働きを持つということである。
伝統社会に存在した成人儀礼や結婚、死と再生、英雄の冒険といった神話的モチーフは、単なる空想ではない。それらは、人生のある段階を終えて次の段階へ進むことや、自己中心的な生き方から離れて社会の一員となること、愛する者を失うこと、自らの死を受け入れることなど、人間が避けることのできない経験に意味を与えてきた。
そのため、文化も宗教も異なる世界各地の神話に、驚くほど似た構造が現れる。表面的には異なる神々や英雄の物語であっても、その奥には人間に共通する経験がある。神話は大昔に語られた誰かについての物語であると同時に、いま生きている自分自身についての物語でもある。
② 神話は、人間に「自分の人生を生きる」ための方向を示す
第二の命題は、神話が単に世界を説明するものではなく、人間が自分自身の人生をどう生きるかに関わるものだということである。
その象徴が、本書で繰り返し語られる「英雄の冒険」であり、キャンベルの有名な言葉「至福に従え」である。
英雄は、それまで属していた安全な世界から離れ、未知の世界へ踏み出し、試練を経験し、変容して帰ってくる。この構造は英雄伝説だけのものではない。成人すること、仕事を選ぶこと、愛すること、家庭を築くこと、挫折すること、喪失を経験することなど、私たち自身の人生にも繰り返し現れる。
「至福に従え」とは、単純に好きなことだけをして生きろという意味ではない。社会から与えられた既成の道だけを歩むのではなく、自分の内側にある生命の方向を見つけ、その人生を引き受けることを意味している。そうして自らの人生を生きるとき、人は自分の生涯を一つの物語、あるいは本書のあとがきで語られるような「一編の詩」として経験できるようになる。
③ 神話が最終的に指し示すのは、有限な人生の中にある「永遠性」である
そして本書の議論が最終章「永遠性の仮面」で到達するのが、時間と永遠性の問題である。
キャンベルにとって永遠とは、時間が無限に続くことではない。過去から未来へ延々と続いていく時間の先に永遠が存在するのではなく、永遠とはそもそも時間を超えた次元であり、私たちが生きている「いま、ここ」に存在する。
人間は時間の中では、一人の有限な存在として生まれ、他者から分離し、変化し、やがて死ぬ。しかし愛や他者との深い関係、喪失、至福といった経験の中で、一瞬、自分と他者という分離を超えたものに触れることがある。キャンベルが語る永遠性とは、死後のどこか遠くに存在するものではなく、こうした有限な生のただなかに垣間見える、時間を超えた次元なのである。
そして、ここに「永遠性の仮面」という題名の意味も見えてくる。神々、英雄、宗教、愛、生と死など、世界の神話が示してきた姿は文化によって異なる。しかし、それらは異なる姿をまといながら、人間が有限な生の中で経験する同じ根源的なものを指し示している。つまり、さまざまな神話的イメージや人間の経験は、時間を超えた永遠性が時間の世界に現れるときにまとう「仮面」なのである。
だからキャンベルが最終的に求めているのは、世界中の神話を大量に暗記することではない。あとがきで強調されるように重要なのは、神話についての「カタログ的な理解」以上に、神話が指し示しているものを自分自身の人生の中で経験することである。 -
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令和になって共感者がなお増えるのでは
主人公・小野益次が自分の過去の記憶を辿る真面目な姿勢に好感を持つ。なぜだろう。
漱石の『こころ』の主人公・先生は、明治の精神に殉死した。その死は衝撃的で、読者への問いかけはあまりにも大きく、先生は「先生」という神になり読者に越えられない存在となった。
その点、読後の小野は身近だった。戦前は耽美主義的な絵を習い、戦時中にかけ軍国主義を煽る絵を描いて名声を得、戦後は画家を引退したが、時代の大きな変わり目を迎え、先生と呼ばれなくなっても、殉死せず生き続けている。過去を振り返る姿勢は、ある時は自分に厳しいが、ある時は自分の行動を肯定し美化する。信念に従って生きるという信念を持つ。その代わり若い世代を否定もせず、彼らからの批判は甘んじて受け入れる。
