【感想・ネタバレ】生の短さについて 他二篇のレビュー

あらすじ

生は浪費すれば短いが,活用すれば十分に長いと説く『生の短さについて』.心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』.快楽ではなく徳こそが善であり,幸福のための必要十分条件だと説く『幸福な生について』.実践を重んじるセネカ(前4頃―後65)の倫理学の特徴が最もよく出ている代表作3篇を収録.(新訳)

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Posted by ブクログ

ネタバレ

SNSで見かけて気になったので読んでみた。
本書には『生の短さについて』『心の平静について』『幸福な生について』の三篇が収録されている。
このような哲学書を読むのは初めてだったが、思ったよりも読みやすくて驚いた。
時間はかかったものの、最後まで読みきることができた。
全てを理解できたとは言えないが、ストイックな自己啓発書のような読み心地で、サッパリした文章を読むのが楽しかった。
しかし著者と自分の間に時間が空いているため、現代の自己啓発書のようなプレッシャーは感じなかった。
いい意味で、好きなところを選んでいくことができる。

言い回しがかっこよく、痺れた箇所がいくつもあった。
訳者による『解説』は内容を理解する助けとなったので、ぜひ読んでほしい。

三篇とも献呈相手への呼びかけで始まり、会話をしているかのような文章で進んでいく。
その形式で読んでいくと、だんだんセネカと自分との会話になっていき、最終的には自分と自分との会話のような感覚になっていった。
こうした形式だったからこそ、初心者の私でも読み進められたのかもしれない。

タイムマシンで現代に飛んできたことがあるのでは?と思うくらい、現代の私たちと共通する部分があり、「今と何も変わらないなぁ」と感じることが多々あった。
人間が抱える普遍的な悩みや葛藤について考える良い機会になった。
そして、「今の自分の苦しみは、自分が特別劣っているせいではなく、人間ならば誰でも抱くものなのだ」と思えた。
同じようなことを抱えていた人が過去にもいたのだという事実は、時に私たちを励ましてくれる。

以下に、特に印象に残った箇所を引用する。

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人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享(う)ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。
(P12『生の短さについて』)

君たちの生は、たとえそれが千年以上続くとしても、必ずやきわめてわずかな期間に短縮されるに違いない。君たちのそうした悪習がどの世紀をもことごとく食らい尽くしてしまうからである。実際、生のこの期間は、自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものであるが、君たちから逃げ去るのは必然である。なぜなら、君たちはそれをつかまえようとも、引きとめようともせず、「時」という、万物の中で最も足早に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。
(P24『生の短さについて』)

時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。
(P28『生の短さについて』)

人は、これを、次にはあれを、と考えをめぐらせ、遠い将来のことにまで思いを馳せる。ところが、この先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。
(P32『生の短さについて』)

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セレーヌス、健康に問題があるのではなく、健康に慣れていないことに問題があるのだ。これを喩えて言えば、静かな海にも立つ漣(さざなみ)、特に、嵐が過ぎて静まった海のそれのようなものである。だから、必要なのは、ある場合には自分の前に立ちふさがったり、ある場合には自分に怒ったり、ある場合には自分に対してつらく当たったりするといった、われわれがすでに卒業したかつてのあの厳し過ぎるほどの方法ではなく、最後にやって来る方法、つまり、自分を信頼すること、そして、ある者は正しい道に程近い道をさまよっているとはいえ、四方至る所で交錯している多くの者たちのたどる誤った道に決して惑わされることなく、自分が正道を行っていると信じることである。
(P75『心の平静について』)

さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。われわれの身体の場合でも、ある種の苦痛を感じながら、なおかつ喜びを覚えるものがある。
(P80『心の平静について』)

運命が優勢となり、行動の機会を断ち切ったからといって、即座に武器を投げ捨て、あたかも運命が追跡できない場所があるかのごとく、潜伏場所を求めて背走するようなことはすべきではない。義務的な仕事に精力を注ぐのを控えめにして、なすべき仕事を選択したあと、国家に役立てる何かを見つけ出すべきなのである。
〈略〉
たとえ他の人たちが最前線を占め、たまたま君が第三線の一員として配置されたとしても、君はその第三線から叫び声で、激励の言葉で、率先垂範で、勇敢さで戦うべきだ。両手を斬り落とされても、なおも踏みとどまり、叫び声で加勢しようとする者は、戦闘の中で味方に寄与できる自分の役割を見出したことになる。君も何かそのようなことをすべきなのである。
(P86〜87『心の平静について』)

