セネカのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
古代ローマ時代の哲学者セネカ。
訳者あとがきで、セネカがどれほど数奇な人生を歩んだかを知った。
小さな頃から虚弱で病気がちで、病気のために命を落としそうになることもあれば、病弱を理由に死刑を免れることもあった。
雄弁で博識がゆえに嫉妬されて抹殺されそうになったり、その知性を買われて要職に抜擢されることもあった。
時の権力者たちの気の向くままにいとも簡単に人が暗殺された時代。
周りのものは権力者の思惑に翻弄され、“悲劇的疎外状況の中で孤立し、唯一内なる自我へ眼差しを向けることで自由を得た“そんな過酷な日々の中で、人間とは、生きるとは、死とは何かといった根源的な問いに対する考えを深めていったセネカ。
セネカが突然突きつけられた死を前にとった平常な態度は、この本を通して主張していることを体現していて、だからこそものすごい説得力を持って今日まで読み継がれてきたのだろう。
読み始めて思わず線を引きたくなる文にたくさん出くわす。ただけっこう難解な表現も多く、いまいち意味を読み取れない箇所もあった。
でも訳者あとがきでは、キケローに比べてセネカの文体はだいぶシンプルだと書かれていらから驚いた。いずれまた読み直そう。
以下、心に残った言葉。(たくさんありすぎて、かなり抜粋)
生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないもの。死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものである。
ただちに生きよ。
英知(哲学)のために時間を使う人だけが
閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。
その資質を吟味して友を選ぶ場合も、できるかぎり汚れに毒されていない人を選べるよう最善の努力を傾けることになる。健康なものが病めるものと交わる、それが病の始まりなのだ。
彼らは皆、(死という)ほんの刹那の時間を犠牲にして、永遠の存在となる道を見出し、死ぬことによって不死に到達したのである。
最高善とは精神の調和である。
悪しきものに直面するときも、善きものを享受するときも、常に不動であること、人の道に背かぬ範囲内で神を具現化すること。
-
Posted by ブクログ
『人生の短さについて』
「われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。」
面白すぎた。辛口ストレートが流石ストア派。現代の自己啓発本が肩に腕をまわして慰めてくれるとしたら、セネカは正面から往復ビンタしてくる、そんな書きようだった。
人生の浪費から救ってくれた(少なくとも浪費を減らしてくれた)1冊。マイバイブルに追加。
『母ヘルウィアへのなぐさめ』
「そういうわけで、わたしは、運命から逃れようとするすべての人が逃げ込むべき場所に、あなたをご案内しましょう。すなわち学問です。」
全体的に母親への物言いにしては随分生意気だと感じたが(時代背景?)やはり独特の言い回しと表現力が良かった。
平たくまとめると精神を鍛えれば追放されようがどこにいようが自分を保つことができるという趣旨で、セネカのストイックさが顕著に現れていた。 -
Posted by ブクログ
理解の整理↓
① 自分の人生の主導権を感情ではなく理性で握らなければならない。
② しかし、その理性が自己正当化(自分を説得する方向)に偏っていないかを常に疑わねばならない。
③ そして、その理性が現実(代償・他者への影響・自分の限界)を正確に把握し続けているかに絶えず注意を払わねばならない。
④理性判断は変化するので、生きている限り理性を監視し続けなければならない
感情・衝動・外圧で動いた行為は、後から見ると、「あの時は仕方なかった、流されていた、忙しすぎて覚えていない」と人生の断片として散逸する。
一方、理性に基づく行為は、「なぜそれを選んだか説明できる、他の選択との関係が分かる、人生全体の中で位置づけられる」。結果として、行為が人生の「構成要素」になる。
人は、認識できた時間しか生きたとは言えない。「無自覚に過ぎた時間、主体が不在だった時間」それらは、存在はしたが、生ではない。
理性に基づく生き方は、「自分がそこにいた、判断していた、選んでいた」という痕跡を、人生に刻み続ける。
理性に基づく生き方とは、人生を消えない形で生きる技術である。 -
Posted by ブクログ
目まぐるしい生成AIの進歩により、人間の価値の在り方を問われていると感じる今、この本を読んで思ったのは、2000年という長い年月の間に進化してきたのは文明や技術、つまり人間を取り巻く環境であって、人間の「本質」そのものは実はほとんど変わっていないのではないかということだった。怒りについてのセネカの考察は時代の壁を感じさせない、今の私たちにもの心にも響き、説得力に溢れると思う。
アンガーネジメント関連の本は沢山あり、あたかも一種のスキルを身につければ怒りをコントロールできるかのような印象を持ちさえもするが、「怒り」とはもっと根源的で、人生そのものに関わるテーマであることを実感した。人間が2000年もの間悩み、共感を集めてきた「怒り」という感情に対しては、小手先のスキルでは太刀打ちできない、むしろ、人間の生き方や価値観、そして自己との向き合い方を深く見つめ直す必要があると思った。
以下、ネタバレ。
・怒りとは、自分を害する「人」に対して害することへの心の躍動。対象はその原因ではなく人に向かう。
・怒りによってもたらされる情動により、原因以上にその人に多くのものを失わせることもある。ただし、人を害することで得られる快楽は長い人生のほんの短い時間。それならば大きな心で短い災厄に耐えよう。