年を取るとはこういうことなのか。ノーベル賞作家の作品だから、小説のつくりにも注意を払おうという決意で読み始めたが、読み進めるうちにそんな意識は消えてしまい、小野の視点にずっぷりと入ってしまった。
昭和から平成を経て令和になった。社会の価値観は大きく変わっている。あらためて、この作品への共感者が増えるのではないか。 -
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原著は1981年刊。副題に「自伝的コラージュ」とあるように、自伝的エッセイ風の18の章、そこに講演会等で話したトランスクリプトがコラージュ風に貼り付けられている。
トークも緩急がついていて、実にうまい。作品だけの人ではなかったのだ。家族や親族のおもしろエピソードもたくさん登場する。
5章は「自己インタビュー」、全51ページ。もとは1977年にParis Reviewに掲載されたもの。これが鮮烈、ふつうのインタビューではない。なにしろ、intervieweeもinterviewerもカート自身。質問も、合いの手も、自分で入れてるんだもの。 -
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<翻訳文学試食会>で名前が出ていたので読んでみた。かなりの難物でした(^_^;)
第二次世界大戦中に、イタリアの近くのピアノーサ島に駐屯するアメリカ空軍部隊がある。
主人公はアッシリア系アメリカ人で爆撃助手のヨッサリアン。彼は「生き残る」ことを第一としていた。そのためには手段を選ばない!そもそも空軍を希望したのだって、長い長い訓練期間のうちに戦争が終わるだろうと思ったから。だって神様は俺達の味方らしいし、戦争はすぐに終わるんだろ。
でもヨッサリアンが前線に送られても戦争は続いている。
どんな物語か掴めず苦労した…(+_+;)
まず文章が回りくどい。
「彼のことを知っているのは、彼のことを知らない人以外の人々だった」みたいな感じ。
軍規や上官下官関係も、絡み合って矛盾し合っている。そして所属する兵士たちも気が変になってるので隊での会話も堂々巡りです。
「だれもおまえを殺そうとしていないだろ」「じゃあなぜおれを撃つんだ」「やつらはあらゆる人間を撃つだけだ」「やつらとは誰だ」「やつら全員だ」「それならなぜやつらがおれを殺さないと言えるんだ」みたいな感じです。
時系列もかなり乱れています。章立ては細かいのですが、その章の中でも時間は行ったり着たり、そして一つの事柄があとになってまた語られ、その後また語られ…。ちゃんと読めば事の真相が多角的に見えてくるはずですが、上に書いた通りにかなり分かりづらい文章なので、私には理解できないことばかり…(-_-;)
題名の「キャッチ=22」とは?
ヨッサリアンが所属する空軍部隊には「責任出撃回数」が決まっていた。ヨッサリアンだって最初は真面目に出撃していた。でも軍には絶対の軍規「キャッチ(落とし穴)=22」があるのだ!
「隊員が責任出撃回数を達成したって?それなら倍に増やそう☆」となるのがこのキャッチ=22。
隊員たちが「命懸けで何度も出撃して頭がおかしくなった」と戦闘任務免除願いを出す。すると狂人の彼は出撃を免除され…ないんですよ。「免除願いを出すということは、危険を認識しているということなので、彼はまともだ!」として、またまた出撃しなければならない。するとまた頭がおかしくなるので免除願いを出し、するとまた「正気だ」と判断され…、るのがキャッチ=22。
こんな部隊にいるので隊員たちもすっかりおかしくなっている。
●ハングリー・ジョーは、責任出撃回数を達成するためにかなり頑張って出撃していたのだが責任出撃回数増やされてゆくので、毎晩悪夢に雄叫びを上げながらも、自分が危険でないと安心できない精神状態になってしまった。
●グレヴィンジャーは、行進で躓いたら「隊列を乱し、無分別な行動をし、挑発的な大逆罪だ」として軍法会議にかけられてしまった。
●マイローは卵やソーセージ調達で特権を得ている。
●ドプスは何度も何度も責任出撃回数が挙げられることに怒り「キャスカート大佐をブッ殺そうぜ!」と息巻く。
●オアは「リンゴほっぺになりたいんだ」とリンゴを頬張っている。彼が乗った機が海に不時着した時は積み込んである救急用品を使いまくって、釣りをしたり、同乗者にはお茶まで振る舞っていた。(これはおかしいヤツというより、楽しいヤツ?)
