SNSで見かけて気になったので読んでみた。
本書には『生の短さについて』『心の平静について』『幸福な生について』の三篇が収録されている。
このような哲学書を読むのは初めてだったが、思ったよりも読みやすくて驚いた。
時間はかかったものの、最後まで読みきることができた。
全てを理解できたとは言えないが、ストイックな自己啓発書のような読み心地で、サッパリした文章を読むのが楽しかった。
しかし著者と自分の間に時間が空いているため、現代の自己啓発書のようなプレッシャーは感じなかった。
いい意味で、好きなところを選んでいくことができる。
言い回しがかっこよく、痺れた箇所がいくつもあった。
訳者による『解説』は内容を理解する助けとなったので、ぜひ読んでほしい。
三篇とも献呈相手への呼びかけで始まり、会話をしているかのような文章で進んでいく。
その形式で読んでいくと、だんだんセネカと自分との会話になっていき、最終的には自分と自分との会話のような感覚になっていった。
こうした形式だったからこそ、初心者の私でも読み進められたのかもしれない。
タイムマシンで現代に飛んできたことがあるのでは?と思うくらい、現代の私たちと共通する部分があり、「今と何も変わらないなぁ」と感じることが多々あった。
人間が抱える普遍的な悩みや葛藤について考える良い機会になった。
そして、「今の自分の苦しみは、自分が特別劣っているせいではなく、人間ならば誰でも抱くものなのだ」と思えた。
同じようなことを抱えていた人が過去にもいたのだという事実は、時に私たちを励ましてくれる。
以下に、特に印象に残った箇所を引用する。
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人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享(う)ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。
(P12『生の短さについて』)
君たちの生は、たとえそれが千年以上続くとしても、必ずやきわめてわずかな期間に短縮されるに違いない。君たちのそうした悪習がどの世紀をもことごとく食らい尽くしてしまうからである。実際、生のこの期間は、自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものであるが、君たちから逃げ去るのは必然である。なぜなら、君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、「時」という、万物の中で最も足早に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。
(P24『生の短さについて』)
時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。
(P28『生の短さについて』)
人は、これを、次にはあれを、と考えをめぐらせ、遠い将来のことにまで思いを馳せる。ところが、この先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。
(P32『生の短さについて』)
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セレーヌス、健康に問題があるのではなく、健康に慣れていないことに問題があるのだ。これを喩えて言えば、静かな海にも立つ漣(さざなみ)、特に、嵐が過ぎて静まった海のそれのようなものである。だから、必要なのは、ある場合には自分の前に立ちふさがったり、ある場合には自分に怒ったり、ある場合には自分に対してつらく当たったりするといった、われわれがすでに卒業したかつてのあの厳し過ぎるほどの方法ではなく、最後にやって来る方法、つまり、自分を信頼すること、そして、ある者は正しい道に程近い道をさまよっているとはいえ、四方至る所で交錯している多くの者たちのたどる誤った道に決して惑わされることなく、自分が正道を行っていると信じることである。
(P75『心の平静について』)
さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。われわれの身体の場合でも、ある種の苦痛を感じながら、なおかつ喜びを覚えるものがある。
(P80『心の平静について』)
運命が優勢となり、行動の機会を断ち切ったからといって、即座に武器を投げ捨て、あたかも運命が追跡できない場所があるかのごとく、潜伏場所を求めて背走するようなことはすべきではない。義務的な仕事に精力を注ぐのを控えめにして、なすべき仕事を選択したあと、国家に役立てる何かを見つけ出すべきなのである。
〈略〉
たとえ他の人たちが最前線を占め、たまたま君が第三線の一員として配置されたとしても、君はその第三線から叫び声で、激励の言葉で、率先垂範で、勇敢さで戦うべきだ。両手を斬り落とされても、なおも踏みとどまり、叫び声で加勢しようとする者は、戦闘の中で味方に寄与できる自分の役割を見出したことになる。君も何かそのようなことをすべきなのである。
(P86〜87『心の平静について』)
生はことごとく隷属なのである。それゆえ、みずからの置かれた境遇に慣れ、できるかぎりそれを嘆くのはやめて、自分のまわりにあるどんな小さな長所をも見逃さずに捉えるよう努めねばならない。公平な心が慰めを見出せないほど過酷な運命などないのである。往々にして、わずかな敷地も、巧みに区分けすれば、さまざまな用途の道が開け、狭い空間も配置次第で居住できるものとなる。困難に対処するには理性をもってするがよい。過酷なものも緩和され、険隘(けんあい)なものも開かれ、過重なものも巧みに担えば苦しみも減る。さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。ただし、すべてのものは、外見は種々の様相を見せはするものの、内実は等しく虚しいものであり、由ないものであることを知っておかねばならない。
(P104『心の平静について』)
さらに、不安を生ぜしめる小さからざる要因となる例のものがある。多くの者たちの生がそうであるように、何とか世間体を繕おうとあくせくし、誰に対しても自分のありのままの姿を素直に見せようとはせずに、虚構の生、見せかけの生を送る場合がそれである。実際、絶えず自分のことを気にするのは苦痛以外の何ものでもなく、ふだんの自分と違った姿を見つけられるのではないかという恐れが常につきまとう。人に見られるたびに自分が評価されていると思うかぎり、われわれが心配から解き放たれることはない。なぜなら、嫌でも裸の自分をさらけ出さざるをえない事態が多々生じるからであり、また、たとえ自分を繕おうとするそれほどの熱意が功を奏するとしても、常に仮面をつけて生きる者の生は楽しくもなく、心穏やかなものでもないからである。それに反し、率直で飾らず、いささか自分の性格を覆い隠さない純朴さには、どれほど大きな喜びがあることだろう。もっとも、一つ残らずすべてを万人に開けっぴろげにしたりすれば、その純朴な生にも蔑視の危険が忍び寄る。何であれ、近しくなったものに対しては蔑みの念を抱く者がいるからである。だが、徳には、目を近づけて眺められても、安っぽく見られる危険はないし、また、絶えざる見せかけのために苦しめられるよりは、純朴さで蔑まれるほうがまだしもましなのである。ただし、これには節度を用いるようにしよう。純朴に生きるか、おざなりに生きるかでは、雲泥の差がある。
(P124〜125『心の平静について』)
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何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。さらに、多数の者が同意して受け入れたものこそ最善のものと考えて、事をなすに世評に頼ること、また、〈われわれには〉善きもの〈として通用している〉先例が数多くあるが、理性を判断基準にするのではなく、人と同じであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである。
(P134『幸福な生について』)