あらすじ
病気がちな祖母のため、ゲルマント家の館の一角に引っ越した語り手一家。新たな生活をはじめた「私」は、女主人であるゲルマント公爵夫人に憧れを募らせていく。サン・ルーとの友情や祖母への思いなど、濃密な人間関係が展開する第三篇「ゲルマントのほう」(一)を収録。〈全14巻〉
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失われた時を求めて 5~第三篇「ゲルマントのほうI」~ (光文社古典新訳文庫)
by プルースト、高遠 弘美
ある年齢にあっては、「名前」というものは、私たちに現実の場所を指し示すと同時に、私たちが名前のなかに注ぎ込んだ不可知のもののイメージを差し出すことで現実の場所とそのイメージとを無理矢理同一視させ、その結果、私たちはある都市へ、そこに含まれているはずのない魂──といって、そんな魂を名前から追い払う力はもはや私たちにない──を求めて旅立つことになるのだが、かような年代にあるとき、寓意画のように名前が個性を付与するのは町や河だけではないし、名前がさまざまな色で飾り、不可思議なもので満たすのは物質的世界だけというわけではなくて、社交的な世界も同様である。そのとき、森には森の精霊がいて水のあるところにはその神々が存在するように、城のひとつひとつ、名高い館や宮殿のそれぞれが貴婦人や妖精を持つのである。ときどき、名前のかげに隠れていた妖精が、それを育む私たちの想像力の働きに応じて変容することがある。たとえば、私のうちに存在していたゲルマント夫人を包みこむ雰囲気は、何年もの間、幻燈のガラス原板と教会のステンドグラスの反映にすぎなかったが(7)、まったく別の夢の、泡立つ急流のごとき 飛沫 を浴びたとき、その色はしだいに褪せていった。
私はすぐにジュピアンのうちに、稀に見る知性、それも、私が知り得たなかでもっとも文学的な生来の気質を保った知性が備わっていることに気がついた。要するに、おそらくジュピアンに教養はなかったろうが、何冊かの本をざっと走り読みしただけで、言葉のもっとも巧みな表現を身につけ、我がものとすることができたという意味である。この上ない才能に恵まれた人びとは、私の知る限り、ごく若いうちに世を去った。それゆえ、私はジュピアンが早世するだろうと確信していた。彼は善意と 惻隠 の情を兼ね備え、この上なく高潔で寛大な心を持っていた。さりながら、フランソワーズの生活におけるジュピアンの役割はすぐに、不可欠のものではなくなった。彼の代わりになる存在を見つけることを学んだのだ。
それは命を懸けてもいいと思われたほどの観念であり、その中心にあったのは、コンブレーの庭で読書をしていた午後の間に育んだ夢想でもそうだったように、完璧さの観念であった。
ところが、噓と偽善というのは誰の場合でもそうだが私の場合も、切迫した偶発的な状況に押されて身を守るために何か特定の利害によって発せられるので、麗しい理想のみに焦点を合わせている私の精神は、私の性格が蔭に隠れてそうした緊急の下らぬ仕事をやり遂げるのを放置しているばかりか、顔を背けてそちらを見ようともしなかった。
「だめ、だめ。あなたをうんざりさせるだけ。教養なんて皆無の連中だもの。馬のブラシかけ以外には競馬の話しかできない。それに、ぼくのことで言っても、やつらはぼくがずっと待っていたこの貴重な時間を台無しにするだろうしね。ただね、ぼくは仲間たちが如何につまらない連中かとは言うけれど、だからといって、軍に関することすべてが知性を欠いているというわけじゃない。むしろ正反対のこともある。 ぼくたちのところにいるある少佐は、それは素晴らしい人でね。 その人の講義では、戦史がまるで代数か何かのように、数学的な証明を伴って扱われるんだ。美的観点からしても、あるときは 帰納的、あるときは 演繹的に示される美しさがある。あなたもきっと無関心ではいられないと思うね」
バルザックに、あなたは今世紀で最大の作家です、スタンダールとともに、と言うようなものでね。実に的を射ているだろう? というか、途方もない讃辞なんだよ。
「とんでもない。バルベックで一緒に読んだ哲学の本( 242) を覚えているだろう? 現実世界と比べて可能性の世界がどれほど豊かなのかが書かれていたよね。そうなんだよ。戦術も同じことでね。ある一定の状況のなかで必要とされる計画が四つあるとしよう。将軍はそこから選ぶことができる。病気はいろいろな経過を辿るかもしれないのだから、医者はすべての事態を予想していなくてはならないのと似ている。そして、そのときでも、人間の弱さと偉大さが不確実性の新たな原因となる。そのわけはこうだ。偶然の理由によって(附随的な目標を達成しなくてはならないとか時間が切迫しているとか兵員が少なくて補給状況も良くないといった理由だ)、将軍は四つのうちで、決して完璧ではないが、実行するのに必要な金も犠牲も少なく、迅速に事を運べて、しかも、軍の糧食を確保できる豊かな土地で展開するという理由から第一の計画を選んだとしよう。