生はことごとく隷属なのである。それゆえ、みずからの置かれた境遇に慣れ、できるかぎりそれを嘆くのはやめて、自分のまわりにあるどんな小さな長所をも見逃さずに捉えるよう努めねばならない。公平な心が慰めを見出せないほど過酷な運命などないのである。往々にして、わずかな敷地も、巧みに区分けすれば、さまざまな用途の道が開け、狭い空間も配置次第で居住できるものとなる。困難に対処するには理性をもってするがよい。過酷なものも緩和され、険隘(けんあい)なものも開かれ、過重なものも巧みに担えば苦しみも減る。さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。ただし、すべてのものは、外見は種々の様相を見せはするものの、内実は等しく虚しいものであり、由ないものであることを知っておかねばならない。
(P104『心の平静について』)

さらに、不安を生ぜしめる小さからざる要因となる例のものがある。多くの者たちの生がそうであるように、何とか世間体を繕おうとあくせくし、誰に対しても自分のありのままの姿を素直に見せようとはせずに、虚構の生、見せかけの生を送る場合がそれである。実際、絶えず自分のことを気にするのは苦痛以外の何ものでもなく、ふだんの自分と違った姿を見つけられるのではないかという恐れが常につきまとう。人に見られるたびに自分が評価されていると思うかぎり、われわれが心配から解き放たれることはない。なぜなら、嫌でも裸の自分をさらけ出さざるをえない事態が多々生じるからであり、また、たとえ自分を繕おうとするそれほどの熱意が功を奏するとしても、常に仮面をつけて生きる者の生は楽しくもなく、心穏やかなものでもないからである。それに反し、率直で飾らず、いささか自分の性格を覆い隠さない純朴さには、どれほど大きな喜びがあることだろう。もっとも、一つ残らずすべてを万人に開けっぴろげにしたりすれば、その純朴な生にも蔑視の危険が忍び寄る。何であれ、近しくなったものに対しては蔑みの念を抱く者がいるからである。だが、徳には、目を近づけて眺められても、安っぽく見られる危険はないし、また、絶えざる見せかけのために苦しめられるよりは、純朴さで蔑まれるほうがまだしもましなのである。ただし、これには節度を用いるようにしよう。純朴に生きるか、おざなりに生きるかでは、雲泥の差がある。
(P124〜125『心の平静について』)

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何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。さらに、多数の者が同意して受け入れたものこそ最善のものと考えて、事をなすに世評に頼ること、また、〈われわれには〉善きもの〈として通用している〉先例が数多くあるが、理性を判断基準にするのではなく、人と同じであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである。
(P134『幸福な生について』)

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2025年05月15日

Posted by ブクログ

哲学書を初めて読んだ。セネカのこの本は死ぬまでのお付き合いとなりそうだ。2000年前に書かれた内容が今の時代でも違和感がないことばかりだ。これって人間の本質が変わらない事を証明しているのではないかと思えた。
「今」という時間をどう使うかで「浪費」になるか「活用」になるか。「活用」出来ていれば生は長くなる。と理解した。

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2024年11月21日

Posted by ブクログ

私の人生のバイブル。
「人生は短いのではなく、本人がそれと知らずに浪費しているだけ。金銭のように自分の時間を確固として守り、より良い生き方のために使うべき。」
まさに言うは易し、行うは難し。でも実践しなければ浪費する一方。やるしかない!

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2024年09月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

政治家であり、ストア思想の代表者として数えられるセネカの書。
ストア哲学はその実用性(?)がゆえに多くのビジネス書でも取り上げられるケースが多いですね(といっても、私はビジネスの領域で哲学の活用をうたう安直な言説には否定的なのですが。人間として日々の一瞬一瞬を哲学的に生きられない者が、ビジネスシーンで哲学的にふるまうことが可能なのでしょうか?)。

本書は表題にある『生の短さについて』のほか、『心の平静について』『幸福な生について』の三篇で構成されます。そのいずれを読むにつけ、身につまされる思いになります。。。

『生の短さについて』でセネカは、「我々にはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費する」のであり、「全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている」と説きます。
時間がない(なかった)!と老齢になってから嘆く者についてセネカは言います。「彼は長く生きたのではなく、長く ”いた” だけのことなのだ」と。これはグサリときますね。。。
「怠惰な忙事」に陥らないよう、我々は誰と付き合い何をなすべきか?その心構えや態度が説かれます。