・人に対する怒りの根源は、自分は正しい、という傲慢さ。ただし忘れてはならないのは罪のない人は1人もいない、罪を告白していないだけである。
-
Posted by ブクログ
ネタバレSNSで見かけて気になったので読んでみた。
本書には『生の短さについて』『心の平静について』『幸福な生について』の三篇が収録されている。
このような哲学書を読むのは初めてだったが、思ったよりも読みやすくて驚いた。
時間はかかったものの、最後まで読みきることができた。
全てを理解できたとは言えないが、ストイックな自己啓発書のような読み心地で、サッパリした文章を読むのが楽しかった。
しかし著者と自分の間に時間が空いているため、現代の自己啓発書のようなプレッシャーは感じなかった。
いい意味で、好きなところを選んでいくことができる。
言い回しがかっこよく、痺れた箇所がいくつもあった。
訳者による『解説』は内容を理解する助けとなったので、ぜひ読んでほしい。
三篇とも献呈相手への呼びかけで始まり、会話をしているかのような文章で進んでいく。
その形式で読んでいくと、だんだんセネカと自分との会話になっていき、最終的には自分と自分との会話のような感覚になっていった。
こうした形式だったからこそ、初心者の私でも読み進められたのかもしれない。
タイムマシンで現代に飛んできたことがあるのでは?と思うくらい、現代の私たちと共通する部分があり、「今と何も変わらないなぁ」と感じることが多々あった。
人間が抱える普遍的な悩みや葛藤について考える良い機会になった。
そして、「今の自分の苦しみは、自分が特別劣っているせいではなく、人間ならば誰でも抱くものなのだ」と思えた。
同じようなことを抱えていた人が過去にもいたのだという事実は、時に私たちを励ましてくれる。
以下に、特に印象に残った箇所を引用する。
.
人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享(う)ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。
(P12『生の短さについて』)
君たちの生は、たとえそれが千年以上続くとしても、必ずやきわめてわずかな期間に短縮されるに違いない。君たちのそうした悪習がどの世紀をもことごとく食らい尽くしてしまうからである。実際、生のこの期間は、自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものであるが、君たちから逃げ去るのは必然である。なぜなら、君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、「時」という、万物の中で最も足早に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。
(P24『生の短さについて』)
時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。
(P28『生の短さについて』)
人は、これを、次にはあれを、と考えをめぐらせ、遠い将来のことにまで思いを馳せる。ところが、この先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。
(P32『生の短さについて』)
.
セレーヌス、健康に問題があるのではなく、健康に慣れていないことに問題があるのだ。これを喩えて言えば、静かな海にも立つ漣(さざなみ)、特に、嵐が過ぎて静まった海のそれのようなものである。だから、必要なのは、ある場合には自分の前に立ちふさがったり、ある場合には自分に怒ったり、ある場合には自分に対してつらく当たったりするといった、われわれがすでに卒業したかつてのあの厳し過ぎるほどの方法ではなく、最後にやって来る方法、つまり、自分を信頼すること、そして、ある者は正しい道に程近い道をさまよっているとはいえ、四方至る所で交錯している多くの者たちのたどる誤った道に決して惑わされることなく、自分が正道を行っていると信じることである。
(P75『心の平静について』)
さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。われわれの身体の場合でも、ある種の苦痛を感じながら、なおかつ喜びを覚えるものがある。
(P80『心の平静について』)
運命が優勢となり、行動の機会を断ち切ったからといって、即座に武器を投げ捨て、あたかも運命が追跡できない場所があるかのごとく、潜伏場所を求めて背走するようなことはすべきではない。義務的な仕事に精力を注ぐのを控えめにして、なすべき仕事を選択したあと、国家に役立てる何かを見つけ出すべきなのである。
〈略〉
たとえ他の人たちが最前線を占め、たまたま君が第三線の一員として配置されたとしても、君はその第三線から叫び声で、激励の言葉で、率先垂範で、勇敢さで戦うべきだ。両手を斬り落とされても、なおも踏みとどまり、叫び声で加勢しようとする者は、戦闘の中で味方に寄与できる自分の役割を見出したことになる。君も何かそのようなことをすべきなのである。
(P86〜87『心の平静について』)
生はことごとく隷属なのである。それゆえ、みずからの置かれた境遇に慣れ、できるかぎりそれを嘆くのはやめて、自分のまわりにあるどんな小さな長所をも見逃さずに捉えるよう努めねばならない。公平な心が慰めを見出せないほど過酷な運命などないのである。往々にして、わずかな敷地も、巧みに区分けすれば、さまざまな用途の道が開け、狭い空間も配置次第で居住できるものとなる。困難に対処するには理性をもってするがよい。過酷なものも緩和され、険隘(けんあい)なものも開かれ、過重なものも巧みに担えば苦しみも減る。さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。ただし、すべてのものは、外見は種々の様相を見せはするものの、内実は等しく虚しいものであり、由ないものであることを知っておかねばならない。
