先崎彰容のレビュー一覧
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本居宣長の「もののあはれ」論を、自我論としてではなく、男女の恋愛を基礎にした人間関係論として、つまりは倫理学であり日本語学として更新する試み。
著者は言う。
宣長にとって自然の風景には、それをどう見るのが適切なのか、古典をふまえた感性の基準が堆積している。人が風景を見て、そこに伝統の息づかいや、古代日本人の感じ方を発見し、それを言葉に発することが歌を詠むことなのだ。「もの」それぞれが含みもつ色あい、味わい、手ざわりを歴史と呼んでも伝統と呼んでも差しつかえない。その歴史と伝統への共感こそ、「もののあはれをしる」ことなのである。宣長は決して個人の内面など重視していない。過去の人びとの感性に共感すること、時空をこえた人間関係の海にみずからをゆだねている。
核心は「もののあはれ」ではなく「もののあはれをしる」こと。この違いは繰り返し吟味に値する。
私が最も感銘を受けたのは、宣長による「やまと」のイメージである。山外とも、山跡とも、あるいは契沖による山止(契沖は、論語の仁者楽山、仁者は天命に安んじているから、山のように静かで不動であるという一節を引用しながら、論じているという)など、夥しい解釈史を越えて、宣長に現れた太古の日本人が眼にしていた「やまと」とは「山処」だった。山々に抱かれた国としての「山処」。なんと静かで、力強く、そしてなつかしい響きであろうか。 -
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「やまと」とは、「山処」のこと。
山がたくさんある処だから、やまと。
国の成り立ちを語るにはあまりに単純。
けれど、そもそも何故、単純な話を人々は慕わないのか?その理由は、「対外的な権威を求める政治的意図があるため」に他ならない。
記紀編纂の当時、隋や唐よりも国家としての威厳を際立たせるためには、人々に頷かせる伝説が必要だった。
そのために、難しい話をあえて脚色した。
本来は、やまがある。だからやまと、で事足りたはずなのに——————
記紀をはじめとして、古来から多くの思想家たちが批評、推察を繰り返してきた名著の歴史とは、理性的で、冷たく、鋭い、男性的なものによって切り取られた、「脚色された価値観」なのでしょう。
本居宣長さんは、その違和感に気づきました。
政治的、軍事的な思惑を持たず、また、儒教や仏教による性的な倫理を強要されるより遥か前の———古代から続く、神々の時代においては、人は今よりもずっと、おおらかで、恋や情けに直向きであったことを、時を超えて、私たちに伝えてくれたように思います。
令和現代においても、激動の時代です。
唐に敗れぬために日本国号を作った日本書紀の経緯が当時の賢明な努力なら、私たちが生きる現代は、医療・軍需・学業複合体による金融支配体制と、日本国内敗戦既得権益に、騙されず、負けないための努力が試されると言えましょう。
パブリックコメントを書いて政府に意見したり、デモに参加したり、政治的、軍事的に、より良い未来を目指して行動できることはたくさんあります。
それでも———そう、それでも。
それでも、政治的思惑の外にある、私たちが長く持っていたはずの、情緒的な、ただ思ったことに素直に生きていた感性や、「于多-うた-」のことは、忘れてしまっても、ときどきでいいから、思い出して欲しいと……本居宣長さんは教えてくれている気がするのです。
みなさん。私たちと一緒に、明るく生きましょう。
それでも持て余してしまう寂しさ、儚さ、悔しさ、悲しさは、ただ嘆くのではなく、歌ってみてください。
歌で伝える楽しさや心地よさを知ったら、意外にも、現代に続くPOPやROCKもまた、「もののあはれ」の楽しさがあるなぁと、直感できると思います。
是非、みなさんの好きな于多の歌詞を、じっくり浸りながら、声に出して、歌ってみてください。「ああ、私はこう思っていたのだなぁ」と、誰に許されずとも、自分で自分を許し、癒し、気を休め、また元気になって、明るく生きていくことが———きっとできるはずですから。
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余談
新渡戸稲造先生の武士道は、セオドアルーズベルトに日露戦争講和を持ちかけるきっかけとなったほど、アメリカ人を感動させた教養書でした。そして、教養となる、政治的に利用できるということは、本居宣長さんからすれば、それは「ますらをぶり」であり、元々の情緒的な于多ではなく、尊いものとは思えないものでしょう。
むしろ、儚さを物語の主題にすることが多い、シェイクスピアの作品の方が、あるいは共感できたのかもしれません。
そうこう鑑みると、「ブシドー!」と「儚い…」が口癖なキャラクター2人が登場する、「Bang_Dream!!」という作品は、奇しくも、「もののあはれ」の感性と、その平和を守るための政治的教養の二つを、同時に伝えています。筆者の中村航さんや、安田猛さんをはじめとした、ブシロード関係者さんには、そうした、于多と絆と心模様の大切さを伝えたい想いが、確かにあり、今も続いているのかもしれません。
特に、音楽を「きずな」と読む中村航さんの感性がふんだんに込められた、『Yes!Bang_Dream!』、『キズナミュージック』、『LIVE BEYOND!』は、検索すれば歌詞だけでも簡単に読めますので、気になった方は一度読んでみてください。Roseliaの『Neo-Aspect』もおすすめです。 -
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例外状態の常態化
遅さよりも速さを
独裁すらない民主主義
リベラリズム、レーガン的保守主義の克服
⚫︎物理的に子どもを産んでない父親が、共同体を維持するためのフィクションとしての物語
男は物語を生む?