『心の平静について』は、セネカの弟子であり友人でもあるセレーヌスの悩みにこたえる対話形式で構成されます。
セレーヌスは素朴で倹約家であるものの、周辺で繰り広げられる豪奢な催し(パーティーですね)に心をざわつかせ、また一時的な気分から気宇壮大な態度になってしまう自身の浮ついた性格に不安を覚え、これをセネカに相談します(真面目だねぇ)。
これに対するセネカの助言や説明は非常に現実的であり、参考になります。
「・・・そういう人々の身体はねセレーヌス、健康に問題があるのではなく、健康に慣れていないことに問題があるのだ・・・自分が正道を行っていると信じることである」とセネカは言います。
国政に携わることは立派だが、「カルタゴの総監のような存在」のみが国事ではなく、「両手を切り落とされてもなお踏みとどまり、叫び声だけでも加勢しようとする者」も(なせる限りをなしているという意味で)立派である。
学問研究は立派だが、「読み切れない万巻の書にあたること」のみがこれに該当するのではなく、「少数の著作家に身をゆだねる」ことの方がはるかにマシである。
このような身の丈に合った現実的な思想は非常に参考になります。

『幸福な生について』では、世間で流布される幸福の基準に振り回されるのではなく、何が幸福なのか?を自身で見つめなおすことの重要さを考えさせられます。
「何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。」
一方でセネカは、富や名声を否定しませんし、むしろ肯定します。「賢者は財産に執着しないが、財産を持たないよりは持つに越したことはないと思うのである。・・・それを保管し、みずからの徳を涵養するためのより大きな資源として役立てようと望むものである」と。ここでもセネカの現実的で堅実な思想が読み取れますね。

本書を読んで感じたことは、まず自分の日常生活に照らして考えやすい、という点です。そもそもセネカも(古代ローマの生活を前提としていますが)日常生活に照らして思考や行動のあり方を説いていますので。
そして背伸びせず、今の自分にできる範囲での改善を説いている(と私には感じられました)点もとっつきやすいと思います。
自身の今後の「生のあり方」を見つめなおすのに、まず最初に触れていただきたい一冊だと思います。

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2024年02月11日

Posted by ブクログ

生は浪費すれば短いが活用すれば長い…スマホに時間を溶かされている現代人必読の書。
古代ローマの歴史ややギリシャ哲学についてもう少し勉強してから読み直したら、もっと面白いんだろうな…

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2023年12月04日

Posted by ブクログ

本棚整理していたら懐かしいと思って、以下感想(思い出し)

「ジャネーの法則」、一生における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するというというものや、「光陰矢の如し」と言われる通り、月日や人生の流れが早い様をあらわす言葉や考えはこの世にたくさんある。
本書でセネカは、「われわれが人生を短くしているのだ。」、「われわれが人生を浪費しているのだ。」と述べている。
人生をどう捉えるかは本人次第、加えて、運命の支配下にある未来に何もかも託したり、そのような未来のために今多忙を極め、月日を無駄にするのではなく、確定した過去と向き合い、今を生きる大切さを説いているように感じた。
未来への自分への投資も立派だが、今自分が何をしたいか、それに時間やお金を使うことは全くもって人間の性たる軽忽な行いのひとつではないことが分かる。

キリスト教や古代ギリシア・ローマに文化的背景をもつ欧米圏の人々と違って、仏教や儒教の影響を受けてきた日本人からすると、アジアとヨーロッパとで分けてしまう人もいるかもしれないが、それらは全く対極にあるというわけではなく、むしろそれらで通ずるところは多いにあって、「無為自然」を説いた「老荘思想」なんか特にそれ自体にこういう考えを見出すことができる
決して、流れに身を任せて生きるという部分だけを強調するのではなくて、(難しくなりそうなので簡単に言うと)今の自分を生きて、その後のことを流れに任せようということ

古い道徳感を今更押し付けるなよとか、2000年も前の哲学に興味ある方にはオススメ

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2023年11月17日

Posted by ブクログ

生は浪費すれば短いが、活用すれば長い。人は、時間が無形であるため、時間の価値を見誤り、浪費してしまうことがほとんどである。
ここまでの主張はとても刺さる。心に留め置きたい。
しかし、真に生を活用できるのは哲学のために時間を使う人のみというのはどうだろう。90歳になっても弁護士をしている人も、他人に時間を奪われているとバッサリ切り捨てられていたが、本当にそうだろうか。最後まで人の役に立つことを願って生き続けるのも、案外悪くないんじゃないかと思うが、この答えは実際に死期を迎えないとわからないことだ。
いずれにせよ、今を主体的に、大切に生きるということは忘れないようにしたい。