●スナーク伍長はマッシュポテトに石鹸を潰して入れた、が、みんなもイカれてるので気が付かなかった!?
●ブラック大尉は、なんか色んな相手に嫌がらせしている?
●キャスカート大佐は、隊員が責任出撃回数に達するたびに数を増やす。
●メイジャー少佐は、父親に変な名前をつけられたことで陰気な性格になり、軍では箸にも棒にも引っかからないためにかえって昇格した。みんなが自分を避けるので、彼もみんなを避けるようになった、ので、部下たちは作戦の報告もできない。
●ー・ド・カヴァリー少佐は、一見威風堂々とした老人だが、才能を見せたのは将校らに貸し出すアパートメント、要するに娼館…。
●シャイスコプフ中尉は兵士に行進ばっかりさせる。
●ダニーカ軍医は、兵士たちの飛行回数免除のための書類を書けるはずだけど、それをやると自分が処罰されるので「キャッチ=22」で見て見ぬふり。
このなかでも一番イカれたことをするのがヨッサリアンだった。
●「俺のテントに死人がいるぞ!」と騒ぐ。(ヨッサリアンが来る前に戦死した兵士)
●慢性的に肝臓がおかしいと入院した。(同室の一人が、人当たりのよいムカつく奴なので出てきた)
●他にもしょっちゅう入院する。(だって病院のなかのほうが病院の外より病人が少ないし、落ち着いて理由があった死を迎えられるんだ)
●「通信機がおかしい!」と騒いで基地に引き返す。(結果として懸命な判断だった)
●他の兵士や上官のテントに突撃して騒ぐ。(気持ちはわかる…)
●全裸で整列する。(搭乗者の死体を浴びたので軍服を着ないと決めたらしい)
このイカれたような行為はすべてヨッサリアンが生きて帰るための本能だった。
<ヨッサリアンは永久に生きようと、あるいはせめて生きる努力の過程において死のうと決心していた。だから空に飛び上がるたびに彼が自分に課した唯一の任務は、ただもう生きて地上に降り立つということだけだった。P55>
そのため銃撃機に乗るときも無茶苦茶な飛行をするんだが、ドイツ軍戦闘機も狙うけれどもうっかり撃てない状態?になるので、ヨッサリアンと同じ隊の飛行兵たちは(無茶苦茶なんだけど)ヨッサリアンの機に率いられて飛ぶことは好んでいた。
<それは卑しくきたならしい戦争であり、ヨッサリアンはそれがなくても生きていけた。(…略…)歴史はヨッサリアンの若死にを要求してはいないし、正義はそれなくして満たされるはずだし、進歩はそれを条件にしてはいないし、勝利もそれに依存してはいなかった。人間が死ぬのは必然のことであるとしても、どの人間が死ぬかは周囲の状況によって定まることであり、ヨッサリアンは状況の犠牲にだけはなりたくなかった。P128>
でもアメリカって戦争していない頃から無茶苦茶だったよね?ということも見える。
●ハルフォート酋長の先住民族の土地は石油が出るので白人に追い立てられ、新たな土地にも石油が出たのでまた追い立てられ、次の土地でも石油が出たので…、でもこの話は嘘か本当か分からん。
●それぞれ、性的にも相当乱れている…
これだけ無茶苦茶なこの世界、自分がまともでないとわかってるほうがまともだよね?