共同体が都市国家になる。
血縁関係としての父は、王に代わられる。
家族共同体が都市共同体になる。
そこで、所属意識を失った個人によって民主主義が生まれる。
=
民主主義とは、そのイメージとは反対に、集団化が希薄になり、個人がバラバラな存在になることで始まったからです。
民主主義はバラバラの個人の衆愚政治にすぎないということ。攻撃性を抱えた個人が、王に私利私欲の実現を要求し、受け入れられなければ革命と政変をつづけてしまう不安定な政治体制
民主主義は、歴史と時間の否定
連続性の否定
瑞穂の国の資本主義 by安倍
=米作りの生き方をモデルとした価値観や死生観
⚫︎令和日本のデザイン
脱アメリカのアイデンティティの模索
⚫︎戦後民主主義
=国家と市民は対立するもの
をどう超えるか
経済的豊かさだけでアイデンティティを規定することは「中間色の日本by三島」である。
文化とは本来有毒な行動様式である
三島由紀夫
「文化概念としての天皇」
三島の考えた近代日本全体への処方箋
=戦前戦後の民主主義を否定
全体意志の中から生まれる統一的意志
一般意志
ルソー
ルソーは、人間社会とは深刻な分裂を抱え、他人同士が理解しあえない世界だと思っていた。
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書くことで自我の世界に立てこもり、
理想を夢想する
三島の「速さ」の危険性
「〜からの自由」から、
「〜への自由」へ。
ベンヤミン
=組織に所属してこその自由
=精神的な安心あっての創造性
自助だけでなく互助の回復
菅義偉
中間集団を奪い、個人主義化をうながし、政府や海外市場と直接むすびつきあうことを、徹底化するもの
孤独より孤立がこわい
ロンリネスという最大の課題に、
個人主義はそぐわない
社会構造を変えるためには「われわれ」を組織するテーマが必要?
2012年は脱原発
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小熊の主張は三島同様美的すぎる
日本的時間の厚みを再認識して中間集団を組むこと
デモクラシーは、アメリカには理念たりうる「目的」だが、日本には「手段」にしかなりえない。なのにアメリカは普遍の名の下にそれを支配理念にしようとしている。
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購入済み
今の時代に必要な処方箋
『違和感の正体』と合わせて読みました。私も感じている、今の時代の違和感、閉塞感を鋭く診療し、その処方箋を与えてくれる一冊です。たくさんの思想家、文学者の紹介もあり、合わせて読みたくなる本がたくさんありました。
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新書だから気楽に読めるかな、と思ったけど、3回読んでようやく大まかな内容が理解できた。
この本をなぜ読もうと思ったかは言うまでもない。安保法制をめぐる国会前のデモや、沖縄の基地移転をめぐる知事の発言、在特会などのヘイトスピーチ、いじめ自殺やモンスターペアレンツによる教育現場の疲弊。報道に接していて常々思っていたことは、なんでそんなに簡単にレッテルを貼って、事を単純にしようとするんだ、ということ。
これらの事象を読み解くカギとして著者はふたつのキーワードをあげる。ひとつは「ものさしの不在」もうひとつは「処方箋を煽る社会」
「ものさしの不在」というのは、以前は信頼するに足る権威や情報というものがあったが、いまはその信頼性が大きく揺らいでいるため、自分自身でなにが正しいのかということを考えなくてはいけない、ということ。
昔は先生のいうことを聞いていれば良かった。マスコミの情報は的確だった。経済は右肩上がりで、真面目に働いていれば生活に困らなかった。それらが現在は頼りない、神話となってしまった。
「処方箋を煽る社会」というのは、上記のような病理を治す特効薬を望む人が多くなったということ。そんなに簡単に解決策があるわけではないし、あったとしても時間がかかるものなのに、即効即決を望む。そうなると耳当たりのいい極論に飛びつく人も出てくる。(トランプ現象なんてその顕著な例かもしれない)
個人的に最近の報道で感じた違和感は沖縄だ。
軍属の男が女性を殺した事件だが、すぐに米軍出ていけの集会になって、辺野古反対になって、知事はその論陣の先頭に立った。被害女性の死を悼むのそっちのけにして、事件を政治利用してないか?
