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中国から西洋へ、私たち日本人の価値基準は常に「西側」に影響され続けてきた。貨幣経済が浸透し、社会秩序が大きく変容した18世紀半ば、和歌と古典とを通じて「日本」の精神的古層を掘り起こした国学者・本居宣長。波乱多きその半生と思索の日々、後世の研究をひもとき、従来の「もののあはれ」論を一新する渾身の論考。
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Posted by ブクログ
本居宣長の「もののあはれ」論を、自我論としてではなく、男女の恋愛を基礎にした人間関係論として、つまりは倫理学であり日本語学として更新する試み。 著者は言う。 宣長にとって自然の風景には、それをどう見るのが適切なのか、古典をふまえた感性の基準が堆積している。人が風景を見て、そこに伝統の息づかいや...続きを読む、古代日本人の感じ方を発見し、それを言葉に発することが歌を詠むことなのだ。「もの」それぞれが含みもつ色あい、味わい、手ざわりを歴史と呼んでも伝統と呼んでも差しつかえない。その歴史と伝統への共感こそ、「もののあはれをしる」ことなのである。宣長は決して個人の内面など重視していない。過去の人びとの感性に共感すること、時空をこえた人間関係の海にみずからをゆだねている。 核心は「もののあはれ」ではなく「もののあはれをしる」こと。この違いは繰り返し吟味に値する。 私が最も感銘を受けたのは、宣長による「やまと」のイメージである。山外とも、山跡とも、あるいは契沖による山止(契沖は、論語の仁者楽山、仁者は天命に安んじているから、山のように静かで不動であるという一節を引用しながら、論じているという)など、夥しい解釈史を越えて、宣長に現れた太古の日本人が眼にしていた「やまと」とは「山処」だった。山々に抱かれた国としての「山処」。なんと静かで、力強く、そしてなつかしい響きであろうか。
「やまと」とは、「山処」のこと。 山がたくさんある処だから、やまと。 国の成り立ちを語るにはあまりに単純。 けれど、そもそも何故、単純な話を人々は慕わないのか?その理由は、「対外的な権威を求める政治的意図があるため」に他ならない。 記紀編纂の当時、隋や唐よりも国家としての威厳を際立た...続きを読むせるためには、人々に頷かせる伝説が必要だった。 そのために、難しい話をあえて脚色した。 本来は、やまがある。だからやまと、で事足りたはずなのに—————— 記紀をはじめとして、古来から多くの思想家たちが批評、推察を繰り返してきた名著の歴史とは、理性的で、冷たく、鋭い、男性的なものによって切り取られた、「脚色された価値観」なのでしょう。 本居宣長さんは、その違和感に気づきました。 政治的、軍事的な思惑を持たず、また、儒教や仏教による性的な倫理を強要されるより遥か前の———古代から続く、神々の時代においては、人は今よりもずっと、おおらかで、恋や情けに直向きであったことを、時を超えて、私たちに伝えてくれたように思います。 令和現代においても、激動の時代です。 唐に敗れぬために日本国号を作った日本書紀の経緯が当時の賢明な努力なら、私たちが生きる現代は、医療・軍需・学業複合体による金融支配体制と、日本国内敗戦既得権益に、騙されず、負けないための努力が試されると言えましょう。 パブリックコメントを書いて政府に意見したり、デモに参加したり、政治的、軍事的に、より良い未来を目指して行動できることはたくさんあります。 それでも———そう、それでも。 それでも、政治的思惑の外にある、私たちが長く持っていたはずの、情緒的な、ただ思ったことに素直に生きていた感性や、「于多-うた-」のことは、忘れてしまっても、ときどきでいいから、思い出して欲しいと……本居宣長さんは教えてくれている気がするのです。 みなさん。私たちと一緒に、明るく生きましょう。 それでも持て余してしまう寂しさ、儚さ、悔しさ、悲しさは、ただ嘆くのではなく、歌ってみてください。 歌で伝える楽しさや心地よさを知ったら、意外にも、現代に続くPOPやROCKもまた、「もののあはれ」の楽しさがあるなぁと、直感できると思います。 