イカれた行為を繰り返すヨッサリアンは「あいつはそれほど狂っちゃいませんぜ」「あのきちがい野郎は、いま残されている唯一の正気な人間かもしれんぞ」(P210あたり)と言われてる。
無茶苦茶な戦場、無茶苦茶な日常が繰り広げられるうちに上巻終了しちゃったんだけど(^_^;) -
Posted by ブクログ
上巻は問答するやり取りやキャラクターの突飛な行動が面白く、ときには吹き出すくらいに笑えた。
下巻はどうなるのかと思ってたら、今度はとても怖い展開になっていく。
上巻で登場していた、前の章(とは言っても時間軸のズレはあるが)で生きていた人間たちが、呆気なく、理不尽に死んでいく。
戦場で死ぬのならまだ理解も追いつくが、なかには味方が自らの利益を生むために、その犠牲になって死んでしまう人間もいる。
上巻以上にその理不尽さは高まる。
ヨッサリアンは味方の死を伝えに行けば殴られ、蹴られ、殺されそうになったりしていて、ドタバタ感はあるものの常に死がついてくるような緊張感がある。
だが、意外な人物が最後に一発やってのけたりして、自分もヨッサリアンと共にやりやがったという気持ちになった。
暗く抜け出せない理不尽のような感覚が下巻は続いていたが、あのキャラのお陰で清々しい読後感を感じた。
めちゃくちゃ面白かった。 -
Posted by ブクログ
第二次世界大戦中、地中海の小島にあるアメリカ軍の基地から爆撃に向かう航空兵士たち。
主人公のヨッサリアンは規定の飛行回数を過ぎたにも関わらず、上官の気分で規定の飛行回数が増やされる。その状況に、このままではいつか死んでしまうと思い生き延びようと、狂ったフリをする。
しかし、そのヨッサリアンの前に軍規であるキャッチ=22が立ちはだかる。
キャッチ=22は、本当に狂った人間は狂ってることを証明しようとしないで出撃するはずである。出撃を拒否することはつまり正気である、という不条理で実態のない軍規であった。
不条理な状況に晒されるヨッサリアンを可哀想だと思うのだが、多くの軍人たちとのやり取りもめちゃくちゃで笑える話である。
読んでいると途中であれ? と思う箇所がでてくるのだが、それもそのはずで時間構成がズラされているらしい。それもあって時間構成の正しさを巡って論争になることもあるんだとか。
時間軸にズレがあることは前提知識として読んでいたほうがいいかもしれない。
基本的に群像劇のような作劇なので、自分はそういうものかっていう納得もあったが。
ただそういうストーリーを追うタイプの物語ではないので、ぼんやりと把握していれば楽しめると思う。
自分は上巻の時点で笑えるほど面白かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ名作「日の名残り」と同じように、自分なりのポリシーを持って難しい時代を生きた老人の回想という形をとっている。
老人は戦時中に、愛国心を支えるような活動をしてきた画家。一時期は高い地位を得ていた(それも本人の記憶の中だけで、実際はどうだったのか、最後の方には現実と記憶の乖離も考えられるようになっているのが面白い)。
戦後、新しい価値観が広がる世の中で、自分のしてきたことに対する誇りや反省、保身、様々な感情が入り乱れる。娘や義理の息子たちにどう思われているかも気になるし、威厳は保ちたいし…。
「時代の変化」の中で、小さな一個人が翻弄される…というほど大げさな設定でもない(戦場に行くわけでもなく、戦犯に問われるわけでもない、娘の縁談の心配をするくらい)、にも関わらず、国家に翻弄された多くの人々の姿を、鮮やかに切り取っているような印象がある。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこういう感想文を投稿するのは初めてなのでご容赦ください。以下の感想は読み終わったばかりの勢いで書いています。
最初から最後まで、画家・小野の視点で描かれている。『価値観の変動』と『生き方』に焦点を当てた作品だと感じた。私がこの本から受け取ったメッセージを以下に示す。