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2023年11月04日

Posted by ブクログ

光文社の古典新訳文庫版を読みましたが、とてもわかりやすい訳でした。2000年前以上前の先人達の言葉にたくさんのヒントを得るなんて素敵なことだと思います。ギリシャ古典文学も色々読んでみたいと思いました。

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2023年05月27日

Posted by ブクログ

生は浪費すれば短いが、活用すれば十分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく徳こそが善であり、幸福のための必要十分条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃―後65)の倫理学の特徴が最もよく出ている代表作3篇を収録。

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2023年04月01日

Posted by ブクログ

育児、仕事に追われてあっという間に過ぎていく毎日にふと疑問を感じてこの本を読んでみた。

気づいたこと。
・人生はあっという間ではなく、人生の時間を自分だけに使えばとても長く、人生で偉業も成し遂げることも可能。
・時間は人間が平等に与えられた財産である。しかも、金等と違って増えることはなく減る一方の貴重な財産なのだ。
・金や大事な物、車や家等の財産を他人に奪われたら抵抗するだろう。しかし、時間については他人に奪われても平気でいるのはなぜか。進んで自ら人に捧げたりもする。仕事をするということは他人に時間という貴重な財産を与えているのだ。
・そんな貴重な時間をどうしたら有意義に過ごせるか。明日死ぬかもしれないという気持ちを持って一瞬一瞬を大切に過ごすことだ。
・更に過去を振り返ってみることもいい。過去は誰にも奪えない自分だけの財産である。いい思い出ならその思い出に浸ってみるのもいいし、悪い出来事なら今後も繰り返さないように振り返り反省してみると良い。
・過去を振り返る点で言えば、哲学を学び人生とはなにか内省することはとてもいい。読書は過去の偉人と会話できるタイムマシンみたいなもので、いつでも助言をくれる。哲学と読書はいい人生を送るのに最高だ。

今後。
時間=財産という認識を日頃から頭に叩き込んで置く必要がある。ついつい、無駄に過ごしてしまったり、仕事を優先して他人に時間を捧げてしまったりするからだ。
また、哲学を学び続けて、読書をして過去の偉人と会話することで人生を内省してさらに良くしていくように努めたい。

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2023年01月15日

Posted by ブクログ

以前「限りある時間の使い方」という本を読んだ。人生には限られた時間しかないということを受け入れなければならないという内容だった。約2000年前の賢人セネカはこの問題についてどう考えていたのだろうか?

パウリーヌスという、セネカの親戚?への手紙として書かれている。

人生は短いと思われているが、これは人生を無駄に浪費しているからで、実際は、何かを成し遂げるには十分な時間があるということだ。最も無駄なのは、他人のために苦労をすることだから、自分のために時間を使いなさいと説いている。

やや賛同しかねるところもあるが、いかに生きるべきかという問題について、知識が得られる良い本だった。

光文社古典新訳文庫版も読んだが、そちらの方が自分には読みやすくわかりやすかった。

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2022年11月19日

Posted by ブクログ

「浪費」や「忙殺」など現代人には耳が痛い言葉がたくさん並んでおり、改めて時間の重みを学んだ。

p11~12
多くの偉業をなすべく生まれついた人間に定められた寿命はあまりにも短い。」われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。

p48
すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。

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2022年09月17日

Posted by ブクログ

なんか...寝る前に布団の中で...
じゃなくて...
ちゃんと背筋を正してノートにメモを取りながら、もう一度読んでみたいと思う内容。

読んでいるうちにキリスト教のこと、方丈記のことが頭をよぎる...

本の最後に訳者の「解説」が載っているのだけれど、これがとってもわかりやすい!
最初にこちらを読んでから読み進めれば良かった後悔した。

ストア派の思想がローマにおけるキリスト教の受容の素地となったetc ... なんか納得なのだ。

そして 生・時・今とか...
徳とか...
死に直面する、した...そのときとか ...

少しわかった気もする...時々読み返したい...
そしてキリスト教もやっぱり少し気になる存在なのだ...

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2022年02月20日

Posted by ブクログ

何度も読みたい。
きっと読むたびに気づきを得られる。

『生は浪費すれば短いが、活用すれば長い』

私はこの言葉に衝撃を受けた!