(P104『心の平静について』)
さらに、不安を生ぜしめる小さからざる要因となる例のものがある。多くの者たちの生がそうであるように、何とか世間体を繕おうとあくせくし、誰に対しても自分のありのままの姿を素直に見せようとはせずに、虚構の生、見せかけの生を送る場合がそれである。実際、絶えず自分のことを気にするのは苦痛以外の何ものでもなく、ふだんの自分と違った姿を見つけられるのではないかという恐れが常につきまとう。人に見られるたびに自分が評価されていると思うかぎり、われわれが心配から解き放たれることはない。なぜなら、嫌でも裸の自分をさらけ出さざるをえない事態が多々生じるからであり、また、たとえ自分を繕おうとするそれほどの熱意が功を奏するとしても、常に仮面をつけて生きる者の生は楽しくもなく、心穏やかなものでもないからである。それに反し、率直で飾らず、いささか自分の性格を覆い隠さない純朴さには、どれほど大きな喜びがあることだろう。もっとも、一つ残らずすべてを万人に開けっぴろげにしたりすれば、その純朴な生にも蔑視の危険が忍び寄る。何であれ、近しくなったものに対しては蔑みの念を抱く者がいるからである。だが、徳には、目を近づけて眺められても、安っぽく見られる危険はないし、また、絶えざる見せかけのために苦しめられるよりは、純朴さで蔑まれるほうがまだしもましなのである。ただし、これには節度を用いるようにしよう。純朴に生きるか、おざなりに生きるかでは、雲泥の差がある。
(P124〜125『心の平静について』)
.
何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。さらに、多数の者が同意して受け入れたものこそ最善のものと考えて、事をなすに世評に頼ること、また、〈われわれには〉善きもの〈として通用している〉先例が数多くあるが、理性を判断基準にするのではなく、人と同じであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである。
(P134『幸福な生について』) -
Posted by ブクログ
ネタバレ政治家であり、ストア思想の代表者として数えられるセネカの書。
ストア哲学はその実用性(?)がゆえに多くのビジネス書でも取り上げられるケースが多いですね(といっても、私はビジネスの領域で哲学の活用をうたう安直な言説には否定的なのですが。人間として日々の一瞬一瞬を哲学的に生きられない者が、ビジネスシーンで哲学的にふるまうことが可能なのでしょうか?)。
本書は表題にある『生の短さについて』のほか、『心の平静について』『幸福な生について』の三篇で構成されます。そのいずれを読むにつけ、身につまされる思いになります。。。
『生の短さについて』でセネカは、「我々にはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費する」のであり、「全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている」と説きます。
時間がない(なかった)!と老齢になってから嘆く者についてセネカは言います。「彼は長く生きたのではなく、長く ”いた” だけのことなのだ」と。これはグサリときますね。。。
「怠惰な忙事」に陥らないよう、我々は誰と付き合い何をなすべきか?その心構えや態度が説かれます。
『心の平静について』は、セネカの弟子であり友人でもあるセレーヌスの悩みにこたえる対話形式で構成されます。
セレーヌスは素朴で倹約家であるものの、周辺で繰り広げられる豪奢な催し(パーティーですね)に心をざわつかせ、また一時的な気分から気宇壮大な態度になってしまう自身の浮ついた性格に不安を覚え、これをセネカに相談します(真面目だねぇ)。
これに対するセネカの助言や説明は非常に現実的であり、参考になります。
「・・・そういう人々の身体はねセレーヌス、健康に問題があるのではなく、健康に慣れていないことに問題があるのだ・・・自分が正道を行っていると信じることである」とセネカは言います。
国政に携わることは立派だが、「カルタゴの総監のような存在」のみが国事ではなく、「両手を切り落とされてもなお踏みとどまり、叫び声だけでも加勢しようとする者」も(なせる限りをなしているという意味で)立派である。
学問研究は立派だが、「読み切れない万巻の書にあたること」のみがこれに該当するのではなく、「少数の著作家に身をゆだねる」ことの方がはるかにマシである。
このような身の丈に合った現実的な思想は非常に参考になります。
『幸福な生について』では、世間で流布される幸福の基準に振り回されるのではなく、何が幸福なのか?を自身で見つめなおすことの重要さを考えさせられます。
「何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。」
一方でセネカは、富や名声を否定しませんし、むしろ肯定します。「賢者は財産に執着しないが、財産を持たないよりは持つに越したことはないと思うのである。・・・それを保管し、みずからの徳を涵養するためのより大きな資源として役立てようと望むものである」と。ここでもセネカの現実的で堅実な思想が読み取れますね。
本書を読んで感じたことは、まず自分の日常生活に照らして考えやすい、という点です。そもそもセネカも(古代ローマの生活を前提としていますが)日常生活に照らして思考や行動のあり方を説いていますので。
そして背伸びせず、今の自分にできる範囲での改善を説いている(と私には感じられました)点もとっつきやすいと思います。
自身の今後の「生のあり方」を見つめなおすのに、まず最初に触れていただきたい一冊だと思います。