プルーストのレビュー一覧
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失われた時を求めて 5~第三篇「ゲルマントのほうI」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
ある年齢にあっては、「名前」というものは、私たちに現実の場所を指し示すと同時に、私たちが名前のなかに注ぎ込んだ不可知のもののイメージを差し出すことで現実の場所とそのイメージとを無理矢理同一視させ、その結果、私たちはある都市へ、そこに含まれているはずのない魂──といって、そんな魂を名前から追い払う力はもはや私たちにない──を求めて旅立つことになるのだが、かような年代にあるとき、寓意画のように名前が個性を付与するのは町や河だけではないし、名前がさまざまな色で飾り、不可思議なもので満たすのは -
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失われた時を求めて 6~第三篇「ゲルマントのほうII」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
そうなんですよ。本当にそんな必要なかったんです。でも、結局、魅力のない人ではなかったから、あのひとのことを愛する人がいるということはすごくよくわかります。
ロベールがまったくの勘違いをしていたとは思わない。ブロックがしばしば怒り狂ったように他人を中傷するのは、自分は熱烈な好意を抱いているのに相手が応えてくれないからである。彼は他人の生活を想像することができないから、相手が病気だとか旅行に出ているかもしれないなどと考えることすらせず、ただ一週間返事がないだけでたちまち、わざと自分に -
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625P
失われた時を求めて 4~第二篇「花咲く乙女たちのかげにII」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
花の絵を描くのは心躍る気晴らしであり、もし絵筆の先から生まれる花がつまらぬものだとしても、少なくとも花を描くというのは自然の花々と交流しながら生きることであって、とくにその姿を正確に写すためにごく近くから花を見つめなくてはならないとき、花の美しさに飽きることはないと。だが、バルベックではヴィルパリジ夫人は目を休ませるために画業のほうは中断していた。
あるいは「今の時代の貴族って何なのでしょうね」、「わたくしからすると、働かない人間は何の存在価値もありません」、など -
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451P
失われた時を求めて 3~第二篇「花咲く乙女たちのかげにI」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
多くのブルジョワが保守的な人たちとだけつきあおうとして重ねる努力、将来意義ある結果を生み出すはずもなく、結局は当たりさわりのない意見だけを口にすることにしかならない努力など、自分に何かをもたらすものではないがゆえに避けて通っていいことを知っているからである。
しかし私として言っておかなくてはならないことがある。それは、ノルポワ氏の会話は、ある種の職業や階級や時代──といっても、その職業や階級に属している人たちからすれば、完全に過去のものとなったわけではない時代かもし -
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516P
失われた時を求めて 2~第一篇「スワン家のほうへII」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
こうした心の接近は、若いころなら恋愛が必然的に目指す目的であったにしても、いまはその逆に、さまざまな観念連合によって固く恋愛そのものと結びついているので、もしそうした心の接近が恋愛の前に実現していたとすれば十分恋愛の原因となりうる。かつては恋する女の心を実際に自分のものにしたいと願った男たちも、年を取れば、単に女の心を我がものにしていると感じるだけで、女に恋することができるようになる。とりわけ恋愛のなかに人は主観的な快楽を求めるものだから、女の美しさに対する好みが恋愛のも -
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376P
読むのに7日間かかった。
『失われた時を求めて』読み終わった!2年4ヶ月かかった。
私は集英社の鈴木道彦訳で13巻の『失なわれた時を求めて』を読み終えるのに、5年もかかった。
岩波文庫、全14巻、本文のみ6632ページ(誤差あるかも)を、1日50ページを目安に読んで、127日かかった。
『失われた時を求めて』は他の本を並行して読みながら半年くらいかかった。
『失われた時を求めて』は非常に長大な小説で、翻訳や版によってページ数が異なります。具体的な例を挙げると以下のようになります:
1. 光文社古典新訳文庫
•光文社版は全訳であり、全14巻に分冊されています。
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「私」は、バルベックでアルベルチーヌと「花咲く乙女たち」に出会う。
この物語を読んでいると、走馬灯のように人生の様々な出来事が思い出される。
そして、読むほどに自分の姿が露わになってくる。
もちろん、思い出すのは楽しい思い出ばかりではない、それどころか、むしろ「苦しきことのみ多かりき」なのだが、僕にとってはこの物語自体が紅茶に浸したマドレーヌの働きをしている様なのだ。/
加えて、言うまでもなくプルーストの見事なまでに精緻な恋愛心理の分析を辿っていくことには、無類の楽しさがある。
