飛田茂雄のレビュー一覧
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カズオ・イシグロの第二作。戦後日本を舞台としていること、一人称の回想の語りによる作品であることは前作『遠い山なみの光』と同様。登場人物同士の視点や価値観のズレが読者に異和を感じさせながら展開していくことも共通しているが、大きく異なるのは『遠い山なみの光』におけるズレは未来に対する視点の違いにあったのに対して本作におけるズレは過去に対する認識のズレが描かれているところ。一人称の語りという構成上、語り手である小野の認識上の問題と事実との差分をどう捉えるか、そして語られることの背景で語られないことをどう推測するか、聞き手であり読み手である私たちの解釈の余地が素晴らしく表現された作品だなと感じる。
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戦後を舞台に、戦前、戦中に画家として活躍した小野が自身の過去を語る回顧録形式の小説。
日本を破滅へと導いた軍国主義を是とし、その信念をもって数々の絵画を発表。
当時大いに受け入れられ賞賛された価値観は、敗戦後には唾棄すべきものとして扱われる。
新しい価値観を理解し、それを認め、受容すること。
それが戦後で生きていくためには必要なのだが、価値観を変容し、新たなアイデンティティを形成するのは並大抵のことではない。
軍国主義を積極的に支持していたことに対する罪悪感、後ろめたさを拭い去ろうとする心の葛藤。
小野自身とて、もともと軍国主義など信奉していなかったのだというエクスキューズや、今や自身と袂を分かった弟子たちもかつては自分の考えを大いに支持し礼賛していたということを思い出す。
一方で、自身のかつての言動のせいで、自分の娘の結婚などに悪影響が出てしまっていることを危惧し、当時の関係者に当時のことはあたかも「なかったこと」にしてくれるよう求めたことを思い出す。
新しい価値観は認める。しかしそれを認めるとなると、古い価値観をもっていた時代に行ったこと、それに費やした時間はすべて無駄であったということになってしまう。
過去をすべて否定するのか、否定せずに受け入れることができるのか。
この小説はその壮絶な葛藤を、カズオ・イシグロの長編2作目にしてはやお家芸となる「曖昧な記憶」をもって見事に描いている。
舞台設定と表現方法は前作『遠い山なみの光』にとても近い。
戦後十数年で長崎に生まれ、その後すぐに海外に移住したというやや特殊な環境も影響しているのか、戦後という時代に特別な思い入れがあるのだろう。
また、彼が興味の対象としている、「変化する価値観の受容」あるいは「アイデンティティの崩壊と再生」みたいなテーマにとって、敗戦国の戦前、戦後というのはおあつらえ向きということもあるのだろう。
前作では女性の戦後価値観変化の受容、そして今作では男性の戦後価値観変化の受容を扱っている。
変化を受容するというのは、人格的な危機である。
事象AとBがあり、今まではAが正解でBが不正解だったものを、これからはBが正解でAが不正解となる生活を強いられる。
正解の人生を歩んできたと思っていたのが、突然、自分の人生は不正解だと言われる。これは危機である。
そこで、今までの人生を否定せず、新しい価値観を受容する必要があるのだが、そんな緊急事態に際して心が行うのは、記憶の再整理である。
矛盾する価値観に対して、それが矛盾でなくなるように、うまい具合に記憶を再整理し、整合的な記憶として、新たな価値観を自然に受け入れていく作用機序が人間の心にはある。
本作では、前作以上にその心の作用機序をうまく物語に取り込んでいるように見える。
すごい作品だと思う。
すごい作品だと思うんだけどね、私、カズオ・イシグロが描く子供が生意気すぎて受け入れられないんですよね・・・
物語上で必要な役割だっていうのもわかってるんだけどね。読んでるとビンタしたくなってくる。
たまにビンタ超えて竜巻旋風脚たたきこみたくなる。
私には受容する装置がないらしい。
それでも、素晴らしい作品なのは間違いない。 -
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あなたのやったことは間違いだ、と言われるのは腹が立ちます。間違いか間違いではないかの前に、自分以外の誰かに言われることに、まず腹が立つだろうと思います。なぜなら、間違いかどうかを決めるには「これが正解」という基準が必要ですが、その正解はどこから来るのかが人によって違うはずだからです。私が行った「何か」は、私の基準によれば正解だったのです。なのに、「あなたは間違いだ」と言われる「正解」はどこから? この本の「小野」が、娘2人から、義理の息子から、弟子から、次女の婚約相手から「間違いを犯した」と判断されたのは、小野が活躍したのが戦争中で、その後「戦後」ではなく「敗戦後」になり、「正解」が正反対になったのが原因でしょう。小野は自分の「間違い」を認めますが、でもあの時はこういう幸福感があった、またある時はこういう信念があった、と繰り返し確認しているのは、「だから自分の人生としてはこれが『正解』だ」、と思うからだと思います。ですがこのように小野が、自分はあの時「間違った」のではなくこう考えたからああいう行動をしたのだ、と振り返れるのは、その行動を取ることについて「考えた」結果だったからだろうと思われます。つまり、この本を読んで「考えた」ことは、「間違ってはいけない」のではなく、「考えずにやってはいけない」のだろうということです。そうしないと、過去の過ちを振り返ろうにも覚えていないという事態になりかねません。そして、「間違いだった」と認めた後はどうすればいいか? また「考える」ことが必要なんだと思います。
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ネタバレレーベルはSFだけどSFではないんだよね…
ある種問題作かもしれません。
(まあ仮の人物としてがSFか?)