かの偉大なる数学者ポワンカレ( 245) のことを思い出してごらんよ、彼は、厳密に言って数学が正確なものだとは信じていないんだよ。きみに話した軍の操典だって、結局二次的な重要性しかもっていないし、ときどき変えられてしまうこともある。
かつて沈黙は力だと言われた。それとはまったく違う意味だが、愛されている者が使おうとすれば沈黙は恐ろしいほどの力を発揮する。それは待つものの不安を増大させる。ある人から私たちを引き離そうとするものほどその人に近づきたいという気持ちにさせるものはない。沈黙以上に超えることの叶わぬ障壁がほかにあるだろうか。沈黙はまた、責め苦であって、牢獄でそれを強制されれば発狂するかもしれないとも言われた。だが、愛する者の沈黙に耐えるというのは──自分が沈黙を守ること以上に──何という責め苦なのだろう。ロベールは自分に言い聞かせた、「こんなふうに黙っているなんて、いったい彼女は何をしているのだろう。ほかの連中と示し合わせてぼくを騙しているのか」。またこうも考えた、「こんなふうに黙っているなんて、ぼくはいったい何をしたんだろう。彼女はぼくを嫌っている。それも永遠にだ」。彼は自分を責めた。かくして、沈黙は嫉妬や悔恨を通じて彼を狂わせてしまった。そもそもこういう沈黙は、牢獄の沈黙以上に残酷で、それじたいが牢獄になる。なるほどそれは非物質的な垣根ではあるだろう。
山ってさ、ほとんどなんの得にもならないしさ」。彼女がメゼグリーズへ帰る気になれないのは、あそこでは「みんなほんとに莫迦だし」、市場へ行けば、おしゃべりな女たち、「下品な女ども( 313)」が彼女といとこ同士だなどと今さらのように言い、「おや、死んじまったバジローさんの娘じゃないかい」などと言うからだった。「もうパリ生活の味を知った」今は、そこへ戻って暮らすくらいなら死んでしまったほうがいいと考えただろう。もともと伝統主義者のフランソワーズも、新しく「 パリの女性」になった娘が次のような言葉を口にして革新精神を体現しているのを見ると、満足気ににっこりほほ笑むのだった、「あのね、かあさん。もし外出日がないなら、あたしのとこへ 気送速達( 314) を送ってくれればいいよ」。
桜の花は白い 鞘 さながらにびっしりと枝に密着して咲いているので、遠くから見ると、ほとんど花も葉もつけていない木々の間にあって、日は差してもまだすこぶる寒いこの日、ほかでは融けてしまったのに低い桜の木の枝( 336) に残っている雪のように見えた。他方、大きな梨の木は、もっと広範囲にわたってまばゆいほどの白一色で家々やつましい庭を取り囲んでいたが、そのさまは、村のすべての家や地所が同じ日に、最初の聖体拝領をしている最中であるかのようだった。
彼女は食事のときも手先が不器用で、そんなふうだと、舞台で芝居をしているときもさぞかしぎこちなく見えるだろうと思われた。彼女が器用さを発揮するのは男と寝るときだけで、男の肉体が好きな女に特有の、驚くべき洞察力によって、自分たち女とはまるで違う男の体が一番喜ぶようにするにはどうしたらいいか一目で見抜いてしまうのだ。
プログラムのなかのある出し物が私にはこれ以上ないほど苦痛だった。ラシェルとその女友達の何人もがひどく嫌っている若い女が、昔のシャンソンを歌ってデビューすることになっており、彼女自身抱いている将来への希望や家族の期待がこのデビューにかかっていた。その若い女はほとんど滑稽なくらい尻が突き出ており、きれいだがか細すぎるうえに昂揚するといっそう弱々しくなる声は、たくましい肉づきとはあまりに対照的だった。ラシェルは客席に男女を問わず何人かの友人を送り込んだ。彼らの仕事は、痛烈な野次を飛ばして内気だという評判のこの新人を面食らわせて、彼女が頭に血が上って大失敗を犯し、支配人から契約を断られるように仕向けることだった。