是非、みなさんの好きな于多の歌詞を、じっくり浸りながら、声に出して、歌ってみてください。「ああ、私はこう思っていたのだなぁ」と、誰に許されずとも、自分で自分を許し、癒し、気を休め、また元気になって、明るく生きていくことが———きっとできるはずですから。 ・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ 余談 新渡戸稲造先生の武士道は、セオドアルーズベルトに日露戦争講和を持ちかけるきっかけとなったほど、アメリカ人を感動させた教養書でした。そして、教養となる、政治的に利用できるということは、本居宣長さんからすれば、それは「ますらをぶり」であり、元々の情緒的な于多ではなく、尊いものとは思えないものでしょう。 むしろ、儚さを物語の主題にすることが多い、シェイクスピアの作品の方が、あるいは共感できたのかもしれません。 そうこう鑑みると、「ブシドー!」と「儚い…」が口癖なキャラクター2人が登場する、「Bang_Dream!!」という作品は、奇しくも、「もののあはれ」の感性と、その平和を守るための政治的教養の二つを、同時に伝えています。筆者の中村航さんや、安田猛さんをはじめとした、ブシロード関係者さんには、そうした、于多と絆と心模様の大切さを伝えたい想いが、確かにあり、今も続いているのかもしれません。 特に、音楽を「きずな」と読む中村航さんの感性がふんだんに込められた、『Yes!Bang_Dream!』、『キズナミュージック』、『LIVE BEYOND!』は、検索すれば歌詞だけでも簡単に読めますので、気になった方は一度読んでみてください。Roseliaの『Neo-Aspect』もおすすめです。
本居宣長の思想は江戸時代末期の尊皇攘夷や明治以降の国粋主義に影響を与えた、ということは授業で習った。それが左右両派の思想から美化され、危険視もされた。日本文化を「もののあはれ」で論じたことも知っている。医師でもあったらしい。よくわかっていないので、一回整理するのによいかなと思い、手に取ってみた。独自...続きを読むの視点も多く興味深く読んだ。 まず筆者は宣長の学問、生き方を経済的な背景でとらえる。交易で栄えた伊勢で生まれた宣長。筆者は貨幣経済が勃興し、農本主義から重商主義に転換する過程で伊勢に生まれた彼の特性に着目する。 宣長の生業は医学だが、社中や塾を通じて学問を持続可能なものとしてつくりあげもした。筆者は、貨幣経済や資本主義の波が押し寄せる中で、自らの学問を深め、思想を形成した人物だと論じる。 宣長の思想は、契沖や賀茂真淵の系譜を受け継ぎ、外来の仏教や儒教の考えを排して、古事記や万葉集にオリジナルの日本に重きを見い出す。本では思想の世界にも資本主義的な競争の波が来る中で、思想競争に打ち勝つ「闘う思想家」として描かれる。様々な思想家の名前が出ては脱線するので混乱するが、我慢して読めば論旨は見えてくる。 宣長は儒学全盛の時代に男女のより自由な関係、人間の本来的な生き方を是認する、それこそが日本の源流と論じる。からごころ、ではなく、やまとごころ、なのだ。◯◯すべからずが支配的な江戸時代に、宣長の主張は「肯定と共感の倫理学」とみなすと違った地平が見えてくる。 「にほん」と「やまと」の章もよかった。夜麻登、山跡、山外、山処、山門、倭、和、大八嶋國、葦原中國。それぞれについての思想家の考え方も浮かび上がり、日本のルーツの理解を深めるのに役立つ。 全体的に難解だったなあ、と思いようやくたどり着いた最終章でルソー、カントと宣長は同時代だと論は展開される。日本人としてルソー、カントほど宣長を理解していない己を思い知り、また宣長関連の本を読みたいと思った。
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本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―(新潮選書)
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先崎彰容
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