一人の二重スパイがこの状況にまで
至るまでのお話。
結局言ってしまえば、
戦争というものは様々な憎しみの種を植え付け
どこまでも暴走していくということ。
まあそれでもこのキャンベルは
うまく立ち回ったとは思うのよ。
じゃなきゃ最初につかまった時点で
とっくに絞首刑になっているので。
そして一時の幸せであろう生活までもが
途中で暗転してしまう恐ろしさ。
それが彼にとっての「報い」だったのかもしれません。
結局は彼は望んで
延長されていた罪を受けることになります。
そうなるとどんなにすごい人でも
あっという間に牙をむいてくるということ。
それはズッ友と信じていた人まで。
戦争はむごい。 -
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第二次大戦前から画家として活躍してきた小野が、うまくいかない娘の縁談や周囲の態度から過去を回想していく。師匠の耽美主義を離れて精神主義に傾き、戦時のプロパガンダに加担し評価され、自信を深めるが、価値観が一変した戦後の日本社会で、そのアイデンティティをどう扱ったらいいか迷い悩む。
語りの中で、小野が自分の記憶の曖昧さを何度も確かめるように表現している。話の筋そのものにはあまり関係しないが、読み手としてなぜかそこにひっかかりを感じてひきこまれる。
人が過去を振り返るときの記憶の曖昧さこそが、人間らしさであり、だからこそ生きていけるのかもと思わせる。ここに焦点を当てる語りが、著者の技の一つかもしれない。 -
Posted by ブクログ
これを30歳そこそこで書いたのか!とまずそこに驚く。たしかに日本人ぽくない言い回しや思考回路、やりとりはあちこちに見られる。特に、一郎。理路整然と喋りすぎ。けれど、主人公である小野は明治生まれの鼻もちならないじいさん。そんな作者自身からかけ離れた人間の自分語りを、その年齢でこのレベルの作品に仕上げるのがすごいと思う。いかに彼に祖父母の記憶があるとはいえ、カケラのようなものに過ぎないはず。そこからこのサイズの図を描きおこす筆力を、若くしてすでにもってたんだなぁ。
功罪という言葉があるけれど、功績の大きさを認めると罪の大きさも同時に認めざるを得なくて、そうすれば必然的に罰を受けていない今の自分を否定しなければならなくなる。それができない人間の弱さ、が描かれていると感じた。
戦時の芸術家は難しい立場に立たされる。世の趨勢を読むか読まないか、その読みが正しいのか。小野の挫折を私たちは歴史の必然として知ってはいるけれど、それは後世の人間だから「必然」と断定できるもの。その歴史の途上に点として配置された人間が「見えた!」と思って描いた世界が、ピンホールから覗いた世界に過ぎないことを知っているのも、後世の人間だから。出来事が歴史の1ページにピン留めされた後なら、いくらでも非難できる。
ピン留めされる前の「浮」いて動く「世」界を「画家」として切り取るには、覚悟がいる。画家だけではなく、小説家や詩人達もそうだろう。ノーベル賞をもらった小説家が、後になって非難を浴びた例もある。その中で、功と罪を一身に引き受けて物を言う覚悟はあるか?
それを作者は自らに問うているのかもしれないと思った。 -
Posted by ブクログ
画家の人生を通して、戦前から戦後の日本における価値観の変化を描いた作品。
戦中から戦後の世情の空気の移ろいを察知した画家の、過去の自分の作品が世間に与えた影響と責任を認めつつも、時代を生きたという誇りは忘れない強さを感じる。
同じような境遇で責任を感じて自ら命を絶った作曲家との対比なども印象的ではあるが、この話から思い出されるのは藤田嗣治。
彼が戦後、この作家と同じような境遇に陥り、世間から大きなバッシングを浴び逃げるようにパリに移住したことは、時代と世論の変化の残酷さをつくづく感じさせる。
そして最近のSNSを通しての、諸々の炎上騒動についても同様に考えさせる。