【感想・ネタバレ】失われた時を求めて 4~第二篇「花咲く乙女たちのかげにII」~のレビュー

あらすじ

前巻から2年後、「私」は避暑地バルベックで夏を過ごすことになる。個性的な人びととの交流、そして美しい少女たちとの出会い。光あふれるノルマンディの海辺で、「私」の恋は移ろう……。全篇の中でも、ひときわ華やかな印象を与える第二篇第二部「土地の名・土地」を収録。〈全14巻〉

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失われた時を求めて 4~第二篇「花咲く乙女たちのかげにII」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
花の絵を描くのは心躍る気晴らしであり、もし絵筆の先から生まれる花がつまらぬものだとしても、少なくとも花を描くというのは自然の花々と交流しながら生きることであって、とくにその姿を正確に写すためにごく近くから花を見つめなくてはならないとき、花の美しさに飽きることはないと。だが、バルベックではヴィルパリジ夫人は目を休ませるために画業のほうは中断していた。

あるいは「今の時代の貴族って何なのでしょうね」、「わたくしからすると、働かない人間は何の存在価値もありません」、などということも言っていたけれど、それはこうした言葉も自分の口から出ると、刺戟的で味わい深く、記憶に残るものになると感じていたからにすぎなかっただろう。

私たちは相手の精神に配慮して、細心の注意を払いつつ慎重に公平さを保とうとするから、保守的思想であってもいたずらに論難することは避けるのであるが、そうした相手の一人から進歩的思想──と言って、ヴィルパリジ夫人が 蛇蝎 のごとく嫌っていた社会主義までは行かない──が率直に表明されるのを聞くと、祖母と私は、気持ちのよいこの相手のうちにこそ、ありとあらゆる事柄に関する尺度と手本が内在しているのだとほとんど信じそうになった。

恋愛において個々の好みを導くのは種の利己的本能であり、できる限り正常な形で子どもが作られるために、太った男には 瘦 せた女を、瘦せた男には太った女を求めさせるということらしいが、

哲学について話し始めた。そして、奇妙なことだが、科学のさまざまな新発見がなされたあと、唯物論は滅びたように見えるだけでなく、もっとも確実に思えるのは今もなお、魂の永遠性と魂がいつか再会することだと言ったのである。

恐らく「この世でもっとも広く行きわたっているもの( 204)」は良識ではなくて善意である。あたかも人里離れた谷で、世界のほかのところで咲くのと変わらない一輪の 雛罌粟 がほかの雛罌粟を見たこともなく時折孤独な赤い頭巾を揺らす風しか知らないのにひっそりと咲くように、考えられる限り遠くの 辺鄙 な場所で、善意が花開くのを見て人は驚嘆する。

完全無欠な人間にもある種の欠点はあり、他人にショックを与えたり人を激怒させたりする。すこぶる聡明で、すべてについて高次の視点から考え、決して他人の悪口を言わない人が、ポケットに入れた何よりも重要な手紙のことをすっかり忘れてしまうことがある。それはその人からわざわざ預からせてくださいと頼んで受け取ってきた手紙で、託したほうとしては重要な会合の約束を 反故 にせざるを得なかったにもかかわらず、忘れた本人は謝りもせず、あまつさえほほ笑みすら浮かべている。時間のことを気にしないというのがその人の自慢だからだ。

またほかの人は繊細さや優しさ、洗練された態度に満ちあふれているので、あなたのことを話題にするときはあなたが嬉しくなるようなことしか言わない。しかし、まったく別の思いは口にしないで心に包み隠しているので、心のなかでは却ってその思いが強まっていることをあなたは感じる。あなたに会うのがその人にはすこぶる大切なので、すぐに帰ることはしないでいつまでもぐずぐずと居残っている。あなたの疲労は増すだけだ。

三番目の例として出すのはふつうよりはるかに誠実な人物ではあるのだが、誠実さの度を越して、あなたに何でも知らせたがる人だ。たとえばあなたが体調が悪くてその人に会いに行けなかったことを詫びると、あなたが劇場に行くのを見た人がいましてね、顔色もよかったそうですよなどと言ったり、あなたがその人のためにした奔走を自分は十分に利用できなかったけれど、そもそもほかに三人が同じように手を差し伸べてきていたので、あなたに対する感謝の念はごくわずかなんですよなどと口にしたりする。