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2021年12月10日

Posted by ブクログ

ストア派の哲人、セネカによる人生論幸福論。表題「生の短さについて」「心の平静について」「幸福な生について」の3篇からなる。
幸福に生きるための人生ガイドのような感じかな。ただしストア哲学的な幸福を享受するには理性に基づいた、だいぶストイックな生き方をしなくてはならないことにはなるが、それでも理性に従わない生き方がいかに不幸であるかということを例を上げながら滔々と語られると「なるほど確かにそうかも」と思わせる説得力がある。さすが哲人。

哲学(倫理学)の書だからとか岩波だからとかで構えてしまうかもしれないが、中身は拍子抜けするくらい難しくない。哲学的理論を実践に落とし、どのように行動すべきかについてを我々に諭してくれている。
何より面白いのは、2000年前に書かれた本書の人生訓について身につまされるところである。なんというか、人間2000年経ってもほとんど学習しないんだなっていうことが非常によくわかる。物心ともに満たされた社会にあると、多くの人が放蕩する。そして少数の人がそれを諌める。その勢力図は2000年経っても変わらない。
未来を変えるっていうのは、いかに難しいかっていうことを合わせて本書は知らしめてくれているように思える。理性のレベルを変革させるっていうのは、ダーウィン並の進化が必要なのではないかという気の遠くなるような思いすらする。

まあそれはともかく、ストア派の思想は多くのビジネスリーダーにも支持されているので野心ある若者はぜひ一読しておくことをおすすめしたい。
人生の段階によっても、読み方が変わるんじゃないかな。20代はきっと「無理だよこんな生き方つまんないもん」って感じると思う。でも40代以降は「あーそうそう。そうなんだ。残りの人生こんなふうに追っていきたいんだ」って感じる人が多いはず。

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2025年06月15日

Posted by ブクログ

上から目線で、とかく批判を繰り返す語り口に苦手だな、という印象を持った。
ただ、批判の相手とする君(君たち)がセネカ自身であり、自己との対話とみると、嫌な印象が減ったと感じた。富に関する記述などは言い訳がましく感じたので、あまり肌には合わなかった。
とはいえ、読んで良かったと思うくらいには学びを得たと思う。

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2025年05月03日

Posted by ブクログ

ストア派哲学者・政治家セネカの3篇。ひぐ的に響いたフレーズで振り返ってみよう。

『生の短さについて』
・生きることによっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である(p32)
・ただちに生きよ(p32)
『心の平静について』
・人に関しては、明らかに選択が必要であり、相手がわれわれの生の一部を費やすに値する人たちであるかどうか、われわれが自分の時間を費やしているという事実がその人の心に届くかどうかを考慮しなければならない(p93)
・自分のまわりにあるどんな小さな長所をも見逃さずに捉えるよう努めねばならない。公平な心が慰めを見出せないほど過酷な運命などない(p104)
『幸福な生について』
・名誉あるものを唯一の善、恥ずべきものを唯一の悪とみなす精神(p141)
・真の幸福は徳に存する(p165)

2千年も読み継がれてきた名文。“今日という時を無にしない”ためには古典を読むに限る。

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2025年04月20日

Posted by ブクログ

「われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのである。われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する」

古代ローマの哲学者セネカによる「生の短さについて」、「心の平静について」、「幸福な生について」の三篇が収められた本です。
最初は何となくパラパラと読んでいたものの、気がつくと片手にペンを持ち、あらゆる文章を蛍光に染めながらページをめくっていました。「生の短さについて」では、老後まで閑暇の時を先延ばしにせず、哲学を追求し偉人の思想に触れることで人生は長く充実したものになると述べています。丁度、併読していた「DIE WITH ZERO」というベストセラーとの比較でいうと、「老後に計画を先延ばしにするな」というメッセージは同じである一方で、哲学に時間を使うべきと述べている点で異なっています。

二千年以上前の哲学者の言葉に触れることが出来るという読書の醍醐味を再認識したことに加えて、翻訳者の教養の高さが窺える文体も印象深かったです。人生において指針としたい言葉が数多くあり、この本に出会えて本当に良かったと思えました。

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2024年02月24日

Posted by ブクログ

人は長生きする保証はない。有益な計画を50.60歳までも延ばしておいて、わずかな者しか行けなかった年齢からはじめて人生に取りかかろうとするのは、何か人間の可能性を忘れた愚劣なことではないか。


毎日に意味を見い出して、生きようと思う。

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2023年10月21日

Posted by ブクログ

君たちは永久に生きられるかのように生きている。▼忙しさで心が散漫になると、なにごとも深く受け入れることができなくなる。そして、すべてのものを、むりやり押し込まれたかのように、吐き出してしまう。p.37▼生きることの最大の障害は期待である。それは明日に依存して今日を失うことである。セネカ『生の短さ』