構図的には戦争で死んだ兵士を戦争の英雄に祭り上げて自軍を鼓舞するのと一緒だじゃないのか。(※著者は上記のようなことは言ってません)
たぶんこんな意見を有名人がSNSで拡散したら炎上する。罵詈雑言が飛び交うことだろう。沖縄の心がわからない奴は死ね!とか。
実はこんな言葉をすぐに吐ける人が「違和感」をつくりだしている人で、「正体」だ。本書を読めばその意味が汲み取れるだろう。 -
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著者も指摘する、百年前の戦間期にも似たプーチンのウクライナ侵攻以来の時代の端境期において、我が国の置かれた状況や取るべき針路を思想史から説き明かした好著。
西洋の個人主義、新自由主義を良しとしない著者は、幕末・明治の先達、山路愛山、徳富蘇峰、福澤諭吉、永井荷風、夏目漱石、西郷隆盛らの、西洋文明や時勢に流されず、来し方や足元をしっかり見つめ、我が国のあり様・本質を忘れるな、との教えに戻れと説く。
具体的に米国や中国に依存も反目もし過ぎず、太平洋沿岸の中規模国の連合により独自の立場を維持せよ、との提言だが、数十年に亘り強烈な反日教育を続け、反日を半ば国是とする隣国を考えれば、言うは易しの感を禁じ得ない。
書名の「知性の復権」とは、長年のブランクを経て、針路を自身の頭で考える時代が来た、ということか。 -
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温故知新ということで、過去の知見を紐解き、将来を語る。
先崎さんのスタンスで、歴史に刻まれた言動・知見に基づき、現代の諸現象を分析し、未来を予見するといいう内容でした。
浅学な私には、新たな知見でした。
「真の保守」を問うということでしたが、明確な答えの提示はなかったように思いました。
内容ですが、
第1章 アイデンティティ政治の潮流
第2章 テロリズムの論理と心理
第3章 「保守」という言葉の混乱
第4章 アメリカと世界の分断
第5章 「戦間期」からの教訓
第6章 令和日本のデザイン
の中で、第5章において、麻生太郎元総理が2007年に出版した「自由と繁栄の弧」に一定の評価を下していることに興味を持ちました。
204頁から紹介
高祖父に大久保利通をもち、吉田茂や牧野伸顕を親族にもつ麻生氏にとって、幼少期からの自己形成は、「自分はいったい何者なのか」という深刻な問いをつきつめられてつづけたはずです。
戦後、総理大臣に君臨した吉田と比較した時、いったい自分は何者なのか。
新しい総理の像をつくれるのか。
それ以前に、どのように生きることで、大久保でもない吉田でもない牧野でもない、「麻生太郎」という人間として生きることができるのか。
つまり自分の人生の主人公たりえるのか。
こうした深刻な危機感がなければ、政治家の筆が「アイデンティティー」に割かれることはない。
つづけて麻生氏が「分裂した自我」について語り、「裂け目はいつか、修復されなければなりませんでした。でないととかく精神が平衡を失い、左右の振幅を大きくしてしまいます」と述べているのを読むと、彼の心中に去来したものが、いかに壮絶だったかがわかります。
「分裂した自我」とは、第1章でフランシス・フクヤマが指摘した「真の自己」をめぐる議論に直結します。
簡単に復習すると、ルソーは、真の自己と社会的評価とのあいだの「ズレ」を発見し、真の自己を絶対視しました。
ズレを認めることができず、社会のルールを変革すべきだと主張しました。
これをルソー主義と呼ぶならば、アメリカを覆う右派民族主義も、左派の過激フェミニズムも、ともにルソー主義に陥っている。ズレを許せないのです。
麻生氏が主張するアイデンティティーが、穏やかな自尊心であることに注目してください。
外交とは、日本の自己像と、国際社会が押しつけてくる日本像との「ズレ」を確認する営みです。
「ズレ」の存在をみとめ、折り合いをつける行為こそ、外交なのです。
とありました。
麻生氏にそういう一面があったとは・・・ -