人の真の生活、つまり、表面的な世界の下に隠れたほんとうの世界を発見したときの驚きが、見かけは平凡な家のなかに入り、宝物や泥棒が使う 金 梃子 や死骸が山と積まれているのを見つけたときの驚きに 譬えられるとすれば、いままでのようにみんながそれぞれ私たちに言ってくれた言葉から自分自身のイメージを作り上げるのではなくて、私たちに関して私たちのいないところで彼らが用いた言葉を通じて、私たちと私たちの生活について彼らが内心抱いているイメージが従来のイメージと如何に隔絶したものであるかを知ったときの驚きもそれに劣らず大きいと言わねばならない。

従って、自分のことを話せばその都度、当たり障りのない控えめな言葉を使い、表向きは礼儀正しく受け取られ、うわべは賛同されたかに見えても、実際にはもっとも激しい怒りや陽気な哄笑をともなった批判、つまり、どのみち好意的とは正反対の評価を引き起こしたことにほぼ間違いはないということになる。

他人のうちに自分が持っているのとよく似た欠点を探し出すという習慣である。ところで、人が自己を語る遠回しの方法であるかのごとく口にするのは例外なくそうした他人の欠点である。そのとき、自分を赦すという喜びに、告白する喜びが結びつく。それに私たちの注意は、どんなときでも自分を特徴づけるものに惹きつけられるから、他人の場合でも同様に、何にもましてそうした特徴に気づくように見える。近眼の人間はほかの近眼の人間について「でもあの人はほとんど目を開けられないんですよ」と言う。肺病患者はすこぶる頑健な男の肺が健康そのものだということに疑いを挟む。不潔な男はほかの不潔な連中が風呂に入らないということばかり話す。悪臭を放つ人間はみんなも臭いと言い張る。裏切られた夫はいたるところに裏切られた夫を、浮気な妻はどんなところでも浮気な妻を、スノッブはそこら中でスノッブを見いだす。一つ一つの悪徳は、それぞれの職業がそうであるように特別な知識を必要とし、それを発展させるが、その知識を開陳することは却って嬉しいのである。同性愛者は同性愛者を見つけ出すし、社交界に招かれた婦人服デザイナーはまだあなたとおしゃべりする前からあなたの衣裳の生地を値踏みして、指で生地の品質を確かめたくてうずうずしている。そして歯科医のところで少しばかり会話を交わしてから、あなたのことを全体として率直にどう考えているか訊いてみれば、歯科医はあなたの虫歯の数だけを言うだろう。歯科医にとってそれ以上に重要なことは何もないだろうし、その彼自身の虫歯に気がついたあなたにとってそれ以上滑稽なことはないのだ。

時として平和主義は戦争を増加させるし、寛大さは犯罪の数を増大させる。

父親のブロック氏の、人を欺くこうした威光は彼自身の知覚の範囲をいささか超えて広がっていた。まずは子どもたちが父親のことを優れた人間だと考えていた。子どもというものはつねに親をけなすか褒めそやすかするものだ。そしてよき息子にとって父親はいつも、尊敬に値するあらゆる客観的理由を脇へ 措いても、すべてのなかで最高の父親である。ところで、尊敬に値する客観的理由がまったくブロック氏に欠けていたわけではない。彼は教養があり、繊細で、家族に対する愛情もふんだんに持ってい

かつてシャンゼリゼで漠然と理解し、その後もっとはっきりとわかったことがある。それは、一人の女を愛するとき、私たちは単に女のうちに自分自身の魂の状態を投影しているにすぎないということであり、従って、重要なのは女の価値ではなく、魂の状態の深さであること、平凡な娘だとしても彼女が私たちに与える感動は、すぐれた人物と会話したり彼の作品を感心しながらじっくり見つめたりするときに得られる喜び以上に、私たち自身のより奥深い部分、いっそう個人的でまだ遠くにある、より本質的な部分を意識の上に浮かび上がらせることもありうるということだった。

どんなに賢い人でも」と彼は私に言った、「若い頃のある時期に、あとから思い出して不快になって消してしまいたいと思うような言葉を口にしたりそんな生活を送ったりしたことのない人はいません。でも、それを一から十まで後悔する必要はありません。だって、曲がりなりにも賢いと言われる人間になれるかどうかは、そこに最終的に辿り着く前に、滑稽な人間やおぞましい人間になるという化身の段階をすべて通ったか否かにかかっているんですから。

「汽車の旅は順調でした」と彼は書いていた、「車中では駅で買った本を読んでいました。アルヴェード・バリーヌ( 413) の本です(ロシアの作家だと思うのだけれど、外国人にしてはびっくりするくらいよく書けているという気がしました。貴君がどう評価するか聞かせてください。だって貴君は何でも読破している知識の泉のような人だから、当然これを知っているでしょう)。そのあとこの武骨な生活の真っただ中に戻ってきたという次第