無為に過ごした80年は何の役に立つというのか。その人は生きたのではなく、人生をためらっていたのだ。死ぬのが遅かったのではなく、長い間死んでいたのだ▼運命は望む(志ある)者を導き、望まぬ(志のない)者を引きずっていく▼どこにでもいる人はどこにもいない。旅に人生を送る人たちは、多くの歓待を受けるが、友情を結ぶことはひとつもない▼不要なものは一文でも高い(大カト)。セネカ『倫理書簡集』

人から命を奪うことはできるが、人から死を奪うことはできない。セネカ『フェニキアの女たち』

死後どこへ行くのか。まだ生まれない者たちのところへ行くのだ(2-30)。セネカ『トロヤの女たち』

怒りは必要である。怒りは気概に火をつける。ただし、怒りを指揮官ではなく、兵士として扱わねばならない(アリストテレス)。セネカ『怒りについて』

財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあるが、愚者にあっては支配者の地位にある。セネカ『幸福な生活について』

所有の少ない人が貧しいのではない。渇望が多い人が貧しいのだ。セネカ『手紙』

恩恵を施す者はそれを隠せ。恩恵を受けた者はそれを公にせよ。セネカ『恩恵について』

一度も不幸な目に遭わなかった者ほど不幸な者はいない(デメトリオス)。セネカ『摂理について』

難しいからやろうとしないのではない。やろうとしないから難しいのだ。セネカ

※セネカ。道徳哲学。皇帝ネロ(在位54~68)の先生。属州ヒスパニアのコルドバ生まれ。

*******

竪琴(たてごと)を弾いて歌う人は、自分独りで歌うなら不安を感じない。しかし聴衆の前に出ると、たとえ非常に声が良く、竪琴を見事に鳴らしても不安になる。なぜなら彼は見事に歌いたいだけでなく、拍手喝采もされたいから。しかし「拍手喝采」は彼がどうにかできるものではない。p.171.▼自分ではどうにもならない意志外のことには大胆に、自分の意志でどうにかなるものには細心であれ。死に対しては大胆に、死の恐怖に対しては細心であれ。p.125-127.▼君は私の足を縛ることができる。しかし私の意志はゼウスでも征服できない。p.17エピクテトス『人生談義』

自分自身を統治できない者は自由ではない。エピクテトス『断片』※ローマ帝政、ネロ時代。

*****

死を安らかな心で待て。死は生物を構成する要素が解体するにすぎない。万物の変化と解体は自然による。自然によることに悪いことは一つもない。私の魂も物質も消滅して無になることはない。私のあらゆる部分は変化して、宇宙のある部分に配分され、それが新たに宇宙のほかの部分に変えられる▼何かをしたために不正である場合だけでなく、何かをしなかったために不正である場合もある▼すべて君が苦手だと思うものに慣れよ。左手は習慣のないために他のあらゆる仕事には不器用なのに、手綱は右の手よりもしっかりと持つ。これは慣れているからだ▼もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ▼得意にならずに受け、いさぎよく手放せ▼苦しみには限界があり、恐怖に想像を加えることしなければ、堪えられないことはなく、また永続するものでもない。マルクス・アウレリウス(121-180)『自省録じせいろく』

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2025年11月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「生の短さについて」と「心の平静について」の2本立てで構成。

・人間は多くの時間を浪費する
・人間の生は、全体を立派に活用すれば十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている
・生は浪費すれば短く、活用すれば長い
・偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりともかすめとられるのを許さないこと。どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰よりも長い。
・彼らは寸刻たりとも他人の支配に委ねられる時間はなかった。時を誰よりも惜しむ時の番人として、自分の時間と交換してもよいと思う価値のあるものは、彼らには何も見出せなかった。
・自分の生の多くの時間を人に奪い取られる者が生を不足とするのは理の当然
・何かに忙殺される人間には何事も立派に遂行できないという事実
・誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。
・だが時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかも最後の日でもあるかのように管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐ることもない。
・未来のことは、時の運に決めさせればよい
・これ見よがしの見栄を排除し、装飾性ではなく実用性をもって物の価値を測ることに慣れよう。
・自然は我々人間に、災難の緩和剤として「慣れ」を見つけ出してくれ、耐えがたいほど過酷な艱難もすぐに馴染みになるように導いてくれる。