第五巻に収録したのは『失われた時を求めて』( À la recherche du temps perdu) 第三篇「ゲルマントのほう」(Le Côté de Guermantes) を三冊に分けた一冊目である。底本は前巻同様、新版のプレイヤード叢書四巻本の第二巻(「ゲルマントのほう」の本文校訂はティエリ・ラジェ。初版は一九八八年だが、二〇〇九年刊行版による。このように書く理由は最後のほうで述べる) であるが、一九二〇年刊の初版、旧版のプレイヤード叢書、フラマリオン版(ジャン・ミイ監修、エリアーヌ・デゾン・ジョーンズ本文校訂)、フォリオ叢書版(ティエリ・ラジェ&ブライアン・G・ロジャーズ本文校訂)、リーヴル・ド・ポッシュ版(ベルナール・ブラン本文校訂)、ロベール・ラフォン社ブカン叢書版(吉田城本文校訂・以下、人名の敬称は略す)、スコット・モンクリフ&T・キルマーティン共訳D・J・エンライト校訂の英訳も適宜参照した。
第五巻「ソドムとゴモラ Ⅱ 見いだされた時」 とあり、一九二〇年の段階でも依然として五巻構成だったことがわかる。ちなみに、今回の拙訳は、二百七十九頁ある同書の百六十五頁までである。
が、この小説のほんとうに根幹的な部分、人間喜劇的な深刻荘厳な音楽、中心テーマである主人公の《天職》──藝術家的天分への自覚、などの重要な骨格はむしろこれからはじまるといつてさしつかえない。(略) 自己省察にほとんど自己を没してしまうかにみえた作者の目はいまや外の世界にむかつて異様に冴え光ると同時に、あらゆる事象に《一般的なもの》《法則的なもの》を発見することで自己の救済と天職の実現を果しうるという本質的自覚のテーマが執拗にはこばれて行く。
自然描写が素晴らしいのはプルーストの特徴の一つだが、「ゲルマントのほう Ⅰ」には、とくに際立った風の描写が
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三十八歳年上のゲルマント公爵夫人に対する恋心というのがどうしても理解できず、今ひとつ物語に入っていけなかった。
終盤の祖母との電話のエピソードに救われた。/
サン・ルーの計らいで、「私」は祖母と電話で話すこととなる。
【そしてこちらの呼び出し音が鳴り響くやいなや、私たちの耳だけが開かれている、幻に満ちた夜のなかで、微かな音ーー具体性を離れた音ーー距離が消え去った音ーーが聞こえ、愛しい人の声が私たちに届けられるのだ。
その人だ。その人の声がそこにいて、私たちに話しかけている。それにしても、何と遠いのだろう。
ー中略ー
そして、手を伸ばしさえすれば愛する人を捕まえられると思えるときでも、実際は私たちとその人は途轍もなく離れているということを。これほど近く聞こえる声を聞けば現実にそこにいるとしか思えないーー実際には離ればなれなのに。だがこれは、永遠の別離の前触れではないか。】/
◯五十キロ 延々伸びたる へその緒で 小さき母の 心音を聴く/
母は施設に入るのを嫌がった。
だが、入れざるを得なかった。
母の部屋には電話を引いた。
施設に送って行ってものの三十分もすると、電話がかかって来た。
「帰りたい」「いつ帰れる」「これから帰る」
焼けた鋼鉄のような母の意志に、施設も僕も手を焼いた。
今思えば、懐かしい思い出だ。/
『ユリシーズ』百年目の年は、また、プルースト没後百年の年でもあった。
記念の年に、高遠先生の手による『失われた時を求めて』の新たなる輪廻転生に立ち会えることは最高の喜びだ。
Posted by ブクログ
語り手のゲルマント公爵夫人に対する恋心と友人サン・ルー(ロベール・ド・サン=ルー侯爵)の恋が描かれている。
ゲルマント公爵夫人との年齢差38歳というのは夫人から見た語り手というのはどんな存在だったんだろう??
この巻は個人的にはサン・ルーや部下のやり取り、当時の男子の会話、当時の青春をを体感できて楽しかった。
やっぱりこの『失われた時を求めて』は何回も読んで文章を味わう作品なんだなぁ、と読書1回目にして思う。1回では筋を追うだけでせいいっぱい。
Posted by ブクログ
しばらく休んでいたけど、また『失われた時を求めて』を読み始めました。
「ゲルマントのほう」の第1巻は光文社の翻訳で。
久しぶりに読んだということもあると思うけど、この「ゲルマントのほうへ」は、今まで読んだ、「スワン家のほうへ」「花咲く乙女たちのかげに」より数段難しい気がしました。
『1Q84』で、青豆がこの巻で読むのを挫折したというのもなんとなく頷けます。それでもやっぱり、『失われた時を求めて』を読んでいる時間って、他の本を読んでいるときの時間の流れかたと全然違う気がして、個人的にはすごく好きです。なんというか、今この時が止まって、主人公と一緒に色々な時間を思い出しているような。一瞬でもあるし、永遠でもあるような時間。
今回一番好きだった部分は、主人公がおばあさんに電話をかけるシーン。電話をかける、という一つの行動からなぜあそこまでの文章を書けるんだ、とプルーストに恐れ慄きました。
下巻は何で読もうかなあ。