私たちはよくブロックの姉妹と会った。その父親の家で夕食をご馳走になってからというもの、私としては彼女たちに挨拶せざるを得ない。私の女友達は彼女たちを知らなかった。「 ユダヤのひと と遊んではいけないことになってるの」とアルベルチーヌが言った。「イズラエリット」と濁らずに「イスラエリット」と発音する言い方だけで( 479)、たとえその言葉の最初を聞き逃したとしても、敬虔な家庭の出身で、ユダヤ人はキリスト教徒の子どもを生け贄として殺すというようなことをいとも簡単に信じてしまうに違いない彼女たち若いブルジョワの娘を突き動かしているのが「選ばれし民」への共感などではないことは十分にわかるだろう。「それにね、あのひとたちは素性が賤しいのよ、あなたのお友達は」と、アンドレはほほ笑みながら私に言ったが、そのほほ笑みには、ブロックの姉妹たちが私の友達ではないことは知っているという意味が含まれていた。「あの種族に関することはみんなそう」とアルベルチーヌが如何にも訳知り顔をして仰々しく返事をした。実を言えば、ブロックの姉妹はこてこてと着すぎているのに半ば肌を露出していて、 窶れたようでいて大胆、贅沢でいながら不潔、というような恰好をしていたから決して素晴らしい印象を与えたわけではなかった。さらに、彼女たちの従姉妹の一人が、せいぜい十五歳になったくらいなのに、レア嬢に対する讃美の念を公然と表明したことでカジノで大騒ぎになっていたということもあった。ブロックの父親は女優としてのレア嬢の才能をきわめて高く評価していたが、彼女の好みはとくに男性には向けられていないという評判だったのだ。

愛するということは、何かを見分けたり区別したりする手助けになる。森のなかでは、鳥を愛する人はふつうの人間なら混同してしまうようなそれぞれの鳥に特有の鳴き声をたちまち聞き分けるものだ。

アンドレは察しがいいからその点は大丈夫。でも、駅に来るほかの子たちは変に思うんじゃないかしら。誰かが叔母に告げ口したらたいへんなことになるしね。とにかく今夜は一緒に過ごせるから。叔母には知られっこない。アンドレにさようならを言ってくる。それじゃあとで。早く来てね。二人だけの時間がたっぷりとれるから」と彼女はにっこりしながらつけ加えた。そんな言葉を聞いて私は、ジルベルトのことを愛していた時期よりも前の時期、そう、恋が単に外部に存在する実体などではなくて、実現可能な実体に思われた頃に遡った。

つけ加えて言えば、ピエール・ルイ・レ( Pierre-Louis Rey) は『花咲く乙女たちのかげに──批評的研究』(スラトキン書店。一九八三年) のなかで、「花咲く」が「夏」を喚起する言葉であることから「夏の小説」を意味するとともに、少女たちの「花の盛り」を示していること、そして、もともと「レスボスの女たち」というタイトルも作者の頭のなかにあったボードレール『悪の華(花)』の「花」と結びついていること、プルースト自身、第三篇「ゲルマントのほう」で言及している、ワグナーの楽劇『パルジファル』第二幕に登場する「花の娘たち」( filles-fleurs/ドイツ語は Blumenmädchen) にも関係していること、プルースト鍾愛の詩人・小説家ジェラール・ド・ネルヴァルの小説集『火の娘たち』( Les filles du feu) の「娘たち」や、ネルヴァルの詩や紀行文に頻出する「花」の比喩や描写も色濃く影響していることを指摘していて、それは十分に説得的である。

『失われた時を求めて』を筋だけ追って読むのはあまりに近視眼的であり、たとえ筋に注意が向いたとしても、ゆるやかに包み込まれながら、少し遠目に眺めると、意外な細部やエピソードの繫がりが際立ち、複雑精妙に絡み合った伏線が見えてくる。

たとえばスワン夫人のオデット。「スワン家のほうへ」第一部第二章で、パリのアドルフ伯父宅で見かけた「薔薇色の絹のドレスを着た若い女」だったのが、第二部「スワンの恋」では、 高級娼婦 として登場し、スワンを翻弄した挙げ句スワン夫人に収まり、続く章で、語り手が恋するジルベルトの母親として姿を現したかと思うと、「花咲く乙女たちのかげに」第一部ではサロンの中心人物として、さまざまな人々の耳目を集める存在となっている。そのオデットが本巻では、まったく意外な姿で現れる。

 (十九世紀後半)貴族たちのあいだでは海水浴に出かけることがブームになるが、一般に普及したのはずっとあとのことである。エリザベート・ドートリッシュは馬をさんざん乗り回したあと、水浴で疲れを癒した。一八七四年、彼女は英仏海峡のワイト島に赴く。娘のマリー・ヴァレリーの健康状態が海水浴を必要としていると判断したからだった。ヴァカンスを海辺ですごすということが生活のなかに入ってきたのは二十世紀の初めである。