【幸福な生について】
・まず自分の求めるものが何かを措定する。次に周囲をよく見渡し、どの道をたどれば目的地に最も早く到着できるかを見て取る。
・どこを目指して進んでいくのか、どの道を辿るのかも決めなくてはならない。
・人生の旅は、最もよく踏みならされ、最も従来の激しい道こそ、最も人を欺く道である。
・だから何よりも肝要とすべきは、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないこと。
・群衆が殺到し、押し合いへし合いするとき、折り重なる人の山が出来る
・幸福な人とは、理性の恩恵によって欲望を覚えず、恐れを抱かない人。
・幸福な人とは、現在あるもので満ち足りている人、今ある自らの所有物を愛してる人。

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2023年01月30日

Posted by ブクログ

読み終えたがまた読み返したい本。理解及びないところもあるが、『心の平静について』は今の現代にも通用することがあった。

「心が休まなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感である。」
まさにその通り。

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2023年01月01日

Posted by ブクログ

2022年最後の読書。
セネカはローマ帝国時代の政治家、哲人だそうな。
この文庫版は、
・生の短さについて
・心の平静について
・幸福な生について の3章を抜粋。
もっと若い時分に読めれば良かったかとも思う痛い内容であるも、今にならなければ感じ取れない部分も多々あろうかとも思う。

『人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟※、われわれは必然的に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。』

『われわれが追及しようとするのは、どうすれば精神が平坦で楽な道をたどれるか、どうすれば精神がみずからと穏やかに折り合い、みずからの特性を喜びをもって眺め、その喜びを断たずに、有頂天になることもなく、かといって鬱屈することもなく、静謐な状態を保ち続けられるかという問題である。この状態こそ、心の平静というものであろう』

『なぜお前は自分の現実の生以上に威勢のいい話をするのだ。なぜお前は目上の者にはへりくだった言葉を使い、金を必要な手段とみなし、危害をこうむれば動揺し、妻や友人の訃報を聞いて涙し、世評を気にかけ、悪意の中傷に心を痛めたりするのだ。...』

訳者は、解説でセネカがヨーロッパに比べ日本で知られていないと嘆くが、本書も翻訳した後の単語があまりにも一般的表現でないことですんなり読みにくいというのも原因として少なくないのではと思わざるを得ない。
専門家が敢えて難しい表現を使っていると感じるのはワタクシだけだろうか。ここで★1個減。
※畢竟…つまるところ。結局。

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2022年12月31日

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ルキウス・アンナエウス・セネカは、古代ローマ帝国のユリウス・クラウディウス朝時代(B.C.27年~A.D.68年)の政治家・哲学者。第5代皇帝ネロの幼少期の家庭教師を務め、ストア派を代表する哲学者としても有名で、多くの悲劇や著作を残した。
本書には、表題作『人生の短さについて』のほか、『心の平静について』、『幸福な人生について』の2篇が収められているが、いずれも親類、友人、同僚政治家らにあてて書かれたものである。
その中には、例えば以下のような印象的なセンテンスがいくつも含まれている。
◆『人生の短さについて』~「生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。運命の手中に置かれているものを並べ立て、現に手元にあるものは放棄する。君はどこを見ているのか。どこに向かって進もうとするのか。将来のことはすべて不確定のうちに存する。今直ちに生きなければならぬ」、「生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか」
◆『心の平静について』~「要するにわれわれの求めているのは、いかにすれば心は常に平坦で順調な道を進み、おのれ自身に親しみ、おのれの状態を喜んで眺め、しかもこの喜悦を中断することなく、常に静かな状況に留まり、決しておのれを高めも低めもしない、ということである。これが心の平静ということであろう」
◆『幸福な人生について』~「人生に関する事柄は、多数の者に人気があるほうが善いというふうにはならない。最悪のものだという証拠は群衆なのである。それゆえ、われわれが知ろうとするのは、一体何を行うのが最善であるか、ということであって、何が最も多く世の中に行われているか、ということではない」
現代においても何ら古びることのない、五賢帝のひとりマルクス・アウレーリウスによる『自省録』と並ぶ、古代ローマの叡智を示す作品のひとつである。
(2006年6月了)

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2021年11月19日

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「生の短さについて」
とあるが、逆に
ちゃんと生きれば生って長いよ。