呆れるほど息の長い彼の文体にしても、一度慣れてしまえば心地良い旋律となって、ハンモックの様にそれに身を委ねること -
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マドレーヌを浸した紅茶の一口から、忘れていた少年時代の日々が色鮮やかによみがえる。あまりに有名なこの作品の醍醐味は、書き手の脳裏に次々浮かび上がる記憶の断片、全体として「コンブレーで過ごした私の少年時代」とでも題して時系列に出来事を並べることも可能かもしれないある時期の記憶を、あえて断片のままよみがえるに任せ、その、時空や地理の縛りを超えてひらひらと漂う「記憶」のよみがえる様それ自体を言語化しているという、他の作品では味わったことのない体験にあると思う。
旅先のホテルでふと目を覚ました時に感じる、自分の居場所が分からなくなる一瞬の戸惑い。寝室でひとり母の「おやすみのキス」を待つ、子供の頃の切な -
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「私」は、バルベックでアルベルチーヌと「花咲く乙女たち」に出会う。
この物語を読んでいると、走馬灯のように人生の様々な出来事が思い出される。
そして、読むほどに自分の姿が露わになってくる。
もちろん、思い出すのは楽しい思い出ばかりではない、それどころか、むしろ「苦しきことのみ多かりき」なのだが、僕にとってはこの物語自体が紅茶に浸したマドレーヌの働きをしている様なのだ。/
加えて、言うまでもなくプルーストの見事なまでに精緻な恋愛心理の分析を辿っていくことには、無類の楽しさがある。
呆れるほど息の長い彼の文体にしても、一度慣れてしまえば心地良い旋律となって、ハンモックの様にそれに身を委ねること -
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「ときどき、せっかちな時鐘が前の鐘より二つ多く鳴ることがある。間の鐘をひとつ聞き逃したのか。現実にあった何かが私のなかで起こらなかった。深い眠りにも似た、魔術的な読書に対する関心が、幻覚にとらわれたかのような私の耳をはぐらかし、静寂に満ちた紺碧の空に刻まれた黄金の鐘の印を消し去ったのだ。」(213頁)
「眠っている人間は身のまわりに糸にも似た時の流れを、そして、長い歳月やさまざまな世界が持つ一定の秩序を輪のように巻きつけている。目覚めたとき、人は本能的にそれらを探って、自分が現在いる地点や目覚めまでに流れた時間を即座に読みとろうとする。だが、時の流れやそうした秩序はもつれて渾沌としているか -
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何度目かのプルースト。冒頭、夢と現実の境を彷徨いつつ子ども時代の記憶を思い出すシーンを読むといつも忘れていた大切な思い出が浮かび上がってくる気がします。
この第1巻、一度最後まで読んでから再読するとよく分かるのですが、一見散漫でとりとめのないエピソードの羅列に思えるものが物語全体では重要な伏線になっています。名前すら出てこないふと見かけただけの人物が後に準主役になったり、会話の中で名前が出てきただけの祖母の友人が主人公を上流階級に導くきっかけを作ったり。
ただ、ヒロインであるアルベルチーヌの名前だけは一度も出てきません。というのもアルベルチーヌは当初の構想にはなかった人物だから。この辺りの緻 -
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三十八歳年上のゲルマント公爵夫人に対する恋心というのがどうしても理解できず、今ひとつ物語に入っていけなかった。
終盤の祖母との電話のエピソードに救われた。/
サン・ルーの計らいで、「私」は祖母と電話で話すこととなる。
【そしてこちらの呼び出し音が鳴り響くやいなや、私たちの耳だけが開かれている、幻に満ちた夜のなかで、微かな音ーー具体性を離れた音ーー距離が消え去った音ーーが聞こえ、愛しい人の声が私たちに届けられるのだ。
その人だ。その人の声がそこにいて、私たちに話しかけている。それにしても、何と遠いのだろう。
ー中略ー
そして、手を伸ばしさえすれば愛する人を捕まえられると思えるときでも、実 -
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スワンは、オデットに恋心を抱き頻繁に逢うようになる。
やがて、スワンは、オデットの言動に疑いを持ち、強い嫉妬に駆られる。
だが、幸福な時は短い。
スワンの中にもう一つの疑念が生まれ、追うほどに彼の前にオデットの新たな相貌が現れる。
この辺りのプルーストのメスさばきは、氷のようだ。/
スワンの孤独な横顔に惹かれる。
彼は、田舎娘を貴婦人と見間違うドン・キホーテのようだ。
彼がオデットの中に見ていたボッティチェリのチッポラは、跡形もなく打ち砕かれる。
やがて、スワンにも結晶解体の時が訪れる。/
彼はまた、自らの意見を昂然と口にするがゆえに、ヴェルデュラン夫人の不興を買い、サロンから追われる。
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Posted by ブクログ
たいした読書家でもない僕が、なぜ、先日やっと吉川一義訳の岩波文庫版を読み終えたばかりの、この作品を読もうと思ったのか?
ひとつには、高遠先生が「文学こそ最高の教養である」の中で引用していた
『プルーストによって開かれた感受性と知性とを使って、自分たちが生きている世界、自分たちの人生を見直しなさい』
(アラン・ド・ボトン『プルーストによる人生改善法』)
という言葉に、蒙を開かれたような気がしたからだ。
この言葉を胸において、もう一度全巻を読んでみたい。とりわけ、「見出された時」を、と思ったのだ。
もうひとつの理由は、最近気になっているプルーストとヌーヴォー・ロマンの関係について、少し探ってみ