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ネタバレ現在、私たちが当たり前のように享受している「日本」というアイデンティティは、どのようにして形づくられたのでしょう。
先崎彰容著『本居宣長』は、江戸中期という変化と不安の時代に、知の巨人・本居宣長が成し遂げた「コペルニクス的転回」を鮮やかに解き明かしてくれます。
当時の日本は、儒教や仏教といった「渡来の価値観」が知識人の血肉となっていました。その中で宣長は、「商人、あるいは医者、武士」という、どの階層にも属しながらどこにも定着しきれないような自らの立ち位置に悩み、「自分とは何者か」という根源的な問いを抱き続ける。その模索は、「京都での遊学」を経て、古典の森へと彼を誘います。
宣長が発見したのは、理屈で割り切ろうとする「男性的なもの」つまり「漢意(からごころ)」の虚飾でありました。彼はそれに対し、悲しみや恋慕に震える繊細な「女性的なもの」の中にこそ、人間の本質があると考えます。それが「もののあはれ」だったのです。当時の道徳観では、不義の恋などは不道徳と切り捨てられる対象でした。しかし宣長は、「恋愛と倫理」を切り離さず、むしろ制御不能な情念に寄り添うことの中に、日本独自の「まこと」を見出しました。
この視点の転換こそが、「日本」の発見へと繋がっていくのです。宣長は、古代から続く和歌や物語の中に、他者への深い共感の作法を見出しました。本書が指摘するように、「宣長最大の功績は、和歌と物語世界が肯定と共感の倫理学を主題とし、恋愛から『日本』という国家が立ち上がってくることを証明した点にある」のです。
国家とは、単なる制度や領土のことではありません。同じ「あはれ」を共有し、共に心を震わせる共同体です。外部から輸入された硬直的な理論ではなく、個人の震えるような恋心や悲しみという「私的な感情」の連なりが、結果として「日本」という公的な輪郭を描き出すのです。恋を知らずして日本を語ることなかれ! -
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僕らの、日本の現在地はどこか?縦糸(歴史)と緯糸(地理)の双方から診断を進めていく、薄くも丁寧で骨太、ぎゅっと勉強になる一冊。
先崎先生の言説に触れると、いかに自分がぼやんと間違った知識を持って生きてしまったか思い知らされる。中学生2年生あたりで、いっかい先崎さんの薫陶を浴びておきたかった。
最期の処方箋パートが、発行当時の事情に肉薄したことの弊害なのか、スナップショット的に写ってしまった点だけが残念だった(これは読み手としての僕の実力不足のせいかもしれない。分かりやすい答えが欲しかったわけではないが、手前で大胆に他説を否定している分、ドンと提示される何かを期待して読んでしまっていた)。結局、保守とは何で、どうあらんとすべきか?どう生きていくべきか?カッコよく語りきってほしかった。 -
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ネタバレ国学者として有名な本居宣長の前半生を辿り、彼が研究活動の上で、和歌の中に見出した日本の伝統的思想とはいったい何であったのかを解説する一冊。
宣長は勧善懲悪・当然之理といった唐心を基に和歌を製作、解釈することを嫌った。唐心は大陸から渡ってきた思想体系であるため、和歌本来の伝統的な親しみ方とは異なる。あるモノと対峙した時に「ああ」と心が動かされることをあはれとよび、それらを洗練された詞で自由に表現することこそが和歌の本質として存在する。また、伝統的な時間の流れを感じながら当時の人々と共鳴することが本来の楽しみ方であると宣長は主張する。儒教的教えが流行していた当時の傾向に流されることなく、日本特有の文化を適切に守った宣長の功績は計り知れない。
日本史は高校以来触れていなかったため読書前は読み通せるか不安だったが、著者の軽快な文章のおかげで終始江戸の世界観に没頭できた。高校の先生が先崎さんだったらよかったのになと思う。