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2025年01月04日

Posted by ブクログ

「私」は、バルベックでアルベルチーヌと「花咲く乙女たち」に出会う。

この物語を読んでいると、走馬灯のように人生の様々な出来事が思い出される。
そして、読むほどに自分の姿が露わになってくる。
もちろん、思い出すのは楽しい思い出ばかりではない、それどころか、むしろ「苦しきことのみ多かりき」なのだが、僕にとってはこの物語自体が紅茶に浸したマドレーヌの働きをしている様なのだ。/

加えて、言うまでもなくプルーストの見事なまでに精緻な恋愛心理の分析を辿っていくことには、無類の楽しさがある。
呆れるほど息の長い彼の文体にしても、一度慣れてしまえば心地良い旋律となって、ハンモックの様にそれに身を委ねることができるのではないだろうか。
いやむしろ、この物語を読み込むほどに僕が感じるのは、冬場に車を運転していて曇ってしまったフロントガラスに、デフロスター(霜取り装置)をかけた途端にみるみる視界が開けていくときの爽快感なのだ。/


《私が彼女のことをこれほど美しいと思うのは、彼女の姿をちらりと見たにすぎないからだろうか。恐らくそうであろう。まず第一に女の傍らで足を止めることができず、別の日にはもう会えないかもしれないとすれば、女は俄然魅力的になる。

ー中略ー

もし馬車から降りて娘に話しかけることができたとしても、きっと私は馬車からは気がつかなかった娘の肌の何らかの欠点を見つけて幻滅したことだろう(略)。
だが、一人の娘が私の目の前をまた通りかかった、

ー中略ー

私の思うに、このような出会いは世界をもっと美しく感じさせてくれるものであり、その世界ではあらゆる田舎道に、ほかとは異なっていながら同じでもある花々ーーその日だけで消えてゆくはかない宝であって散歩で出会う望外の贈り物というべき花々、(略)ーーが咲き誇り、人生に新たな魅力を与えているのである。》/


この部分を読んで、ある映画のセリフを思い出した。
《「あなたにとって、生き甲斐とは何でしょうか?」》
と聞かれた寅さんが答える。
《「そうさなあ、旅先でふるいつきたくなるような、いい女とめぐり合う事さ」》
(山田洋次監督『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』より。)/


♫〜岬めぐりの〜バスは〜走る〜♫

そういえば、僕の出先めぐりの職業人生も、そんなものだったかも知れない。/



まず、シャルリュスの言葉を引こう。
《「(略)まあ、いずれにしても彼女は娘のそばに行きました。ラ・ブリュイエールはこれが一番大切なことだと言っていますね、『愛する人のそばにいること。何か話そうが話すまいが、それはどうでもよい』。その言葉は正しいでしょう。それがただひとつの幸福ですよ」。》/


《というのも、私たちが作品を作り出すのを可能にするのは有名になりたいという欲求ではなくて、たゆまず努力を続ける習慣であり、私たちが未来を守ろうとするとき助けとなるのは、現在の瞬間に味わう歓喜ではなく、過去に関する賢明な反省だからである。》/


《さらに、果たしてその日に彼女たちに会えるのか会えないのかという最初の不安に、この先いつか会えるのだろうかというもっと深刻な不安がつけ加わる。彼女たちがアメリカに出立するのかパリへ帰るのか、結局のところ私にはわからないからだ。彼女たちを愛し始めるにはそれだけで足りた。(略)しかし、恋愛の前段階となるあの悲しみや、取り返しがつかないという気持ちや苦悩を誘発するためには、不可能という危険がーーおそらくこの危険こそ相手の人間以上に、情熱が不安のなかで抱きしめようとする対象そのものなのだろうーー欠かせない。》

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2021年08月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

語り手は祖母と避暑地バルベックで過ごす中でヴィルパリジ夫人、サン・ルーそして花咲く乙女たちの一人アルベルチーヌと出会う。

乙女たちに心惹かれる語り手がそりゃあもう思春期、青春真っただ中という感じでサン・ルーよりも乙女たちのそばにいたいという長々長々と言い訳めいた語りが続いたときには「男子ってやつは…」と微笑ましかった。

そんなに長い登場ではなかった悪友・ブロックの台詞がいちいち可笑しいので印象に残ってしまった。姉妹に「雌犬たちよ」(125/358)と呼びかける兄は嫌だ(笑

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2023年06月15日

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