って書いてあっておもしろかった。

後「過去」「現在」「未来」とあったときに、
「現在を生きろ」という話だけでなく
「過去も大切にしよう」
という話が入っていて新鮮だった。

確かに、「過去を楽しむ」という姿勢はかけていたかもしれない。新たな視点だった。

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2025年10月29日

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文章や言っていることの内容は難しくなく、哲学初心者にも読みやすいと思った。しかし日々を必死に生きないといけない現代人の我々には生活に実践することができなさそうである。ただ、こういった人生の見つめ方もあるのだと新たな勉強になった。

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2025年09月05日

Posted by ブクログ

ストア派哲学者による名著
文体が硬く、少々読みづらいが、「時間」「幸福」「徳」「快楽」など
人類普遍のテーマについて取り扱っている

セネカの考え方は少々ストイックで高次元なので
堕落した(セネカから見れば)現代の価値観には所々馴染まない
断定口調の道徳の授業を聞いている気分になった

それでも、この本を繰り返し読むことで、
より高次な生にしていければ、と思う

にしても、哲学者が病むのはよく分かる
人生や幸福とは究極的に答えがない問いだから、考えるのは大変な労苦を伴う

●生の短さについて
セネカは時間を浪費する人を手厳しく批判する
それは、怠惰な人だけでなく、忙しい人も対象に入っている
生に向き合う閑暇の時間を取れていないのは、死んでいるも同然と。

ということは、私は大部分の時間死んでいた?と省みざるを得ない

●幸福な生について
セネカは徳を最高善と据え、それらを目標にすべきと説く。
そして、快楽は徳とは正反対の位置にあり、快楽に支配されてはならない。

これは富にも応用される考え方であり、富に支配される人生は送ってはならない
富に支配されるのではなく、富を利用し、最高善に近づくべきである

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2025年01月18日

Posted by ブクログ

時間を浪費するには生は短く、ちゃんと使えば長い。
人は人のために時間を使いすぎで、自分のために時間を使っていない。
本来は自分のために時間を使うべきであるのに、時計の針を他人に委ねて行動する。
少しの暇ができても、手持ち無沙汰になり、忙殺されることを好む。

本来、人生というのは他人のために浪費している時間はない。自分の人生を哲学し、その哲学を醸成するために時間はある。そして、その哲学を誰かに聞いてもらい、また聞くことによって、その生を永らえさせる。

実際のところ、生とは自身の哲学を形成して、人に委ねることなのかもしれない。

ひとまず、過去の偉人達はボコスカ言ってくるのが好き。笑

他人のことと言えば、SNSとかもそうなんだろうな。
セネカが現代人のスマホ依存を見たら、きっと発狂してしまうだろうな。。笑

⁡どうでもいいけど、ソクラテスをソークラテースって書くの、好き。

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2023年02月02日

Posted by ブクログ

昔の文体に慣れず、集中力を使い、途中で諦めた本。
今日、全部読みました。
一回だけ読んで、理解できなかった。
もっと他の本を読んで、セネカがいいたいことを読み取れるようになりたい。
私の実力不足です。申し訳ない。

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2022年11月29日

Posted by ブクログ

全体的に冗長な文章に思えたが、この本を理解するには私の想像力が乏しいのかもしれない。

理由はわからないが私は高校生の頃から"時間は有限である"という概念に囚われて続けており、これまで何かと忙しない人生を送ってきた。
そうして過ごした時間の中には当然浪費も含まれていたであろう。

ここ数年で自分自身と向き合う時間が増えたことで、時間を浪費するとはどういうことなのか、体感的に理解できるようになった気がしている。
モラトリアム期間である学生時代にこのことに気づけたのは幸甚の至りである。

人生100年時代とはいえ、明日どうなるかはわからない。
見えない未来を恐れて忙しく生きる必要は無いけれど、忙しく生きるのであれば自分の心に正直になることは心に留めておきたい。

✏ひとはだれしも、未来への希望と、現在への嫌悪につき動かされながら、自分の人生を生き急ぐのだ。 しかし、すべての時間を自分のためだけに使う人、毎日を人生最後の日のように生きる人は、明日を待ち望むことも、明日を恐れることもない。というのも、[未来の]ひとときが、彼にどんな新しい楽しみを与えうるというのか。彼は、すべてを知りつくし、すべてを十分に味わっているのだ。

✏ところが、先延ばしは、人生の最大の損失なのだ。先延ばしは、次から次に、日々を奪い去っていく。それは、未来を担保にして、今このときを奪い取るのだ。

✏生きるうえでの最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。あなたは、運命の手の中にあるものを計画し、自分の手の中にあるものを取り逃がしてしまう。

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2022年07月14日

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