《価値観は時代とともに移ろい行くものだから、誰しも後になって自らの過ちに気がつくかもしれない。しかし、『自分の信念に従って、全力で生きた』ならば、それの信念が間違いであったとしても後悔はしないであろう。》
また、この作品では、とかく何かを明言するのを避ける傾向にある。しかし、多数の場面を組み合わせて、人の心の動きを鮮やかに描いていた。
以下に大まかな作品の流れを示す(完全なるネタバレです)。
戦時中、小野は〈地平ヲ望メ〉という版画作品で広く影響を及ぼした。この作品に描かれた精神は「お国の為に戦う」(だと考える)。作品は、当時の小野の信念に基づき描かれ、地域で大いに賞賛されたらしい。
しかし、終戦後にこの絵のテーマとなった精神は批判される。さらに、若者も当時の『権力者』への憎しみを曝け出す。それは、若者が『権力者』に、仲間の命を奪われたと考えるからである。
小野は、回想中に自らの過ちと、人々に与えた損害に正面から向き合い認める。価値観は移ろいゆくものであるからである。当時は良しとされていたものが、現代では悪になってしまうのである。
しかし、当時の小野が『自らの信念に従って、全力で行動した』という事実は変わらない。そして、彼は自らの過ちは認めても、当時の『生き方』には業績以上の満足感を得ていたのである。
一方、若者の言う『権力者』とは、将校・政治家・実業家達であったと判明する。そこで小野は自らが感じた責任の大きさは、自分の職業に見合っていなかったと悟る。けれども、確実に社会に影響を及ぼした者としての責任を感じ、また、自らの信念を貫いた事に誇りを持ちながら生きるのである。
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Posted by ブクログ
具体的な神話について詳細が語られるような本ではなく、インタビュアーに応える対話形式。
この本を読もうと思ったのは、令和元年を迎えるにあたって、天皇家ってなんだ?という疑問から古事記の解説本を読んで、その本のコラムに、古事記と共通する他国の神話の話が幾つも紹介されていて世界の神話の共通性に興味が湧いたのと、並行で読んでいた西洋美術の本でも、神話画がヒエラルキーの頂点とか、人間の歴史の中に神話が欠かせないものなのかなぁと漠然と思ってたところにちょうど手に入った。
神話の共通性って、人間の形、男女の違いなどが影響してたりするのをみると、ホムンクルスじゃ無いけど、身体と脳の関係性が思考に影響しているんだろうなぁとか、色々と思索ができる。
そして、この本の中で感銘を強く受けたのは、キリスト教である教授が話す仏教との親和性。
神という存在をどこに置いているかが最も違う点だと思うけど、何が正しくて、何が正しく無い、ではなくて、人間の思考って様々だし、共通項もあるねという認識が出来る。
やはり、身体の形から思考は作られるのかな?なんて。
それぞれの人が色々な示唆を受けられるのでは無いかと思う本でした。 -
Posted by ブクログ
2回目。いつも素晴らしい小説をありがとう。
初めて日の名残りを読んだ時はたまげたけど、テーマほんとうにそっくり。
日の名残りの方が華やかさと鮮やかな色彩感があって好きだけど、地味で淡々としていて暗いこちらも良い小説。
主人公のやるせなさや辛さも、周囲の気まずさや不満も、どちらも手に取るようにわかるから、読んでて少ししんどくなる部分すらあった。
今主人公を責める周りの人たち、すなわち二人の娘や素一や三宅家の人たちは、戦争中は何を考えてどう行動してたの?
主人公が先陣切ってやったことが戦後的価値観に照らし合わせれば良くない行いだとしても、当時彼ら周囲の人たちはそれを支持して尊敬したんじゃないの?
戦後「民衆は騙されてたんだ!」とかいう民衆の無責任さ、そう言いたくなるのわかるけど、でも一歩立ち止まって考えてみなよ!!!
と言いたくなる。
彼らのも、小野とは違う方向からの自己正当化の一つよね。
小野の苦悩や考えれば考えるほどねじれてしまう建前と本心、自己正当化って側から見てるとなんて痛々しいの。自分でも痛々しい自覚あって必死に隠してるんだろうな、彼は。